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いぬみみうさみみ 第6話  作者: 佐倉蒼葉
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第4章

 約束の時間まで間がないのと、地理に不案内なのと。

 バーガーショップでしばらくぼんやりした後、気を取り直そうとガイドブックを見ていたラジオは「天神さんがあるんだね」と微笑んだ。

「ここからなら割と近いし、行ってみようか」

「うん。…でも何で?」

「お世話になってる神様の近くを通ったら挨拶するのは礼儀でしょう」

 そう言って、彼はジーンズのポケットをぽんと叩いた。

 ───お正月にあげたお守り、まだ持っているのか。

「…ラジって、今時の若者にしては古くさいとこあるよね」

「そう?『お近くへお越しの際はお立ち寄りください』って言うし」

「それ関係ない」

 落ち着いたみたいだな、とホッとした。地下鉄を乗り継いで大阪天満宮へ向かった。

 平日だけに人は少ない。境内を賑わせていたのは鳩だった。足元を走り回って低く飛ぶ鳩達にラジオは目を細め、その間を軽い足取りでステップを踏むように進む。それも絵になるのがちょっとくやしい。

 お参りが済んで、境内の木陰で一休みしながら「おじいさんってどんな人だったの?」と訊ねた。彼は一言「僕に甘かった」とにっこりした。

「わはは。うん、そんな感じする。おじいちゃん子でしょ、ラジ」

「もうべったり」

 彼はおじいさんに甘えるように木の幹に凭れた。

「小さい頃、体が弱かったって言ったじゃない。だから家にこもっていることが多かった。話し相手と言ったらおじいさんと…」

 くすっと笑った。

「おじいさんとおじいさんしかいなかった」

「なんっじゃそら!」

「本当に、おじいさんとしか話さなかったんだよ、僕。両親共働きでうちにいなくて、一人っ子で。幼稚園も小学校も休みがちで友達いなくて。今、他に誰かいたっけと考えてみたら、いなかった」

 なるほど。それでアナログ、いやアナクロなんだな。

 病気がちの孫が心配だったんだろう。肌身離さず持ちなさいとお守りをくれたおじいさん。

「おじいさんともよくこうやってお参りに行ったよ」

「ふふ、うん」

 幸福な思い出なのだろう。私も東さんを思い出していた。

「ふふっ。ミオさんって、おじいさんみたいだなあ…」

「ちょっと待て、それ褒めてるの!?」

「自分でもちょっとわからない」

「おい!」

 ───これだから。

 ラジオは放っておけない弟みたいなのだ。おじいさんみたい、だなんて………理屈抜きに信頼してると言っているようなものじゃないか。子犬みたいに素直。山崎君も多分同じなのだろう。だから気を回さなくても。思わず赤面。

 それから大阪城へと足を向けた。こちらには観光客と一目でわかる人々の姿も多く見られた。それでも空いている方だったろう。天守閣から臨む景色は高層ビルのそびえる大都会。隣り合う、今と昔。今は穏やかな日差しと新緑の色が気持ちいい。大阪城公園をゆるゆると散策した。

 ここまで来て………『宿命』を見るために大阪まで来て、それなのに先刻のことは忘れたいみたいに、みんなバラバラになって話が出来ない。それというのもあの男のせいだ。溜息が出てしまった。ラジオが「一休みしようか」と向こうのベンチを差した。

 腰を下ろして煙草と携帯灰皿を取り出す。ケースをぽんと弾くと一本が顔を出した。ラジオは煙草に火を点けてふーっと長い煙を吐くと、突然「釈迦涅槃像に足の裏が赤い物があるのは知ってる?」と言った。

「釈迦……涅槃像?」

 涅槃というのはあの世のことだったよな………

「釈迦が寝そべってる像。釈迦の入滅を表した物で、まあ、死体の像だね」

「ミもフタもないってかばちあたりな……」

「他にもあるのかどうか知らないんだけど、僕が見たのは涅槃像だった。金で装飾されていて、足の裏が真っ赤に塗られている」

 ───赤い足の裏。『宿命』と同じだ。

「そもそも仏像というのは信仰の象徴、礼拝の対象として作られたから、釈迦の姿も普通の人と同じではなかったわけだ。例えば白毫。これ何だか知ってる?」

 ラジオが自分の眉間を指差すと両目が寄った。私はインドの人が額に印を付けているのを思い出して「わからないけど、何か描いてるのよね」と答えた。

「毛なんだよ。ここで渦を巻いてるの。真っ直ぐに伸ばすと二メートルもある」

 彼は手を眉間から前にぐーっと伸ばし、「眉間の毛が身長よりも長いんだよ」と言ってくすくすと笑った。私は「へええ!」と、間の抜けた驚きの溜息を吐いた。

「だから赤い足の裏も釈迦が超人であることを表している。けれど赤は血の色でもある。釈迦は人間であり、悟りを得て仏陀となった。仏陀とは本来、決して人間を超えるものではないんだ。菩薩が目指す精神性としての仏」

「菩薩って仏様じゃないの?」

「菩薩は修行僧なんだよ」

「へええ…」と私はまた溜息を洩らし、「…何でそんなこと知ってるの」と訊くと、「おじいさん仕込み」とにっこり。

「要するに、『仏』とは悟りを得た人という意味なんだ。ミオさんだって悟れば仏です」

 ラジオは両手を合わせて私に向かって頭を垂れた。「それで」と両手を膝に載せる。

「『宿命』を見て思い出したのは以前見た釈迦涅槃像だった。あの絵で真っ先に目を引くのは頭の水飛沫だね。そこを中心として、画面の外側へと鑑賞者の視点が移っていく」

 話しながら膝に載せた両手を軽く挙げ、手のひらを見せてゆっくりと内から外へ動かす。

 ───始まった。私は笑いを堪えて「うん」と頷いた。

「興味深いのは男性の頭部が水に突っ込んでいること。飛沫を上げ、両腕を大きく広げて、体を真っ直ぐに伸ばして」

 両手を自分の頭にかざし、また手を内から外へ。腕を真横に伸ばしてから下ろした。

「頭部を中心として放射状に広がっている。頭からイメージするのは脳そして精神、あるいは思想。そうして鑑賞者の視線は足の裏の赤で止まる。それは視線の流れを止めて画面全体を捉える助けをする役割であると同時に、『彼』の精神を意味づける。空木秀二がその釈迦涅槃像を知っていたのか、まったく関係がないのか、それはわからないけれど。…っと」

 彼は折れそうな灰を灰皿に落とし、短くなった煙草を深く吸い込んだ。

「またタイトルが『宿命』であるという角度から見れば、彼の姿は十字架になぞらえることが出来る」

「…仏教の次はキリスト教?」

 思わず、かくん、と肩が下がった。「うん」と彼は微笑した。

「宿命のことを『十字架を背負う』って言ったりするじゃない。そうすると足の裏の赤はやはり血で、責め苦───苦悩であるとか、苦闘であるとか───その痕跡と見ることが出来る」

「あ、そういえば血を流してるキリストの磔の絵を見たことある」

「うん。釈迦仏像にも苦行像があるよね。どちらも聖者であることを表している。『宿命』の彼がそうであるかは疑問だけど。と言うのも、空木の作品には宗教的モチーフを取り上げた物がない。空木には彼独自の世界観があって、それらは『空』と『人』という姿で表現されている。『宿命』もそれに従っていると考えて良いと思うんだ。また空木は赤を好んで使っているけれど、血であることを思わせる赤は他に見当たらない。それは彼の作品に『男性』が描かれることが少なかったからじゃないかと思う。血の赤はあの男性の特徴の一つと見ると、自ずとさっき言った水飛沫、頭部から迸る彼の精神を表現していると答えが出る」

 ラジオは一気にそう喋って煙草の火を消した。吸殻をぽとんと灰皿に落とし、パチンと蓋を閉めて鞄に放り込む。顔を上げて、私を見るといきなり「何?」と言った。

「何って?」

「笑ってるから」

「ああ…うん。やっぱり絵の話をしてる方がラジらしいなと」

「…ふっ」と彼は俯き、声もなく笑った。

 ───『宿命』に描かれた、空木秀二の精神………

「…あの絵は…絶望を表しているの…?」

 知りたかった。

 ラジオは背中を丸め、両手の指を組んでそこに顎を載せた。遠くを見る横顔。

「……首がない。そのことは『死』を表す……」

 死………

「反対に、『生』を表しているのが足の裏の赤なんだ。空木の作品にはそうした二元論的表現が多く見られる。野宮君が『水からの飛翔』を見た時、死体のようだと思ったと言ったけれど、はっきりと『死』を描いた物ではない」

 彼はぽつりぽつりと語った。

「『宿命』はタナトス……『死に向かう生』を描いている。死は誰にも避けられない、だから高瀬さんが言ったことは半分正しい。ただ僕は空木が自分の死を予見してあの絵を描いたとは思わない。……死に向かってゆく、その生。激しく飛び散った水は破壊、血の赤は苦痛、墜落というさだめ……」

 一言発するごとに声が掠れてゆく。私は息を殺してその声を聞いていた。

「僕はそれが悲しかった……」

 空をゆっくりと雲が流れて私達の上に影を落とした。





 夕刻を待って、私達はギャラリー櫂の最寄り駅へと引き返した。ラジオは手帳を取り出して「ここかな」と出口の案内表示を見上げた。私達の前を行き交う人で向こうが見えない。

「…ほんとに私も来て良かったの?」

「来ないと今頃ミオさん一人だよ」

「私は別に一人でも…」と言いかけた時、「あ、来た」とラジオが顎を上げて遠くを見た。こんなに人がいっぱいいてよく見つけられるものだ。彼は向こうの人に向かって軽く右手を挙げた。相手もこちらに気づいたようだ。

 ───本当に来て良かったんだろうか。

 その人の姿を見てそう思った。軽く羽織った薄いベージュのシャツジャケットの裾を揺らし、インディゴのジーンズを履いた細長い脚をすっすっと動かして近づいて来る様は、───幽霊。

 気配が薄く、そのくせ周囲の人々とは明らかに違う存在感───

「………」

 耳の奧に何かあるみたい───いやだな、と肩を竦めて俯いた。混んだ場所だからか。また耳鳴りがしそう………頭の上で「どうも」と声がして、私はそのままお辞儀をした。何となく顔が上げられない。本当なら、彼はラジオと二人きりで話がしたかっただろう。上目で彼を見た。

 彼は黒縁眼鏡の奧の目を細めて私達を見ると「目立つからすぐわかった」とにっこりした。

「ミオさん派手ですよね」

「目立つのはラジだって!」

「ははは」と彼は私を振り向いた。「二人とも目立ってた」

 山崎君がいたら、きっとまだ私に気づいてないだろう。

 長いつきあいの伊野さんでさえ「いたのか」と言うくらいだもんな。和泉さんと会うのは二度目だ(湯島での遭遇を含めば三度目)。気を遣っているのだろう、この前の険しい雰囲気は微塵も感じさせない。ほっと胸を撫で下ろした。それにしても、と並んで前を歩く二人を見る。二人とも、何でこんなに細いのか。ごはんはちゃんと食べているのか。ラジオに至っては華奢と言う方が似つかわしい。その彼と並ぶとわかりにくいが、和泉さんもかなりスレンダーである。ダイエットの決意を固めていると二人が振り向いて「ああ、いた」と言った。ええ、いたんです。

 老舗の雰囲気漂う食事処でうどんすき。一度食べてみたかったのだ。和泉さんはおしぼりで手を拭いて「遠くからお疲れさまでした」と言った。

「絵は見れた?」

「………」

 無言で頷くラジオの微笑がわずかに曇った。───悲しかった、という『宿命』の話はしづらそうだった。

「……来て良かった。今となっては、空木秀二と語れるのは絵を通してだけだから」

 生きているうちに会いたかった、と───それが、少年探偵団。

 野宮君は一人の男性として。山崎君は画家として。そしてラジオは同じ能力を持つ人間として。それぞれに、空木の絵に問い掛け続けている。

 生きる、ということを───

 それを教えてくれたのは遠山さんだった。彼らが『宿命』を見に行くって大騒ぎなんだよと話した時に、

「奴らは少年探偵団だな。自分の生き方を探して空木さんの絵を見てるんだよ」

と、それだけを言った。

 だから………『死に向かう生』を描いた『宿命』は衝撃だった筈だ。それでも、彼は空木と語らえたことを「良かった」と───彼が以前、僕は嘘はつかないよ、と言ったのを思い出して、私は穏やかに「うん」と頷くことが出来た。

 そして。

 先程の心配は無用であることが判明した。

 和泉さんという人は、実においしそうに食べる人だった。「大阪も長いけど、滅多に食べられない」と嬉しそうに箸を割り、だしを啜って「はあー」と感嘆し、きれいな箸使いで行儀良く、具の味に「うん」と謎の同意をし、ずるるっとうどんを吸って食べるペースを崩さず、好き嫌いなくきれいにたいらげた。

「足りた?」

「えっ?」

 驚くべき質問に私達は声を揃えて聞き返した。元々食の細いラジオと普通の私、和泉さんの食べっぷりに半ば見とれてあまり箸を付けなかったような気もする。うどんすき三人前の鍋がどのように消費されたか、その一言が物語っていた。彼は「はは…暑くなった…」と眼鏡を外して、手の甲で眉間をこすった。………意外なキャラ。

 店を出て歩きながら、彼らは普段チャットで話していたような、音楽の話をしていた。私はその後ろで聞くともなしに聞くだけ。───あの話はしなくていいのかな。

 和泉さんの知り合いの女性(恋人だろう)の身近に起こるという、超常現象。

 ラジオは彼女を精神病者として身を案じているし、それゆえの超常現象に関心を寄せている。和泉さんもまた、医師に診せることの出来ない彼女の症状に悩み、超心理学にも明るいラジオに相談しているのだ。

「仁史君」と後ろから呼びかけた。

「私、先に帰ってるよ」

「…そんな…。ミオさんがいないと…僕…」

と彼は私の手を取った。子犬の耳と尻尾は垂れ、おめめうるうるきらきら。

「帰り方がわかんない」

「和泉さんに教えてもらってよっ」

 脳天をぱちんと叩いた。

 ───ピーンと耳鳴りがする。ラジオが目を伏せて俯いた。和泉さんがわずかに眉をひそめ、横目でどこかを見る。エレベーターに乗った時にそうするように、私は唾を飲み込んだ───耳鳴りが止んだ。

 何だったんだ、今の。

 あんまり神経質にならない方が良い………この前ラジオがくれた『薬』もそういう意味だったのだから。グラニュ糖を包んだ『お医者さんごっこの薬』は、まだ財布に入っていた。使う機会などなかったし、外でコーヒー等に入れるには量が少なすぎたのだ。そのまま忘れていたというのもある。

 和泉さんが「ミオさんはお酒飲まれますか」と訊ねた。はいと答えると、「じゃ、一緒に行きましょう」と歩き出した。ラジオがふふと微笑んで、私の手を掴んだままひっぱって続く。

 彼が一人で帰れない筈はないのだ。彼の方向感覚や記憶力の良さは半日一緒に歩いてわかったし、犬には帰巣本能がある。……というのは冗談にしても、もうちょっとマシな引き止め方はないのか。昼間に通った道に入って「どの辺ですか」と訊ねると「ギャラリー櫂のすぐ近く」と言われてどきっとした。

「逢坂君と待ち合わせ場所を決める時に、櫂の近くなら大阪が初めてでも大丈夫だろうと思って。連絡取って僕がすぐに来れるでしょう」

「ああ、なるほど…」

 ───戻って来てしまった………

 櫂の立て看板は既に片付けられ、明かりが落ちている。格子のシャッターが降りていたが、外灯の光がウインドウの向こうまで差し、壁に掛けられた『宿命』がぼんやりと見えていた。和泉さんはシャッターに額を付けるようにして中を覗き込み「よく見えないな…」と呟いた。

「あれです。真ん中の」

 ラジオが私の手を離して格子の間に指を突っ込んで奧を差した。

「あれは…人?」

「うん。人の後ろ姿」

「…ああ、はい…。十字に架けられてるみたいだな…」

 ───死のイメージ。

 そう思った途端、高瀬氏の頬を打った時の痛い感触が手のひらに蘇った。


 ≪いかないで≫


 ───誰?

 耳の奧で何かが膨らんでいるみたい───ラジオが「ツッ」と目をつぶった、耳の奧からわんわんと鳴り響く───シャッターの格子を掴む和泉さんが何か言った、聞こえない───何?

 うわんうわんうわん───

 耳が痛い。どんどん大きくなっていく。

 ───パン

 耳に詰まっていた何かが弾けた───ように聞こえた。

 その瞬間、音を立てて何かが降ってきた。私達は咄嗟に両手で頭を覆い、身を小さくした。

 やがて、辺りが暗くなったことに気づいた。私達の足元に散らばったガラスの破片が外灯に照らされて光っている。顔を上げて見ると、ウインドウの上の壁の『Gallery Kai』の文字を照らしていたライトが五つ───全ての電球が割れていた。

 真上を見ていたラジオの体がふいに後ろに傾いた。

 和泉さんが腕を伸ばした。倒れる背中を受け止める。がくん、と首が後ろに反った。失神している。私も彼の頭と背中を手で支え、ガラスを避けて地面に横たえるのを手伝った。

 おそるおそる、ラジオの頬に触れるとびっくりするほど冷たかった。

「ひ…仁史君」

「落ち着いて」

 冷静な声だった。和泉さんはすぐに携帯電話を取り出して119番通報した。


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