9話 夏休み③
夏休み最後の日は、曇天。
網戸を通り抜けて、ぬるくて少し湿った風と、賑やかなツクツクボウシの声が流れ込んでくる。
龍拳は朝から、溜めに溜め込んだ夏休みの課題に追われていた。
机に向かってペンを走らせる手が止まる。「うわあ、ごめんね空くん、こんなはずじゃなかったんだ」と天を仰ぐ、龍拳。
初めての龍拳の部屋に、少し緊張した顔で座椅子に座っていた空が、ふるふるっと、首を横に振る。
「ううん」
頭を掻き毟りながら、数学の問題に取り組むが、さっぱりだ。解答を見ても、途中の計算が全く分からないのだから、どうしようもない。
情けなく唸っていると、突然視界に空の横顔が飛び込んできて、驚いて姿勢を正す龍拳。
ペン立てからシャーペンを取ると、髪をかきあげて、スラスラと解いていく空。しかし龍拳は、あらわになった空のうなじに見とれている。髪を押さえる空の指が、綺麗だ。
その指から髪がさらさらと流れ、うなじが隠れるのを見て、はっと我に返る龍拳。
「あ、ありがとう、凄いね空くん」
そういえば、空の成績は常に上位であることを思い出し、「強くて、頭も良くて、凄いなあ」と続ける。
空はというと、きょとんとした顔で龍拳を見つめていたけれど、おもむろにむすっとした顔になって、龍拳の胸に顔をうずめて、頭をぐりぐりと動かす。
「ほわっ、えっ、空くん!?」
顔を上げた空はどこか得意げな表情で、早くと言うように、机の上の課題を指さした。
やっとの思いで数学の課題を終えた頃には、昼を少し過ぎていた。
「本当にごめんね、せっかく部活も休みだし、夏休み最後だから一緒に遊ぼうって誘ってたのに・・・」
気が弱い割には、都合の良いところは大胆で、空を遊びに誘った3日前には、課題もなんとか終わるだろうとたかをくくっていた。
それが、このざまである。流石に焦った龍拳は、昨日から必死で取り組んでいたのだが、数学だけはどうしても今日に残ってしまった。
「昼飯、どうしようか。食べ放題の店、なんかどうかなって思ってたけど」
食べ放題、と聞いて、空の目が少しだけ大きくなる。喜んでる顔だ。
外に出ると、雲間から太陽も顔を出した。
並んで歩きながら、空の私服姿に改めて目がいってしまう。見慣れた制服姿ではないからだろうか。
いきなり、陽の光が、眩しい。
少し先を歩いていた空が、目の上に手をかざして太陽を見上げる姿が、たまらなく綺麗なものに思えて、見惚れてしまう龍拳。
歩いているうちに再び太陽は隠れてしまい、代わりにどんどん空気が湿り気を帯びてきた。
「マンプク五郎」と書かれた看板が見えてくる。焼肉も寿司も麺類も食べ放題の店。値段も良心的で、学生の味方である。
空が、料理と龍拳を交互に、これまでにないくらいキラキラとした顔で見る。
「空くん、こういう店、初めて?」
何度も頷く、空。
「じゃあ、今日は思いっきり食べよう!」
うきうきと料理をテーブルに運び、あっという間に所狭しと置かれた皿でいっぱいになった。
龍拳は、自他ともに認める大食いであると、思う。その見た目を裏切らない食いっぷりである。
しかし、実は空も、龍拳と同じ量かそれ以上を食べるのだ。このことを知る者は少ない。インターハイの帰り、立ち寄った焼肉屋で、顧問の「奢りだ」の一声にメンバーは歓声を上げて勢いよく食べ始めたが、空の食べっぷりに一同は驚愕した。
普段、教室では購買のパンを数個齧っているだけであるし、部活でも遠征や合宿の際に大食いの兆候は見られなかった。
後で龍拳が空にその話題を持ち出したところ、恥ずかしそうに「安心できる人だけ、なの」と俯いていた。
今こうして、空が自分の前で沢山の料理を平らげていくのを見て、不思議な優越感を覚える龍拳であった。
たらふく食べたあとは、腹ごなしにぶらぶらと歩く。
これからどうする、という龍拳の問いに、空は「おうち、いい?」と上目遣いで首を傾けた。
「もちろん、いいけど、俺ん家なんかでいいの?じゃあ、ゲームでもしよっか?」
ゲームと聞いて、また目を大きくした空を、可愛いなと思う龍拳。
少し遠回りをして家に帰っていたら、ぽつらぽつらと雨が降ってきて、しまいには土砂降りになった。
玄関で服を脱ぎ、空にタオルを渡す龍拳。その足で、一度自分の部屋に駆け上がり、戻ってくる。
びしょ濡れの空に、「よかったら、これ着て」と、自分の服を渡す龍拳。
髪から雫を垂らす空を脱衣所に促して、「じゃあ、部屋で待ってるから」と扉を閉める。
慌てて服を引っ張り出したから開けっ放しになっているタンスを、ゆっくりと元に戻し、妙な高鳴りを抑えようとする。
コンコン、と部屋のドアをノックされ、びくっと飛び上がり、「ど、どうぞ!」と何故か緊張して返す龍拳。
龍拳のTシャツを着て、スウェットを穿いて、両手を広げながら、「ぶかぶか」と言う空に、結局は悶えてしまう龍拳であった。
それから、雨がやんで遠くの空が夕焼けに染まるまで、2人でゲームをしたり、漫画を読んだり、ゆっくりとした時間を過ごした。
空はゲームをしたことがないようで、すぐにゲームオーバーになってしまい、口を尖らせて龍拳の方を見る。それでも、龍拳に励まされながらステージに挑むのは楽しいようで、やっとクリアをした際には、龍拳が掲げた手に軽くハイタッチを返すような、初めての仕草を見せた。
そして、龍拳の胸に顔をうずめて、今度は優しくぐりぐりとするのだ。
少し暗くなってきて、空が時計を見上げた。龍拳が「そろそろ、かな?」と言うと、空は肩を落として、しょんぼりとした顔になった。
「また、遊びに来て?」という龍拳の言葉に、しょんぼり顔のまま頷く空。
家まで送っていくよ、という龍拳に、何度か空は首を横に振ったけれど、一緒に歩き出すとじっと龍拳の目を見つめて、「ありがと」と一言。
そういえば、空の家に行くのは、初めてだ。今日、空が龍拳の家にきてくれたように。
何故だか、試合前のようないつもの緊張癖が、段々と出てきてしまう。
住宅街を抜け、道の両脇に雑木林が生い茂るところで一度、「ここまでで、大丈夫」と空は言ったが、龍拳は深呼吸をして、「ちゃんと空くんの家まで行くよ」と返した。
雑木林を抜けた先に、立派な門が現れて、その隙間から大きな日本家屋が見えた。敷地には、それとは別に一軒家もあるようだ。
門の前で空は振り返り、また「ありがと」と、今度は悲しそうな顔で呟いた。
「うん、でも、また明日学校で会うんだから、そんなに悲しい顔しないで」
そう言っただけでは、どうしても収まりがつかなくて、空の頭をぽんぽんと撫でる龍拳。
しばらく、撫でられるがままになっていた空であったが、十何度目かのぽんぽんの手を捕まえ、微笑んだ。
「服」
「うん、いつでも大丈夫だよ」
「明日、もってく」
「了解、でも、本当に急がなくて大丈夫だから」
そっか、と言って、纏ったぶかぶかの服を抱きしめるようにした後、門の脇の扉をあけて、空は龍拳に手を振った。
帰り道は、思い切り駆けた。
木々が揺れる音も、町の灯りも、商店街のシャッターも、置き去りにして駆け抜けた。
唯々、空の顔と声と仕草と香りが、駆け抜ける龍拳から離れなかった。