リトル・グッバイ 中編
「は、はぁ?」
意味が分からない。
俺は自分の目に映った物を何度も分析しようとした。
……何度見てもベッドに横たわっている人物は俺にしか見えない。
え~と、あれ? なんだこれ?
脳に届いた視覚が上手く把握出来ない。映像と知識がリンクしない。
ありえない光景を前にして、俺はフリーズしていた。
(おいおいおいおい、なんだこれ、俺は夢でも見てるのか?)
思考が止まった脳。足元からは異様な浮遊感が漂いだしていた。
遠のいていく床の感触を繋ぎとめるようにして、必死に頭を巡らせる。
まず第一に、俺は一人っ子だから兄弟なんていない。
それに、従兄弟のマサミチだって俺とは似ても似つかない容姿だ。
もしかして俺には生き別れの兄弟でもいたんだろうか? しかも双子の兄とか弟とかが。
なにかの事情で他の家で育てられて……って、そんな話が現実に存在するわけが無い。
こめかみの横からドクンドクンと聞こえてくる。なんだか目が痛くなってきた。
指先が不規則に震え出す。激しく動く心臓が、体の末端に過剰な血液を送っている。
ハッ、ハッ、と喘ぐように浅く短い呼吸を繰り返した。
皮膚の表面は熱いのに、体の芯は怖気を感じるほど寒い。
(となると……よ、妖怪か!? ええっとこういうのは、ドッペルゲンガーって言うんだっけ!?)
不意にそんな言葉が頭に浮かんだ。
ドッペルゲンガー。それは確か、見たら死ぬと言われているもう一人の自分のことだ。
見たら死ぬ。その言葉の持つ不吉さが脳裏を駆け巡った。
足元がガクガクと震え出す。おいおいマジかよ、冗談じゃない。
見間違いである事を祈りながらもう一度部屋の中を覗いてみる。
そこには、やはり間違いなく俺の姿があった。
(ふ……ひっひ?)
シャレになってねーよ。笑うしかない。ドッペルゲンガー?
どうして、なんで、俺なんかのドッペルゲンガーが……?
そういうのはもっとこう、世界を救うために戦ってる奴とかに生まれるべきだろ?
だってほら、俺だと全然ドラマにならないし。
妖怪退治なんてしたことが無い。ドラマチックな人生を送る予定も無い。
だから俺のドッペルゲンガーなんかが居ても、何の意味も無い。
それにほら、こういうのはもっと前兆があるはずだろ?
普段から何かが見えてるとか。知人に寺生まれの先輩がいるとか。
自慢じゃないが、今まで妖怪を見たことなんて一度も無いし、見える知り合いもいない。
(いや待てよ、今さっき見たから一度は見たことになるのか?)
思い直し、もう一度事態を把握しようと試みる。
妖怪。今日を皮切りにして、俺の霊能バトルが始まるのだろうか?
ジッと手のひらを見る。もしかしてここからパワー的な物が出たりするのか?
そしてさっきの妖怪を華麗に退けたり。
……いや待てよ、妖怪ごとに弱点が違ったりするかもしれないな。そういうもんだよな。
今はパワーより頭脳の時代だった。
セオリーに則り、俺は底の浅い知識を必死に掻き集めた。
ドッペルゲンガーは、確か見たら死ぬ妖怪……初手でアウトじゃねえか!?
やっぱり俺のドラマなんて始まらねーし、手のひらからパワーなんか出ねえよ!!
「ひっ……! ひっ……!」
自分の口元が引き攣るのが分かる。
横隔膜が制御不能になり、震える胸から空気が押し出される。
搾り出されたそれは、掠れた声になって外に漏れ出し、奇妙な悲鳴に変わっていた。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!!
まだ見て無い、まだ見て無い!! セーフだって!!
まだちゃんとは見て無い!! だから大丈夫だ!!
チラッと視界に入っただけだし、まだ見た内にはカウントされてねーはずだ!!
逃げろ、と頭のどこかで誰かが言う。
その言葉に従って、息を潜めながら部屋から遠ざかる。
音を立てないように手摺を掴みながら階段を下りていく。
汗でぬるぬるになった手のひら。まるで血液が氷に変わったかのように、胸元から全身に寒気が走っていく。ドクン、ドクン、と波打つ心臓の音。それがやけに騒がしく聞こえた。
「はぁ~…………」
太陽はいよいよ沈みかけている。
強烈な西日に照らされながら、俺は公園のブランコまで戻ってきていた。
「マジかよ……。誰も望んでねーよ、こんな展開」
キィコ、キィコと掠れた音を上げながら。
ブランコに座り、どうしようも無いまま、意味も無く体を揺らした。
そっと辺りを見回すと、暢気にヒマワリが咲いているのが見える。
琥珀色の世界の中に揺れる黄色の花。
やがて至る夜に気付かないまま、風に吹かれていた。
変わらない風景。見慣れた光景。
どうして俺だけがシリアスな展開に投げ込まれているのか?
考えても分からず、ジッと手のひらを見つめる。
「やっぱり"波"は出ないよなぁ……。寺生まれじゃないしなぁ」
当たり前の事実を今さら噛み締める。
じゃあどうしろって言うんだ? 俺は誰にとも無く愚痴った。
ドッペルゲンガーなんて物だけ現れて、肝心のヒーローは現れない。
そんなのズルじゃねえか。俺にどうしろって言うんだ。
「……あ! そう言えば家に母さんを置いてきたままだ!」
ドッと嫌な汗が吹き出した。
マズイ、早く引き返さなきゃ、と思った次の瞬間、別の考えが浮かぶ。
(――母さんは本物だったか?)
思えば声だけしか聞いていない。
声だけで母さんだと判断したけど、実際は何か別のモノが声真似をしていただけじゃないのか……?
つま先から、指の先から、頭のてっぺんから。現実感が徐々に乖離していく。
キィコ、キィコというブランコの立てる音。か細い悲鳴が響いては消えて行く。
どうなってるんだ? 何が起ころうとしてるんだ?
疑問は解けないまま、なんとは無しに前の方を見やった。
……ん? なんだアレ? 視界の端に黒服を着た二人の男が映る。
老人の若者のコンビは、ごちゃごちゃと喚きながらこっちに近付いて来た。
「早くしろ岡村」
「ちょっと待って下さいよー、石田さん」
どうやらジジイの方が石田で、若い方が岡村という名前らしい。
どうして二人はこちらに近付いて来るのだろう?
男だって危ないわよ。そんな母さんの言葉が現実味を帯びてきていた。
「やあ、こんにちわ」
「あ……こ、こんにちわ」
ジジイは穏やかな声で挨拶をしてきた。
思わず返事をしてしまう俺に、ジジイは胸元から何かを取り出して見せた。
「私達はこういうものでね」
そういって手帳のようなものを掲げる。
警察が持つような黒い手帳には、金色の字で組織名が書かれていた。
「公安調査官?」
警察の人ですか、と尋ねる俺に対し、ジジイは淡々とした口調で「そんなような物だ」と答えた。
「平たく言えばパトロール中なんだ。あまり子供が夜遊びしないように見回りをしていてね。……もうすぐ日が暮れるな。今の若者にはまだまだ早い時間なんだろうが、我々のような立場はそうも言っていられなくてね」
石田さん、と若い方の警察官が咎めるように言う。
しかし俺の見たところ、石田と呼ばれたジジイはあまり気にしたようでは無かった。
そんな二人のやり取りに嫌な予感を覚えた俺は、そそくさと立ち去るようにして言った。
「も、もう家に帰ります。ははっ、別にやることもありませんし……」
言葉とは裏腹に、俺の足は動かなかった。
カタカタと震える指先でブランコの鉄鎖を握り締める。
家に帰るのは怖かった。まだもう一人の俺が……ドッペルゲンガーが居るに違いない。
それを思うと体は動かなかった。曖昧な笑みを見せながら、決して動かない俺。
自分でも感じるほどの挙動不審さだ。警察の目にはどう映っているんだろう?
俺の予想通り、ジジイの刑事は訝しむような視線を向けてきた。
「どうも君は、家に帰りたくないようだね」
「いやっ!? そんなこと無いっスよ!」
ドクンドクンと脈打つ心臓。頭の中を言葉の羅列が駆け巡る。
ドッペルゲンガー。見たら死ぬ。逃げ出した先で警察から説教。
もう何がなんだか分からない。
俺の日常はどこへ行こうとしているんだ!?
見上げると空は暮れかけ、レモン・イエローに染まっていた。
立ち並ぶ木々。優しげに吹く風の中、遊具をバックにしてヒマワリの花が揺れている。
こんな時だって言うのに、珍しくも無い光景だけが広がっていた。