セイレーンの歌う耳かき
「よう!テンチョー!耳かきの【満足コース】二人、今からいけるかい?」
「癒しの泉」の木製の扉を勢いよく開け、巨躯の男が受付に太い声を響かせた。身なりは裕福だが、その顔つきやしぐさからは場末のはぐれ者のような荒々しさがうかがえる。
「あら。ディーガー船長。お久しぶりです」
受付のカウンターに座るテンチョーと呼ばれた女性が答えた。特徴的な耳の形と褐色の肌。黒髪の長髪を綺麗にまとめている。
「おう、久しぶりも久しぶり。そもそも帝国の空気が一か月ぶりだぜ。王宮御用達の仕事は実入りはいいがまどろっこしくていけねえ。素人に毛が生えたような役人が中途半端に口出ししやがるもんだから、予定の日数より余計に船の上にいることになっちまった」
「それはお疲れさまでした。ところでそちらは…?」
「こいつはうちの新入りでな。今回の航海でちょっとばかし良い働きをしやがったもんで、まあその褒美に連れてきてやったんだ。なあ、フリオ」
「は、はい。よろしくお願いします」
「なるほど。【満足コース】耳かきのみでよろしいんですね。では…」
そう言うとテンチョーは、ディーガーとフリオの前に革の冊子を広げた。
「本日行える耳かきコースはこちらの種類になります」
帝都にほど近い港町ゴルドルーフ。"帝国の玄関口"の異名を持つこの街の郊外に「癒しの泉」はある。数年前、未知の土地「イセカイ」から突然この地に現れた"癒しの魔女"が始めた「耳かき」と「マッサージ」の専門店だ。
様々な方法で耳の中を掃除する「耳かき」と、これまた様々な方法で体の疲労を取る「マッサージ」。帝国広しといえども、いや、南の大陸や西の草原を含めてもそのようなことを行う店など前代未聞だろう。その奇妙さから最初は警戒された「癒しの泉」だが、そこで得られる快感の噂が広がるにつれて、客足も増えていった。今では従業員も増え、知る人ぞ知る帝国の名所のひとつとなっている。
「癒しの泉」にやって来た巨躯の男はディーガー・ホフマンといい、港町ゴルドルーフでも一、二を争う実力を誇る船長だ。統率力に優れ、多くの有能な船乗りに慕われている彼は、その評判から王室から直々に依頼を受けることも多く、今回の航海もその類のものであった。そして彼は「癒しの泉」に通い始めてもう数年来の常連でもある。
「畜生、毎回毎回、迷っちまうなぁ」
常連のディーガーでも、未だに耳かき担当者を即決することができない。「癒しの泉」が密かな名所になっている理由は、サービスそのものの珍しさの他に、この店で働く多くの従業員たちにもある。
冊子を見ながら新入り船員のフリオが目をむく。
「船長!これは本当ですか!?"マーメイドの水中耳かき"に"ドワーフの千本耳かき"?!"スライムのプルプル耳かき"ってのもある。なんだこれ!?」
そう、この店では異種族や魔族を数多く雇用している。褐色の肌を持つ受付のテンチョーも、一見すると人間のようだがその実、1000年近くの寿命を持つダークエルフという種族である。
「おう、どれもたまらねえぜ。なんてったって"癒しの魔女"殿が世界中回って集めた精鋭だ。普通の人間にやってもらう耳かきも良いが、他の種族にしてもらう耳かきのスリルは何ものにも代えられねえ」
その時、フリオの目にある一文が飛び込んできた。
「で、では、俺はこのコースを」
「ほう……って、え?おいテンチョー、前にこんなコースあったか!?」
その選択は、この店の常連であるディーガー船長すら驚くものであった。
◆ ◆ ◆
フリオが指定された扉を開くと、そこには、先程の冊子に書かれていた通り、ある種族の女性が待っていた。
「こんにちは。はじめまして。ご指名頂きました耳かき師のカレンと申します。今日はご指名いただきありがとうございます。お客様は当店は初めてですか?」
「え、あ、はい」
「左様ですか。ああ、でもお気になさらず。当店の耳かき・マッサージの内容は担当者ごとに異なりますので。何年も通った常連様でも、今日お店に初めて来られた方でも、担当者が初めてだと結局同じようなものです。私は最近入ったところなので、みなさん初めてのお客様ですよ」
そう言ってカレンはコロコロと笑う。その笑い声は美しく妖艶で、聴いていると耳の奥を柔らかい羽根で撫でられるような感覚に襲われる。
「それでは、耳かきをはじめて行きますが……。ところでお客様、膝枕は直接にいたしますか?それとも布をおひきしましょうか?」
フリオはちらりとカレンの脚に目をやった。
「直接で」
「かしこまりました。では……こちらにどうぞ」
カレンはそう言って、フリオの頭をゆっくりと自分の太ももの上に導いた。
カレンの両足の間に頭を置く形で、フリオは体を横たえた。導かれて左耳が上に向くよう顔を傾けると、フリオの顔の右側が柔らかい感触に包まれる。それは一介の船乗りには一生味わえない最高級の羽毛の感触だった。
彼女の下半身は羽毛に覆われていた。
女性の上半身に鳥の下半身を持つ彼女らはセイレーンと呼ばれる。海辺に仲間と共に棲み、近くを船が通りかかると美しい歌声で船乗りを惑わせ、海に引きずり込むといわれる魔族だ。
「それでは、始めていきますね?」
セイレーンの耳かき師は、膝の上の年若い船乗りに向かってにこやかに微笑んだ。
「耳かきを始める前に、まずは、お耳の周りからおそうじいたしましょう」
フリオの左耳に何か温かいものが触れた。温かい湯で湿らせたタオルだ。
「あ、気持ちいい……」
「でしょう?まずは耳全体を温めて血行…血の巡りをよくいたします。……わたくしの羽毛、気に入られました?」
「え、い、いや、その」
その肌触りがあまりに気持ち良いので、ついつい頬ずりをするように、カレンの脚に顔をうずめていたのを指摘され、フリオはピクリと身体を震わせた。
しかし、カレンはころころと笑って
「いいんですよ。私の自慢の羽毛ですから。気に入ってもらえたのなら、むしろ嬉しいです。それではこんなのはいかがでしょう……?」
そう言うと、それまで閉じていた脚を少し開いた。
ズ…ズ…ズ
脚の間に生まれた空間に、フリオの頭が少しずつ沈み込んでいく。
顔面と後頭部が羽毛に包まれ、先ほどまで太ももに接していた顔の右側は脚の下の尾羽の上に乗っている。そして、その状態で左耳が温かいタオルで優しく拭かれていく。
ゴソ……ゴソ……ゴソソソ
「うふふ、どうですか?羽毛で包まれてお耳を拭かれるのって、気持ちいいですよね?この辺とか、どうですか?」
フリオの耳のひだの部分がタオルでぐいっとぬぐわれる。
「あ、ああ……、すごく、気持ちいいです……」
「うふふ、よかった。せっかく中を綺麗にしても外が汚れていたら台無しですものね」
そう言ってカレンは、丁寧にフリオの耳のひだをタオルでぬぐっていった。
ぎゅっ、とタオルが押し当てられる度に、温かい水がジワリとタオルからしみ出す。その感触に酔いしれていると次の瞬間、その水と一緒にぐいいいっ……と、タオルが耳のひだの汚れをぬぐい取っていく。後にはスーッとした爽快感が残る。その繰り返し。
フリオは、顔を羽毛にうずめながら、快感に身をまかせていた。
これが耳かき……。いや、先ほどカレンは「耳かきの前に」と言っていた。では、まだ耳かきは始まってすらいないのか?
フリオがそんなことを考える間にカレンはフリオの右耳を拭き終えた。
「それでは反対側も、同じようにしていきますね~」
フリオの頭を脚の間でコロンと転がして、先ほどと同じ作業が右側の耳でも繰り返される。
左耳で一度経験したはずの快感にまたしてもフリオは翻弄され、思考はそこで一度中断する。
ぎゅっ
ジワリ……
ぐいいいっ
スーッ
ぎゅっ
ジワリ……
ぐいいいっ
スーッ
ぎゅっ……
「さてと、ここからやっと、本番の耳かきですよ」
カレンが囁く。その声がフリオの意識を快感の沼から現実に少し引き戻す。
そうだ。自分はこれを目的にこの店に来たのだ。膝枕で耳を拭かれるなど、宿屋の娘にでも頼めば経験できる。確かに想像を絶するほどに気持ちよかったが、本番はここからなのだ。
「あらあら、そんな怖い顔しちゃダメですよ〜?リラックスしてもらうのが、このお店の目的なんですから」
カレンはそう言って、フリオの眉根のシワをグリグリと伸ばしつつ、傍らの木箱から細い棒状の何かを取り出した。
「……それは?」
「うふふ、これが”耳かき”ですよ。これで今からお客様のお耳を気持ちよくお掃除していきます」
どうやら材質は木のようだ。木切れを細く削って棒状にしているのだろう。先の方は少し広がって匙のような形になっている。
フリオの心に疑念が生まれる。こんな硬い棒が本当に気持ちいいのだろうか。先程の温かい濡れタオルの方が、いかにも気持ち良さそうではないか。
そんなフリオの当惑を知ってか知らずか、カレンはまた
「ほらほら、またシワがよってますよ〜」
と、フリオの眉間をグリグリ伸ばし、
「さあ、それでは耳かきを始めましょうか」
と、フリオの頭をころりと横に向けた。
驚愕だった。
フリオ・アルメイダは今年18歳になる。幼い頃からゴルドルーフ港に近い海辺の集落で育ち、弟や妹の面倒も良く見た。貧しいながらも時間を作って教会に通い、彼を目にかけてくれた神父のおかげで学問も少しは身につけた。そして、15歳からは見習い船乗りとして、多くの時間を船の上で過ごしてきた。もちろん、その間、多少の男女の付き合いも経験している。
そんなフリオの人生感を根こそぎひっくり返すような、耳かきはそれほどの快感だった。
「あらあらぁ、これはやりがいがあるお耳ですねえ?」
そう言ってカレンは遠慮なく耳かきを動かす。
ゾリ……ゾリ……ゴゾゾゾゾゾゾゾゾ
「う、うわ、あ」
思わずフリオの口から声が漏れる。
「あら、すみません、痛かったですか?」
カレンが手を止める。
「いえ……大丈夫です。続けて……下さい」
「はぁい」
(ただし、出来ればもう少し刺激を少なく…!)
などと言うフリオの心の声など、カレンには伝わらない。
遠慮なく耳かきは再開される。
ゾ…ゾゾゾ……ガサガサ……ザクッザザザッ
カレンの操る耳かきはフリオの耳の中の様々な場所を刺激しながら、まるで意思を持った動物のように動きまわる。
「あふっ、う、う、ふわぁ」
フリオの口からまたも情けない声が漏れるが、カレンはもう手を止めることはしない。
ガサガサ……ツツー……
ガサ……ゾゾゾ
「うあ、はあ、うう」
耳かきがやさしく皮膚に触れるたび、今まで感じた事のない快感がフリオの脳天から全身を貫く。
徐々に耳の中がじんわりと熱くなっていく。
「お客様、本当にこのお店、初めてなんですね。こんなにやりがいがあるお耳、初めてです」
フリオが横目で見ると、カレンの顔も心なしか上気しているように見えた。よほど耳の中が汚かったのだろう。生まれてこのかた耳かきなどしたこともなく、おまけにここ3年ばかりは一年の大半を船の上で潮風を浴びて暮らしていたのだ。自慢ではないが、そんじょそこらの村人に耳の中の汚さで負ける気はしない。
「では、ここからは本気でいきますね~」
……本気?
フリオが聞き返そうとした次の瞬間
「――――――――――!!!!!!!」
先ほどとは比べものにならない快感がフリオを襲う。
「動かないでくださいね~」
カレンは相変わらず落ち着いた声で耳かきを動かしている。
しかし、その動きは先ほどとは明らかに違う。
ガジ……ガジガジガガガ……
ザリッ…ザリザリザリリリリ……
「なんか……さっきと、違い…ません、か?」
息も絶え絶えに質問するフリオに、カレンは涼しい顔で答える。
「ええ。先ほどまでは耳の中のマッサージもかねて、いろんな場所に耳かきを軽く当てていましたけど、今やってるのは本格的な、お耳のお掃除です」
「お、掃除?」
「はい。あ、刺激強いかもしれないのでちょっと我慢してくださいよ。ええいっ」
ゾゾッ!ゾゾゾッゾッゾゾゾゾゾゾ!ズルズルズズズズズ!!!!!
「―――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!!!」
フリオの全身に、電流が走る。声を出すのは何とかこらえたが、体は痙攣し、息は荒くなる。恐ろしい快感だ。
「うふふ、ほら。大物が取れましたよ?」
そう言ってカレンは耳かきの先に付いたものをフリオの目の前に差し出した。
「うわっなんだこれ」
それは、フリオが今まで見たことが無いほど大きい耳垢だった。たまに耳の中に小指を突っ込んで中をかく時に小指に先に付くものとは全く別物。恐らく皮膚が何層にも積み重なり、色は黄色がかっている。広げると大きさは小指の爪ほどもある。そして所々に毛が挟まっている。
「こんなものが俺の耳に入ってたんですか?」
「ええ、そうですよ。こんなに大きいのは、私もここで働き始めてから初めてです」
カレンは嬉しそうにそう言って耳垢をハンカチの上に落とし、さらに耳かきを続ける。
カリ……カリカリ。ガリュ、カリリリ……
耳の中を少しかき、耳垢を持ち上げハンカチに落とす。そしてまた耳かきを耳に入れ、カリカリとかく。
カサカサ、コショコショコショ……ズソソソソッ
直接見ていないフリオにも耳の中が徐々に綺麗になっていくのが分かる。そしてじんわりと温かくなった耳の中の熱は、顔全体・体全体に伝播する。思考は拡散し、まぶたが重くなる。
カリッ、コリコリ……ザリザリザリ……
「右耳はこんなものですかね……。では仕上げに……」
そう言ってカレンが取り出したのは、真っ白い鳥の羽だった。
「うふふ。普通は耳かきの後ろについてるこのふわふわ……ボンテンっていうらしいです。普通はこれを使うんですが、私の場合は自分の羽でやった方が気持ちいいみたいなんで」
カレンの羽がフリオの耳に軽く触れる。柔らかい感触が耳の周り、そして中へと入ってくる。
フワ……フワ……コショコショ……
やわらかな羽が耳の中を優しくなでる。先ほどまでの強い快感ではなく、どちらかというとこそばゆい。きっと、最後に耳の中に残った細かい耳垢を絡めとっているんだろう。
フリオがそんな風に思っていると、耳から羽が取り出された。
そして次の瞬間、
「ふーーーーーーーっ」
突然の刺激にフリオの体がピクリと痙攣する。カレンが耳の中に息を吹きかけたのだ。
「あら?すみません。驚かせてしまいました?」
「い、いえ……」
「これで左耳の耳かきはおしまいです。では頭を反対に向けてくださいね」
フリオは言われるままにカレンの膝の上でころりと転げた。
「では、先ほどと同じように……」
フリオの右耳に温かいタオルが乗せられた。
◆ ◆ ◆
「しかし……どうしてまたあいつはセイレーンの耳かきを選んだんだろうなぁ」
ダークエルフのテンチョーの膝の上でディーガーが呟いた。
「あら、セイレーンの何がいけないんですか?」
少しとげのある口調でテンチョーが聞き返す。その“とげ”は、さんざん悩んだ挙句に「そういえばテンチョーは耳かきしないのか?」と冊子に載っていない(しかし実は指名は出来る)自分に白羽の矢を立てた常連に対する抗議と、自分が“癒しの魔女”から運営を任されている店の従業員を悪く言うならば承知しないという態度の表れだ。
「いや、そういうわけじゃねえ。ただ、俺たち船乗りにとってセイレーンってのは天敵でな。あんまりお目にかかりたい種族じゃねえ。そうそう、フリオが今回の航海でいい働きをしたってのも、セイレーンの関係だったしな」
「ほう、そうなのですか……」
「しかし、テンチョー、耳かき上手かったんだな」
「一応“癒しの魔女‟殿の一番弟子ですので」
「へえー、そうだったのか。次からも指名しようかな」
「迷惑ですね」
◆ ◆ ◆
「……それでは、右耳も本格的な耳かきに移っていきますね」
カレンが耳かきを取り出し、フリオの右耳に入れた時、
「すみません、お願いしたいことがあるんですが」
と、フリオが口を開いた。
「俺は、船乗りをやっているんですが……実はこの前の航海でセイレーンの沢山いる海域を通ったんです。そこで……」
その言葉にカレンの耳かきの手が止まる。少しの沈黙の後、カレンが口を開いた。
「……もし、その時に命を落とした仲間の方について私に何か謝罪のようなものをさせたいのでしたら、私はご期待には沿えませんよ。私は他のセイレーンの生き方に責任を持ったりは出来ませんし、何より近くを通る船を襲うのは私たちの本能ですから」
先ほどまでの優しい口調ではない、毅然とした物言いだ。
「あ、いえいえ、そうではないんです」
フリオは少しあわてて否定する。
「俺もそれは良く分かってます。そもそも、この前の航海では犠牲者は一人も出ませんでしたし」
「はあ、では、私への頼みとは」
「はい、少し俺の話を聞いて下さい」
「俺は貧しい村の生まれですが、幼い頃に近所の教会の神父さんに文字を教えてもらって、村の子供の中ではめずらしく本とかも少し読めたんです。と、いっても難しい物は読めませんでしたが、世界各地の物語や伝説を集めた本なんかは好きで、よく読ませてもらっていました。
この前の航海の途中、セイレーンの海域を通ることは出港前から分かっていました。だから、船の中にはそれ用の耳栓が積んであったんです。セイレーンの歌は船乗りを惑わせて船から海に飛び込むように仕向けますが、歌を聴かなければ問題はありません。しかし、いざセイレーンの海域に近づき、耳栓をみんなではめ始めると、数が足りないことが分かりました。積荷担当がとぼけた奴で、乗組員の数を間違えていたんですね。このままではセイレーンの餌食になる仲間が出てしまう。その時、俺は思い出したんです。昔読んだ本に描いてあった内容を。その本の中で船乗りたちは、セイレーンの歌に惑わされないように、耳に蜜蝋で栓をしていました。
俺はその話を船長に進言して、船内の蝋を耳栓代わりにすることで俺たちは犠牲者無しでセイレーンの海域を出ることが出来ました」
「あら。それはよかったですね」
「ただ、初めてセイレーンの海域を通ったことで、俺はあることを思い出してしまったんです。俺は……俺は……」
「俺はセイレーンの歌をめちゃめちゃ聴いてみたいと思っていたんです!!」
カレンの膝の上に頭を横たえ、壁の方を向いたまま、フリオははっきりと言い放った。
「は、はあ」
「俺は思い出したんです。幼い頃、本を読みながら、思わず海まで吸い寄せられるような歌とはどんな歌だろう、と想像を巡らせていたことを。その歌はきっと、この世のものとは思えないほどに美しいに違いない。しかし、船乗りがセイレーンの歌を聴くことは、すなわち死を意味します。そんなモヤモヤを抱えていた時に、この店の冊子でカレンさんのことを見つけたんです。お願いです。耳かきしながら、俺にあなたの歌を聞かせて下さい!」
カレンは驚いていた。セイレーンの歌は決して、人間にとって縁起の良いものではない。だから、この店で働き始めてからも、客の前で歌を歌ったことはなかった。それを自分から求めてくる人間がいるとは……。
「いいんですか?船乗りがセイレーンの歌なんか聴いてしまって」
「……俺のこと殺しませんよね?」
「殺しませんけど」
「じゃあ大丈夫です!!」
「ふふ……変わった方ですね。私なんかの歌でよければ。では、せっかくなので耳かきしながら歌をお聴き願いましょうか」
そう言って、カレンはフリオの耳を優しくつまむと、ゆっくりと耳かきを差し込んだ。
そして、彼女は歌い始めた。
「――――――――――――――――――――♪」
ゴソッ……カサカサ……パリ、パリパリ……
「――――――――――――――――――――♪」
カサ……カリッカリカリカリ……コリ…パリ……コソコソ……
カレンの歌が熱と質量を持って、フリオの耳に入って来た。コリコリと耳の中を動き回る耳かき。その耳かきが掻いた後に、カレンの歌が染み込んでくる。
「――――――――――――――――――――♪」
熱い、熱を持ったメロディが静かに耳に染み込み、頭、体全体に染み込む。
体中が弛緩していく。
フリオの瞼はとうの昔に閉じ、カレンの歌はその裏側まで流れ込む。そして眼球までが熱を持つ。
思考はドロドロに溶けて流れ出て、快感のみが意識の全てを満たしている。
それはフリオの人生の中で初めて経験する圧倒的快感だった。
「――――――――――――――――――――♪」
カリカリカリ……コリコリ……ザリリ
「どうですか?セイレーンの歌と、耳かきの組合せは?」
フリオの頭の中にカレンの声が優しく響く。しかし耳から入った熱い歌声はまだ、フリオの頭の中に流れ続けている。
もはやカレンが本当に歌っているのかどうかもフリオには定かではない。しかし圧倒的快感の波に身をゆだねながら、フリオは答えた。
「どうもこうも……最高に気持ちいいですぅ……」
「うふふ。それはよかったです」
「――――――――――――――――――――♪」
カサ……カリッカリカリカリ……コリ…パリ……コソコソ……
カリ…カリ…コリコリコリ……
ゴソッ……
◆ ◆ ◆
フリオが目を覚ますと、目の前にカレンの顔があった。頭はカレンの羽毛に包まれた膝枕の上に置かれている。どうやら眠ってしまっていたようだ。
カレンの手はフリオの頭に添えられ優しく髪をすいている。
「あら、お目覚めになりましたか」
「すみません、すっかり寝ちゃったみたいで」
「いえいえ、お客様が満足された証拠ですから。それに、ずいぶん疲れも貯まっておられたのではないですか?どうです?少しは楽になりましたか?」
「ええ、こんなにスッキリした気持ちは久しぶりです」
「それはよかった。私もお客様のお耳、堪能させてもらいました」
膝枕の傍らに置かれた布の上には、こんもりとした耳垢の山が出来ていた。
「こんなに耳垢が出る人、かなり珍しいんですよ。それに……街で暮らし始めてから、初めて歌も歌いましたし」
「え?」
「あんまりいい顔されないですからね。特に港町では」
「……また、俺がお店に来たら、歌、うたってくれますか?」
「お客様がお望みならば」
カレンが優しくフリオの髪をなでる。フリオの瞼がまた下がり始める。
「いいですよ。もう少しお休みになっても」
カレンの優しい声がもうはるか遠くに聞こえる。
金を貯めて、またこの店に来よう。そしてまた、あの歌と耳かきをしてもらおう。
カレンのひざまくらの上で、フリオはそんな決意を新たにしながら、再びまどろみの世界に落ちて行くのだった。