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■ささめごと■  作者: のの
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ささめごと

ゆっくりと目を開ける。

まだ、自分、というものの存在が確かにある。しかし、蘇芳の身体をねっとりと覆い尽くす液体は、その輪郭を曖昧にした。

木と同化し始めたのだろう。 もう痛みはない。

樹液を流し尽くしたのか、ただとてつもない虚無感だけが、背中から波のように蘇芳を襲う。

これは、あの白い人の形をした、木の心なのだろうか。

波は満ち引きを繰り返し、消える事はない。蘇芳は目を閉じた。

苦紋師の苦しみと同じだった。

ふと、胸が締め付けられて顔を上げる。

誰かが、呼んでいる。名を、呼んでいる。

「蘇芳さん」

薄い月明かりに照らされ、鶸が立って居た。息を乱し、呆然と蘇芳を見つめていた。

「鶸」

蘇芳が漏らすと、鶸の肩にとまった鷹が頭を揺らした。

「萩がお前を」

鶸は首を横に振った。萩は大きく羽ばたき、飛び立つ。

「私が頼んだんです。蘇芳さんのいる場所へ連れて行って、と」

鶸は着物の袖を捲り上げ、あらわになった細い腕を樹液に突っ込んだ。

途端に、皮膚が焼けたような匂いが、むっと立ち込める。

「鶸っ」

蘇芳は叫んだが、どんなにもがいても体は動かせない。

鶸はどっぷりと、黒い樹液に浸かりながら、蘇芳の肩を抱いた。そして、力いっぱい引っ張る。

「帰りましょう、蘇芳さん。誰もいないこんな寂しい所にいては駄目です」

しかし、蘇芳の大きな体は全く動いてはくれない。

鶸の肌は腫れ上がり、飛び散った雫が鶸の頬をただれさせた時、蘇芳は木に向かって言った。

「やめてくれ、鶸だけは助けてくれ。俺はお前に喰われてもいい。でも、鶸だけは」

鶸の額が、蘇芳の額に触れた。

「あなたは私と共に帰るんです。そして、瑠璃と一緒になるんでしょう」

鶸はもう一度、強く蘇芳の体を引っ張った。

しかし、耳元に聞こえて来た静かな笑い声に腕を緩めた。

鶸が蘇芳を覗き込む。蘇芳は、悪戯っぽく笑った。

「それはここに居るより、地獄だな」

鶸は目を丸くした。

「もらうと言ったのは、もう一人の娘の方だ」

少し間をおいてから、鶸は、ぴくりと肩を揺らした。そして、顔中を真っ赤に染めた。

蘇芳は、遠い日を見つめるように言った。

「初めて会った時、俺は、忘れかけた心をお前に呼び戻してもらった。それから、人であり続ける為の勇気をもらった」

鶸は蘇芳の、まっすぐな瞳を見る。

「苦紋師は、次の誰かと引き換えに、その道から去る。この約束を守らなければ、木に喰われる。しかし、来た道も行く道も、苦しみからは逃れられない。この木に誓いをたてた日から、人の道から離れてしまう」

鶸はぎゅっと、蘇芳の首元に額を付けた。

「でも、鶸。お前は俺の名を呼び続けてくれた。自分ですら忘れてしまいそうな、いつかは当たり前にあった、人である幸せを感じさせていてくれた」

それから、蘇芳は少し笑った。

「皮肉なものだ。お前に会えるのはいつも、俺が、人から程遠い仕事に身をおいている時だけだ。木の駒となり、苦しみにまみれた力で、我が身に針を立てているそのひと時、鶸の側では、時間を止めたいとさえ思った。いつまでも、こうして居られたら、と」

鶸は蘇芳の頭を抱え、涙を流した。

「鶸、鶸、鶸。何度、一人呟いただろうか。お前がくれた喜びを、俺が返せないのは分かっていた。優しいお前の重荷になるだけだ。しかし、最後の仕事に挑む体は、耐え切れずに願いを口にしてしまった」

娘をもらおうか。

蘇芳の言葉が、鮮やかによみがえる。

鶸は嗚咽した。体が張り裂けそうだった。

「有難う、鶸。ここを去ってくれ。どうか、行ってくれ」

蘇芳はゆっくりと微笑んだ。

「幸せに色があるなら、きっと、鶸に似た色だ。明るく、全てを照らし、包み込む、鶸」

鶸は、涙の溜まった目で蘇芳を見た。唇を開き、蘇芳の頬に両手を伸ばした。

「そうやって、何も告げずに姿を消した後、今度は何も聞かずにひとりで行こうとするのですか」

鶸が言うと、雫が月に光ってその頬を滑り落ちた。と、蘇芳の視界が塞がれた。

柔らかい鶸の唇が、蘇芳を覆う。やがて、滑らかな舌が蘇芳の中に流れ、教えてくれた。

私はずっと、恐れていました。

貴方と過ごす時を奪われ、その先暮らす途方もないこの世の日々を。

「鶸」

小さく動かした唇は、蘇芳の涙を運び、鶸は蘇芳の全てを知った。

苦く、切なく、淡く、甘い。

「蘇芳さん。私達、溶けて、絡み合い、二度と離れる事のない未来を過ごしましょう」

蘇芳は、意識の中で、鶸を抱きしめた。

鶸は、ようやく一つになれた、と胸に顔を埋めた。

蘇芳が、取り巻く泡粒に触れると、鶸が続く。

辺りが黄緑色の光りに包まれる中で、遥か向こうに、白い人の影がうずくまっている。

その苦しみは、蘇芳の、鶸の心に深く染み入る。

鶸は、そっと、ささめいた。

「いつか、貴方が解き放たれるまで、抱えた数多の苦しみの粒を一つ、また一つと、光る喜びに変えて、貴方を巡り巡りましょう。

 貴方にささやき続けましょう」

声は祈りの水となり、誓いの木を駆けぬける。

蘇芳は、鶸の手を取り、果てしない道を行く。

蘇芳と、鶸は、木に溶けた。


夜が明ける。

藍白は膝の上で、幼い娘が目を覚ましたのに気づき、着物の袖を舐め、すすで汚れた頬を拭いてやった。

高い草の茎を折り、中から溢れ出した水を口に含ませてやると、娘が笑顔をみせた。

藍白も少し、笑った。

抱き上げ、焼け焦げた昨夜の道を行く。

幼子は山火事を思い出したのか、漂う煙りの匂いに身をすくませる。

藍白は何度も背中を摩ってやった。その体温が、藍白を包み込む。

昔聞いたわらべ歌を口ずさむと、娘が頬をつやつやと光らせた。

突然、藍白は息をのんだ。力の抜けた腕から、娘がずるり、と滑り落ちた。

尻餅をついた娘は、見上げた空に唇を歪めた。

「お空が、お空が」

藍白は、泣き出した娘の隣にしゃがみ込み、抱き寄せた。

「燃えているんじゃないよ、あれは、希望の花が咲き誇っているんだ」

言う藍白の肩が震える。

目の前の誓いの木には、空を覆い尽くさんばかりの、燃えるような赤の花が咲き乱れ

ている。

「お前を救った人の祈りの声が、聞こえるようだ」

ふいに強く娘がしがみついた胸元がはだけた。

のぞいた肌を見て、藍白は咽び泣いた。

そこにもう、あの黒い苦しみはなかった。

「私や先人を、解き放ってくれたんだね」

激しく泣き出した藍白の頬を、小さな手が撫でる。

その手を掴み、ああ、と声を漏らし、藍白は地面に額をこすりつけた。

蘇芳。

私達は、いつも願っていた。

それは,途方のない夢だっただろうか。

 誰もが手にしたことのない安らぎを得たいわけではなかった。

いつもそこに在った、この苦しみに染まりきった体でさえまだ覚えている、何でもない安らぎの中に、もう一度身を委ねたかっただけなのだ。

蘇芳。

私はこの唇で娘に歌い、人の中でその名を呼ばれ、当たり前の毎日を暮らしていける。

それははるか昔からの、苦紋師の道を辿った先人たちの、長い夢。

蘇芳、蘇芳、蘇芳。

呼び続ける声は、雲のように流れ、いつまでも空を行く。

その空を、主を失った鷹が舞っている。

木が、さわさわと揺れていた。



              ■



駐車場に車を止めると、すでに何台もの車が先に止まっていた。

公園には池や広場もあり、中高年のウォーキングや、家族連れの遊び場にはもってこいの場所だ。

夫がドアを閉め、私も助手席から降りた。

空が高い。

浮かぶ雲をぐるりと仰いで、石段を進む。

ここへは、結婚の挨拶に夫の実家を訪れた時に、一度来たことがある。

この辺りでは、恋人同士がよく願掛けをしに来るんだ、そう言っていた。

その大きな木の幹には、一カ所膨らみがあり、それがまるで人が抱き合っているように見える。

昔、哀しい恋をした男女が、この木の前で永遠の愛を誓って、その身を捧げたのだという。

やがて人々の間に、ここを訪れたカップルは二度と離れることがない、という噂が広まったのだと、まだ恋人だった夫は教えてくれた。

「遠い昔の話なのに、見てきたように言うわね。ニワトリが先か、卵が先か。

 変わった形の幹を見て作ったお話っていう気がするけどね。

 それとも、この町では離婚届を提出しにくるカップルはいないのかしら。

 役場の方なら、よぉく、知っているはずでしょうけど」

私が白けて言うと、君らしいな、と夫は苦笑いした。

「地元じゃあ有名な場所なんだよ、特に若い恋人達にはね」

夫は、君と来られて嬉しい、と木を見上げた。

その空いっぱい、燃えるような夕焼け色に染めて、花が咲いていた。

「一年中、絶える事なく咲き続く花なんだよ」

夫は何処か誇らしげに語っていた。


上り切った所で、夫が私を振り返った。

「願いの木が」

先に着いた夫は、ぼうっと呟いた。

追い付いた私は、あっ、と短く声を上げる。

花が、一面に赤のじゅうたんを敷き詰めたように、地面に落ちていた。そして。

「電話の通りだ」

夫は、木の肌に触れた。そこに、あのおうとつはなかった。

朝っぱらから鳴りやまない電話は、これを知らせるものだった。

「一体、誰がこんなイタズラを」

私もしゃがみ込んだ。しかし指で摩ってみても、その部分が人工的に切り取られたようには思えなかった。

まるで初めから何もなかったみたいに、年老いた木は、私達を静かに見下ろしている。

暫く呆然と眺めていた私のすぐ後ろで、ハッハッと荒い呼吸が聞こえた。

柴犬を連れた中年の女性が、立っていた。

人懐っこい犬は私の足元に潜り込み、差し出した指を舐めた。頭を撫でてやると、ごろりと横になって白い腹をみせた。

「あら、こんにちは」

女性は夫と顔見知りらしく、私も立ち上がって、遅れて会釈した。

夫は困ったように、願いの木の幹を指さした。

女性は何度も木のあちこちを眺め、実際に触れた後で、あらまあ、とため息をついた。

「どうしたものでしょうね」

「警察に行った方がいいのかしら」

夫も首を傾げて女性を見やる。

ふいに、女性はリードを引っ張って言った。

「旦那がね、昨日の夜この子を連れてここへ来たの。確か、八時頃かしら。その時、若い男女が木の前に立っていたから、邪魔しちゃ悪いって引き返して、下の池の周りを散歩して帰ったって言ってたわ」

夫が口を開く前に、

「まあ、その時は暗かったし、変化があったかどうかは見てないと思うけど」

女性は笑った。

そして帰り際、

「旦那に一応聞いておくわ」

と言い残して石段を降りて行った。


二人きりになると夫は、一つ花びらを拾い上げ私の手に乗せた。

「願いの木は、叶えた願いの数だけ花を咲かすって言われてるんだよ」

「濃い、夕日みたいな色ね」

私は呟いた。

「蘇芳」

さあっ、と風が吹き抜けた。

私は、つま先から空へ舞い上がるような、震えに襲われてすくんだ。

「この花みたいに、黒いような濃い赤を、蘇芳色って言うんだよ」

蘇芳。

私は、自分の肩を両手で抱き、繰り返した。

蘇芳。蘇芳、蘇芳。

その名が、体を勢いよく駆け巡る。

肌が粟立つ。

いつか、聞いたのだろうか。

いつか、見たのだろうか。

身体中がその三文字に焦がれ、涙枯れるまでその名を呼んだ遠い夢を、瞬きするほんのわずかな間に見た気がした。

「どうした」

夫の声に、我に返る。

さっき見た夢が、一面の赤にのまれた。

残ったのは、吐息にまみれた、張り裂けそうな切なさにも似た、温もりだった。

呆けて、立ち尽くした。

「大丈夫か、藍」

心配そうな夫の隣で、何でもない、と首を振る。

 深呼吸をして、木を見上げる。

膨らみのあった場所を何度も摩る。

どうしてだろうか、涙が溢れそうになる。

喉の奥が、熱い。

「もう十分に人の願いを叶えたんだから、今度は、自分達の幸せを探しに行ったのよ」

じゅうたんの上に残された無数の足跡の中に、私を呼んだ人の声を聞く。

それは、いつだったか。

誰だったか。

「藍らしくない、夢のある意見だね」

そう言って夫は笑う。

ざあっ。風が花びらを舞い上げる。

「夢」と口にしてみた。

浅い眠りから覚めて、夢と現の間をさ迷う子供のように、自分が今、ここにいる現実を少しずつ思い出す。

花びらはそこかしこで、誰かの想いを抱え、風に吹かれ、やがて再び誰かの花になる夢を見て眠る。

それは、はるか昔から繰り返されてきた、絶えることのない願い。

いつか、誰かがその唇から風に乗せた、夢。

私は、誰かの夢を、ささめく声を、聞いただけなのかもしれない。

そっと花びらに息を吹きかける。

ひらり、ひらり、夢が、飛んで行った。



                                 (了)


最後まで読んでくださって有難うございました。

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