俺とオレと、ときどきおれ
腹が減った。
何か食うものは無いか。
俺はじわじわと責めてくる空腹に悶えていた。
冷蔵庫を開けると賞味期限が切れた牛乳パックがただ一つ、真っ白い広々とした空間に居心地よさげに鎮座している。
俺はその殺風景な景色を眺め、自分の生活力の乏しさを再確認すると共に、抑えることが到底できないような猛烈な空腹感に襲われた。
部屋中を隈なく見渡してみても、脱ぎ散らかした衣類の山、使い古しの鼻紙があらゆる所に散乱しているのみで食料という食料は影も形も見当たらない。
「どうしたものか。こういう時、自分の肉を削ぎ落として食えたらなあ。」
俺はひっそりと冗談を言ってみた。
自虐的な呟きは、乱雑に散らかった部屋の中を埃のようにゆったりと蔓延して次第に消えていった。
じりじりと襲ってくる空腹感と戦いながら、俺はふとジーパンのポケットのなかに入れてあった千円札2枚を思い出した。
「あの金があれば外に飯を食いに行ける。二千円もあればさぞかし上等なものが食えるぞ。」希望が風船のように空高く舞い上がった。
俺は急いでポケットを探ってみた。
確かに野口英世の顔がひょっこり顔を出したのだ。
それを確認するとすぐさま、バーゲンセールに群がるオバはんの如く猛烈な勢いで家を飛び出し、ファミレスへと駆け込んだ。
ぽっかり空いた腹を満たすため、到着するなり先早にメニューを手に取った。
うむ。一向に決まらない。
ステーキもいいが、パスタも捨てがたい。
どうしようか。
やはり、飢えた腹を大いに満足させようとするならばステーキが妥当だろう。
しかし、パスタにもパスタなりの腹持ち効果がある。
それにステーキを一つ頼む値段でパスタなら2つ分も食える。最高じゃないか、ステーキは止めておくべきだな。
ちょっと待て。
カレーライスもあるぞ。俺の大好物であるカレーライスがこのタイミングで登場するとは世の中とは残酷なものよ。最後の最後に本命の女の子からアプローチされるのと同じじゃないか、畜生。
さて、どうしたものか。どのレディーにしようかな。
俺はいつの間にか夢想に落ちていた。
ふと気がつくと、俺が一人座っていたはずの四人席に3人のオレが腰をおろしていた。
俺を終始、眉間に皺を寄せながらじっと見つめていたオレは、遂に痺れを切らした様子でこう言った。
「こいつは、いつも優柔不断で決断力に欠ける奴だな、即決力のある人物を見習ったらどうなんだ」
それに反論すべくもう一人のオレが立ち上がって言った。
「彼だって無為に迷っているわけじゃない。与えられた選択肢の中で限りなくベストな選択を取ろうとしている。合理的な選択にはじっくり考える必要があるのだ。」
オレはムッとした様子でこう反論した。
「ファミレスのメニューごときで合理的もクソもあるか。時間は限られてるんだぞ。まず始めに迷う時間が何より無駄であることを認識すべきだ。」
もう一人のオレがさらに反論しようとしたところに仲裁者のオレが割って入った。
「二人とも、争いはやめよう。ご飯は気持ち良く食べるものだよ」
正義のヒーローの如く現れた仲裁者のオレは小学生の喧嘩を諭す先生のように優しく和解を促した。
しかし2人のオレの方からしてみれば、これから議論の盛り上がりを楽しもうとしていた所を挫かれたので、怒り心頭である。
仲裁者のオレに向かって
「てめえは引っ込んでやがれ、クソ野郎」
「偽善者が口挟むんじゃねえよ。このタコが!」
丸く収まると思っていた仲裁者のオレは2人の予想外の暴言に心を完全に折られた様子でわんわんと泣きじゃくりはじめた。
2人はそれに拍車をかけるように更に暴言を浴びせた。
「ほら、気に入らないことがあるとすぐ泣きだしやがる。男のくせに情けないったらありゃしない。」
「こいつのメンタルは豆腐並みに弱い。いまだに乳ばなれ出来ていないガキ同然だ。」
散々に罵倒を浴びせられた仲裁者のオレは、今や生まれたての赤子のように泣き喚き散らしていた。
攻撃することに飽きた2人は元の議論に戻り仲裁者の泣き声に負けじ劣らずの大声で怒鳴りあっていた。
この大騒動を嗅ぎつけた野次馬のオレたちがもの凄い勢いで押しかけてきた。
「おなじあほならおどらにゃそんそん、おなじあほならおどらにゃそんそん。」
次第に全員のオレが頭を振り乱しながら踊りはじめ、狂気乱舞した。
俺はハッと目を覚まし、急いでウェイトレスを呼んだ。
「ご注文おうかがいします。」
俺は答えた
「スマイルください」
要望の代わりに返ってきたのは鉄の拳だった。
俺は頬に激烈な痛みを感じた。
ここは紛れも無い現実だった。