蘇芳の決意
影が伸びる月明かりの道に、荒い呼吸に合わせて足を引きずる。
何年も来た事のなかった道を行く蘇芳の背中に、じっとりと重い闇がへばり付く。
もう、自分の体も思うように動かせない。
蘇芳は小さな石や木の根に足を取られては、地面に手を付いた。
大柄な蘇芳でさえもすっかり隠してしまう草の中を進むと、やがてぽっかりと目の前が開けた。
つるを絡めた一本の大きな木の脇で、蘇芳を待ち構えていたのは藍白だった。
腕に、幼子を抱いている。
「待ちわびたよ、始めようじゃないか」
藍白は静かに微笑んだ。小刀をぎらりと月にかざし、しなやかな指先で手招きをする。
蘇芳は首を横に振った。
「その子を離してくれ」
藍白は、ぐったりとして動かない子の頭を撫でた。
「可哀相だろ、山火事で、一人ぼっちで倒れていたのを拾ったのさ」
蘇芳が近寄ろうとすると、藍白の手が、幼い娘の首にそっと触れた。
「早く誓いを交わしておくれ。ちょいと幹を傷つけ、溢れ出した樹液をこの子の口に含
ませるだけさ。呆れ返るほど多くの先人が、辿った道じゃないか」
藍白の小刀が、すすで汚れた娘の肌に当たる。
「この子が助かる道は、お前さんの手の中にあるんだよ」
蘇芳は両手を広げた。
「藍白。俺は決めたんだ。人として生きる道を、どうかこのまま最後まで進ませてくれ」
藍白が娘を放り投げ、蘇芳に飛び掛かった。
「馬鹿な事を言うと、その舌を切り取るよ。強いられた道を生きてきた私達が、どうして幸せになれないんだい。どうして私達だけが、哀しみにくれる必要があるんだい。他人を蹴落としてでも、胸を張って、しぶとく生きてみせるんだ、さあ、早く」
藍白は、小刀を蘇芳の胸に強く押し当てた。それでも、蘇芳は黙ったまま倒れた娘を見やり、藍白の腕をそっと解いた。
娘を抱き起こすと、小さな鼻が、ひくりと動く。涙の跡が白く乾いていた。
蘇芳は懐から袋を取り出した。
「この娘がしばらく食べて行けるくらいは、入っている」
そうして、藍白の手に乗せようとして、払い落とされた。
蘇芳は片腕で藍白を引き寄せた。藍白は身をよじり、蘇芳を睨み上げた。
「この娘を見ていると、初めて会った日の、お前を思い出す」
藍白は抗う手を止めた。
「お前はまだ八つで、集まりの席で、ひどく緊張した顔をしていたな」
年長者は、まだ幼い蘇芳や藍白に語った。
自分達に苦紋抜きの力を与えた、目の前の、誓いの木の話を。
それは哀しい、恋の物語。そして、復讐の物語。
「帰り際に出された饅頭に、やっと笑顔を見せたお前は、何年経っても会う度に言ったな。
お前さん、よもぎ饅頭が好物なんだろう、って」
藍白は、蘇芳の胸に額を付けた。
「たった一度呟いただけの、俺の何気ない言葉を、ずっと忘れもせずに」
蘇芳は幼い子供をなだめるように、頭を優しく叩いた。
「お前は優しい。でも、俺の身を案じてくれるな。聡いお前はもうとっくに分かっているはずだ。例え代わりの子供を差し出したとしても、苦紋師の道を辿った者に、澄み切った空のような幸せはない。自分を引きずり込んだ誰かを恨み、感謝されながらも人との間にある厚い壁に心乱され、自由を求めて差し出した後継ぎを想って心を痛める。足を洗ってもなお体に刻んだ墨は消えず、新しい道に影を落とし続ける」
藍白は、でも、と蘇芳の胸に温かい息を漏らした。
「このままじゃあ、あんたは喰われちまう」
蘇芳は藍白の肩を抱いた。そして背を正し、胸を張った。
「俺の幸せは、体は消えても在り続ける。復讐と恨みの詰まったあの木には、俺の心までは喰えやしない」
蘇芳は最後に藍白と幼子を抱きしめた。そうして、立ち上がる。
藍白はもう、何も言えずに一筋の涙を流した。
「もし」
と蘇芳は背中で言った。
「花をつける事のないあの木が、辺りを夕焼けよりも深く、濃い色に染める花をつけたなら、解き放たれなかった先人と、これからのお前達の道を照らし続けよう」
蘇芳は誓いの木を見上げた。
後悔しているだろうか。恨んでいるだろうか。
ばあちゃん。
兄ちゃんと、藍白。
あの娘の眼差しが、日だまりのように蘇芳を包む。
この胸の奥だけは人で在り続けたいと思う心を、与えてくれた。
十年を超える年月、人々の苦を刻み続けた肌の上で、黒いツタが大きくうねり始める。誓いの木は、めきめきと音を立てながら幹を裂き、闇への入り口を開く。
ツタは待ち兼ねて蘇芳の皮膚を破り、舌なめずりする木に向かって、飛び出す。
叫び声が空にのまれる。
藍白は幼子の耳を塞ぎ、固く噛んだ唇から血を滲ませた。
蘇芳の体が、木に、喰われる。
琥珀色の樹液は、どろどろと肌を這い、ゆっくりと味わうようにして溶かし始める。
薄れる意識の中で蘇芳は、あたりに浮かんだ小さく光る泡の粒を見た。
そっと指先で潰してみる。
ぱちん。
はぜる間際、何かが見えた。遥か向こうにのぞいたのは、白い人の形をした、何かだった。
しかし、すぐに新しい光りの粒が覆い隠した。
何度か繰り返すうちに、人の形をした何かは、蘇芳をみとめて近づいて来た。
細い体は白く光り、滑らかな表面には瞳のような穴が二つ在るだけ。
蘇芳に語るでもなく、じっと立っている。
しかし、確かに耳には声が届いた。
「苦が欲しい。私が、誰だったかは、もう、分からない。ただ、憎しみが欲しい。恨みが、欲しい。思い出さないように、優しく包む、苦が欲しい」
蘇芳に手を伸ばし、触れると、電流のような激しい痛みが全身に走った。
「邪魔が、ある。におう、臭う、嫌な、匂い」
「嫌、な、匂い?」
蘇芳は振り絞るようにして、尋ねる。
「苦はあるのに、憎しみが、ないのか。なぜだ、恨め、恨め、お前も、私のように。ああ、
やめて、嫌だ、思い出してしまう!」
悲鳴を上げ、うずくまると小さく呟いた。
「約束は、いつだった?」
虚ろな声で何度も繰り返す。
「約束は、約束は」
やがて、ハッと顔を上げた。
「満月は、過ぎたのか?あの娘は、来たのか?来た、来た、来て、いない!」
ドーン。
地響きと共に、誓いの木が揺れた。
葉を落とし、真っ暗な樹液を幹の裂け目から流し続ける。
藍白は、その中にかすかに蘇芳の姿を見た気がしたが、すぐに迫り来る樹液が辺りを覆う。
幼い子供を抱き上げ、振り返りながら山を下る。
黒いうねりは、草に触れると蒸気を発生させ、あたりに霧が立ち込めた。藍白は必死にその中を歩き続ける。ずり落ちる子を抱えなおし、樹液に囲まれながら先を急ぐ。
足がひりひりと痛み始めた。樹液に触れ続けた肌が、赤く腫れている。
それでもなお、誓いの木は樹液を流し続ける。草は枯れ、煙を上げる。
藍白は帯を解き、娘をきつく体にくくり付けた。
歯を食いしばり、まとわりつく樹液をかき分けるようにして道を行く。
「蘇芳」
人であって欲しいと蘇芳が願ったこの子だけは、この先何があっても守り抜こう。藍白は心に決めた。
涙でぼやけながら、藍白は、鷹が低く飛んで来るのを見た。
遅れて、若い娘が駆けてくる。
「萩」
藍白の声に娘は一度足を止めたが、流れくる樹液に足元をすくわれ、草の上に転げた。
「その液体に触れるんじゃない、皮膚が焼けただれちまう」
藍白は娘に叫んだ。
娘は着物の裾をまくり、草履を投げ捨てた。そして、樹液にまだ覆われていない草の中を、再び地面を蹴って走り出す。
娘は、まっすぐに萩の後を追う。誓いの木が、その先にある。 蘇芳の元へ行くのだ。
「手遅れだ、蘇芳はもう」
藍白の震える声が、響き渡っていた。