隣のドS様
桜の季節に引っ越して、大学にも慣れ順風満帆。ところがどっこい。
隣人はとんでもないドSでした。
隣のドS様
「うわーん! かんべんしてくださ―い!」
床に這いつくばった私は布巾片手に訴えた。
「うるさい。早くやれ」
すっかり見慣れたイケメンにぐりぐりと背中を踏みつけられる。
「イダイ!」
「口を聞かず手を動かしな」
ううと泣き言混じりに手を動かす。キッチンと三往復もしたのに。
「もう大丈夫ですって―!」
「黙ろうか。牛乳の臭いは後に残るって知らない?」
人を踏みつけながらどや顔しくさって。
「せっかくのイケメンのクセに所帯じみてる!」
「誉めたら僕の足が緩むとでも?」
「都合の悪いことは聞こえてないよ、この人!」
「……」
無言の圧力プラス背中に加わる更なる圧力!
「ごめんなさい―!」
怒鳴られながら思い出す。ああ、なんで他人の家のリビングの床吹いてるんだろう。
「君が転んで朝飯ぶちまけたからでしょ」
エスパーですか。
「君考えてることたま―に小声で呟いてるよ?」
「うあああ!」
そもそもの出会いが強烈だった。
あれは新入生歓迎(飲み)会で疲れきった私がよろよろと帰ってきた夜のこと。
私の部屋の前に彼は座り込んでいた。
目深に被った帽子によれよれの服で凄く怪しかった。おまけに酒臭かったし。
「うわ―、最悪」
成人男性は重い。仕方なくずりずりと引きずって横に寄せるとさすがに気づいたらしい。
「う……」
「大丈夫ですか?」
声をかけると彼はふらふらのまま立ち上がりこう言ったのだ。
「ん……。お休み、かずひろ」
誰だよ。『かずひろ』誰だよ。一文字しか合ってないよ。
「って、ええ!?」
しかも何を思ったか彼は無造作にドアを開けると中に入っていってしまったのだ。最悪警察に連絡しようと思いながら私も部屋に入った。
「嘘でしょ……」
彼はソファだった物の上で爆睡していた。
その後彼を動かそうと奮闘したが体力も気力もなく、私は諦めて寝ることにした。明日のことは明日になってからでいいや、とか思いながら。
その選択を大いに後悔するとは知らず。
「……て下さい。あ―くそっ、いい加減に起きろ!」
「ふぁい! お母さん!」
朝の定型文を聞いて飛び起きた私は目を白黒させた。
「僕は君の母親ではない! じゃなくて、何だこの部屋は!」
目の前に仁王立ちした二十代半ばくらいの青年はバッと部屋の中を指差した。
「えーっと……汚部屋?」
彼が指差した先は足の踏み場もなかった。引っ越し荷物を後先考えずに出しまくった結果がこれだ。因みに隣の部屋のソファだったものもここと同じ惨状だ。
「信じられない……」
冷静に考えてほしい。いつの間にか我が物顔で部屋の批評をしてる男性をあなたはどうする。
「あの、それより」
「出てけ」
「は?」
「ここから今すぐ出なさい!」
それはこっちのセリフだ。言う間もなくずりずりと引きずられ隣の部屋に投げ出された。
「ちょっとな、に……」
文句は最後まで言えなかった。
彼が居座っていた部屋はソファ含め、すっかり綺麗になっていた。
「嘘……」
いやコレ実家より綺麗だよ。
あんまりの美しさに呆然としてるとポンと肩が叩かれた。
「君は朝飯でも作ってて。もちろん僕の分も。僕は向こうを殺る」
「今漢字変換間違ってた!」
「……あんまり遅いと家中ガサ入れするよ?」
「ええ!?」
脅しに負けた私は素早く食事を作り、なんとか彼の時間制限に間に合ったのだが。
1LDKの内、リビングダイニングと私室を制覇した彼は無言のまま朝食を平らげた。
「ご馳走様でした」
「あ、お粗末様でした」
えっ、ちょっ、これどうしよう。なんで知らない男が部屋でお茶すすってんの。しかもプライベートゾーン全て見られたし。片付けてもらっちゃったし。この人頭おかしいんじゃないの。
「頭がおかしいのは君だろ。あんなゴミ部屋、息もしたくなくなるから」
「なんで考えてることわかった!? エスパー!? エスパーなの!?」
「それに一泊のご恩もあったし」
「そのご恩の相手を叩き起こして朝食作らせたくせに!?」
「ねぇ、取引しない?」
「へ?」
今思うとそれが罠だった。
「君は掃除が苦手」
「あ、はい」
得意だったらあんな汚さにはならない。
「君の料理の腕は悪くない」
わー初めて誉められた。
「ありがとうございます」
「なら僕は君の部屋を定期的に掃除してあげるから飯作ってよ」
「あ、はい。ってええええ!?」
「はい。言質取った。今更言い訳しないでよ? 見苦しいから」
「見苦しいってヒド! というか、なんで、つかあなた何」
「僕はこのアパートの隣の住人。毎日面白い鼻歌を聞かせてもらってるよ、お隣さん」
「う、うあああ! 色んな意味でショックだ!」
「はは、面白いね君。隣の部屋とはいえ汚部屋とか嫌なんだよね」
「どうしよう自己中な上に潔癖症だ、こいつ!」
「そういうこと。今日からよろしくね?」
彼の有無を言わさない微笑みは真っ黒でした。
あれから数週間。そんなドS様に背中を踏まれ床掃除なう。
どこで間違った私。いや、私は間違ってない。ドS様に出会ったのが運の尽きだった。
「手止めないでね」
ぐりぐり。そろそろ背中がマジで痛い。もうやだ。床は綺麗になったのに。これはただのイジメだ。
背面に立つドS様をキッと睨む。
「もうっ、いい加減にしてよ!」
ペチンッ。間抜けな音が響いた。牽制にと思って後ろ手で投げた布巾がドS様の花のかんばせをクリーンヒットしていた。ナイスコントロール。
「あ」
「……ちっ」
「え、ドSイッチ入った……?」
「だったらどうするの?」
「こ、“こんな時どんな顔すればいいかわからないの”!」
「“泣きわめいて許しを請えば”いいと思うよ?」
「そこ“笑えば”だからぁっ!」
「そんなネタ知るとでも?」
「ネタってわかってるじゃん!」
「うるさいよ、偽綾波」
「二文字しかあってないだと!?」
「大丈夫。二文字でも大して変わらないよ」
「フォローと見せかけて残りの一文字の存在意義奪いやがった!」
「そんな。人聞きの悪い……」
「しおらしい顔すれば許されると思うな! だいたいなんで背中をぐりぐり踏む必要があるのさ!」
「踏みつけられて苦しそうにしてる女の子って可愛いよね!」
「ひぃぃ根っからのドSな答えが返ってきたっ!」
「可愛い可愛い。特に君の苦悶の表情は見てて楽しくなってくる」
「嬉しくない! 言葉の端で可愛いって言われたはずなのに欠片も嬉しくないよ!」
「じゃあ真面目に言おう。君は料理が上手で健気でとっても可愛いよ」
「ええい、にっこり笑うなイケメンが! どうせ小間使いとしか思ってないくせにぃっ!」
あっやべ。本音漏れた。
足が外される。恐る恐る見上げるとドS様は案外真面目な顔をしていた。
「小間使いとは思ってない。君は僕にとって……」
えっ。こんなラブい展開気味がわる、いやなんでもないです。
さっきまでどこか憂いを帯びていたドS様がいきなり不機嫌そうに目を細め、最後にはにっこりと微笑む。もしかして私今呟きましたか。
「……大切な奴隷だから!」
「ヒドい!」
「何言ってんの。君は奴隷で僕は主人。わかりやすいね」
「健全さ! 簡単さの代わりに大事なもの失ったから!」
「ははは。不健全な関係なんだ僕たち」
「目が笑ってないし、意味が違う!」
穏やかに晴れた春のある日。今日も隣人はドSなようです。