4話 夏合宿
眠い目をこすり、痛む節々をさすりながら、起き上がる。
大部屋に敷かれた無数の布団。その端の方で、龍拳は目覚めた。
まだ早朝なのに、既に暑い。騒々しいセミの声は、もはや目覚ましにはならない。
夏合宿3日目。
インターハイに向けて最後の追い込みだ。来週からは調整に入って、あまり激しい稽古は行わない。
3つ隣の布団は、もぬけの殻だ。空は、もう道場へ降りたのだろう。
ほとんどの部員たちは、まだ布団に転がっている。誰も起こさないように、大きな体を屈めてそっと大部屋を抜け、廊下の水道で歯を磨く。
ここから、道場が見えるけれど、中の様子までは分からない。
合宿が始まってから、龍拳は空とあまり話せていなかった。合宿での集団生活なのだから、それは当然といえば当然なのであるが、自然と空を目で追ってしまっていたし、話したいと思っていたし、でもそれは大勢がいる中ではなくて、例えば下校中のような2人の時間で、などと考えてしまう。
寝る前の、男同士の馬鹿話は、何故だか空とはしたくないのだ。恥ずかしくて。
玄武館高校の敷地のはずれにある合宿所を出て、道場へ向かう。
室内よりも、もしかしたら外の方が涼しいかもしれない。朝の少しだけ濡れた風が、心地よい。
一礼して、少し期待した面持ちで道場に入るも、空はいなかった。
しかし。
「あ、おはようございます、真締先輩!」
鏡の前で、正拳突きを繰り返す、真締。
「ああ、おはよう。早いね」
道着の袖で汗を拭うと、ふうっと一息。
「すみません、先輩より遅くって・・・」
恐縮しながら、いそいそとTシャツを脱ぎ、道着を羽織る龍拳。
いや、いいんだよ、と言いながら、真締は鏡に向き直るが、またすぐに振り返る。
「そういえば、君は真幌くんの『あれ』、見たことあるかい?」
「あれ」の一言で、なんとなく分かる。一度目にすると、もう焼きついて離れなくなる。
「あの、型みたいな・・・?」
「そうそう。見ているとしたら、君かなと思って。『あれ』はもう、一種の芸術だね。彼のオリジナルなのかな。栄極空手の型には無い動きだった。見ただけで、運動神経、それだけで片付けられない戦いにおけるセンスというのかな、あと・・・。美しさの中に狂気があった。あの技を実践で使ったら多分・・・」
一気にそこまで口にすると、またふうっと一息。
「努力じゃどうにもならない壁かもしれないけれど、凡人なりに頑張らなければ」
そう言うと、真締はまた正拳突きに戻った。
そうか、あれはそういうことだったのかと、龍拳は思う。入学式の日の朝、自分があの光景を見て感じたことを、真締が言葉で表現してくれた。
真締の少し後ろに立って、龍拳も一通り体を動かしていると、続々と部員たちが道場にやってきた。
刀利の号令で整列し、黙想。その直前に、空がそっと猫のように道場へ入ってきて、列に加わった。
基本稽古の後、階級ごとに分かれて、技の稽古や組手に入る。
これを、朝、昼、夕と2時間ずつ行って、その合間に食事と休憩、1年生は何かと仕事も多い。
保護者が差し入れてくれた飲み物が入った段ボール箱をまとめて抱えて、龍拳たちが駐車場と合宿所とを往復している中に、空もいた。
「空くん、朝は、どこ行ってたの?」
細い体で重い段ボールを抱えているのに、表情は相変わらず変わらない。
龍拳の目をまっすぐに見上げながら、首をかしげる。
「ほら、朝練の前、空くん、俺が起きた時にはもういなかったから」
目を、ぱちぱちと瞬く空。
「走ってた」
そう言って、ちょうど見えてきた正門の外の方に、目を向ける。
「マジか、凄いなあ。俺なんか、稽古だけでへばっちゃうのに」
笑う龍拳をじっと見上げて、一瞬、イタズラっぽく空が笑ったような気がした。
次の瞬間、空が段ボールを抱えたまま、ひゅんっと走り出した。
「あっ、待ってよ、空くん!」
段ボールを肩に担ぎ上げると、龍拳も後を追う。
他の1年生たちは、「あいつら、体力あるなあ」と追いかけることもしなかった。
1日が終わり、先輩から順に風呂へ入る。
刀利が、「暑い。絡むな」と、ふざけて肩に手を回すグレンを押しのける。
「いいじゃ~ん、ちょっとだけだからさ」
グレンの手には、線香花火のセット袋。
「せっかく買ってきたんだからさ~。こっそり女の子も呼んでおいたから」
「ふざけるな。お前だけ勝手に行けばいいだろう」
「違うんだよ、刀利がいないと楽しくないの~!」
2人の脇を、1年生たちがやり過ごして、風呂場へ向かう。
「全身が痛ってえ!」
湯に浸かり、皆が口々に声に出すと、そのたびに疲れも出ていくような気がする。
龍拳も浴槽の壁にもたれかかって、大きく息を吐く。ふと洗い場に目をやると、体を洗う空が。
肩に付きそうな、濡れた髪を後ろ手でぎゅっと絞る。本当に、綺麗な体だ。華奢ではないが、筋肉がつきすぎているわけでもない。余計なものの一切を削ぎ落として、戦うことに特化したような、それでいて決して汚したくはない美しさもあって、まるで名のある刀のようだ。
つい見惚れていた龍拳であったが、はっと辺りを見渡すと、1年生一同が空の後ろ姿に釘付けであった。
突然。空が振り返る。そして。
「なに」
不思議そうに言ったあと、突然何かを察したかのように照れて自らの肩を抱いた空の反応に、龍拳を含め一同天井を仰いで悶えた。
タオルを肩にかけ、廊下を歩く、龍拳。
空はドライヤーで髪を乾かしていて、その様子も少し眺めていたいな等と考えてしまい、首をぶんぶんと振ってあえて他の1年生よりも先に出てきた。
何故そうしたのか、自分でもよく分からない。
大部屋に向かう途中、階段の踊り場で、真締の声がした。
「お前、たまには部屋から出るんだぞ。学校も、あまり休むと進級出来なくなるかもしれないからな」
思わず、足を止める龍拳。
「合宿も、もうすぐ終わりだから。インハイが終わるまで、連絡はしないからな」
真締が誰かを「お前」なんて呼ぶところは見たことがないし、普段聞いたことのないような口調である。
特別な人、なのだろうか。もしや、彼女さん・・・。
他の1年生が騒ぎながらやってくる声がして、それが聞こえたのか真締も電話を切り上げたのか、階段をあがっていく気配があった。
真締先輩にも、そんな人がいるんだなあと思いながら、何故だかぽわんと、空の顔が浮かぶ龍拳である。
またしても、ぶんぶんと首を振っていると、後ろから「ねえ」と声がした。
振り返ると、龍拳の目をまっすぐに見上げる、空。
不思議そうに、「どうしたの?」という表情で首をかしげる。さらっと揺れる髪に、龍拳の心臓も揺さぶられる。
「い、いや、なんでもないよ。うん」
どうしても、空の目を見つめ返すことが出来ず、頭をかきながら逸らしてしまった。
隣に来た空が、一瞬下から覗き込むように龍拳の顔を伺ったが、すぐに先へ立って階段をのぼっていってしまった。
夜中。
体は疲れているのになかなか寝付けず、トイレに立って大部屋へ戻ってきた、龍拳。
月明かりが差し込んで、3つ隣の布団で眠る空の顔を優しく照らしている。
心臓が、どうしてだろう、跳ねた。
おそるおそる、少しずつ、手を伸ばす。
指先が空の髪に、ほんの少しだけ触れて、慌てて手を引っ込める。
空は目を覚まさない。
今度は先ほどよりも落ち着いて、手を伸ばす。
軽く、髪の毛に触れて、そして、撫でた。
堪らなく愛おしく感じた。
自分の布団に潜り込んで、目を瞑ってからも、指先にさらさらとした感覚が残っている。
この跳ねる心臓がどうにかなるまでは、眠れなさそうだ。