木の願い
私の名を、呼んでくれたのは、誰だったか。
いや、違う。名をくれると言った娘は、誰だったか。
私は、誰だったか。
遠い昔、山あいの小さな集落に、それはそれは美しい娘が生まれた。
娘には生れつき、黒光りするツタに似た模様が全身を覆っていた。
年頃になった娘は、毎夜、山のてっぺんでぴかぴかと光る月に祈った。
その祈りは、不思議な力を持つ一本の名もなき木にも届いた。
夜空を飛び交う数多の祈りなど聞き飽きたはずなのに、その美しい声は、木を魅了した。
ツタの絡まるやわい肌を持つその娘を、この木肌に感じ、葉を揺らし、眠る夢をみた。幸せな夢だった。
明くる日、娘は月の下で、白くぼんやりと輝く何かに呼び止められた。
それは人にも似た姿で、娘の心に語りかけた。
「私は、あの山の名もない木。お前の願いを、叶える事が出来たなら、次の満月の夜、私の側に寄り添い、朝が来るまで時を過ごし、まだない名を、ささやいてくれるか」
娘は驚きのあまり気を失いそうになりながらも、頷いた。
「私があなたの名をつけ、名を呼び続けて夜を明かしましょう。だから、どうか、お願いします」
白い何かはふっと消えた。それと同時に娘の体から、ツタが音を立てて煙りになり、風に溶けた。
待ちわびた満月の夜、木は、空に浮かんだ黄色に向かって言った。
「娘と共に朝日を迎えられたら、私は人になります。貴方のように、多くの人に想われ、満ちては欠ける姿にさえ名を付けて、呼ばれる存在になれなくても、ただ一人、たった一人でいい。この世に認められ、慈しみ、名を呼んで欲しいのです。この夢は、ささやかでしょうか、贅沢でしょうか。名もない私には、それすらもわかりません」
月は静かに聞いていた。
夜が深まる。
大きな期待は、木の幹を震わせ、葉がさわさわと揺れた。
しかし、娘は来なかった。
辺りが白々と明け始め、鳥が目覚めの歌を口ずさんでも、木を訪れる者はなかった。
細る月は、やがてその木が様々な苦しみを抱えた人々に取り囲まれている姿を、丸みを帯びる月は、その木が人々の苦しみを抜いてやっている姿を見ていた。
何度めかの満月の夜、月は哀しみにくれる声を聞いた。
「人々は、苦しみから解き放たれれば、私の事など忘れてしまう。
苦しみだけが、私を、人々の心に繋ぎとめてくれる、光り。
苦しみは、私を癒す唯一の、輝く光り。
哀しい過去を、全てを忘れ、光りに包まれていたい」
そうして、再び細りゆく身で見た木はもう、娘に恋した事など幻だったかのように、誓いを交わした誰かに力を分け与え、人々の苦しみを集めさせては、その者の苦しみすらも美味そうに味わっていた。
月はそれを、静かに、見ていた。
さて、私は、誰だったか。
皆が呼ぶ、誓いの木とは、誰だったか。
ただこうして、輝く光りの粒に守られ、眠るのは心地がよい。
誰も、起こしてくれるな。私は、ここで、いついつまでも眠ろう。