38) ランリィいわく「伝説を見てしまいました」
いきなり、すぐ目の前が盛り上がり、海中から何かがざばっと飛び出してきた。
若い娘の顔。否、胸から上。
髪が亜麻色で長く、まだあどけない顔立ちをしている。肌が透けるように白く、何も着けていない首筋や肩周りが妙に艶めかしい。
ぎょっとしたランリィを見て、娘はいきなりきゃっと笑い
「あ! エルメル姉様が仰ったのはきっと、あなた達のことね! みーつけたっ!」
もしや海に棲む化け物か、と思い、ランリィは無意識にハルカを背に庇うようにした。
すると。
娘の向こう側で、海中から勢いよく跳躍し、空中で反転してまた海に飛び込んだ生き物がいる。
上半身は裸体の若い娘、腰から下半分は輝く鱗に覆われた魚のような尾ひれ。
――人魚族!?。
目を疑ったランリィ。
半人半魚なる不思議な容姿をもち、水中を自由に泳ぎ回ることができる種族がいるという話を耳にしたことはあったが、実際に遭遇したことはなかった。支えているハルカの重さも忘れて呆然としてしまった。
泳ぎが得意であることを裏付けるように、娘はぷかぷかと浮きつつ
「嵐も悪くないわねー。海の中がかき回されるから、冷たくて気持ちいい」
いかにも愉快そうな声を出した。
そこへ、見事な跳躍を見せたもう一人の人魚がすーっと近寄ってきて
「見つけたのね、リルエンデ。――あら? こちらの方は弱ってしまっているじゃない。早く、島に上げてあげないと」
最初に姿を見せた娘よりも幾分大人びていて、よく整った美しい相貌をもっている。鮮やかな金髪が、無機質な波間にはよく映えた。
口調が落ち着いており、笛の音のように澄んだ響きがある。
「あなた達は? 私とハルカ様を、どうしようというのですか?」
相手が美しい娘とはいえ、警戒しているランリィ。
何しろ、常の人ではないのだ。
が、そんな彼女の態度など一向に気にしていないように、リルエンデと呼ばれた人魚はにこにこして
「エルメル姉様から、このあたりに人間の方がいらっしゃるはずだから人魚の島までお連れしなさいって言われているの! 人間って大変ねー。海に入れば溺れて死んでしまうんだよねー」
「お喋りしてちゃ駄目よ、リルエンデ。この方達とお話ししたいなら、島へ戻ってからになさい」
「はーい、フルール姉さま!」
人魚の島?
聞き慣れない地名が飛び出してきた。そこへ連れていって、どうしようというのか。不審に思ったものの、陸があるならとりあえず連れていかれてもいい。
それにしても、とランリィは思った。
死が迫っていたところへ、降って湧いたような人魚族との遭遇。
こんなことがあっていいものかと信じがたい気持ちだったが、今はともかく、ハルカを無事な場所まで連れて行くのが先決である。身体が冷え切ってしまえば、溺れなくても命にかかわる。
人間や魔族ならともかく、伝説と言われていた人魚族である。しかも、若い娘ばかり。悪いことにはならないだろうという気がしなくもない。
「いいでしょう。今は、あなた達に従います。とにかく、陸のあるところまで連れて行ってください」
そう告げると、フルールといった美女はふわっと微笑んで
「怯えなくてもいいわ。私達は、あなた達を助けに来ただけ。生きとし生けるものを傷つけてはならないっていうのが人魚族の掟だしね」
安心しろ、ということらしい。
人魚達はハルカとランリィの手を引いて海上を進み始めた。相変わらず襲ってくる波に鼻口を塞がれるたびに苦しくはなったが、それでも自分で泳がなくて済むゆえだいぶ楽には感じる。
少し行ったところで、また別の人魚が顔を出した。
白銀色の美しい髪をもった娘で、フルールやリルエンデよりもずっと幼い。
「あ、フルール姉様にリルエンデ姉さま! 海の中でこんなものを見つけたんですけど……。白くてきらきらして綺麗だったので、拾ってきちゃいました」
よいしょと持ち上げて見せたのは、なんとハルカの大剣であった。
「あ、それ、ハルカ様のです! 船が難破したとき、落としてしまったんです……」
ランリィの言葉を耳にしたフルールはうんと頷いて
「エーゼルテ、よく見つけてきたわね。こちらの人間の方のだそうよ。あなたはそれを運んできて頂戴」
「はーい。――と言っても、けっこう重たいです、これ……」
両手で柄を握ってうんうんと唸っている。
相当な重さがある大剣ゆえ、海中だといっても引っ張って泳ぐのはひと苦労らしい。
すると、ぐったりしていたはずのハルカがゆっくりと片腕を上げた。
「そ、それ、あ、あたしが、持つから……」
「ハルカ様! 今は海の中ですし、無理をなさらないほうが……」
「いいの。その子、重そうにしてる、じゃない。あたしの剣だし、申し訳、ないわ」
人魚達が相談し、フルールとリルエンデがハルカを、エーゼルテがランリィを引いていくことになった。二人がかりなら重いものを携えていても大丈夫だろうという配慮である。
ランリィ一人の手を引くエーゼルテはすいすいと泳ぎつつ、何か気になるのかランリィの恰好をじっと見ている。
と、
「あの、あの! そういうのを着ていたら、泳ぎにくくないですか?」
急に質問を発した。
人間でいえば十歳を迎えるかどうかといったくらいの娘である。まだ幼いのか、訊き方が無邪気であった。
さっきよりもだいぶ楽になったため、多少口を利く余裕の戻ったランリィはちょっと苦笑して
「少し、泳ぎにくいかな。海で泳ぐつもりはなかったんだけど、こんなことになっちゃって」
答えると
「じゃあ、脱ぎますか? 私もフルール姉様もリルエンデ姉さまも、何も着けていないですよ?」
「……」
いくら海中とはいえ、真っ裸で泳ぎは御免蒙りたいランリィであった。




