29) ハルカとランリィ、険路をゆく
陽が沈むのを待って隠密行動を開始したハルカとランリィ。
ランリィはポーム東の抜け道を「難路、険路」と表現したが、確かにその通りであった。地形は北に向かって盛り上がっているため上りが続き、しかも道らしい道はない。行けども行けども見上げるような急斜面や絶壁が立ちはだかり、都度二人はそこをよじ登らなければならなかった。足を踏み外したり手を滑らせれば無事では済まないような高さである。
が、驚異的な運動能力を得ているハルカにはさほどとも思えなかった。
むしろランリィのほうが遅れがちで、彼女が転落しないようにとハルカは注意を怠らない。
「申し訳ありません、ハルカ様。先に立ってご案内をすべき私が、このようにお手を煩わせてしまうとは……」
ランリィは悲しげに何度も詫びたが、
「そんなの、関係ないってば! 普通の人はこんなところ、ひょいひょい登れたりしないし」
そう言ってハルカは二カッと笑ったが、同時にふと思った。
(あたし、やっぱり変な目で見られてるんじゃないかなぁ。どう考えたってこの能力、凄すぎだもんね……)
この世界に転移してくるに及び、知らずに身についていた不可思議な身体能力。
アリスなどは「女精エティシアの御はからいでしょう」と好意的な解釈を寄せてくれるものの、実際のところその事情は未だに詳らかになってはいない。エティシアとかいう不思議な存在が本当にいらっしゃるなら、是非詳しく解説をお願いしたい、とハルカは思う。
現行、ガルザッグ帝国によって不当に抑圧されているという状況があり、それを払い除けるためにこの能力を行使しているからいいものの、そうでなければ人々からは気味悪がられて疎外されたか、もしくは悪魔の使いとかなんとかレッテルを張られて牢獄に入れられていたのではないかと思えなくもない。
ただでさえ、アルセスの男性からは化け物でも見るような目を向けられているのだ。まあ仕方がないかと割り切ろうと思う反面、年頃の女性として何か悲しい気持ちになるのは当然かもしれなかった。
よくよく考えてみると、こっちの世界へやってきてこのかた、自分の傍にいるのはウォリスを除けばみんな女子、女性ばかりではないか。ランリィを筆頭にエミー、ヘレナ、アリス。さらには、侍女衆の娘達までもが何かとハルカ様、ハルカ様と慕い寄ってくるようになっていた。
悪い気はしないが、しかし複雑な思いがなくもない。
なぜ、こんなに女子女性ばかり傍にくるのだろう?
もしかして、男の人より強いから?
手を伸ばしてランリィを崖の上へと引っ張り上げてやりながら
「ねぇランリィ」
「はい、ハルカ様!」
「あたし……男の人からは女っぽく見えないのかな?」
唐突な質問に、ランリィは一瞬不思議そうな顔をした。
が、聡明な彼女はすぐにその意図を理解したのか、柔らかく微笑んで
「……ハルカ様。ハルカ様は素晴らしい女性です。このアルセス島の人々は皆穏やかで気は優しいですが、世界の果てといってもいい辺境にあるために、本当に素晴らしい人とはどういう人なのか、それがわからないのです」
「……」
「でも、ウォリス様やベック様は違いませんか? ハルカ様を一人の女性として見て、そのように接していらっしゃるように思います。それはウォリス様やベック様が素晴らしい人とはどういう人なのかを、ご存じだからでありましょう」
後ろを振り向いた。
はるか眼下にうっそうと茂った森林が広がり、その向こう側で空へと続いている。
ほとんど夜の帳が下りかけており、辛うじて地平線のあたりだけが残光によってうっすらとした橙色に染まっている。壮大な景観といっていい。
「――この先、世界が開けていけば、それだけたくさんの人や種族と出会いましょう。本当に素晴らしい人々は、黙っていてもハルカ様の偉大さに気付くはずです。奇異な目線を向けてくる男性がいようとも、どうか、お気になさいませんように」ちょっと笑って「アルセス島の男性は、アルセスの女性だけがこの世のすべての女性だと思っているのです」
ランリィの大袈裟かつ皮肉めいた表現が可笑しくて、思わずぷっと噴き出してしまったハルカ。
「……ありがとう、ランリィ。とっても嬉しい!」
ぎゅっと抱き締めた。
確かに、ウォリスやベックは会って間もないころから普通に接してくれていた。彼らはバルデシア大陸という広大な世界にあってたくさんの女性達を見てきたはずである。アルセス島民男性の女性観云々はさておくとしても、彼らのような百戦錬磨の武人が認めてくれているということは、それなりに大きな意味と価値があるに違いない。ウォリスについては解放戦の際ずっと、彼女を一人の女性として接してくれていたのを思い出す。川を飛び越えるとき、ハルカにお姫様抱っこされた彼のいかにも情けなさそうな顔が脳裏に浮かんできた。
何より、ランリィが言ってくれた「素晴らしい女性のことをわかるのは素晴らしい男性なのだ」という意味の言葉が嬉しかった。
「あたし、ノア君にも怖がられたし、街の人も変な目で見てくるから、ちょっと気にしてたんだ。女の子としての魅力がないのかなぁ、って……。でも、ランリィが言う通りだよね。世界は広いんだし、これから色んな人に出会うんだものね。小さなことをうじうじ気にしてちゃ、先に進めないね!」
元気を取り戻していくハルカに、ランリィも喜びを隠さない。
「今に、世界中がハルカ様の素晴らしさを思い知る日が必ずやってきましょう。そのときはきっと、たくさんの男性がハルカ様のお傍に殺到するに違いありません」悪戯っぽい笑みを浮かべ「――もっとも、今だってハルカ様はとても魅力的です。同じ女の私が羨ましくなるほどですから」
――なるほど、彼女はハルカの大きな胸で顔を挟まれている。
スレンダーなランリィからすれば、肉感的なハルカの身体がことのほか羨ましく思えるようであった。
ともかくも、再び北上を再開した二人。
あたりはすっかり暗くなり、行く手も足元も定かではない。
ハルカにとっては茫々たる闇でしかないが、幸いなことにランリィは夜目が利いた。彼女は足元を確認しつつハルカの手を引いて先導していく。
「どうか十分にお気を付けください、ハルカ様。今、左側はすぐ急な崖となっております」
「ありがとう、ランリィ! 落ちないように気を付けないとね」
そんなやり取りを繰り返しながら先へと進み、森とおぼしき一帯を抜けたところでランリィが脚を停めた。
相変わらずの暗さであったが、おぼろげながらハルカにもわかる。
数歩先は絶壁となってはるか下へと落ち込んでいる。見渡す限り、黒い平面が果てしなく伸びていく。その表面がこまかく揺れ、時折キラキラと小さい輝きを放った。吹き付けてくる風のにおいが、山の緑くさいそれではない。
海。
つまり、アルセス島の北端に到達したことを意味している。
耳をすませば、うっすらと波のさざめきが聞こえる。今日は穏やかであるのか、波音が静かなようであった。
「お疲れでしょう、ハルカ様。ここまで来れば、ポームはもう、目と鼻の先です。この断崖に沿って左手へと進んでいけば、上からポームの街を見下ろせる位置へと出られます」
「ありがとね。ランリィこそ、ずっとエスコートしっぱなしで疲れたでしょ? こうも暗いとあたし、全然役立たずね」
これは確かに身軽な者でなければ行き来できない場所だと思った。諜探兵だった頃のランリィは、いつも一人でこんなところをうろついていたのだろうか。
今はどれくらいの刻限だろう、と呟くと、ランリィは天空を仰いで何かを探していたが
「船乗り星がもっとも高い位置にありますから、ちょうど夜が一番深い頃です」
そのように教えてくれた。深夜零時に相当するとハルカは解釈した。
このまま夜陰をついてポームへ突入してもいいのだが、出来ればドボスの残党がすっかり寝静まっている頃合いが望ましい。とすれば、午前二時にあたるくらいの刻限が適当なのではあるまいか。
ランリィに話すと、ではハルカ様のお考えの通りに、と了解してくれた。
やや、余裕ができた。
「ここで夜食にしておきしょ? 歩きっぱなしでお腹が空いちゃった」
腰に括りつけてあった布袋を取り出した。
中に、パンを固くしたような携帯食、それに植物の茎を切って水を入れた小さな水筒的なものが入っている。エミーが「働く者はまず食うことから、って言葉があるからね」と言って持たせてくれたのだ。腹が減っては戦はできぬ、みたいなことかと、ハルカは可笑しく思ったものである。
はい、といって自分の腰に手をやったランリィ。
ところが、身に着けてあったはずの布袋がない。
来る途中、どこかで引っ掛けて落してしまったようであった。
彼女は苦笑して
「私、エミーさんからもらったのをうっかり失くしてしまいました。でも、まだ空腹でもありませんし、朝まで十分保ちますから。どうか、ハルカ様は召し上がってください」
慣れているから大丈夫だ、と言いたいらしい。
ハルカは自分の分を二つに分けてランリィに差し出し、
「一緒に食べてくれる? 一人で食べてたって、美味しくないもの」
他愛もなくにこにこしている。
「え? あ、あの……」
恐縮のあまり困惑したランリィだったが、やがて両手で押しいただくようにして受け取った。
「ありがとうございます、ハルカ様。お心、頂戴いたします」
「ランリィったら。大事な妹に分けてあげない姉がどこにいるのよ?」
脳裏を、今朝方見た夢の光景が過った。
お互いに寄り添い合えるなら、血縁とかなくたって立派な姉妹だという気がする。
逆に、血縁者であろうとも助け合うつもりがないなら――赤の他人と何ら変わるところがないではないか。




