笑う橋
家の近所に不思議な橋がある。
小川の上に架かった木造の短い橋で、川面からの高さもそれほどない。歩くと所々がきしみ、どうして建て替えられずにそのまま残っているのだろうと渡るたびに不思議に思う。
そして、その橋はしゃべる。いや、正確に言うと、笑うことができる。
男女カップルが上を通るとき、橋は頻繁に笑い声をあげる。笑い声と言っても、さまざまなバリエーションがあって、嬉しそうに笑う時もあれば、二人を羨ましがるような笑い声をあげる時もある。しかし、一番多いのは、人を馬鹿にしたような笑い声だった。
特に、不細工な男、ブスな女が橋を渡っている時の嘲笑はすさまじかった。その人物が渡る前から、押し殺したようなすすり笑いを始め、橋の真ん中あたりに来た時には、もうがまんならないと一気に笑いを噴き出す。その笑い声は人間には絶対に出せない、笑われる側をこれでもかと辱め、羞恥の底へと叩き落すような笑い声だった。
私自身も幾度となく、男の人と橋を渡っている時にその笑い声の被害に遭った。それを聞く度に、私は身体は火照り、耳は真っ赤になる。そして、あまりの恥ずかしさから、隣にいる男を橋の下につきおとしてしまう。
突き落とされた男の大半は、小川の水でびしょ濡れになりながら、一体何が起きたのかわからずに、取り繕うような人の良い笑みを向けてくる。そのいたいけな微笑みを見るたび、私は少しだけ罪悪感を感じた。しかし、彼らには申し訳ないけど、やっぱり橋ごときに馬鹿にされるなんて、私のプライドが許さない。そして、そんな笑われるような男と一緒にいることも自分の価値を貶めるような気がして嫌なのだ。
また、その橋は結構人を見る目があることが腹立たしい。
不細工な男は一発アウト。人間とは思えない容姿の人物にいたっては、橋から数メートル離れた場所から笑い声が聞こえ始める。
その一方で、フツメンや、めったにないことだけれど、そこそこのイケメンと橋を渡った時にも同じような笑い声が聞こえてくることがあった。もちろん、そういう場合でも、私は例外なく橋の下に突き落とす。しかし、後々になって、人の話を聞いたり、その人の行動を冷静に見直してみると、大体ろくでなしかけち臭いやつで、友達には絶対に私の彼氏だとは紹介できないような輩だったりする。そのたびに、私は付き合わなくてよかったと胸を撫で下ろすとともに、なんか橋の正しさが証明されたような気がして複雑な気持ちになった。
ちなみに、自慢じゃないが、私は人並み以上のスペックをもっていて、数多くの男性から言い寄られる。裕福な両親に育てられ、幼いころからバイオリンを習っていたし、大学時代はミスコンで二位に圧倒的差をつけての優勝を飾った。男の人をたてることだってできるし、男の人のつまらない話にも目を輝かせて相槌をうつことができる。男とバカ騒ぎに興じることだって厭わないし、二人きりの時には、不意に儚げな雰囲気を醸し出すように意識している。
そういうわけで、多くの男性が私に夢中になる。もちろん、自分の判断でその男から選べばいい話だが、やっぱり、その男が周りの人間から見てどのような人間だと思われているかは重要だ。何せ、付き合っている彼氏の評価は、私の評価にもつながるのだから。重要なのは愛じゃない。愛に溺れている人間なんて、傍から見て滑稽極まりないと私は思う。
だから、私は少しでもいいなと思った男性は、一人残らずその橋に連れて行った。そして、何人もの男が橋の下に突き落とされ、びしょ濡れになった。デートに誘われ、食事をして、橋を渡り、橋が笑う。私は毎度羞恥で耳を真っ赤にし、隣にいる男を橋から突き落とす。この繰り返し。
噂を聞いたのか、予め濡れてもいい服を着てデートに来る男もいた。そういう男は、遠慮なく突き落とすことができた。橋の上を渡る時、妙に警戒する男もいた。そういうやつは、酔っぱらったふりをして寄り掛かり、相手が油断したところで突き落とした。ちょっとやそっとではびくともしなさそうな男もいた。そういう男は、数メートル助走をつけ、身体全体を使って突き落とした。
何人もの男がそうやって突き落とされて行った。そして、橋の笑い声に判断を任せるようになってから、ちょうど五十人目。私は今まで付き合った誰よりもイケメンな男性に巡り合った。爽やかイケメンで、運動神経抜群。某有名大学出身で、大企業に在職。趣味はアウトドアで、友達多数。実家は金持ちで次男坊。彼を知る友達からの評価は抜群だった。
そんな彼に口説かれ、さっそく私たちはデートに行った。彼はデートの運び方もそつがなく、食事も、乗ってきた車も、全部が全部完璧だった。車に乗せるときもわざわざ運転席から降りてくれたし、連れて行ってくれた店も、半地下にある気取りすぎていないエスニックレストランだったし、ドライブコースもきちんと風景に飽きが来ないように綿密に計算されていた。
私もお返しに、彼の完璧さに負けない完璧さを見せつけてあげた。食事の時には洗練されたマナーを示してやったし、彼の自慢話にも根気強く耳を傾けた。支払いの時も財布を鞄から出す振りをしたし、店を出るときはきちんと店員さんの前でお礼を言った。時々、彼を持ち上げる褒め言葉を言ってあげたし、彼の保護欲を誘うように、自分の弱さを引かれない程度にちらつかせた。
これほど完璧なデートがこれまでの人類史であっただろうか。私と彼は自分自身に陶酔しきっていた。そして、すっかり暗くなり、デートが終わりに近づいた時、私は、家の近くまで送ってくれた彼に散歩を持ちかけた。彼は自分もまさに同じことを考えていたよと気障に笑い、一緒に車を降りた。そして、彼の方からあっちへ行ってみようと言ってきた。その方向には、あの笑う橋があった。
ちょうど私もそちらへ誘導しようとしていたので、まさに好都合だった。そして、彼と一緒に軽い会話のキャッチボールを交わしながら夜道を歩いて行く。夜空には満月が煌々と照り、辺りは静寂に包まれていた。まさに私たちみたいなカップルにうってつけの雰囲気だった。
そして、私たちは橋にたどり着いた。私たちはさし合わせたように、その橋を渡り始める。
橋は夜の静けさと同じように沈黙を貫いていた。
やっぱり。これが正解なのね。私は彼の肩に頭を寄り掛からせながらそうつぶやいた。
しかし、私が安堵したその瞬間だった。橋は今までずっと押さえつけていた感情を爆発させるように、ドッと大きな笑い声をあげ始めた。
静寂を突き破り、人の羞恥心を煽るあの笑い声があたりに響き渡る。近くを歩いていた通行人が興味深そうに橋の上にいる私たちを見つめてくる。近くのマンションの住民が、今度はどんなカップルがやってきたのかと窓から顔をのぞかせる。
私はあまりの恥ずかしさに耳を真っ赤にした。そして、ちらりと彼の方を見ると、彼もまた耳と顔をリンゴのように真っ赤に染め上げていた。彼も私の視線に気付き、こちらに振り向く。
私たちは真っ赤な顔のまま、お互いに見つめあった。そして、お互いに優しい微笑みを浮かべた。
そして、それから。私たちは己のプライドを賭けた、取っ組み合いを始めるのだった。