私の話を買いませんか?
「別れましょう」
話を切り出したのは由美子の方からだった。
来たか。遅かったくらいだ。
俺はコーヒーを飲みながらテーブルを挟んで向かい合う現恋人を見た。
「本当はね、私がどれだけあんたに我慢してたか言ってやりたい。
でもそうしないのはね、そんな男と二年も付き合ってたことが情けなくなるから」
由美子が我慢してきたというのと同じくらいの事を俺も我慢してきた。
だが口には出さなかった。これ以上会話を続けたくないからだ。
「もう連絡しないで」
由美子はテーブルに代金を置くとカフェから出て行った。
今の会話が聞こえたらしい近くの席の客はチラリとこちらを見て、俺と目が合うとすぐに顔をそむけた。
だが俺は客が含み笑いを浮かべていたのを見逃さなかった。
こうして俺は二年間の交際が破局した末、
元恋人に置いて行かれるという形でカフェに取り残された。
一時は結婚も考えたこともある相手だが、この数か月はギクシャクして喧嘩も絶えなかった。
くるべきものが来たというだけだ。
店内には俺に対する面白半分の好奇心と同情、食器の音と客の会話、BGMが残った。
誰も俺に話しかけないが、意識は俺の方に向いているのはわかる。
そういうのはよく伝わるものだ。
俺はあえて残りのコーヒーをゆっくり飲み干した。
決して慌てはしなかった。
もしそんなことをすれば余計みじめな気分になるからだ。
俺は熱く苦いコーヒーとともに由美子と周囲の客への苛立ちを飲み干そうとした。
その味は本当に苦々しかった。
会計を済ますとカフェを出た。「この店には二度とこれないな」と思いながら。
カフェを出ると日は高く、空は青い。
街をあてどなく歩いた。
暦の上では春だが薄着にはまだ肌寒く、街行く人々はまだまだ上着を必要としていた。
今は家で一人になりたくはない。
そんな時、俺は奇妙な男を見かけた。
「私の話を買いませんか?」
そう言って通行人に声をかけているのだ。
なにかの勧誘かキャッチセールスだと思われているらしく、誰にも相手にされいない。
当然だろう。皆に無視されている。
だが男は挫けず声をかけ続けた。
年齢と背丈は俺と同じくらいのそこら辺にいそうな男だ。
普段なら気にも留めず立ち去っただろうが、
恋人に別れを切り出された直後という通常ではない状況が俺の足を止めた。
果たしてあの男は勧誘かキャッチセールスか。
あるいはドッキリ企画でどこかにカメラマンがいるのか。
ひょっとしたら劇団員で何かの芝居の練習なのかもしれない。
自分の推測が正しいか確かめるためしばらく観察したが、買い手は現れなかった。
男の様子に変なところは見られない。ここでずっと突っ立て見ているのもなんだ。
俺は思い切って話しかけることにした。
SNSでの話の種になるかもしれない。
「すみません。今ちょっとよろしいですか?」
俺は男の背中に呼びかけた。
「はい、いいですよ」
男は振り返って返事をした。
「さっきから話を買いませんかと言ってますが、それはどういう意味なんですか?」
「言葉通りの意味です。私の話を買い取ってもらうんです」
「買うとどうなるんですか?」
「買った人のものになります」
男の口調は穏やかそのものだ。
「これは断捨離みたいなものなんです。
いらなくなったものを処分するように、思い出も手放そうと思って」
俺はそれを聞いて自宅にある由美子からもらった誕生日プレゼントを思い出した。
あれをどうするか。家であれを見るたびに由美子を思いだすだろう。
それで俺は男に少しシンパシーを感じた。
この男も俺と同じように整理したい過去があって街中でこんな真似をしているのかもしれない。
「それいくら?」
「あなたの言い値で構いません」
「じゃあ買うよ」
由美子にかけた金と時間を考えればどうってことはないだろう。
気分転換。暇つぶし。客を捕まえられない男へのボランティア。
動機はなんだっていい。今はそうしたい気分だ。
「そう言ってくれて助かります」
男は爽やかな口調で言った。
立ち話もなんだということで近くのベンチに座って話を聞くことにした。
何も知らない通行人が見れば親しい友人同士に見えるかもしれない。
「じゃあまずどんなのが?」
俺は尋ねた。まるで寿司屋で注文するみたいで少し可笑しくなった。
「そうですね。まずは私の子供の頃。初めて海を見た話を。
私は幼少期山間部で育ったんです。そのせいで小学校五年生になるまで
本物の海というものを見たことがなかった。
当然テレビでは見ましたが、映像です。
近くの川で遊ぶ時は、この川はやがて海に繋がっているのだと想像したものです。
親に海に連れていってくれるように頼みましたが、私の両親は忙しく、
11歳まで待たなければならなかった。
そんな私もとうとう海水浴に行く時が来ました。
前日わくわくして眠れませんでしたよ。
景勝地に二泊三日で泊りがけの旅行に行くことになったんです。
父の運転する車の後部座席に座って出かけました。
山中ですから、窓から見えるのは当然山。
道を曲がっても山。そしてまた山。
時々川や民家も見えますが景色が単調なのですぐ飽きて、
両親の会話を聞きながら私は眠りこんでしまいました。
何時間も経った頃、助手席の母が私を起こすんです。
起きなさい。お前が見たがってた海よってね。
私は眠い目をこすりながら窓の外を見ました。
するとそこにあるのは視界一杯に広がる青い海でした。
陽光をうけてキラキラと水面が輝き、
寄せては返す波の音が体の底から響く。
潮の香が鼻にきて少しくらくらした。
風にのる海鳥がにゃあにゃあ鳴くのも新鮮だった。
全てのことが初めての体験でとても感動しましたよ」
男の目は今もその時の海を見ているようだ。
比較的出身が海に近い俺は、幼稚園の頃には海水浴に出かけていた。
だから俺にとって海は見慣れたもので、男のような感慨をもつことができない。
男の感動は俺にとってはもの珍しかった。
「それからは滞在中ずっと海で遊びました。
足元を波がさらうたび砂が動く感触が面白くて、ただ立っているだけで面白かった。
そして海に入った私は父に向って海水をかけてはしゃいだ。
手で水をきる時の重い感触、泡立つ海面。
波と戯れるのがこんなに面白いとは知りませんでした。
母はビーチパラソルの下から出ずに、父と私を見つめて、時々手を振る。
そして私も振り返す。
思い返すと映画のワンシーンのようだ。
ゴーグルで見る海の中はまるで地上とは別世界でした。
見たこともない魚が海草の合間を泳いでいた。
家に持って帰るために貝殻も拾いました。
色も形もいろいろなものがあって、当時の自分には宝物だった。
砂浜でビーチボールで遊ぶと、ボールと声がどこまでも高く弾んだ。
海の家ではやきそばとかき氷を食べたんですが、そんな食べなれたものでも
いつもとは比較にならない程美味しかった。
もしかしたら今でも人生で一番おいしいやきそばとかき氷かもしれません。
夜になれば花火。
気取った言い方ですが、夜だけに咲く花ですね。
それが終われば気絶するように朝まで眠りました。
いよいよ自宅に帰る時は、
なぜずっとここにいられないのかと駄々をこねて親を困らせたものです」
男は話を終えると、ちょっと笑って俺を見た。
「売っていいのかい?すごくいい思い出に思えるけど」
「いいんです。実は近々海外で暮らそうと思ってるんです。
だから国内の思い出は国内で片付けたくて。
それにせっかくお金を出してもらうんだから、それ相応に価値のある思い出じゃないと。
こうして思い返しながら話すのは気持ちの整理になりますし」
「どこへ行くんだい?」
「まだ決めてないんですが、南国がいいですね。
きっと日本とは違う色の海があって、違う風が吹くでしょうから。楽しみです」
「うまくいくといいな。じゃあこれ話のお礼と餞別だよ」
俺はそう言って千円札を差し出した。
飲み屋で一晩中吐く程にヤケ酒をして健康と金をすり減らして、
挙句の果てに路上に寝転がって警官の世話になるかもと想像すると、
こっちの方が余程健康的で安上がりでさえある。
「ありがとうございます。今日は本当にいい日だ」
男は金を受け取ると笑って言った。
「じゃあこれで今日は商売は終わり?」
「いいえ。まだ日が高いのであと何人か探してみようかと」
「まだやるんだ。じゃあ次の話も聞くよ。俺今日は一日暇なんだ」
本来は由美子のために開けたスケジュールだ。
全て無駄になったが。
目の前の男の思い出話を聞いて少額を払ってお礼を言われることで、
ちっぽけな自尊心を満たす。
さもしい話だが誰に迷惑をかけるでなし、構わないだろう。
「よろしいんですか?それならよろしくお願いいたします」
次に始まったのは
『学生時代テニス部に所属していたこと。
そして練習の後、自動販売機で飲み物を買おうと思ったら、
先輩に奢ってもらって嬉しかったこと。
さらに後日談として成人し故郷を出て都会で暮らすようになり、
そこでその先輩に予期せぬ再会を果たし、缶コーヒーを奢り返して喜んでもらった』
という話だ。
「よし、百円。あんたが奢ってもらったジュース分だ」
「ありがとうございます。青春、学生時代。本当に素晴らしいですよね」
男は懐かしむような表情を浮かべた。
俺は自分の高校時代を思い出した。
当時俺はサッカー部に所属していた。
部自体は強くて全国大会へ行ったが、自分自身は補欠だった。
結局一試合も試合には出ていない。
ああいう大舞台に立つ奴がいい女と結ばれるんだろうな。
それからも俺は話を買い続けた。
ちょっといい話や、切ない話、珍しいバイトの体験談なんかだ。
値段は話によってバラバラ。
自分が体験したことのない話を聞いて、ちょっとした会話をする。
それが意外とストレス解消になった。
さっきよりも少し冷たくなった風に
夕暮れの気配を感じた俺は腕時計を見た。
もうこんな時間か…。
「そろそろ頃合いかな。今日ちょっと嫌なことがあったんだけど、
あんたと話して楽になったよ。ありがとう」
「そうですか。とびっきりの大ネタがあったんですが…。
いえ、ここまで付き合ってくださってありがとうございます」
男は残念そうな表情で言った。
「ふーん。とびっきり、ね。じゃあそれでラストにしよう」
「え、いいんですか?」
男は目を見開いて聞き返した。
「ああ、とびっきりのネタ頼むよ」
「わかりました。私が人を殺した話をしましょう」
俺はぎょっとして男を見た。男の様子は変わらない。
「からかってるのか?」
「いえ、とんでもない」
なんだ…?やはりこれはドッキリ企画かなにかなのか?
相手は殺人なんて大それたことをしそうにない、ごく普通の男だ。
俺を試しているのか?
「あれは三年前のことです。夏の盛りの頃でした。
私は当時、真帆という女と付き合っていました」
男は呆気に取られた俺を気にも留めず話始めた。
「ところがある日、真帆が私以外の男と街で歩いているのを目撃してしまったのです。
私は人気のない場所で問い詰めました。
他の男に寝取られた話なんて周りに聞かれたくありませんからね。
『何故自分がいるのにあんな男と!』
すると真帆は、
『何言ってるの、私はあんたとなんか付き合ってない!
私の恋人は俊之だけ!これ以上つきまとうなら警察呼ぶわよ!』
と言うんです。
浮気したのみならず、私を警察に突き出すと言うんです。
真帆はとんでもないアバズレだった。
怒りに身を任せて私は真帆の首を絞めた。
真帆は抵抗して私の腕をひっかいた。むしろ肉をえぐり取る勢いで。
ですがやがて呼吸ができない真帆の手からは力が抜けていった。
ピクリとも動かなくなったのです。
冷たくなった真帆の死体を見ながら、私はこれからどうするか考えました。
このままにはできない。
私は山中に埋めることにしました。
土地勘のある場所、故郷の山に。
死体を車のトランクに詰め込むと、そのまま駐車場に。
もしトランクの中身が見つかったら…そう思いながら夜を待ちました。
平地の都市から山間へ向かって車を走らせる。
父が海へ連れて行ってくれた道を逆に辿るように。
運転している最中、カーオーディオからはずっとその年の流行曲が流れていた。
おかげでその後街中で曲を聴くたび、『あの夜』を思いだしてしまった。
でも音楽なしではとても夜中の道を運転できなかった。
何しろトランクに…ね。
暗い山中で穴を掘る時は本当にヒヤヒヤしました。
ですが誰にも見つかりませんでした。元々人口が少ない地域でしたから。
埋め終えると振り返らずに山を下りました。
その後真帆は周囲に失踪したと思われたようです。
あ…疑ってますね?
ほら、実は今も私の腕にはその時の傷跡が残っているんです」
そういうと男はジャケットをめくって腕を見せた。
そこには爪でひっかいた、いやえぐったような跡があった。
「今でも時々痛みます」
俺は息を呑み、心臓が止まりそうになった。
だが自分に言い聞かせた。
大方飼ってるペットかなにかにやられたんだ。そういう話はよく聞く。
自分の目の前にいる男が殺人犯のはずがない。
こいつは劇団員かなにかで、芝居の練習でもしてるんだろう。
そうだきっと今の話も作り話だ。そうに違いない。
「どうです?」
男は笑顔で聞いた。
「え、ああ。うっかり信じちまったよ。ハハ。あんたスゴイね」
俺は最初と同じ千円札を差し出すと、男は受け取った。
もうこの薄気味悪い男と関わりたくなかったのだ。
この金を持ってどこへなりともさっさと立ち去って欲しい。
「今日は本当にありがとうございました」
男はそう言って微笑んだ。
「それではさようなら。もうお目にかかることもないでしょうが」
「ああ、うん。じゃあな」
俺はぎこちなく笑って言った。早く男から距離を置きたかったのだ。
男は背を向けると雑踏にまぎれ、姿は見えなくなった。
俺はホッと息をついた。
男に払った金は無駄と言えば無駄だが、
由美子のことはもうすっかりどうでもよくなっていた。
これからは得体の知れない奴には絶対に話かけないようにしよう。
そう心に固く誓った。
もう今日は早く家に帰って寝よう。
そう決意して駅に向かう、すると警察官が向こうからやってくる。
後ろ暗いところはないが、やはりあの制服をみるとドキッとするものだ。
ケンカか何かあったのだろうか。俺は通り過ぎることにした。
すると警官は俺の体を取り押さえた。
「容疑者の身柄確保!」
「なんだよ!?」
突然身に覚えのない事態に俺は仰天した。
「動くな!先日山中で発見された白骨死体の件だ!」
「白骨死体!?」
そう言われると俺が今まで経験したはずのない記憶が蘇ってくる!
『11歳で初めて海に行って感動した記憶』
『テニス部の先輩にジュースを奢られた記憶』
他にも行ったことのない場所、会ったことのない人間の記憶が!
そして何より真帆の首を絞めた記憶が蘇ってくる!
俺は真帆という女に会ったことなどないはずなのに!
真帆の顔が、首を絞められて苦痛に歪む顔がはっきりと目に浮かぶのだ!!
奴の思い出で俺の人生が上書きされたのだ!
なんてことだ!俺は本当に奴の話を買い取ってしまったんだ!!
「さあ、一緒に来るんだ」
警官は俺の腕を掴んだ。
すると俺の腕に痛みが走った。見なくてもわかる。
きっと俺の腕には真帆につけられた傷跡がある。
そしてあの忌々しい男の腕からは傷跡がなくなっているだろう!!