23) 身命を賭した男
一面ほぼ、闇に満たされているといってもいい。
はるか頭上、申し訳程度に設けられたわずかばかりの隙間から差し込む外界のほのかな光だけが、闇をうっすら和らげてくれているに過ぎない。
ふと、ガチャリという金属が触れ合う音が聞こえたかと思うと、真っ黒でしかなかった壁の下のほうに赤く、縦横の筋が引かれていった。その筋が大きく広がるようにして、弱々しく雑な光がなだれ込んでくる。僅かに、室内の空気が流れた。
ギギギギ、と重く不快な音を立てながら、開いていく扉。
小さな子供がやっと通れるだけの入り口ができると、そこから覗き込んできた顔がある。
「……息はあるかね? あるなら、返事をしてもらえると助かるのだが」
奥にむかって呼びかけるようにして声を発した。
歯切れがよくしっかりしてはいるが、相応に齢を重ねた男のそれである。
赤い光に照らされたその半顔、深いしわが幾本も刻まれており老爺の風ではある。が、尖った耳に細く鋭い両眼が、ただならぬ冷酷さを感じさせた。口調がのびやかであるだけに、一層得体のしれなさを漂わせているのであった。
「……デヴァルド殿、か。魔導兵団長直々のご来訪とは、恐縮なことですな」
やや間を置いて、男の低い声が返ってきた。
低いというよりも、まるで生気がない。かすれがちで、一語一語が呟くようである。
それもそのはずで――暗闇に忍び込んだ微かな明かりが詳らかにしたのは、すっかりと痩せ衰え、皮膚の下に骨ばかりが浮き出た、半裸の男の姿であった。
身に着けている衣装はぼろきれ同然で原型をなしておらず、辛うじて腰回りを覆うだけとなっている。
後ろの石壁に背を預けるようにして腰を下ろしているのだが、足首に巻かれた足枷に繋がる鎖が目一杯伸びきっており、つまり壁際にいることを余儀なくされているのがわかる。囚われの身であった。
不自由な姿勢を強いられながらも、あたかも石像のごとく、微動だにしない。
伸びるがままにされた髪と髭が男の相好をよくわからないものにしてしまっていたが、静かに閉じられた目と穏やかに結ばれた唇が、いかにも彼の心の平衡をよく表している。ばかりか、全身から聖人のように侵し難い気高さを放っており、足枷さえなければとても虜囚の者には見えない。不思議な印象を与える人物であった。
彼が応答すると、デヴァルドといった老魔導兵団長は軽く口を歪め
「ほう、まだ口を利くだけの力が残っているとは驚きだな。さすがは大陸中にその人ありと謳われた最高の魔導使い、ガング・ファーレン師というわけだ。――どうかね、いい加減、意地を張るのをやめにしては?」
「……ガルザッグに協力しろというのかね?」
「ディノ陛下に、と言いたいところだが、お前は承知すまい。バルデシアの安定のため、と言っておこうか。それはお前さん達、ケント族が望んでいたことでもないのかな?」
口ぶりに、老獪さが滲み出ている。
「……何度も言っているのに、まだご理解いただけてないようですなぁ、デヴァルド団長殿」
少しして口を開いたガング。
「私をいつまでも生かしておいたところで、牢獄の無駄遣いですぞ。さっさと処刑したほうがよろしい」
「何を言いだすかと思えば。生かす価値がない者を、我々がいつまでも生かしておくと思うのかな?」
生を諦めきったような物言いに、デヴァルドの表情に怪訝そうな色が浮かんだ。
するとガングは
「――私の魔力を利用したいのだろうが、残念だが協力も何も、私はもう空の器も同然だ。往年のような魔力はとっくに喪った、と言っておるのに、貴殿ほどの高名な魔導使いに、なぜそのことがわからないのか。不思議で仕方がない」
言葉裏に、ありありと軽侮がみてとれる。
何をわかりきったことを、と言わんばかりである。
ガングの決意がいささかも揺るぎないとみてとったデヴァルドは、
「ふん。また七日ばかり、そこで考えるがよかろう。我々が手を下さずとも、このままならいずれお前は死骸になるだけなのだからな。――魔力がないなどと、妙な言い訳ばかり繰り返したところで、この私には通じぬことを肝に銘じておけ」
気分を害したらしく、吐き捨てるように言って立ち去ってしまった。
分厚い扉が閉じられ、牢内にはまた元通りの闇が戻って来た。
息詰まるような静けさの中に取り残されたガングだったが、内心では愉快にすら思っている。
嘘や偽りは一切述べていない。事実だけを伝えているつもりである。
にも関わらず、デヴァルドは一向にそのことを認めようとはしなかった。本当にわかっていないのか、あるいはただ単に認めたくないだけなのか。
もっとも、自尊心の塊のようなデヴァルドは、自らの手でガングを捕らえたことをさぞかし誇りに誇ったことであろう。得意げに魔王ディノに報告する彼の姿が目に浮かぶようである。なおも殺さずにいるのは、ガングの有する強大な魔力を自分がこれから講ずる何らかの施策のために利用したいということであるらしい。そうして重ねてディノの機嫌をとりたいのであろうが、無駄なことを、と、ガングは嘲笑してやりたくなる。
もしも彼がその気になっていたならば、デヴァルド程度の魔導使いを一気に葬り去ることなどわけはなかった。
そうしなかった、もとい「できなかった」のは、バルデシア大陸を含めた世界全体の行く末をよくよく考えたうえで事前にとある秘術を発動させていたからである。世界の将来というはるかに大きな視野からすれば、デヴァルドごときを倒すなど些末に過ぎない。その秘術のためにガングは持てる限りのすべての魔力を費やしてしまい、結果として彼はデヴァルドに屈した。しかし、まったく悔いてなどいない。
この世界の安定と平衡を司る至高の存在・女精エティシアの大いなる力をもって、人智を超えた不可思議の地より世界の意志を具現させるに相応しい存在を呼び寄せるという、最高峰かつ究極の古代魔導――超空召喚。その発動に成功した意義を思えば、デヴァルドに捕らえられたことなど取るに足らない。
もちろん、これまでにそれを行使した術者は存在しない。
なぜなら、この秘術を使うべき「時」を迎えていなかったからである、とガングは推測している。
世界の意志、時、術者、そして招かれる存在。
この四つの要素が一時に呼応してはじめて術は発動にいたる、とある。
代々善良な王を戴いたメスティア王国の統治はバルデシア大陸に長きにわたる平穏をもたらし、六代目カンタスの代において絶頂期ともいえる隆盛を迎えた。であるから、わざわざ世界――女精エティシア――の意志を問うまでもなかったのである。
しかし、ガングの冴えわたる慧眼は、時代の行く末を見抜いていた。
――魔族は、このまま大人しくしてはいるまい。必ずや軍をまとめ、人間達に復讐戦を挑むであろう。そうなれば、この大陸に再び戦乱の世が訪れ、収拾のつかぬことになる。その時こそ、世界の意志を問い、それを具現させる者を呼び寄せる機会となろう。
自らもまた魔族の血を引くガングゆえ、考えなしに人間達を庇おうとしたのではない。
メスティア王国六代目国王カンタスの平和を愛する心、そして人間も魔族も分け隔てない世の中を築きたいという理念に深く共感したからに相成らない。
ガルザッグ軍によってメスティア市が陥落し、辛うじて王女アリスが逃れたことを耳にするや、すぐさま彼は庇護を決意した。が、それは同時に魔族と一戦交えるという覚悟が要ったが、ガングは躊躇しなかった。人間とも魔族とも知れない自分達にどこまでも救いの手を差し伸べてくれたカンタス王、もといメスティアのために身命を賭して報いるつもりであった。彼に心服していたケントの人々も皆、最後の一人になるまでメスティアの血筋を守ることを約束してくれた。
そうして数年の歳月が過ぎ――ケントの人々のほとんどはガルザッグとの戦いで命を落とし、ガング自身は捕らえられて屈辱にまみれた牢獄生活を余儀なくされている。
ケント勢最大の戦力であった彼が、超空召喚の秘術によって魔力のほとんどを喪ったためであり、共に戦ってくれた人々のことを思うとき、ガングの胸は張り裂けんばかりになる。皆、彼のために命をなげうってくれたにも等しいからである。幾度となく自死を考えたりもしたが、それができなかったのは――命の火が灯されている限り、亡くなった同志達の思いを大切にしていたい、という、彼なりのせめてもの恩返しのためであった。
残念ながら、最後の力を振り絞って発動させた術の効果を、ガング自身が自分の目で確かめることは叶わなかった。
ろくに食事も与えられない以上、いつ命が尽きてもおかしくはない。わずかに残余している魔力によって辛うじて生を保っているものの、それが途切れるのも時間の問題であった。
しかし、彼はその成功をいささかも疑っていない。
今現在の自分の境遇が、そのことを証明しているからだ。
(頼んだぞ、世界の意志に相応しき者よ。そなたが必ずやこの世界に再び安寧を取り戻してくれるものと、私は信じている。そなたを呼び寄せることに成功した今、この身などいつ滅んでも悔いはないのだ……)




