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傍観録2302  作者: 谷尾 香緒
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ただ一つの足場

 LMBの始業は九時、終業は十八時。昼には食事のための休憩時間があり、週休は二日。人はこちらの勤務時間なんて関係なく死んでしまうが、その時は緊急の呼び出しがかかるだけ。始業前に現場に行ってくれということもあるし、昼食を途中で放り出して車に乗り込むこともある。しかしそれら込みで見ても、恐らく公国内で最もホワイトな職場と言える。おまけにエドガワともなれば残業はほとんどなし。夜間の呼び出しだって月に数回あるかないかだ。

 今日がその数回のうちの一回だった。

 気持ちよく眠りこけている意識に入り込んできたコール音は、恐らく最初の数回は聞き逃していた。それでも何度も繰り返される音は急かしているようで、鬱陶しいなと思ってようやく電話が鳴っていることに気付いた。しかし瞼が重い。さっきまで眠っていたから当然だが、まだ眠っている時間だと体がわかっているのかもしれない。それでもなんとか薄目を開けると、暗い部屋なのにぼんやりと明るく感じる。

 少し気を抜けばまた眠ってしまいそうな寝ぼけた頭で枕元の携帯を取った。ずっと鳴っているうるさい電話に出て、それからすぐにスピーカーに切り替える。耳に当てているのさえ億劫だし、スマホの画面をなるべく遠ざけたかった。目が痛い。

 うっかり誰からの着信か確認するのを忘れて取ってしまったが、相手の声は聞き慣れたものだった。

「ナジマくん、おやすみのところ悪いね」

「…主任?」

 のんびりとした声と、それと同じくらいのんびりとした喋り口調。古臭いコンクリートの塊の中で座っているよりも日の当たる縁側でお茶をすすっている方が似合う上司からの電話だった。

 まさか暇になったから電話をしてきたということもないだろう。カーテンの隙間からは青白い蛍光灯の光が入ってくるだけ。私情の電話にしては非常識すぎる時間なのは明らかだった。ということは、仕事だ。

 布団を背負ったまま起き上がってとりあえずベッドの上に座る。

「なんですか?」

「仕事だよ。至急現場に向かってほしい」

 主任が告げた場所はスミダ区との境だった。あと数メートルずれていたら俺ではなくスミダ支部の方に通知がいっていただろう。

「なるべく急いで行ってほしい」

 主任の話を聞きながら服を着替えていると、そう言われた。

 急いで行くのなんて当然だし、だからこそこうして上司との電話の最中から着替えている。そのことは主任もわかっているはずなのにどうしてそんなことをわざわざ念押しするのか。

「事故を起こさないのであればスピード違反も信号無視もして構わない。警察に見られても現場に行くことを優先しなさい。警察への対応は後から私がする」

「…なんでそこまで」

「亡くなったのは軍の中将だ」

 軍人は平民の出がほとんどだ。しかしそれはせいぜい大尉までの階級の話で、それ以上ともなるとやはり貴族の家のものばかりだという。つまり亡くなった中将も貴族ということで、そうなるとスピード違反も信号無視も全て些事ということだ。

「了解しました。すぐに向かいます」

 イズモ君も向かってるから、と付け足されたのを最後に電話を切って上着を羽織る。夜に薄手のシャツ一枚は厳しい季節になってきた。

 基本的に作動したLMIは現在地を知らせることはあっても、それが誰のものなのかまでは知らせることはない。誰が死んだのかによって優先度が変えられてはいけないし、局員の個人的な感情が入る可能性も否めない。けれど、死んだことを一刻も早く知られなければいけない存在というのもいる。その死が生きている人間に大きな影響を及ぼす存在であり、公国内においてそれは大公家か貴族だけだった。だからこそ今回は誰が亡くなったのかまで明確にされた。優先度に変わりはないといっても、この国でまったく対等になど扱えるはずがない。

 赤信号を頭上に通り過ぎながら、メーターの針なんて気にせずアクセルを踏む。時間は深夜の一時。三時間程度しか寝ていないことになる。街灯は誰もいない歩道を照らすだけで、車も俺のセダン以外見あたらない。誰も轢かず警察にも会わずに現場まで行けそうだ。

 信号を曲がって車を停める。主任に告げられたのは細い路地裏だった。車で行ける場所ではない。

 屋外で人が死亡。事故や自殺の線もなくはないが、ここ最近のニュースを思うと殺人ではという考えが抜けない。エドガワの路上で死体なんて見たくないと呑気に言っていた後輩に数か月越しに同意する。殺された死体というのは、自殺や孤独死とは比べものにならないほどむごいものだ。

 車を降りると冷たい風に吹かれる。上着の前を合わせて猫背になりながら路地に向かった。

 細い路地に入ると風が遮られて、ようやく肩にこめていた力を抜く。ここを進んでいけば現場に着くはずだが、真っ直ぐな道のはずなのに街灯も何もないせいで先が見えない。こんな場所で死人なんて、事故が起きようにも車は一台も見かけなかったし、自殺をするにしては道幅が狭すぎる。人が二人並ぶことさえできそうにない。路傍で突然死だろうか。そうであったらいい。

 足元さえよくわからないなか、暗闇に目を凝らして進んでいく。反対側から入ってくる光が強くなってきて、それが街灯の白と何かの赤い光が混じってたものだと気付いた瞬間誰かの声も聞こえてきた。路地の反対から入った方が現場は近かったらしい。

 少し急ぎ足になって足元に何があるかもわからない中とにかく声のある方に出る。数歩駆ければ、街灯に混じっている赤い光は緊急車両についているもので、必死そうな声はイズモのものだと気がついた。濡れた地面を勢いよく踏んで小さな飛沫が跳ねる。街灯がぎりぎり届く路地裏でイズモは膝をついていた。

「おい、しっかりしろ!ミコト!」

「…イズモ?」

 腕に誰かを抱いてそちらに必死に呼びかけている声と比べてひどく弱々しい声が出る。小さいそれは聞こえなくてもおかしくなかったのに、イズモはパッと顔を上げた。こちらを仰ぎ見たせいで腕の中に光が当たる。その肌が青白いのは決して街灯のせいではなく、一度だけ会ったことのあるその人はわき腹から血を流していた。

「イズモ、これ…」

 絞り出せたのは中途半端な言葉だけ。頭の中は考えることがいっぱいすぎて何から考えていけばいいか分からず疑問符ばかりが重なっていく。

 それはイズモも変わらないようで、開かれた口は呼吸を繰り返すことしかできていない。緊急事態なのはわかっているのにまず何をすべきかわかっていない。近くにあるサイレンの赤い光が余計焦りを掻き立てる。

「ワクラさん、死んだ?」

 後から振り返ればなんて言い草だろうかと思う。生死不明の人がいたとしてその友人にかけるものではない。生死の確認に適した言葉がもっとある。けれど、これがこの時の俺の精一杯だった。

 肺を圧迫して息を止めてしまいそうなほどに心臓が大きく脈を打っている。限界まで三白眼を見開いているイズモは、一拍置いてから震えるように首を振った。それでようやくまともに息を吸えた。

「救急車は?」

「呼んだ。もうすぐ着く」

「そっか。…犯人は」

 ワクラさんの脇腹は明らかに誰かに刺されている。倒れこむ彼女の足元に大きなナイフが転がっていた。

「警察が追いかけた。そろそろ捕まえたんじゃないか」

 路上で端に寄せられているパトカーの中は無人だった。音も出さず警報灯をただくるくると回している。

 救急車も呼んでいて警察も来ているというなら俺たちの仕事は終わりだと考えて、それから慌てて思い直す。終わりじゃないというか、まだ始まっていない。

 主任は「中将の死亡が確認された」と言っていた。ワクラさんは大佐だったはずだし、そもそも死んでいない。ということは近くでもう一人いるはずだ。

「イズモ、死んだっていう中将は」

 俺を見上げていた目が降りていく。やけに落ちついた眼差しで俺の足元を見つめている。その視線を辿るように体を動かすと、濡れた地面が靴のゴム底と擦れて生々しく鳴った。その足先に何かが当たる。

 真っ暗で依然として見えない暗がりを携帯のライトで照らした。急に明るくなった足元には仰向けの大きな男が倒れていた。雨も降っていないのに地面が濡れているのは、彼の首元から流れだした血だまりのせいだ。尋ねなくてもこときれているのはわかりきっていて、血の匂いをいっそう濃く感じた。

 思わず後ろに一歩下がろうとするけど、少し傾いただけですぐに背中が冷たい壁に抑えられた。

「死体には慣れてるだろ。何年働いてるんだ」

「殺された死体にはなれてねえよ。十一年間ずっとエドガワなんだこっちは」

 バカにしてくるイズモの言葉がありがたかったのは初めてだ。偉そうな口調がいつも通りで安心する。

「多分そろそろ追加のパトカーがくる。そしたら遺体を引き渡して、仕事は終わりだ」

「…随分と警察が来るの早かったんだな」

 バツが悪そうに視線を逸らされる。三白眼は腕の中の友人を見下ろしているが、先ほどまでの悲壮な様子はない。イズモも少しは落ち着いたようでなによりだが、逸らされた視線が気になる。

「信号無視で見つかってな。ここまで連れてきた」

 もしかして俺が道中パトカーに出くわさなかったのはこいつのおかげだろうか。

「まあ、通報する時間省けたし今回は良かったんじゃないか」

「おかげで犯人と警察がちょうど鉢合わせてくれてな、助かったよ」

 安心したように笑うイズモにつられかけたが、その腕の中でぐったりしている彼女を見てまた焦りがぶり返してきた。

「ワクラさん、大丈夫なの?」

「そんなに血も出てないし、お前が来る直前までは意識もあった。大丈夫だろう」

 多分、と最後に付け足されては安心しきれない。言った方も不安げな表情だった。

 何かしたいけれど何もできることがないままもどかしく立ち竦む。間に合わなくなってから駆け付けるこの仕事では、こういう時にできることの方が少ない。

 そのままもどかしい時間に気を揉んでいると、サイレンの音が近付いてきて視界の端をちらつく赤い光が増えた。顔を上げるとパトカーと救急車が並んでこちらに向かっていた。安堵の息はきっとどちらの口からも零れている。

「救急車、一緒に乗ってやろうか」

「は?」

 煩わしそうな視線を向ける目の間にはしわまで寄っていた。反射的に不遜な態度で断ろうとしたのだろうが、開かれた口からは嫌みも皮肉も断り文句も出てこない。

 一度会った程度の俺でさえ知っている顔が死にかけているのは怖かった。友人ならばなおさらだろう。

 一呼吸おいて眉間のしわをなくしたイズモは救急車の赤いサイレンをじっと見つめた。

「…頼む」

 細い路地の壁にもたれる。汗で濡れた服が冷たかった。


 すっかり忘れていたが路地の手前に車を置いてきてしまっていた。あんなところほとんど人も通らないから構わないのだけれど。今のうちに報告書の内容を軽くまとめておきたくて、スマホのメモにぽちぽちと打ちこむ。手元の四角い機械だけが俺の現在の所持品だった。他はまるごと車に置いてきている。遺体を確認してしかるべきところに連絡したら終わりだと思っていたから。

 俺とイズモは今警察署にいる。一度は病院に救急車で行ったが、ワクラさんの容体を詳しく知る前に警察署に連れていかれてしまった。

 考えてみれば当然だ。犯人を目撃したLMB局員とその同僚。俺はおまけも同然だが病院よりも警察署が最優先である。署に着いてすぐにイズモの携帯に、ワクラさんの命に別状はないという報せが入ったので良かったが、もしなければ友人の安否も分からず警察署に問答無用で連れていかれた不機嫌なイズモの隣に座る羽目になっていた。

 警察はまず遺族への説明を先に済ませたいらしく、俺たちは少し寒い廊下のソファで黙りこくって腰掛けている。

 深夜の署内は最低限の明かりしか点いていない。蛍光灯で明るく照らされている廊下の端では、大勢の人がわざとらしいくらい大きな声を上げて泣いていた。中将の遺族なのだろう。彼の家はイズモより下位ではあるもののれっきとした中流貴族だそうだ。隣の男がぶっきらぼうな口ぶりで教えてくれた。

 その反対側で灯らない蛍光灯の下スマホをぽちぽちやっている俺は人が死んだというのにまったく悲しくなく、久しぶりの殺人事件の報告書に手間取っていた。凶器がどんなものかすぐに思い出せない。あとで警察の人に訊くしかないだろう。

 ぼーっと暗がりのなか天井と壁の間の隅を見つめる。夜中に起こされたのもあってだんだん眠くなってくるが、警察署の安物のソファと遺族のうるさい泣き声のおかげで寝る気は起きなかった。

「うるせえな」

 聞こえた声は低く気だるげでとても自分のものとは思えなかった。同じくその声が聞こえたであろうイズモを見ると、さっきまで腿に肘をついて項垂れていたくせに驚いたような表情でこちらを見ていた。暗がりに慣れた目が浮かんだ三白眼とかち合う。

「…お前もそんな喋り方するんだな」

 俺がいつもどんな喋り方をしているのか自分じゃわからないが、余程意外だったらしく横からじろじろと視線が突き刺さる。

「寝不足で気が立ってるだけだよ」

 眠気でぼやける脳みそに全部責任を預けた俺に、イズモは声を出して笑った。その声も廊下の向こうの大きな泣き声に打ち消されていく。

「いつもヘラヘラフヨフヨしてるからな、お前。苛立ってるところなんて初めて見たぞ」

「ヘラヘラフヨフヨってなんだよ…」

 常に苛立ってるお前とは違うんだ、というのは言わないでおいた。

 ひとしきり俺の苛立ちを笑ったイズモは曲げていた背を壁に預けておいおい泣く遺族たちを見遣る。それから彼らをバカにして鼻で笑った。こればかりはうるさい泣き声で打ち消されていてよかった。

「確かにうるさいな」

「ちょっとね」

 警察官の話を断ち切って全く耳に入れないレベルの泣きっぷりだ。故人を偲んでいるという声量ではない。

「死んだ中将はあの家の次期当主でな」

 腕を組んでそう言ったイズモは、泣いている遺族を顎で指した。それで俺も初めて彼らの方に目を向ける。

 団子のように集まった人たちの中で泣いているのは基本的に女の人で、それぞれの旦那だと思われる男の人たちはその隣で軽く俯いていた。その中にちらほら子供が混じっている。大人の腰ほどまでしかいかない小さな子から女性よりは優に高い学生くらいの子まで。正に親戚一同という雰囲気で、次期当主が死んだだけのことはある。

「子供が何人かいるだろう。今の次期当主候補たちだ」

「うわ」

 次期当主が死んで、そこに集まる次期当主候補とその親たち。意味するものはたった一つである。遺体安置室の前で跡目争いは既に始まっていた。

「泣いてるのも演技だろうな。善人ぶってるんだ」

「いや、さすがにちょっとは悲しんでるんじゃないか?」

「本当に悲しい時にあんな大声出して元気に泣けるか?」

 何も答えられなかった。

 鼻水を啜る音まで聞こえるのにあれが全部ウソなのか。子供の中で一番年上だと思われる子は沈痛な面持ちをしている。あの子くらいは本当に悲しんでいてほしい。その足元で小さな男の子が退屈そうに蹲っていた。

「どうせ泣きながらラッキーだって思ってるんだ」

「なおさらうるさい泣き声だな」

 イズモが乾いた声で笑う。それから眠そうに欠伸を零した。

「貴族なんてみんなそんなもんだよ」

 不遜な態度で誰よりも貴族らしいイズモはそう言って目を瞑る。

 俺たちが警察の事情聴取から解放されたのは昼前のことだった。





幕間 十二年前、冬


 イズモ家は建国以来続く名家であり、その当主は代々警察庁長官の任を担ってきた。イズモセナはその家の長男であり、生まれた時より警察庁長官になることが望まれていたし約束されてもいた。しかし、それは物心がつくずいぶん前の話である。

 貴族の通うパブリックスクール。十五歳から二十二歳まで、通常の高校生から大学生にあたる年齢の御曹司や令嬢が通う全寮制の学校で、セナはいつも一人だった。彼の貴族らしい大きな態度と弟の存在が理由なのだが、そんなことを自分の身分をわきまえているセナは気にしない。人に好かれる性格でないことは十七年生きてきてよくわかっていたし、弟との格差からバカにされていることも知っていた。だからいつも席で一人背を伸ばして座っている。

「あれぇ?セナくん、こんなところで何やってんの?」

 冬休みの前日、セナに声を掛けてきたのは同じクラスの生徒だった。にやにやと下卑た笑顔や間延びした口調はどれも友好的なものではない。そもそもこの学校でセナに友好的な人間はたった一人しかいなかった。

「明日から冬期休暇だぜ?荷物まとめて帰る準備しなくていいのか?」

「そんなこと言ってやんなよ。無能な長男に帰れる家なんかあるわけないだろ」

 教室のドアの前でたむろしてる同級生は三人。みんなが一様にこちらをバカにして笑っている。入学から三年ずっとこの調子だ。特に弟が入学してから酷くなっているが、セナは特に気に留めていなかった。ただぼんやりと雪のちらつく窓の外を眺めていた。

「図星だからって無視かよ、ダセェ」

「早く帰ろうぜ。俺たちにはちゃんと出迎えてくれる家があるからな」

 反応のないセナに興味を失くして同級生たちは帰っていく。彼らの言葉を歯牙にもかけないのはいつものことで、だからいつも遠くから嫌味を言ってくるだけだ。

 いなくなった同級生に溜息をついてセナは机に突っ伏した。薄暗い中庭に雪がちらちらと舞っている。この景色を一人きりの教室で眺めるのも三回目だった。パブリックスクールに入ってから大嫌いな実家には一度も帰っていない。大型休暇の前はこうして帰省前の暇なバカたちの嫌味をかわした後、傍から見れば寂しそうに教室に残っているのが常だった。

 生徒がほぼいなくなって空調の切られた室内はどんどん冷たくなっていく。そろそろ寮に戻ろうかと思いつつも、窓の外からなんとなく目を離せないでいると教室のドアが開く音がした。嫌味を言いにわざわざ戻ってきたのか。そろそろ帰らないと郊外のこの学校から家に着くころには夜中になるぞ。

 けれど、入ってきた誰かを確認しようともしないセナの予想を裏切って聞こえた声は珍しく友好的なものだった。

「キミ、寒くないの?」

 女の子の声。けれど可愛いというよりもきっぱりとよく通る声だった。知らない声じゃない。その名前を思い出しながらセナはゆっくりと顔を上げた。

「あー…ヨネクラさん」

「ワクラだよ、イズモくん。窓際だと寒くない?」

「いや平気…」

 このクラスの学級委員と話しながらとても落ち着かない心地で座り直す。

 ワクラミコトといえば、公国軍大将一家の令嬢だ。軍人の娘なだけあって筋の通った性格で武道にも長けていると、いつも一人のセナでも知っていた。その彼女がなぜこんな時間にまだ教室にいるのだろうか。外はもう日が沈んでどんどん暗くなっている。照明の点いていない教室もそれに合わせてただの暗がりになりかけている。

 長期休暇の前日はいつも一人ここに残っている身としては、誰かがいるのが落ち着かなかった。まるで自分の領分に勝手に踏み込まれたような気分だ。

「ワクラさんは帰らなくていいのか?」

「ああ、今回の休暇は帰らないことにしたんだ」

 わざわざセナの前の席に腰掛けて向かい合うようにして座ったワクラに眉を顰める。暗いから見えないだろうし、なんならこの表情を見つけて早くどこかに行ってほしいとさえ思う。

「イズモくん、いつも実家に帰らず休暇の前は最後までここに座ってるだろう?それが羨ましくてね」

「は?」

 思わず漏れた声は自分でも思っている以上に怒気を孕んでいた。羨ましいなどと言われる身の上でないことはよくわかっていたからだ。貴族の家に生まれておきながら実家に帰りたくないのには相応の理由がある。それなのに羨ましいなどとよく言えたものだ。

 こちらの怒りが伝わったのか、ワクラは荒れた獣をたしなめるように手のひらを向けてきた。

「貴族というのがどうにも性に合わなくてね。家の連中は軍人なのか貴族なのかよくわからないから」

「…帰ってこいって言われてるんじゃねえの」

「言われるけどね、帰りたくない時だってあるだろう」

「言われるだけマシだろ」

 セナは家の使用人にも親にも帰ってこいなど言われたことはない。弟は言われてるらしい。今日も昼休みに教室に来て呑気に「一緒に帰らないか」などと言ってきた。毎回断ってるから無駄だとそろそろ気付きそうなものだが。

「キミの家は弟の方が優秀なんだってね」

 なんでもないような口調で、おそらく傍から見たらセナの一番痛いところだと思われる話を振ってきた。

 イズモチナ。イズモ家始まって以来の天才と言われる彼は次男の立場でありながら次期当主の座をほぼ約束されているようなものだった。生まれた時に期待されていたセナの将来はそっくりそのままチナのものになったのだ。

「優秀だよ。勉強も武道もあいつの方が上だし要領も愛想もいい。イズモ家の未来はしばらく安泰だな」

 セナは優秀な人間であった。しかし、それは全て努力して実ったもので、もとはただの凡人であることを自分が何よりよくわかっていた。凡人が努力してもがいて辿り着いたのはゴールではなくスタートラインで、天才の弟はその時すでにゴールテープを切る直前にいたのだ。

「弟のことは嫌い?」

 はっきりとそう言われたのは初めてで、やけにずかずか聞いてくる女だなと少し引いたくらいだ。

 セナは弟のことを嫌っている、と思われているのは知っていたし、そう思われても仕方のない状況なのはわかっている。しかし、チナを嫌う理由になり得る何もかもはセナにとって些事に過ぎない。

「嫌いじゃない。むしろ好ましいと思うよ」

「へえ」

 ワクラは面白そうに目を開いた。夕方を過ぎて灯った電灯できらきらとその目が光っている。

「勉強ができて運動もできておまけに性格もいい。嫌いになる理由はないだろう」

 当主の座は物心つく前からチナのものだった。欲しいと思ったことは一度もない。くれるなら貰いたいものだが、貰えないのであればそれはそれで構わなかった。

「じゃあ、何のために努力してるんだ?」

「…え?」

 セナは努力して能力を磨いた凡人である。天才で努力もしている弟には敵わないが、そこらの貴族の子供たちよりも出来がいいという自負はあった。けれど、その努力を誰かに見せたことなど一度もないし、親でさえセナの努力など知るはずもない。ワクラの言葉に首を傾げてしまったのはそのためだ。

 そんなセナを見透かしたように「私は知ってるよ」と彼女は得意げに指を立てる。

「キミが試験で毎回上位十位以内に入っているのも成績が軒並み最高評価であることも、全て努力の賜物だろう」

 セナは何も答えたくなかった。

 次期当主の座を約束された優秀な弟を持つ無能な兄として十七年間生きてきて、努力を認められたことなど一度もなかった。認められたいという思いはあっただろうが、努力が評価されるのは結果が伴ってからだということを知っていたし、弟の才能を前に凡人の努力とその結果など評価されないと分かっていた。けれど、いざ努力を認められると嬉しいというよりも羞恥が勝る。蔭で努力していただけ余計に。

 それなのにセナの胸中を測ることもせずワクラは指をくるくる回しながら話を続ける。

「キミが落としたノートを見たことがあってね、わかりやすい上に復習のしやすいまとめ方だった。以来参考にさせてもらっているよ。おかげで成績が上がった」

「…そうか」

 嫌味も皮肉も出てこない言葉に正面から向き合うのは苦手だった。弟以外の友好的な人間などまともに接したことがない。

 ワクラを追い出したかったはずなのに、今度はセナが逃げたくなっている。けれど、ジッと目を見てくる彼女を前に腰を上げるのは憚られた。好意的な態度で接してくれるクラスメイトにどう対応していいかわからない。

「キミだって頑張ってるんだ。家に帰れば使用人の一人や二人褒めてくれるんじゃないか?」

「…いや、それはない」

 特に今回の冬期休暇は絶対にない。

 首を傾げたワクラに、セナは自嘲的な笑みを浮かべた。らしくない表情だとすぐに引っ込めたが見られていたかもしれない。

「チナ…弟は年明けすぐに次期当主の座が確約される。家は今からお祝いの準備で大忙しだ。落ちこぼれはお呼びじゃない」

「…そうか」

 気を遣わせるかもしれないと思った。可哀想だと思われるのは癪だが、他人から見たらセナはたいそう可哀想な長男なんだろう。

「じゃあ、この冬は私と二人で好きなことして遊ぼうか」

 しかしワクラは気を遣う様子も哀れむ様子もなくあっけらかんとそう言った。屈託のない笑顔を向けられて、密かに詰めていた息を吐く。

 随分と居心地のいい空気を作ってくれたものだ。だから、彼女の話を聞こうと思ったのはそんな空気を作ってくれたお礼のようなものだった。

「ワクラさんは?なんで帰りたくないんだ?」

「夢があるからだよ」

「夢?」

 頷いた彼女は楽しそうに笑顔を深めて続ける。

「人を救う仕事がしたいんだ」

「…軍人の家なんだからぴったりだろ」

 直接国民を守っている軍人一家におあつらえ向きの夢だ。そのまま敷かれたレールに乗っていれば叶うのだから実家に帰りたくないなど思うはずもなさそうだが、彼女は首を振ってしまう。

「軍人というよりあの家は貴族だ。人より自らの保身ばかり。軍に入っても最初から不釣り合いに大きな肩書きを与えられて安全なところから指示を出すだけだ」

 貴族なんてみんな保身ばかり。それはセナにも心当たりがあった。親がまさしくそれにあたる。

「だから小さな反抗だよ。次に家に帰った時には入隊時の位を下げろと喚き散らしてやるつもりさ」

 愉快そうに笑うワクラにつられてセナも口角を上げた。

「そんなことよりも冬休みに何をして遊ぶか考えよう。私のことはミコトと呼んでくれて構わない。私もセナと呼んでもいいかな?」

「イズモと呼んでくれ、ワクラ」

 入学三年目。セナにとって初めての一人ではない長期休暇だった。


 遊ぶ、なんて言っても二人とも決してもう子供じゃない。外を駆け回っているだけで楽しい時期はとっくに過ぎていた。

 中庭にうっすらと積もる雪を眺めながら、暖かい図書室の中で向かいあって座る。手元には冬期休暇中の課題。しかし、休暇に入って数日でもうほとんど終わりかけていた。

「…思ったよりやることがないな」

「こんなもんだよ」

 話始めるのは決まってワクラの方で、イズモは気が乗れば一言二言返してやる程度なのが常だった。

 手を止めて椅子に背を預けたワクラは窓の外をぼんやりと眺める。その視線を不意にこちらに寄越して、悪戯するような口調で言った。

「電話、鳴ってるよ。出なくていいの?」

「お互い様だろ」

 元々静かである図書室は、今さらにひっそりとしている。少し物音を立てただけで見つかってしまいそうなほどの緊張した静けさの中で、さっきからずっと二人の電話が小さくなっていた。誰から、なんて考えるまでもない。

 少しの間視線を交わした二人はほぼ同時に電話を取った。向こうに聞こえないように溜息をついてから耳に当てる。

「もしもし」

『もしもし、セナ様ですか」

「そうだけど」

 耳に馴染んで聞こえる声は使用人のものだ。小さい頃から世話になっているせいで、家からかかってくる電話も彼女からだと比較的気楽だった。むしろ両親からの電話の方が出たくない。

 電話口の向こうはこちらとは違いやけに騒がしい。もうすぐ弟の祝典がある。

『今回の休暇もお戻りになられないのですか』

「戻らないよ。チナにおめでとうとだけ伝えておいてくれ」

『承知いたしました』

 祝典があるから戻ってきてほしいと粘られることはなかった。もともとイズモが戻らないのは織り込み済みで準備を進めていたんだろう。今更戻ると言っても逆に困らせるだけだ。困らせるために今から戻ると嘯いてもよかったかもしれない。

 要件はもう済んだだろう。形だけの帰省の催促に違いない。毎回そうだったんだから。

 けれど、今回ばかりは勝手が違っていたようだ。これも祝典があるせいだろうか。電話口の向こうから使用人の焦ったような声が少し遠く聞こえる。ちょっとノイズが聞こえて、それから『兄さん!』と呼ぶ声が聞こえた。唯一イズモに対して好意的な声。

「…チナ?」

『そう!兄さん今年も帰省しないの?』

「ああ…お前のお祝いは休暇終わりに必ずするから」

『うん、楽しみにしてる』

 チナと話していると自然と表情も緩む。ふと、もう既に電話を終えたワクラに正面から見つめられていることに気がついて顔を逸らした。すると、その逸らした先まで体を傾けて追ってくる。

「おい、ちょっ…やめろ!」

『兄さん?』

 手のひらをかざしてワクラの視線をかわそうとしても指の隙間で目が合った。楽しそうに笑っているのが腹立たしい。

「すまん、今クラスメイトがいて…」

『友達?』

「いや違う」

 初めて話して数日しか経ってない。たまたま休暇中学校に残るのが一緒だっただけだ。こんなのは友達とは呼ばない。絶対に呼ばない。

『だよね、兄さん友達いないもんね』

「俺のことはいいんだ」

『よくないよ…あっ、母さんに呼ばれてる、行かなくちゃ』

「ああ、またな」

『ばいばい』

 慌ただしく電話が切られる。その直前の一瞬、チナが電話から耳を離したせいか周りの音がよく聞こえた。イズモの知っている実家よりも騒がしくにぎやかで楽しそうだ。羨ましいとも妬ましいとも思わない。諦めなら随分前についている。ただ少し寂しく感じるのだけはもうどうしようもなかった。

 イズモが最後に母に名前を呼ばれたのは何年も前。パブリックスクールに入学する二日前だった。弟への劣等感も嫉妬も全部割り切って、自分の将来も諦めて、寮に入ったらしばらくは実家に近寄らないでおこうとこっそり決めた頃だった。「セナ、元気でね」とただそれだけを言われた時のことをはっきりと覚えているのは、チナが母に名前を呼ばれる度に自分が最後に呼ばれたのはいつだったかと記憶を探っていた子供のころからの癖のせいだった。

 家族に愛されていないわけじゃない。ただ弟の方が愛されているだけのこと。家族も実家も恋しいが、それでも帰りたくなかった。兄として、弟を妬みそうになることさえしたくない。

 電話の切れたスマホを机の上に置いて、また課題を進めようとペンを取る。すると向かい側でまだぼんやりと深く腰掛けたままのクラスメイトがいた。

「キミは、弟とは仲がいいんだね」

「まあな」

 他の兄弟と比べて仲がいい自覚はある。というか意識して仲良くしてきた。チナからすれば自分より無能な兄にキツくあたる意味なんてなかっただろうし、こちらとしても嫉妬や劣等感に駆られてわざわざ嫌った態度を取るなんて余計に惨めになるだけだと知っていた。

「やっぱりキミは賢いね」

「はあ?」

 この話の流れでどうしてそうなるんだ。何か難問にでも取り掛かっていただろうかと課題に目を落とすけどそんなに難しい問題は出ていないし、そもそも彼女の視線は真っ直ぐイズモを見ていた。

 首を傾げるイズモに愉快そうに笑って、ワクラは課題のテキストとノートを閉じて机の端に寄せる。課題に取り掛かる気は失せたらしい。

「雪合戦でもしないかい?」

 相変わらず話の脈絡がない。

「二人でか?」

「ああ、さっき電話の向こうでうちの連中がやっていてね。なかなか楽しそうだったよ」

「じゃあ帰ってやればいいだろ」

「うちの連中とやってもなあ。腐っても軍人だから流血沙汰もよくあるんだ」

「今すぐ止めた方がいいんじゃないか」

 年末に流血沙汰なんてたまったもんじゃない。去年までそんな血みどろの雪合戦をしていた奴と一対一で雪玉を投げ合うのも気が進まなかった。

「きっと楽しいよ、やろう」

 強引にイズモの課題も閉じて、自分のと重ねて置いてしまう。その課題を取り返そうと伸ばした手首を掴まれて、あっという間に椅子から下ろされてしまった。もう着いていくほかないらしい。

「楽しみだなあ、雪合戦」

「俺は全然楽しみじゃない」

 その後、雪まみれになって校庭に倒れ込んだイズモを見下ろすワクラは軽く髪に雪を積もらせて笑っていた。


 雪の降る時間が減って積もっていた雪も解け始めた頃、パブリックスクールの冬期休暇が終わった。昼頃には学生たちが大勢寮に帰ってくる。二人きりの冬休みはあっさりと終わったが、一人きりの時よりかは楽しめたと思っていた。それをワクラに伝える気はしないが。

「冬休み終わっちゃったね」

「ああ」

「楽しかったから次の休暇も残ろうかなって思ってるんだけど、構わない?」

「なんで俺に訊くんだ。好きにすればいいだろ」

 誰もいない図書館で向かい合う。休暇中のほとんどをそうして過ごしていた。それは休暇が終わる今日も変わらない。

 素っ気ない返事ばかりを返すイズモにそれでもワクラは楽しそうに話しかける。休暇の間につい気になって「俺と話していて楽しいのか」と訊いてしまったが、帰ってきたのは「楽しいよ」という短い返事と満足そうな微笑みだけだった。その答えを疑う理由はない。

 帰省していた学生たちはまだ戻っていない。いつもなら昼前からぼちぼち帰ってきて昼過ぎは正門のあたりが混雑する。その混雑を上から見下ろすのが常だった。

「次の休暇も君と二人きりでいられるのかと思うと今から楽しみだね」

「そうか。俺は別に楽しみじゃないな」

 わりとキツイことを言っている自覚はあるが目の前の彼女は傷付く様子を見せないどころか、それでこそイズモだと言わんばかりに笑っている。変な奴だと思いながら腰を上げた。

「どこに行くんだい?」

「ちょっと用事がある」

「そうか。私はまだしばらくここにいるよ」

 聞いてもないことを言ってくるワクラに背を向けて図書館を出た。目指す場所は校舎の北側にある裏庭。影になっていて日の当たらないそこは、まだ雪が地面をすっぽりと隠している。心なしか他の場所よりも寒い。

 昨日の晩にチナから届いたメールで、話があるから明日の昼頃裏庭で待っていてほしいと言われていたのだ。まだ昼前だが少し待つくらいなら構わない。それに、晴れて家督を引き継ぐことが正式に決まった弟に祝いの一言も言いたかった。

 まだ正門の周りには誰もいなくて、チナもまだ帰ってきていないだろうと思っていたが、指定された裏庭の雪の上で一人の男子生徒が立っていた。見間違うはずもなくそれは弟の姿で、自分とワクラしかいないと思わざるを得ないほど静かな学校に自分たち以外の生徒がいるのはなんだか不思議な気分だった。

「早いな、チナ」

「兄さん」

 振り向いたチナはいつも通りに人好きのする笑顔を向けていて、基本的に不機嫌だと思われることの多いイズモと随分違っていた。これで兄弟なんだから、血というのはあまり信用できないものらしい。

「ごめんね、呼び出して」

「別に構わないが、話ってなんだ?」

 手短に済ませようと早速切り出したイズモに、弟は眉を下げてまた違った笑みを浮かべた。見たことのない表情ではない。今まで色んな人から向けられてきた種類の笑みだった。そして、イズモが最も嫌っている表情でもある。それを今唯一自分に好意的な弟から向けられている。嫌な予感がした。

「僕、ここを卒業したらイズモ家の当主になるんだ。…将来は警察庁の長官になる」

「…ああ、知ってるよ。おめでとう」

 年末の祝典は予想通りの内容のようだった。めでたいことで、本当なら手でも叩いて祝ってやるようなことだが、会話の雰囲気はそんな楽しそうなものではない。

 話というのは、その祝典にイズモが参加しなかったことへの文句だろか。そうであればいいと思うが、そうじゃないんだろうと分かっていた。

「それでね、ずっと兄さんに言いたかったことがあるんだ」

 そっとチナの手がイズモの両手を包む。冷たい手をしていた。一体どれだけ待っていたんだろうか。もっと早く降りてくればよかった。けどそれ以上に、逃げ道を塞がれたという絶望感が強かった。今日以上に最悪な日はこの先もないだろう。

「…なんだ?」

 先を促す言葉を随分躊躇った。このまま黙っていても話は続くだろうから無駄な抵抗なのは百も承知のことだったが、次に言われるであろう言葉をあっさりと尋ねられるほどイズモは強くできていない。

 今すぐこの手を振り払ってその口を塞いでいしまいたい。もしくは走り去ってしまうか。この場から逃げないと、何の悪気もない弟に心の一番痛い部分を突かれてしまう。その苦しみは予想できるものの比じゃないということは予想できた。

 けれど、イズモの思いなんて知らずチナは易々と口を開く。それを憎たらしいと思ってしまった。

「ごめんね」

 ここに来た時と同じようでいて全く違う言葉。チナは泣きそうな顔をしている。泣きたいのはこっちだというのに。

「僕のせいで、兄さん…」

「いいんだ」

 なおも言葉を紡ごうとしている弟を遮るために慌てて口を開いた。弟が謝るようなことは何もないし、謝られるようなことも何もない。そう強く思わなければ座りこんでしまいそうだった。

「でも…」

「チナ、おめでとう。イズモ家はお前がいるから大丈夫だな」

 包まれていた手を振り解いて、今度はチナの手を一度だけ強く握る。

 そろそろ他の生徒たちも帰ってくる頃だろう。正門は混むからと裏門に回る生徒も少なくない。そうすればじきにこの裏庭にも人が流れ込んでくる。

「兄さん」

「イズモ?」

 その声に反応したのはチナの方だった。第一、セナに声を掛ける人なんて弟のチナ以外には誰もいなかった。今は一人いるが。

 裏門から帰ってきたらしい男子生徒は運よくチナの友人だったようだ。イズモの人生の大部分において味方になってくれたことなどなかった神様がこの時だけは手を貸してくれた。それでも、今日が人生で一番最悪な日であることには変わりない。

 握っていた手を離して背を向ける。呼び止められた気がしたが聞こえないふりをした。もしかしたら本当に呼び止められてなんていないのかもしれない。優秀で当主になることが約束された弟が当主になる未来を取られた兄にかける言葉なんてあっていいはずがなかった。最悪だと心の中で何度も毒づきながら、そうしてせり上がってきそうな涙を堪える。

 校舎の中はある程度生徒で賑わっていて、みんな一様に寮の方へと向かっている。その列から外れて、イズモは一人図書館へ足を向けていた。

「おや、戻ってきたんだね」

 窓の外で帰ってきている生徒たちの塊を眺めていたワクラは顔を上げて、それから少し目を丸くした。しかし、またすぐにいつもと同じ口調で「座りなよ」と自分の向かい側を指さす。その席に大人しく座ったイズモは背もたれに体を預けて高い天井を仰ぎ見た。外からは生徒たちの声が聞こえている。けれどそれは分厚い幕を何枚も隔てた向こう側のものみたいに遠く、二人きりの休暇はまだ続いているようだった。

「キミがそんなになるなんて余程なにかあったんだろうね」

 詳しくは詮索しないけど、とイズモが元からしている線引きに大人しく従ったワクラはまた窓の外に目を向ける。有難い優しさだが、それを享受する気分でもなかった。

「…弟に、謝られたんだ」

 話し始めたイズモに一瞬視線だけでこちらを伺ったワクラは、それから座り直して正面から向きあった。

「それで?」

「ずっと、言いたかったんだと…あいつはずっと謝りたいって思ってたんだ」

 自分のせいで長男であるイズモが家督の座を追われたことを知っていた。チナの聡明さを考えれば当然だが、だからって謝るなんて酷いじゃないか。

「キミはそれが泣くほど辛かったんだね」

「…泣いてない」

「オーケー、了解した」

 はなを啜るとズッと音がした。まるで泣いてるみたいだ。

「…当主になりたいと思ったこともあるし、弟が妬ましく思ったこともあるし、どうせ継げないなら勉強も何もかも辞めてしまおうと思ったことだってあるんだ」

「うん」

「でも、そんなこと思っても仕方ないだろ」

 弟をうらやむ気持ちも弟に約束された将来を望む気持ちも、全部固く押し込めてきた。しかしどれだけ強く押し込めたとしても消えるわけがない。何年も前の話だが、あまりの渇望に涙を流したこともあった。そんな気持ちとは裏腹に、頭ではどうしようもないことだと分かっていた。だから、イズモ家にふさわしい人間として努力して生きてきた。それだけのことだ。謝られることなんて何もないだろう。

「…謝られたら、まるで俺が可哀想みたいじゃないか」

 そうだと思われたくなくて、弟に取られた未来を諦めた後も頑張ってきたというのに。可哀想な人間だと思われるくらいなら、弟に当主の座を奪われた無能な兄でいたかった。無能な兄だと嘲笑ってくれたらよかったのにと考えて、あのチナがそんなことをするはずがないと自嘲した。

 とにかく、チナの中でイズモは努力しているのに当主になれない可哀想な長男だったのだ。それもずっと。

 もう一度はなを啜る。さっきよりも大きな音が鳴った。すると、聞き役に徹していたワクラが不意に口を開く。

「…キミは、強いな」

 何も言えなかった。ワクラの言葉は沁みるようで息が詰まる。おかげで涙は目の縁を超えていた。弱った涙声なんて聞かせたくない。

「それで、賢くて優しい。弟と同じくらいな。さすが兄弟だ」

 そんなことはない。チナの方がずっと賢くて優しいのだ。けれど、素直に言ってしまえばその言葉は嬉しいものだった。誉め言葉を素直に喜べなくなったのはいつからだったのだろうか。もう覚えていないが、彼女からの言葉なら幾分か素直に受け取れる気がした。

「ついでに言うと、キミは全然可哀想じゃないぞ。返事も素っ気ないし、こちらが笑いかけてもにこりともしない。この休暇の間中ずっとそうだったじゃないか。そんな奴が可哀想なものか。…ああ、でも雪合戦で雪塗れになって倒れた時はちょっと可哀想だったかもな」

 悪戯っぽく笑いながら言うワクラに、イズモは視線だけを向ける。

「うるさいぞ、ミコト」

「キミの洟を啜る音の方がうるさかったよ、セナ」

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