さよならのタイミング 前編
世界はいつから狂ってしまったんだ?
重苦しい鬱積を抱えながら、石田は胸の内で呟いた。
溜息を吐く。それと同時に体から力を抜いた。
ありとあらゆる抵抗を止めるようにして、慣性の力に身を委ねる。
本皮製のシートがそんな彼の体をじんわりと受け止めた。
自分の持つ車よりもよほど質が良いだろう。
そんな感想が何となく浮かぶ。職場の公用車であるこの車は、世の中の市民が税金の使い道を憤る理由にはなりそうだった。
上質のシートに身を委ねながらサイド・ウインドウ越しに景色を眺める。
遠くに見える山々。その下半分は道路脇に建てられたフェンスで遮られている。
高速道路では、近接の建物は見えないようになっていた。
確かわざとそうしていると聞いた事がある。石田はそんな話を思い出していた。
ドライバーの目に配慮してのことだったか?
あまり目まぐるしく動く物があると、運転を誤りやすいと言うな……。
チラリと運転席に座る部下に目を向ける。
岡村という名の、若くそしてどこか冴えない男の顔がそこにあった。
大学を出てから幾ばくも経っていない岡村に対し、自分の方は定年間際だ。
ちぐはぐな組み合わせは、どういう意図があって組まれたのか分からない。
首を動かしたついでに、石田はフロント・ガラスの先に広がる道路を見た。
白く長く伸びた白線。それは途切れること無く流れては消えていった。
この車はどうやら遮音性に優れているらしい。
音も立てず、ただ緩やかに流れていく景色を、彼はただぼんやりと見つめていた。
何もかもが流れていくのは気持ちが良かった。
止まる事が無ければ、余計なことを考えなくて済む。
望むのは平穏だけだ。他は何も無い。
公安警察に勤める人間が望むような考えでは無いかもしれないが、立場が望みを決めるわけでも無いだろう。
(想いも、希望も。なるように考えるしかないな……)
若さは消え、老練さと呼べるものを身に付けた今となっては、それが石田の哲学となっていた。実際、今の彼の境遇にはその言葉が必要となっている。
テロリスト。異常な思想を持つ邪悪な人間。
そんな輩を追いかけていたはずが、今の彼が追いかけているのは不気味な科学現象だった。
ホログラムのように再現された人間の魂。
いや、違うか。石田は己の考えを訂正した。
あれはある種のアルゴリズムを繰り返すだけの、ただの映像だ。
まるで本当の人間のように見えるが――ただの幻影に過ぎない。
それでも、ただの一般市民のように見えるホログラムを追うのは気分が滅入る。
正義、という名の僅かばかりの矜持すら奪われた気分に浸りながら。
再び横目で眺める景色は、車の走るスピードに合わせて後方へと失われていった。
悩みなどいらない。ただ無心でありたかった。
しかし部下の岡村はそんな彼の気持ちには気付かなかったようだ。
気を利かせたつもりなのか、運転席から明るい調子で話しかけてきた。
「石田さん、ホログラム現象って馬鹿馬鹿しいネーミングだと思いませんか?」
よほど高価な防音材が使われているのだろう。
高速道路を走っていると言うのに、車の走行音はほとんど車内には届いていない。
それもまた余計な気遣いに思え、石田は密かに溜息を増やした。
雑音でもあれば聞こえないフリでも出来ただろうに。
「幽霊現象って呼ぶよりはマシだろう」
淡々と返事を返す。うんざりとした声音は、我ながら気が滅入るものだった。
ホログラム現象。それが目下、石田達を悩ませている事件だ。
まるで本物のように再現される人間らしき物体。
それによって引き起こされる様々な事件。その解決が石田と岡村の仕事だった。
「幽霊ですかー。まあ確かに幽霊みたいですよね。石田さんは幽霊って居ると思いますか?」
「あまり信じてはいないな。お地蔵さんや神社にはそれなりに敬意を払うがね」
その後も色々と話を振ってくる岡村に生返事をしながら、石田は事の始まりを思った。
ホログラム現象の発端。そう、あれは暑い夏の日だった――
今から十年前のある夏の日に一つの爆破テロ事件が起きた。
犯人が捕まらず、犯行声明も出されなかったその事件。
唯一分かっていることは、量子コンピュータに関する画期的な技術が盗み出された事だ。
盗まれた物は光を閉じ込めるという素子だった。
特殊な結晶構造が用いられたそれは、光の位相を記憶出来る代物だと言う。
何を思ったのか、犯人はその結晶構造体を量産し、世界中にばら撒いた。
その結果起きたのがホログラム現象である。
閉じ込められた光。それは不可思議な幻影を生みだした。
空間に再現されたホログラム人間は、まるで本物の人間のように振舞うのだ。
光の記憶が人の魂を再現するとでも言うのだろうか?
そうして再現された人格映像達の行動には、一定の規則性があった。
もう一人の自分を殺そうとすること。生前に関係のあった人物を死に誘うこと。
まるでお伽噺の中の妖怪や幽鬼のようだ。
そして石田達の仕事が誕生したというわけである。
さながら現代の退魔師と言ったところか?
人生がどう転んだらそんな事になるんだろう、と溜息を新たにしながら、石田は岡村に話しかけた。
「ホログラム現象の反応が出たのは、大学生の男女が住むアパートでよかったな?」
最近では事件の件数が多過ぎて、事前に情報に目を通す時間が無い。
重い腰を上げるようにして問いかける彼に、岡村はやけにハキハキした口調で答えた。
「住んでいた、って言った方が正解ですね。といっても女性の方は今も住んでいます。いや男性も住んでいるみたいなんですが……。ややこしいなぁ」
要領を得ない返事。しかしそんな事はホログラム現象には付きものだった。
別段苛立ちを覚えることも無く、石田は落ち着いて問い直した。
「どっちかが死んでいるってことだろう?」
ホログラムで再現されるのは死んだ人間だけでは無い。
しかし今回は死んだ人間のホログラムなのだろう。そう直感しながら石田は言った。
「はい。男性の方が三ヶ月前に事故で死亡しています。名前は……確か相沢蛍介です。女性の方は立山由依。事故で死んだ相沢は、一緒に暮らしていた立山と恋人同士だったようです」
「二人の関係は良好だったか? 男の死因になにか不自然な所はあるか?」
抜き身の刀のような声で尋ねる。
思考を研ぎ澄ます時、自然と言葉は鋭利になった。
犯人を追うことを長く続けたために、体に身についてしまった習慣だ。
孫から怖いと思われる原因でもある。いつかは直したい習癖だった。
ホログラム現象という奇妙な現象も、人はすぐに利用しようとする。
アリバイ作り。偽装。まるで本物の人間のようなホログラムは、容易く錯誤を生み出す。
詰問するような石田の言葉に対し、岡村はさして何も感じなかったようだ。
淡々とした口調で返事を返した。
「無いですね。一般的なカップルだったようです。事故の方もただの交通事故のようですしね」
「今は見ず知らずの人間と交換殺人を計画するような時代だ。ただの事故と言い切れるか? 県警の調べ方は、言っては悪いがさほど丁寧では無い」
生きた人間のホログラムが生まれた場合、人はその存在を利用して殺人事件を起こしたがるものらしい。
可能性に気付いた市民達は、色々と悪いことを思いつくものだ。ホログラム現象を利用して死亡推定時刻を誤魔化せる、などとよくも考えたものだ。
過去に実際にあった保険金殺人を思い起こしながら言う石田に対し、岡村は率直な言葉を返す。
「県警の調査の方針については僕からは何とも言えませんが……。特に不自然な所は無いですよ? 犯人は飲酒運転のドライバーのようですね。事故後に逮捕されています。普段から常習的に飲酒運転を繰り返していたようですから、特に疑わしい所はありません」
「飲酒運転か……」
犯人が飲酒運転の常習犯だと言うのなら、事故の計画性は薄いだろう。
偶々、偶然、運悪く。そんな言葉を頭の中で並び立ててから言った。
「酷いもんだな。大学生ってことはまだ若かっただろうに。私にも中学生になる孫がいるが、被害者になったらと思うとゾッとするよ」
「若い子が被害者になるのはキツイですね」
お前も十分若いだろう、と揶揄する石田。
岡村はどこかはにかんだように声を明るくした。
「それにしても、お孫さんはもう中学校なんですね。色々と難しい年頃でしょう?」
「いや……。まあ確かに、少し強情なところがあるな。誰に似たのかな。なんとなく気持ちは分かりやすいがね。私の若い頃を思い出すよ」
滔々と呟きながら、彼は自分の孫の顔を思い浮かべた。
誰に似たのかと言いながら、自分にこそ似たのだと確信していた。
我が子は全く自分には似なかった。
顔付きはそれなりに似ているが、性格は水と油もいいところだ。
顔を突き合わせるたびに罵りあいが絶えない。
その代わりとでも言うように、孫の方は自分にそっくりだった。
不思議な繋がりのようであって、よく聞く話でもあるような気がした。
思えばそう、孫の名前を付けたのも私だ。
特に強硬したわけでは無いが、息子夫婦は私が参考程度に言った名前を採用した。
恐らく気を使ってくれたのだろう。
孫に海理と名付けた経緯を反芻していると、隣から声がかかってくる。
男の子ですか? と訊いてくる岡村に、そうだ、と短く返す。
すると岡村はお世辞を言うようにして続けた。
「男の子だったら少しくらい強情な方がいいですよ。それにしても中学生っていうと、ちょうど初恋を経験する頃ですね」
「初恋か……」
石田は自身の記憶を呼び起こそうとした。
しかし遠い日々は色褪せてしまい、上手く思い出すことが出来なかった。
「私のそれは、もう何十年も前のことだな」
諦め、淡々と呟く。
そんな彼とは対照的に、岡村のそれはまだ生々しい記憶のようだった。
「初恋って実らないって言いますよね。僕も結局、何も出来ないまま終わっちゃったな」
「終わったのなら次を探せばいいさ。お前も若いんだ、恋なんていつでも出来るだろう」
からかうように言う石田に、部下の男は冗談交じりに応えた。
「石田さんも新しい恋を探しているんですか? まだまだ現役でしょう」
「バカいえ」
くつくつと苦笑を返す。
新しい恋? バカな。今さら女房以外の女のことを考えるのは億劫だ。
「そう言えば、今回のターゲットも恋人同士だったらしいな」
思い出した風に彼が言うと、車内の空気は少し重くなった。
そんな空気がそうさせたのだろうか?
岡村は少し声のトーンを落としながら次の話題を振ってきた。
「石田さんならどうします?」
「なにがだ?」
「その……もしも奥様が亡くなられたとしてですよ? そのホログラムが現れたらどうしますか?」
途端に車内は静まり返り、無音だけが響く。
言葉を失った空間は驚くほど居心地が悪かった。
石田は溜息の代わりに言う。
「女遊びもオチオチ出来ないな。怖い時代になったもんだ」
空気を変えようとした軽口は、ただただ乾いた響きだけを残した。
もしも愛しい人が死んで、そのホログラムが現れたら? 答えは決まっている。
そんなこと考えたことも無いし、考えたくも無い。
だが現実を無視するわけにもいかないだろう
フロント・ガラスの向こうに見える道。白線が流れていく。
抗うことも出来ないまま、世界は狂っていた。
石田達が乗る車は、インターチェンジまで来たところで高速道路から降りた。
下道に入り、いよいよ目的地が近付いて来る。
なだらかなカーブの続く、見通しのよい道がしばらく続いた。
「コスモス、か」
「なんですか? 石田さん」
「いやなに、もう秋だなと思ってな」
サイド・ウィンドウ越しに見えるコスモス。
風に揺れる花の群れが遥か後ろに流れていく。
瞳に映る白い花は徐々に途切れ、やがて見えなくなった。




