第一話 おてんば姫
ヴェーデルラント共和国の首都オルディンヌ。ヴェーデル海に面した国外交易の中心地であり、国政の一切を仕切る元老院の所在地。
アルティナ大陸の3大国のうちの一つであるヴェーデルラント共和国は、西側の海岸沿いを赤道から北に向かって国土としている。海岸の平行した形で、万年雪積るエヴェルデル山脈がそびえ、ちょうどフレイアス王国との境界線となっている。
首都オルディンヌは、縦長のヴェーデルラント共和国の中央よりやや北側に位置する。冬場には、道路は凍結するが、海流の関係上港は稼働するため、工業が盛んな北部からの製品を運ぶに適していた。
ヴェーデルラントの国土は、面積の半分以上が農業に適した地とは言えない。しかし、エヴェルデル山脈の北部から算出される高品質な鉱石と自生する樹木からの硬質な木材を素材とし、様々な分野において高品質な工業製品を他国に輸出していた。
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ティナ・フォン・ベルデンダーグは、ヴェーデルラント共和国の元老院に席を持つベルデンダーグ伯爵家の長女であり、今年17歳の美少女か美女どちらかである。そのお嬢様は、オルディンヌ士官学校へ出校途中、幼馴染の住む中級住宅街へ足を今日も一人運んでいる。その彼方後方には、息を切らした従者と思われる男が二人追いかけてきている。
「バージ!どういう事よ、この私にこんな汚いドアノブを回させるなんて!」
ティナが手にしたドアノブは一般に見て決して汚いわけでは無かったが、バージと呼ばれた少年が住む家は、中級住宅街でもとても立派とは言えない小さな家だった。
「ごめんよ、夏休みの宿題が終わってなくて、今までやってたんだ。そこにちょっと掛けてて。今教本を鞄に詰めてるとこだからさ。」 ティナが勝手に家に入ってきた事理解したバージは、二階の自室から叫び返した。
バージは、今年ティナと同じ17歳になる。昔バージの母マリアンナが召使いとしてヴェルデンダーグ家で働いていた事があった。子供同士気が合ったため、子守に預ける手間も省けると、ティナの遊び役として幼児期を共に過ごしていた。バージが6歳の時に、母マリアンナは不慮の死を遂げた。それから、ヴェルデンダーグ家に出入りする事は無くなったが、ティナは家を抜け出しては、バージと遊んでいた。
「汗くさい商船なんかに良く夏休み中乗ってられるわね。で、何、あんたも少しは役に立つようになったの?」 ティナは、勧められた椅子に座らず台所の方を覗きながら、二階にいるバージに叫び返す。
「頑張ってはいると思うけど、お父さんには、足元にも及ばないよ。つい十日前だって、翌日シケが来るって言い当てたんだよ。船長も気が付かなかったのんだよ!その嵐を回避するために予定より帰るのが遅れちゃったんだけどね。」
「あーでたでた。お父さんお父さん。あんたは、いつまで経ってもそれなんだから。だから、ファザコンなんて呼ばれるのよ。」
準備が出来たバージ達は、話しながらそのまま家を士官学校に向かって歩いていく。やんちゃな性格なティナであるが、振る舞いそのものは貴婦人そのものであり、やや大顔なもののずば抜けて美しい容姿を持っていた。そんな彼女を少なくない通行人が後ろを振り返り見る事になる。
ティナは、普段は馬車で移動するのだが、身分違いのバージを馬車で送り迎えするのはまずいと父親に指摘され、それならば歩くと言い張り、以来二人は従者を前後に待機させつつ、歩いて登校している。
バージの父ウェルツは街でも有名な腕利きな航海士で、到底貧乏だったわけではなかったが、バージは国内随一のエリート学校であるヴェーデラント士官学校に入学できる身分ではなかった。
しかし、ティナの九割の一方的な我儘と一割の機転が功をなし、バージは聴講生として特別に入学を許可された。聴講生というのは、いくら在学しても士官にはなれないという意味であったが、士官と同じ水準の教育を受ける事は幸いであった。
身分違いやらで当初は差別やらもあったが、事ある度にティナの細い堪忍袋の緒が切れ、ティナの負けん気な性格と男を凌ぐ喧嘩強さで、バージをイジメる者は蹴散らかされていった。
学校が終わり、バージがティナをベルデンダーグ邸宅まで送り届ける、いや、送り届けさせられるのが日課になっていた。この日も例外ではない。
ティナからのバージの夏休み中の船旅に関する質問ラッシュもあり、受け身勝ちで無口なバージもティナの前ではやや口数が増え、二人の話しは途切れる事を知らない。
いずれ、ティナが邸宅着くとひょろっとした背の高い青年が姿を現した。
「やぁ、バージ君。また海焼けして帰ってきたね。うんうん、お父さんに似てきた。」
ロイド・フォン・ベルデンダーグ、落ち着いた佇まいと笑顔が似合うこの優男は、ベルデンダーグ家の次男、つまりティナの兄の一人である。
「ロイドさんの方こそ紳士服がすっかり板についてますよ。少し痩せられたんじゃないですか?」
肌黒くなったというか赤焼けしたバージは、心からロイドとの再会の喜びを表した。白肌人種であるヴェーデル人は、海焼けしても肌黒くならないが、水夫は水夫と一目でわかるものである。
今年十九歳になるロイドは、厳しい現場訓練の過程を終え、士官学校を卒業したところで、社会経験のためにと父親の元老院の仕事と長男の商売を少し手伝ったりしている。兵力は戦争を回避するための外交のカードでしかないヴェーデルラント共和国にとって、士官学校を卒業したからと言って、すぐに兵役に就かせなければならないほど切羽詰まってはいなかった。
「はは、そうか、少し痩せたか。君が居てくれないと胃を悪くしてしまうよ。おてんば姫のお蔭様でね。」
小さい時からティナの「無邪気な迷惑」を一緒に尻拭いしてきたという事で二人は共感を覚えてきた。この共通の関心事があったためか身分を超え、健全で対等な友情がこの二人には育まれてきているのである。「おてんば姫」とは、二人の間だけで彼女の事をさす時に使う暗号だったが、今では町で彼女を噂する時に誰もが使うようになるほど広まっていた。広めたのは、バージなのかロイドなのか知る術はない。