結びなおされた糸
ロゼンス様は静かに私を見つめて言う。
「君に変化があった。私にとっては好ましい変化だったし、君が私のことを考えてくれていると思うと嬉しかったから喜んで受け入れたけど」
ロゼンス様の緑色の瞳に、緊張した私が映る。
「でも、やはりどうして突然そんな変化があったのかは知りたいと思う」
「ロゼンス様……」
「手紙の中には私のことをずっと慕っていたとあったけれど、残念ながら私は君が自分を慕っていたとはとても思えなかった。むしろ嫌われているのだとばかり感じていたよ」
辛い……。
周囲からも私がロゼンス様を嫌っているだろうと思われていると言われ続けてきたけれど、やっぱりこうして本人に直接そういわれるのは、自分への不甲斐なさと嫌悪感で息が出来なくなりそうなほどに辛い。
私は知らない間に、どれほどロゼンス様を傷つけてきたのだろう。
でも言わなくちゃ。
ロゼンス様はこんな私と、それでも向き合おうとしてくださっているのだから。
私はぐっとひとつ呼吸をしてから、真っすぐロゼンス様を見つめて口を開く。
「私がロゼンス様を嫌っているような態度ばかり取る理由をお話しするために、私の昔話を聞いていただけますか?」
ロゼンス様がひとつ頷いたのを見て、私は過去の話をした。
母が亡くなるまではのびのびと過ごし、屋敷を走り回って良く笑う子供だったこと。
その後に来た家庭教師の教育で、家の名に恥じない淑女としての教養を身に着けたこと。
笑い方が淑女らしくないと指摘を受けたけれど直すことが出来ず、嬉しい時は頬を噛んで我慢する術を身に着けたこと。
それが気づかないうちに癖になって、近しい者ほど私が嬉しい時は不機嫌なのだという勘違いが生まれたこと。
その勘違いに周囲も私も気づくことなく、長年過ごしてしまっていたことを、すべて伝えた。
「私が至らないせいで、家族、そしてロゼンス様にご不快な思いをさせてしまいました。本当に申し訳ありません。ですが……許されるならば、どうか私にもう一度機会をいただきたいのです」
「機会?」
「はい。もう一度、ロゼンス様に信じていただける人間になりたいのです。ロゼンス様の隣に立って、ロゼンス様に笑顔を与える存在になりたいのですわ」
私が話し終えると、ロゼンス様はゆっくりと口を開いた。
「パルメアの話はひとまず理解した。ひとつ尋ねたいのだが、その例の癖とやらはもう治ったのかい?」
「い、いえ……実はまだなのです。癖が出ていることに私自身が気付けないので、指摘されたときは気を付けているのですが……」
私がそう言えば、ロゼンス様は得心が言ったかのように言った。
「パルメアが差し入れを持ってきてくれたあの日、パルメアは私が一口パイを好きでうれしいといったが、表情は嫌なことを堪えるような、不満を飲み込んだかのような表情だった」
「それは……申し訳ありません」
「いや、責めているわけじゃないよ。長年の癖が中々治らないことは理解できるから」
自分でも情けないと思っていた部分なので、労わるようなロゼンス様の声音が心に沁みる。
「私はその後、パルメアに名前を呼ばれるのは好きかと聞いた。パルメアは嬉しいと答えたから、その後は名前を意識して呼んでみたけれど、君はずっと不機嫌そうだった。もしかして……あれは喜んでいたのか?」
「あの時も癖が!?……はい。今までは名を呼んでいただく機会が少なかったので、呼んでいただけると嬉しいなと思っていました。私、ロゼンス様になんて無礼な態度を……」
「そういうことだったのか。つまり、今まで君が不機嫌そうな顔をしていた時は、喜んでいたんだな」
「はい……本当に、なんとお詫びを申し上げたら……」
私は申し訳なさでいっぱいになり、視線がじわじわと下を向いてしまう。
気まずい静寂が流れた次の瞬間、ロゼンス様はさっぱりしたような表情で口を開いた。
「そうか!ならばいいんだ。あぁ、すっきりした!」
「え……?」
からりと笑うロゼンス様に、思わず間の抜けた声が出てしまった。
「あ、あの……怒っていませんの?」
「なぜ?」
今度はロゼンス様がきょとんと私を見る。
「だって、ロゼンス様に何も非がないのに、ずっと失礼な態度をとり続けてきたのですもの……」
逆の立場だったとして、私が理由もなくロゼンス様に冷たくされたら、まず悲しくなるし、ずっと続けば嫌いになるかもしれないだろうと容易に想像がつくのだから。
私がそう言えば、ロゼンス様は「どう言えば私の気持ちが伝わるかな」と言いながら口を開いた。
「パルメアに対して私は何一つ喜びを与えてやれない。嫌われている理由すらわからないのが辛かったのであって、それは誤解だと今わかったのだ。なぜ勘違いが起きたのかという理由もきちんと判明したのだから、私としてはよかったと思う以外の感情はないな」
自分の感情を言葉にしたことでよりはっきり自覚したようで、ひとつ頷いて言葉を続ける。
「うん。むしろ今まで私が贈った言葉や品を、君がちゃんと喜んでくれていたとわかって嬉しく思っているよ!」
ロゼンス様の言葉に涙が出そうになる。
そうだ。ロゼンス様がとてもお優しいことくらい、知っていたじゃない。
自分を嫌っていると思っていた私に、それでもずっと変わらない優しさを与え続けてくれた人なのだ。
「ロゼンス様……」
「手をつないでもいいかい?」
ロゼンス様がそう言って手を差し出す。
私はその手にゆっくりと自分の手を伸ばした。
触れ合った瞬間、ロゼンス様の体温に驚いて、一瞬手を引っ込めそうになる。そういえば食事をしていたので、今は互いに手袋をしていないんだ。
そのことを意識して固まりかけた指先を、心の中で落ち着いてと自分に言い聞かせながら、しっかりとロゼンス様の手に自分の手を重ねた。
重なった私の手をぎゅっと握って、ロゼンス様が嬉しそうな声で笑う。
「パルメアと初めて手を繋いだな」
腕を組んだりダンスをしたり、もっと触れ合ったことはあるのに、手を繋ぐたったそれだけのことが、なんだかすごく照れくさくて仕方がない。
「ロゼンス様は私よりも体温が高いのですね。初めてちゃんと知ったような気がします」
「何だか恋人みたいだ」
そんな風に、見えるだろうか。
そう見えるなら、ロゼンス様がそう思ってくださるのなら……嬉しいな。
「パルメア、今喜んでいる?」
「はい。恋人同士に……見えればいいなと思っています」
ロゼンス様の言葉に素直な気持ちを返してから、ふと気づいて尋ねてみる。
「あの、また癖が出ていますか……?」
「あぁ、出ているね」
「ご、ごめんなさい!見ないでくださいっ!!」
あぁ!私のバカ!どうしてこんな時まで癖が出るのよ!
「わかった、わかった。見ないけれど手は離さないからね」
空いていた片手で顔を隠すようにロゼンス様の視線を遮ると、ロゼンス様は笑いながら目の前に広がる泉を見つめる。その代わりというように、繋いだ手にぎゅっと力が入った。
私が顔に集まる熱を逃すように顔のあちこちに手の甲を当てていると、いつのまにかロゼンス様の肩が触れ合う距離になっている。
「あら?お皿は……?」
「パルメアの隣に座りたかったから、場所を代わってもらったよ」
「そ、うなのですね」
これはダンスの距離!ダンスの距離だから平気よ!!
辺に意識をしてはだめだわ。また癖が出ちゃう!
「緊張している?」
「いえ……はい、少しだけ緊張しています」
一度否定しかけて、正直に自分の気持ちを話すとロゼンス様が「私もだ」と抑えたような声で言う。
「嘘ですわ」
「どうして?」
「だって……声が落ち着いていますもの」
ロゼンス様はまるで内緒話でもするかのように、楽しそうに言う。
「そう見えるだけだよ。本当は今日、パルメアに会った時から浮かれていたんだ」
「まぁ、本当ですか?どうして?」
ロゼンス様の優しく話す声音が、私の緊張の糸をほぐしていくように、ゆっくりと心に入り込む。心が落ち着いてくると、自然に私の声もゆっくりとしたものになっていく。
「そのブローチは以前私が贈ったものだね」
ロゼンス様の視線が、私のジャボタイを止めているブローチに向いた。
「はい。ロゼンス様から頂いた、大切な宝物です」
「ドレスと合わせるには向かないものだから、つけてもらえないと思っていたんだ」
婚約が白紙になったあの時、一度もつける機会がないままに処分しなくてはならなかった、郷土色の強い、特産品のブローチだ。
「そうやって身に付けてくれているのを見て、嬉しかったんだ」
ロゼンス様が目を細めて照れたように笑う。
「パルメアによく似合って、可愛いなと思ったんだ」
「ロゼンス様……」
「だから浮かれていた」
あぁ、ロゼンス様は太陽みたいだわ。心がゆっくりと温かくなる。
突然炎で体をあぶられるように温めるのではなく、太陽の温かさがゆっくりと体に熱を与えるように、ロゼンス様への思慕が募っていく。
これははじけるような、噛み締めるような感情じゃないの。
……この気持ちを、伝えたい。
「よかった……」
「……パルメア?」
しっかりとロゼンス様と視線を合わせる。
緊張でこわばっていた口角が、自然とゆるく上がった。
「喜んでいただきたかったの……。嬉しいですわ」
ロゼンス様がびっくりしたような表情で私を見る。
風がそよりとロゼンス様と私の髪を撫でて、通り過ぎた。
ロゼンス様はびっくりしたまま、固まったように動かない。
「あ、あの……ロゼンス様?また、癖が出てしまいましたか?」
ちゃんと笑えたように思えたのだけれども、だめだったのかしら。
不安で心配になってきた瞬間、ロゼンス様がぱっと弾けるような声で言う。
「可愛い……。すごくかわいい笑顔だったよ!!」
「私……ちゃんと笑えていました?」
愛想笑いや淑女らしい控えめな微笑みではなく。
ちゃんとロゼンス様のように笑顔になれただろうかと問い返す。
「もちろんだよ!」
ロゼンス様も笑顔で返してくれている。
「独り占めしたいくらいの笑顔だ。きっとみんなパルメアのことを好きになるよ」
「ロゼンス様も……好きになってくださいますか?」
今じゃなくてもいい。
ほんの少しずつでも、好きになってもらえたらいいなと思う。
私がそう言うと、ロゼンス様はきょとんとした顔で言った。
「私はちゃんとパルメアのことが好きだよ?」
「信じ……られませんわ」
だって、当然のことだと思う。
「誤解とはいえ、私はロゼンス様に失礼な態度ばかり取ってきたのですもの。私がロゼンス様のことをお慕いしていることはあっても、逆はありえませんわ」
悲しいけれど、ロゼンス様から見て私を好きになるところなど、何一つないと思うのだ。
「……それに、自分のことを嫌いな相手を好きになるでしょうか」
だから、私はロゼンス様が次に発した言葉に驚いた。
「自分を嫌いな相手のことを、好きになってはいけないかい?」
ロゼンス様が真っすぐ言い切った言葉に、何も言えなくなる。
「例えば……私が君と仲良くしようと努力していたのは、その方が都合がいいからだとか思っている?」
私が頷くと、ロゼンス様は否定するように首を振ってから小さく笑う。
「まぁ兄上ならそういうこともするかもしれないけれど、私はそういうことはしたくない」
ロゼンス様は一度間を開けてから、もう一度口を開く。
「好きな子に、好きになってもらいたくて頑張っていたんだ」
さぁっと草を撫でる音を立てて、風が吹いた。
木の葉がザワザワと不安そうな声で鳴り、泉の水面は動揺するように細かく揺れている。
「そんな……ロゼンス様が、私を好きだなんて……」
私は震えそうな心と声でロゼンス様に尋ねる。
「そんな幸せなことが……あっても、いいのでしょうか……?」
「パルメア、どうして泣いているんだい?」
ロゼンス様にハンカチを差し出しながら言われて、私は自分が泣いていることに気が付いた。
「ロゼンス様はどうしてそんなにお優しいのですか?」
「優しいかな?」
ロゼンス様の言葉に、泣きながら何度も頷く。
「私ですら、私を嫌いになりそうだったのに……」
弱弱しくそう言えば、ロゼンス様はそんなことかと言わんばかりに口を開いた。
「パルメアのいいところをちゃんと知っているからね」
「いいところ……?」
ロゼンス様はまずひとつ、と言いながら近くの木につながれたベルガーに視線を送る。
「ベルガーを私の友人として見てくれる」
「それは……ロゼンス様のお友達ですもの」
私だってヴィヴィーネと友達なのだから当然だ。そう言えば、ロゼンス様はうれしそうに私を見る。
「うん。そういうところ。私が大事にしているものを、当たり前に大事にしてくれる。
そして誰かの悪口を言わないところ。
ほかにも何気ない会話を覚えて大事にしてくれるところも好きだ。私が詩を引用して未来を語ったことを覚えていてくれたね。結構昔の話だったからびっくりしたよ。それに私の好みもいつもよく見ているなって思っていた。
ハンカチの刺繍はいつもパルメアとの会話で何気なく私が口にした植物だったり、好ましいと言った色だったりと、パルメアがちゃんと私のことを思っていたんだって感じていた」
ロゼンス様は優しい言葉でそう言いながら、私のいいところをひとつひとつ、指折り数えて教えてくれる。
「ミカリウスが、よく家に帰るとさりげなく部屋に落ち着く香りの花が飾ってあったり、疲れているときには好物だったり体に優しい食事が出たりすると言っていた。それらの采配はパルメアがいつもしていたとも。その話を自慢げにするミカリウスをうらやましいなと思っていた。いつも色々とパルメアの話を面白おかしく話していて、聞いていて楽しかったよ」
お兄様、ロゼンス様とそんなお話をしていたの。
恥ずかしさでほんのりと頬が熱くなる。
「あと孤児院に、割と頻繁に慰問に赴くことも聞いた。普通は寄付をするだけか、院長と会話をするくらいだけれど、パルメアは子供たちと一緒に遊んだりすると聞いたね。子供たちが院長に贈り物をしたいとパルメアに相談して、一緒に悩んで贈り物を用意したって聞いたよ。
パルメアの素敵なところはほかにもいっぱいある。まだ語り尽くせないくらいあって、時間が足りないほどだ」
ロゼンス様はそう言って、私の瞳をまっすぐ見つめる。
「そうした小さなことをたくさん見つけて、私はパルメアのことを好きになったんだ」
ずっと、ロゼンス様は私自身を見つめてくださっていたのだ。
これだけ言葉を尽くしてくださったのだから、私がどれほど自分の行動を後悔して自信がなかったとしても、ロゼンス様が私を好きでいてくださるというその一点だけは信じなくては。
気が付けば止まっていた涙の痕に、ハンカチをそっとあてる。
「私は幸せ者ですね。こんなにも恵まれていて良いのでしょうか」
「パルメアが恵まれていると感じるなら、きっとパルメアが誰かにした良い行いが返ってきたんだよ。だから私のことを優しいと思うなら、パルメアが私に優しくしたことが、返ってきただけなんだ」
「では今度は私がロゼンス様にいただいた優しさをお渡ししますね」
ロゼンス様の言葉に、私は自然と笑顔で答えることが出来た。
ロゼンス様も笑顔を返してくれて、その後二人でただ泉を眺める。
私の言葉にロゼンス様が少し考えた後、ちょっとだけ照れ臭そうに話を切り出した。
「もし……パルメアさえよければ、今すぐひとつ欲しいものがあるんだけどいいかな?」
「はい、もちろん。私に差し上げられるものでしたら何でも!」
私がぐっと力を入れてロゼンス様の返事を待つと、ロゼンス様が顔を寄せる。
内緒の話だろうかと私も顔を寄せると、ロゼンス様の手が後頭部に回されて、繋いでいた手が引かれてロゼンス様の方へとゆっくり引き寄せられていく。
えっ、あっ、まさかこれ……。
そう思った時にはロゼンス様と唇が重なっていた。
自分の心臓がうるさい。
周囲の音が全部消えたような気さえする。
そして、ロゼンス様の顔がゆっくり離れたのと同時に世界の音が戻ってきたようだ。
「両想いになれたら、貰いたいなって思っていたんだ。両想いなんだから、貰ってもよかったよね?」
ロゼンス様は少しだけ照れたように耳を赤くしながらそう言った。
今、私の顔はロゼンス様より赤くなっているに違いない。
何だかふわふわしたまま二人で沈黙し、ロゼンス様がまだほんのり照れたまま少し早口で言う。
「さぁ、ベルガーたちもそろそろ走りたい頃だろう!行こうかパルメア」
「はい」
私たちの手は互いの愛馬に乗るまで放されることはなかった。




