緩やかにほどかれ始める、糸のもつれ
クロス夫人と過ごすことになって数日。
それまであまり指摘されてこなかった言葉遣いや立ち振る舞いなども随分と直されて、私はずいぶんと淑女らしく喋れるようになっていた。
「このお屋敷でしばらく過ごして感じたことがございますが、どうもこの屋敷の使用人たちはお嬢様に対して距離が近すぎるように感じます」
「ちかすぎる……ですか?」
「えぇ、もちろん主従の間に親しみや信頼関係があるのは大切なことです。ですが、それは節度や身分をわきまえたうえでのこと。
特にまだ礼儀作法や、上に立つ者の義務をきちんと把握できていらっしゃらないお嬢様には少々よくない環境かと思います。お嬢様に作法を覚えていただくために、侍女や使用人たちにも協力いただかないといけませんわね」
そう言って、クロス夫人は侍女や使用人たちは友達や家族ではないということから教え始めた。それに伴い、侍女たちにも私を以前のように甘やかしたり、いたずらを叱ったり一緒に遊ぶことを禁じるようになり、ひとりぼっちになった私は落ち込んだ日々を過ごすようになった。
それからしばらく経ち、落ち込んでいた気持ちがある程度回復して、外に遊びに行こうとするくらいに元気になってくると、今度はそれをクロス夫人に指摘された。
「お嬢様、どちらへ?」
「あ、クロス夫人ごきげんよう。いまからもりへいくの。夫人もいっしょにいきますか?」
私がにっこり誘うと、クロス夫人は少し驚いたような表情で言った。
「まぁ……探検というのは、お庭のお花を見に行くということでしょうか?」
「いいえ!もりのなかにウサギがいたの。ウサギのあとをおいかけてみようかとおもってます」
私がウキウキしながら話すと、クロス夫人は信じられないと言わんばかりの表情で目を吊り上げた。
「まぁなんてこと!森へ行くだなんて危険ですわ、お嬢様!」
「いったことがあるからへいきです」
「今まで運よく平気だっただけです。怪我でもして顔に傷でもついたら、お嬢様の将来に関わるのですよ。森へ行くのはおやめください」
「そんな……」
しょげたように肩を落とす私に、クロス夫人は申し訳なさそうな表情で私に視線を合わせて優しく言う。
「悲しいでしょうがご理解ください。これはお嬢様のためなのです。お嬢様はまだ幼いので遊ぶこと自体はお止めいたしませんが、怪我をしない遊びになさってくださいませ。お人形遊びやお歌、お庭の散策などがよろしいわ」
「……じゃあベギーとおはなをうえます。きれいなおはながあったらクロス夫人にもあげるわ」
「お花を見るのはよろしいでしょう。ですが、一緒に土いじりはいけません。それは庭師の仕事ですよ」
「はい……」
「それにお嬢様のお気持ちはとても嬉しく思うのですが、お嬢様はみだりに贈り物などなさってはいけません。贈り物をするのは殿方のお役目なのです。お嬢様は素敵な殿方から素晴らしい贈り物を受け取るお立場なのです。下げ渡しを除いて、私のような立場の者に贈り物などしてはいけませんよ。これもお教えいたしますね」
「はい……」
私はそれ以来、大好きな外遊びが出来なくなって、大人しく部屋で過ごす生活が続いた。
そんな生活がしばらく続き、忙しさで屋敷を開けていた父が仕事を片付けて久しぶりに帰ってきた。
「おとうさま、おかえりまさいませ!」
「なんと!しばらく見ぬうちに私の可愛いお転婆姫が立派な淑女になっているな!見違えたぞパルメア!」
私が覚えた淑女の礼をすると、父は喜んで私を抱き上げた。
「ほんと?わたし、おかあさまみたい?」
「あぁ、まるで小さなデリエスかと思ったぞ。クロス夫人はよくやっているようだな」
「過分なお褒めの言葉をいただき、光栄に存じます」
控えていたクロス夫人は静かに父の言葉を受け止めている。
父に褒められた私は、うれしくてにこにこと微笑んだ。久方ぶりに心から笑ったような気持ちになった。
その後、部屋に戻って作法の授業が始まった時にクロス夫人からひとつ指摘を受けた。
「お嬢様の笑顔はその……あまり淑女らしくありませんのね」
「……へんですか?」
クロス夫人は言葉を選ぶように考えながらゆっくりと言う。
「王国で理想とされる淑女は、楚々と品よく微笑むものです。小鳥のように愛らしく、物静かな女性が求められているのですわ。
お嬢様の笑顔は……なんと申しますか、うれしい気持ちが溢れすぎて、にっこりというよりもニタニタと笑っているように見えてしまいますの。今は幼さで愛らしく見えておりますが、大人になってその笑い方が抜けていなければ、品のない女性に見られてしまいます。由緒あるシェナイン家のご令嬢としてふさわしくありませんわ」
クロス夫人の恐れるような口調に、とてもいけないことなのだと感じた私はあわてて尋ねる。
「じゃあどうすればいいですか?」
「程よくうれしさをにじませるのがよろしいかと。一緒に練習いたしましょうね」
「はい!」
私とクロス夫人の笑顔特訓が始まったのはそれからだった。
それまで私はクロス夫人にとって物覚えの良い教え子だったのだけれど、笑顔の特訓だけは何度指摘されても治らなかった。
「普通に微笑むことも、愛想笑いもとてもお上手ですのに、一番うれしいことだけ淑女らしくない笑い方が治りませんね。
お嬢様は大好きなものや大好きな人から褒められたりすると、嬉しい気持ちが我慢できなくなるのでしょう」
何度も何度も同じ注意を受けて、私も泣きそうな気持ちでどうすればいいかを考えた。
うれしい気持ちを我慢するために、ちょっとだけ頬の内側を噛んでみる。
痛みが一瞬うれしい気持ちを抑えて上がりそうな頬が硬直した。
「まぁ、お嬢様!……そうですね。少々澄まして見えますけれど、お嬢様はシェナイン家のご息女ですし、ニタニタ笑うよりはそちらの方がずっとよろしいわ!」
ようやくクロス夫人から及第点がもらえて、私はうれしくて仕方がない時には頬の内側を噛むようになった。
クロス夫人と過ごしたのは四年間、一番うれしい時の笑顔に関してだけは何度も「もう少し淑女らしく微笑むことが出来ればよいのですけれど」と言われたけれど、どう頑張っても私はニタニタ笑いをやめられなかったようで、結局この方法が一番合っていると言われた。
クロス夫人が私の教育を終えて屋敷を去ってからもずっと、私はクロス夫人の言いつけを守って今日に至る。
「……それ以来、私はうれしくてたまらない時はずっと、頬を噛むようにして喜びを抑えるようにしていたのです」
思い当たる過去の原因を見つけて、私は自分への嫌悪で頭を抱えたくなった。
なんてことだろう。
きっと年齢を重ねるにつれて気持ちを抑えて表情を取り繕うことが上達し、幼さが抜けていったことで、ツンと取り澄ましたような表情から、不満がある表情に見えるようになっていってしまったに違いない。
私が思い出したことを話し終えると、私の変化に心当たりがあった父が唸るような声で言った。
「つまり私が帰宅したときにお前を抱きしめる習慣も、お前は嫌がっていなかったのか」
「はい」
「なんと……。将来お前が困らぬよう、淑女らしくあれと願ったことが、まさかパルメアの良さを抑える結果になってしまったとは……」
父が目頭を押さえるようにして唸るような声で言った。
「たしかにあの笑顔は一般的に好まれる淑女の笑い方とは違うかもしれぬ。だが私はあの顔いっぱいで喜びを伝えてくる愛らしい表情が一等好きだったのに」
父の言葉に、兄もそうだねと言葉を続ける。
「幼いころの記憶の中だけれど、俺も大きく口を開けてにっこり笑うパルメアが可愛くて好きだった。
どうだろう?パルメアさえよければ、もう一度あの笑顔を見せてほしいな」
兄の言葉に、私は下がっていた視線を上げる。
「でも、淑女らしくありませんわ」
「いいじゃないか!最近は人形のように大人しく微笑んでばかりの淑女よりも、自分らしい魅力を持った淑女の方が男には好まれているんだぞ。だいたいお前は遠乗りが趣味じゃないか。あれだってクロス夫人のような古風な淑女からすればとんでもないことだぞ」
「あ、あれはいいのです!ヴィヴィーネとのお茶会みたいなものですから!!」
ヴィヴィーネと出会ったのはクロス夫人が去ってからだったので、淑女の嗜みを超えた乗馬の腕前を注意されることもなかった。
それにヴィヴィーネと外に出るから、それ以外で外に出なくても屋敷の中で大人しく過ごしていられるという私の大切な息抜きなのだ。私が慌てて反論すると、兄は笑いながら言葉を続けた。
「そう。それでいいんだ。愛馬に乗って颯爽と走るパルメアは魅力的だよ。そうですよね、父上」
兄の提案に父が明るい口調で同意する。
「ミカリウスの言うとおりだ。パルメアの良さと立派な淑女らしくあることは、何も反することなどない。
クロス夫人の教えは立派な淑女の教訓たりうるが、何もそれだけが全てというわけではない。また私やミカリウス、屋敷の者たちと他愛ない話をすることから始めようではないか」
「……そうしても、いいのでしょうか」
私が不安から問うと、父は安心させるように大きく頷いた。
「あぁ、もちろんだ。皆パルメアの輝くような笑顔をもう一度みたいに決まっている」
「うれしいわ!お父様、お兄様!」
「何、一見不満げに見えるその表情も、パルメアの本心さえわかれば愛らしいものよ」
「父上は少しパルメアを溺愛しすぎです」
父と兄と顔を見合わせて笑う。
父も兄もこれから少しずつ変えていこうと言ってくれたことがうれしくて、思わずにじみ出た笑顔はやっぱり不満そうな表情だと言われたけれど、理解が得られた喜びで心は満たされたように暖かくなった。