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いぬみみうさみみ 第6話  作者: 佐倉蒼葉
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第2章

 話は先月末に遡る。

 ラジオは最近、毎週木曜日の夜に喫茶店『六角屋』を訪れることにしている。六角屋の壁一面に掛けられた空木秀二の絵、『北天』を見るためだ。マスターの遠山さんがたまたま所用で留守になったその木曜に───

 その男はやってきた。

 雪の夜。外に看板を出していない地下の店。『北天』を観賞するために明かりを落とした店内。それでも男は店に入って来て、来意を告げた。

 ───『北天』を譲って欲しい、と。





「何て言ったかな…」

 山崎君は札入れから名刺を十枚くらい抜いた。

「これね、高畠サンとこ来た客の名刺。整理する前に俺がパソコンに打ち込んどくの。……と、これか」

 彼は名刺の裏のメモを見て、裏側を上にしてテーブルに置いた。ラジオと二人、覗き込む。彼が書いたらしい。青いインクの万年筆で書かれた文字は絵のようにきれいだった。

 『30才位、少々えら張り、二重、中肉、170位、イケスカナイ』

 ───この特徴。六角屋に来たのと同じ、あの男だ。

「いけ好かないっていうのは特徴なの?」とラジオ。山崎君は「俺のメモだからいいの」とすましている。ラジオが名刺を裏返した。

 青で書き込まれた『マサミ』の文字が目を引いた。私は無意識に名刺を読み上げていた。

「ギャラリー櫂。高瀬真臣。……大阪じゃない」

「うん。あっちじゃ空木の絵はなかなか出ないらしい」

「出ないってどういう意味?」

「本物の絵を捨てる人ってあんまりいないでしょ。要らなくなったら売る。美術商に持ち込まれてそこで売られたり、オークションに出たりする。個人から個人へ売られることもある。そういう絵画の売買ルートに空木の絵がなかなか出て来ないって意味です」

「うん」

「空木が亡くなってもうすぐ二年だし、去年の『空木秀二の世界』で評価が上がってる。空木の絵は、これから値が上がるんですよ」

「考えてもみなかった……」

 それは美術品の世界では当たり前のことだろう。だが私はそんなことを考えてもみなかった。───空木秀二の絵が値を上げながら売買される。売却、値段、取引、空木の絵はそんな言葉とは無縁だと勝手に思い込んでいたのだ。

「だって六角屋や美術館に行けばいつでも見られると思ってた」

 山崎君は筆で線を引いたように目を細めて微笑した。

「それはミオさんが空木の絵を本当に好きだから。絵がどこかへ行くなんて考えられないんでしょう」

「そう!そうなのよ!」

「俺もそう」

「何か気が合ったね」

「うんうん」

 山崎君と頷き合った。彼とこんなふうに喋るのは初めてだ。数える程しか会っていないせいもあるが、ラジオや野宮君と話しているのを聞くばかりで───

 ふいに山崎君がラジオを振り返った。ラジオは手にした名刺をぼんやりと見ていた。

「……逢坂?」

「………」

「どうした」

「………」

 こちらを向いた彼は青白い顔をして、真っ黒な目は虚ろに見えた。震える手で口元を押さえて立ち上がる。山崎君が素早く動いた。「すみません、ここ、後よろしく」とラジオの両肩を抱えて支え、店の奧のトイレに向かった。私は驚いて───とにかく私が落ち着かなくては───席を立った。具合の悪い者がいると店の人に伝え、おしぼりや水を用意してもらった。紳士用トイレのドアをノックして「山崎君」と呼ぶ。

「おしぼりもらって来た」

「開けて大丈夫」

「失礼」とドアを細く開ける。ラジオが洗面台の前で床に座り込んでいた。壁に凭れてぐったりしている。

「ミオさん、そっち頼みます」

 山崎君がモップで床を拭き始めた。私はおしぼりでラジオの顔や服を拭いた。

「…ごめんなさい…」

「今日暑くなったからな」

「うん。…暑かったから、ね。気にしないで」

「まだ吐くか。大丈夫そうなら出てろ、水使うから」

「大丈夫」

 かすかな声で彼は答えた。壁に背を寄せたままゆっくりと立ち上がる。その腕を取ってドアの外に連れ出した。また壁に凭れてずるずると座り込む。衝立があるのを幸い、私も彼の横に膝を突いた。

 ───この前もそうだった。

 高瀬氏が六角屋を訪れて「この絵を譲っていただきたい」と言った時、ラジオは口もきけないくらい動揺していた。


 ≪僕にも『北天』の空は特別なんだ≫


 絵画を深く愛するラジオ。その彼が特別と言う『北天』。


 ≪こんな絵はない方が良いのに≫


 高瀬氏が言ったことは誰にも言わないでおこう───ラジオと二人、そう決めた。遠山さんをはじめ、私達の周りには空木秀二の関係者がたくさんいる。そして皆が彼と彼の絵を愛しているのだ。

 『北天』がどこかへ行ってしまう。

 ───そんなことは考えられない。

 遠山さんだって『北天』を手放したりしない筈だ。空木を敬愛し、自らも絵を描く人なのだから。そう言ったのはラジオ自身だったのに………

 高瀬氏が訪れた翌日、心配だった私は六角屋へ行って遠山さんに「『北天』を買いたいと言う人が来た」とだけ話した。遠山さんは驚きもせず「ふうん」と言うので、私の方が驚いてしまった。聞けばそうした話は以前にも何度かあったという。

「じゃあ、売らないのよね」

「壁がなくなったら困るだろ」

 それで私はすっかり安心していたのだ。けれど高瀬氏はまだ空木の絵を探しているという───冷ややかに「ない方が良い」と言ったあの男が。………これから値上がりするから?ばかばかしい!値段が絵の価値の全てとでも思っているのか。

 見る者を魅了する、それが絵画の美だ。見る者の愛情が絵画の価値だ。素人の考えに過ぎないかもしれないがそう思う。絵を愛する人達が周りにいるから、そう思う。

 掃除を終えた山崎君が出て来た。「どう」と訊かれ、ラジオは深く息を吐いて「少し楽になった」と言った。いつにも増して掠れた声。

「今日はもう帰るよ」

「うん。送ってく」

「いいよ。山崎いるし」ラジオは弱々しく笑った。「今日はこの後バンジーしようと思ったのに」

「嘘吐け」

 山崎君が肩を貸してラジオを支えた。店の人に詫びて出て行く。私は彼らの荷物を抱えて後に続いた。タクシーで帰るという。山崎君と一緒なら大丈夫だろう、彼らは長いつきあいなのだし、だからこそ先程の彼の行動は素早かった。以前ラジオが病院に担ぎ込まれた時に、初めて会った山崎君が「こいつ、手が掛かるでしょう」と言ったのを思い出した。慣れているのだなと思う。安心して任せることにした。

 二人と別れて、AIMの会場に戻ろうと引き返した。胸がもやもやして、誰かと話したいと思った。伊野さんなら聞いてくれるかも………と考えたその時、ふっとひらめいた。

 ───高畠先生。

 何かあったら遠慮なくいらっしゃいと言った。私にではなくラジオに言ったのだが。

 君は空木と同じ目をしている───人の目には見えない物を見ていたと言われる空木。彼と同じ目をしていると言って、ラジオの能力に気づいていることをほのめかした。その上で、いつでも力になると言ってくれたのだ。

 でもどうやって先生に連絡を取ろう。住所も知らない。守屋画廊で訊けば………そうだ、守屋さんに相談すればいい!画商の守屋さんなら高瀬氏のことも知っているかもしれない。私は駅に向かって早足で歩き出した。気がつくと半ば走っていた。

 遠山さんは決して『北天』を手放さない。わかっていてなぜこんなに気になるのだろう。胸が塞がるんだろう。

 ───そうだ、あの空は特別なんだ。

 あの絵は空木秀二そのものだと私達は思っているから。

 ≪こんな絵はない方が良いのに≫

 あの一言がくやしい………





 守屋画廊は通りに面した紺の壁と大きなウインドウがモダンで開放的。銀座の一流画商だと言うのに気軽に入れる雰囲気が素敵だと前に来た時は思った。しかし今は───

 思えば、図々しいんじゃないかしら。相談に乗ってもらおうなんて。

 ガラスのドアの前で躊躇していると、守屋さんが私に気づいて会釈した。もう引き返せない。私は小声で「たのもう」と言いながらドアを開けた。

「あの、私…この前、逢坂仁史君と一緒にお邪魔した…」

「覚えていますよ。ミオさんでしたね」

 守屋さんは白のケーブルニットに紺のスラックスがさわやかで、私の頭に『ダンディ』とか『ヨットハーバー』とか『加山雄三』などの言葉が浮かんだ。

「今日は彼は一緒じゃないんですか」

「はい。仁史君はちょっと来られなくて…。今日は」深呼吸。「空木秀二…さんの絵のことでいろいろとお伺いしたくて参りました」

 それを聞いた守屋さんはニコッとした。彼は「そちらにどうぞ」とソファを差して、私が腰を下ろしてから向かい側に座った。奧から若い女性がコーヒーを運んで来る。

「何でしょう」

「は、あの…」

 女性がコーヒーを置いて戻ってから、思い切って訊ねてみた。

「六角屋にある『北天』なんですが」

「はい」

「もし…もしもですよ?もし、『北天』に値段をつけるとしたら…おいくらくらいになるんでしょうか」

 おかしなことを訊くと思われているに違いない。顔がかーっと熱くなった。

「あなたのボーナスで買えると思いますよ」

「えっ」思わず身を乗り出した。「そ……そんなもんなんですか?」

「うん。あのねえ」彼はクスと笑った。高瀬氏と違って優しい笑いだ。

「あの絵は空木の作品の中ではあまり高く評価されていないんです」

「………」

「というのもね、彼の絵のどこに魅力があるかと言うと、まず人間なんですね。特に裸婦。彼の描く裸婦は肌の質感もリアルで温かみがあって美しい。『水からの飛翔』のように青ざめたものでもきれいでしょう。人間の描写が実に精巧なんですね。空木の作品といってまず評価が高いのは裸婦なんです」

「はい」

「次に緻密に描かれているもの。『木霊』などがそうですね。緻密さも彼の作品の魅力です。空の部屋に行かれて『左回りのリトル』をご覧になったでしょう。あの背景も見事ですね。地形そして建物が変形して時計の歯車を思わせる、その歪んだ中にも緻密に建物を描いている。まだ描き込む余地がありましたね、空木なら」

「はあ」

「それらと合わせて、内容、これがいちばん大事です。細かく描けばいいってものじゃありませんからね。芸術性。それらを総合的に見まして、『北天』は他の作品より劣る、と」

「………」

「がっかりされましたか」

「…いえ」

「あの絵がお好きですか」

「はい」

「私もです。私はこの仕事ですから作品を評価しますが、それは優劣をつけることではありません」

 守屋さんは「コーヒー冷めますよ」とカップを手で示した。私は「いただきます」と一口飲んだ。ほんの少し冷めたコーヒーは、ここにいる画商のようにほっとするあたたかさ。───少しはがっかりしたかもしれない。作品によって評価にも差があるなんてことすら考えていなかった。

 私は次をどう切り出そうか考えた。ここからが肝心なんだ。

「……あの、この前……高畠先生が仰ったことなんですけど」

「はい」

「……逢坂君が空木さんに似ている、という」

 声を落とした。守屋さんは少し間を置いて、奧を振り向くと先程の女性を呼んだ。「ケーキ買って来て。こちらのお客さんと、君の分も」と有名なケーキ店の名を挙げた。ちょっと遠い。人払いをしてくれるのだ………知らず頭が下がった。

「僕は高畠さんに言われるまで気づかなかったんだけどね」と彼の口調がくだけたものになった。

「二人ともとても良い目をしているね。人を惹きつける、魅力的な。強い力のある。空は父親似だけれど、内気な子で、空木ほど強烈な印象はない……むしろ内気なのは、父親の『目の強さ』を受け継がなかったからじゃないかと思う」

「……受け継がなかった?」

「うん。ただ非常にデリケートなところだけ受け継いでいるかなと」

 口調とは裏腹に、守屋さんの言葉はとても慎重だ。私はずばりと切り込むことにした。まわりくどいのは苦手なのだ。

「梢子さんと初めて会った時、彼女が私にうさぎの耳が生えてるって言ったんですよ」

 こんな感じで、と私は耳に掛かる髪を両手でつまんでみせた。守屋さんは目を丸くして小さく驚き、そして愉快そうにふっと笑った。私も照れくさくて笑う。

「梢子さんが言うには、波長の合う人の記憶が見えることがある、って。……昔、恋人が私のこと『うさこ』って呼んでたんですよ。彼女にその話はしていませんから、本当に見えるんだと思います」

「うん」

「それでその時、野宮君と逢坂君と四人だったんですけど」誰がその場にいたかを明らかにした。「空木さんの『木霊』に描かれている透明な群衆……ああいうものが、空木さんには見えていたのではないか、と話したんです」

「…そうでしたか…」

 守屋さんの微笑はとても優しい。私は「どうお考えですか」と訊ねた。

「僕もその話は空から聞いてる。空木自身は僕に何も言わなかったけれどね。空木の兄はそれで彼を気味悪がって疎遠にしていたというし」

「……そうなんですか」どきっとした。

「あの、逢坂君も……と思ってらっしゃいますか」

 彼は無言で頷いた。

「あの……これは私一人の勝手な考えなんですけど。仁史君は何も言いませんけど……」

「うん」

「彼は、そういう空木さんに、シンパシーを感じていると思うんです」

 ───そうだ、どうして気がつかなかったんだろう。

 ≪こんな絵はない方が良いのに≫

 空木への悪感情。空木の絵を愛する私達への皮肉。けれどラジオにとってはそれだけではなかった。空木への言葉は、彼にとって自分自身への言葉ともなり得る。

「この前、六角屋に『北天』を譲って欲しいという人が来て……仁史君はショックを受けていました。『北天』は彼にとって特別な絵ですから」

「うん」

「実は今日も、さっきまで彼と山崎君と三人で会っていたんです。その話になった途端、具合が悪くなっちゃって。元々体が丈夫じゃないみたいなんです。それであれだけ敏感な神経の持ち主なんですから…」

「そうか…」

「だから、……その人のことが気になって。守屋さんなら何かご存知かと思って」

 守屋さんはフムと頷いて立ち上がった。隅の事務机(と言っても木製の高級そうな)の抽斗からファイルを一冊出して、挟んだ紙をぱらぱらとめくった。おつかいに出ていた女性が帰って来たのへ「先月届いたオークションの出品一覧どこだっけ」と訊ねた。

「そちらにはもう入らないので新しいファイルに入れました」

「あ、そうだったの」抽斗を探って「こっちか」と新しい方を取り出した。

「……ああ、あった。訪ねて来たのは大阪の櫂ですか」

「そう、それです!」

「やっぱり」

 腰を浮かせた私の前に、新しいコーヒーとケーキが置かれた。すとんと座って「ありがとうございます」とお辞儀した。守屋さんがその横に開いたファイルを並べ、座りながらページを指先でトンと突いた。

「これ、僕は行かれなくてとてもくやしい思いをした。空木の絵が出たんですよ。知っていれば何が何でも落札したんですけどね」

 出品番号、作者、作品名、号数、そして落札者と落札価格を記した一覧表───

 価格を見て驚いた。

「これも私のボーナスで買える…」

「そのまま持ち帰りが出来ますよ。さして大きな絵ではありません」

「あ、納得」

「僕ももう歳ですから、先のことを考えるんですよ」

「そんなあ。まだお若くてその上素敵でいらっしゃるのに」

「お世辞でも嬉しいなあ。若いお嬢さんにそう言われると」

 さっきは誰も若いと言ってくれなかったけどな。

「ここの二階を改装して、空木秀二美術館にでもしたいと思ってるんですよ。友人としてね。ビルの一室だから美術室、かな。ははは。…小さいけれど、将来空木を研究する人達の集まれる場になればと思って」

「……素敵ですね」

「だからこの絵はどうしても欲しかった」

「…この、櫂から買い取ることは出来ないんですか」

「難しいんですよ。櫂の顧客と値を争うことになる。値がつり上がれば櫂は大儲け。空木への評価が上がったことになって、当然、他の作品の価値も上がります。交渉してるんですが、なかなか首を縦に振ってくれなくてね。足元見られてる」

 守屋さんは苦々しげに言った。私はもう一度、一覧表を見た。


  空木秀二 『宿命』


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