鶸の想い
からすが家へ帰るまでには、常磐も帰っていらっしゃい。
近くの子供達と出かける幼い弟を、そう言って送り出した。
もうすぐ向こうの山は一斉に桜色に染まる。
常盤は花冷えにいつも体調を崩し、苦を抜いてもらっていた。
しかし近頃は同じ年の子らと遊べる体力もつき、随分やんちゃになった。擦り傷を作って帰る姿に、父は頬を緩ませている。
そう遠くはないいつか、あの人を呼ぶことも、なくなるのかもしれない。
今年の満開の桜を、あの人はどこで見るのだろう。
来年の桜を、私は誰と見ているのだろう。
鶸は、庭から見える西の空をじっと眺めていた。
ふと通りが騒がしくなったかと思えば、足音を鳴らして、縁側に回り込んだ子供達が口々に叫ぶ。
「常磐ちゃんがね、泣いてるの」
「海に落ちた」
「落ちてないよ、でも泣いてるよ」
興奮する子らを落ち着かせ、よくよく話を聞いてみて、鶸は血の気が引いた。
岩場で遊んでいた常磐は足を滑らせ、海に落ちそうになった。
しかし、途中の大きな岩と岩の間に挟まれ、身動きも取れずに泣き叫んでいるらしい。
お花の稽古から戻った妹の瑠璃に、父を呼ぶように頼み、自分は先に海へ急いだ。背中で、義母の素っ頓狂な声が聞こえていた。
子らに案内され岩場に立ち、常磐の名を呼んだ。
黒い岩の隙間で、小さな弟が泣き疲れて、ぐったりとうなだれている。
岩に張り付き、手を伸ばすと、べしょべしょの頬に指先が届いた。
常磐が安心したように、わっと泣き出す。
鶸は頬を撫でながら、助け上げるのは容易でないだろうと悟った。
常磐の胸から下は、打ち付ける波に浸かっている。
しかし、肩はぴたりと岩に挟まり、両方の腕は動かす事も出来ない。
父が近所の男達を引き連れてやって来るのが見えた。
と、同時に空を舞う二羽の鷹が目に映った。
一羽は萩だったが、もう一羽は見たことがなかった。
父は常磐に向かって、
「すぐに助けてやるからな」
と笑顔を作った。
しかし鶸や男達を振り返った時には、ひどく張り詰めた表情をしていた。
男達は持ってきたノミやツルハシで、常磐の肩の周囲の岩を削るのだが、這いつくばり、腕をめいっぱい伸ばしての作業は思うように進まない。
カン、カン、と岩が砕け、小さなかけらが飛ぶと、常磐が激しく泣く。痛い、痛い、と火が付いたように叫ぶ。
時折、ふっ、と意識を失いかけては、悪い夢を見た時のように、カッと目を見開いて大声を上げた。
鶸は何度か中断してもらい、常磐の頭を撫で、大好きな歌を歌ってやった。
離れて見ていた瑠璃は大きなため息を付き、義母は砂の上に坐り込んで、困ったわと呟いては海の果てを眺めていた。
ひゅう、冷たい風が吹く。常盤の唇は震えている。
誰かが言った。
「潮が満ちたら沈むぞ」
鶸は背筋が、ぞくりとした。
水面から、常磐の顔まではわずかしかない。
体温を奪われ泣きつづける常磐の体力は、もう限界に近かった。
父は高く空を仰いだ。雲が流れている。
「萩」
と声が響いた。
鶸は、はっとして父を見た。
自分の髪を抜き、萩の足首に巻き付ける横顔は青かった。
苦紋師を、まさか。周囲の色が驚きに変わった。
「あの人なら、きっと」
父は、萩を空に放った。
羽を広げて飛び出した萩の横を、もう一羽の鷹が追い越し、やがて東の山へと姿を消した。
蘇芳が岩場を行くと、さあっと人の群れが引き、道が開けた。
しゃがみ込んで常磐を見やり、鶸の父親を見上げた。
「これは苦紋師の仕事ではないな」
鶸は目を伏せた。誰もが分かっていた答えだった。
しかし、蘇芳は立ち上がるなり、にぃ、と歯をみせた。
「だが、苦紋抜きが助け出す力にはなるかもしれん。どうする」
父は岩肌に額を擦りつけた。
「お願いします、苦紋師さん。私に出来る事なら、何だってします。ですから、どうか、この常磐を」
最後は、涙で聞き取れなかった。
鶸は隣に立つ蘇芳が背筋を伸ばし、すう、と息を吸うのを感じた。
「では、もし上手く行ったら。
あんたの、娘をもらおうか」
蘇芳は、はっきりとそう言った。
男達の視線が、瑠璃に向けられた。
鶸は、瑠璃がぱっと顔を背けたのを見て、胸が、ぎゅう、と痛んだ。
よいか、と続けた蘇芳に、父は暫くしてから、はいと頷いた。
瑠璃は肩を震わせて蘇芳を睨み付け、砂を巻き上げて走り去った。
男達がどよめくと、蘇芳が声を上げて笑った。
「何て奴だ、人の弱みに付け込んで」
声のした方をちらと見たが、蘇芳は担いだ荷を下ろし、静かにハサミを取り出した。
着物の袖をまくり、常磐に手を伸ばす。
あらわになった肌は黒いツタにびっしりと覆われていて、男達は、ごくりと喉を
鳴らした。
「俺がわかるな、常磐」
常磐は、ぼんやりと頷いてみせた。
「よし、今からお前は少しの間眠るんだ。じきにふわりと、温かく、柔らかい布団に包まれたような心地になる。心配するな、身を任せ、力を抜いていろ」
常磐は涙の溜まった瞳で、うん、と答えた。
その前髪を、さくりと切った。
立ち上がった蘇芳はぐるりと辺りを見渡し、ここでは気が散ると荷を担ぎ直した。
そして、鶸を見た。
暫く歩いて、比較的平らな岩の上までやって来た蘇芳は、どっかりと腰を下ろした。
鶸は、黙って傍らに座る。向こうに人の姿はまだ見えるが、打ち付ける波音が静かな空間を作り出す。
蘇芳は、素早く苦紋抜きを始めた。
見慣れた手つきは、鶸の心を落ち着かせる。
時々、その指先が触れる皿に、針に、自分が移ってしまったように体が空っぽになる。
この感情の正体を、とうに理解していたが、鶸には手立てがなかった。
私が瑠璃のように美しかったら、時々そう考える。
誰をも一目で魅了する瑠璃が、羨ましかった。
「鏡を」
蘇芳が手鏡を差し出した。背中に回ろうとして、低い声が響いた。
「今日は、顔だ」
鶸の髪が、さあっと潮風に揺れた。
いつか鶸は尋ねた。
もし、墨を入れる場所が無くなったらどうするのか、と。
その時が、来たのだと分かった。
唇を小さく震わせる鶸の腕を、蘇芳の手が包んだ。
いつからか、指先にまでツタは広がっていた。
「ここで、顔を映していてくれ」
蘇芳は長い針を墨に浸け、鏡を覗き込む。
すい、と音もなく針先が肌に沈んだ。
鶸の細い指が小刻みに震える。
黒いツタが、蘇芳の頬から額にかけて描かれて行く。
蘇芳が、蘇芳でなくなってしまうような恐怖が鶸を取り囲む。
「蘇芳さん」
たまらず、声が出た。しかし、言葉は続かなかった。
少しの間蘇芳は鶸の瞳を見ていたが、再び針を動かした。その動きにやはり迷いはなかった。
ほぅ、と息を漏らし、蘇芳は額の汗を拭った。
「常磐は眠っているはずだ。俺の中に、苦は流れた。今のうちに、岩を砕け。常磐は一切傷つかん、早く」
鶸は強く促され父の元へ急いだ。
半信半疑ながらも、男達が岩にツルハシを向けた。激しい音と共に破片が飛び散る。しかし、常磐はぴくりとも動かない。
一度手を止めてもらい鶸が顔を近づけると、穏やかな寝息が聞こえた。
カン、カン、カン。
父はすぐ脇で、固唾をのんで見守っている。
不思議なことに、すぐ側まで破片が来ても、常磐には当たらずに何処かへ消えてしまう。
その光景を目の当たりにして鶸は、足元から言いようのない不安が押し寄せ、蘇芳のいる方を見やった。
岩に倒れ込む姿が映った。
「蘇芳さん」
鶸は息を切らせて駆け寄り、体を揺すった。脂汗を流し、身を縮めてうなされている。
ガタガタと震え、時折、うっと叫ぶと、あちこちから赤い血が滲んだ。
これは常磐の、苦だ。
鶸は愕然とした。
幼い心が今向かい合う恐怖と傷を、そっくり肩代わりしているのだ。
「わああっ」
突然糸が切れたように蘇芳は叫び、悶絶した。
鶸は蘇芳の体を抱きしめた。水の中で冷え切った、氷のような冷たさだった。
「大丈夫」
鶸は蘇芳の耳に唇を押し当て、何度もささやいた。
「大丈夫よ、ここにいるから」
蘇芳の腕が鶸にしがみついた。
「名、を、呼んで、くれ」
真っ青な唇がそう動いた。
「蘇芳さん」
小さく呼ぶ鶸の声に、蘇芳の表情が和らいだ。
鶸は髪を撫で、頬を摩り、額を付けて、何度も名を呼んだ。
蘇芳は目を閉じて、じっと耳を澄ます。
ふいに強い風が二人を包んだ。
大きな鷹が舞い降り、こちらを睨んでいる。
「茶々」
蘇芳の目がうっすらと開いた。
鷹が足首に巻かれた長い髪をくわえ、引っ張ると、ぷつりと切れた。
蘇芳が手を伸ばし、力無くそれを掴む。
「藍白が」
蘇芳の瞳の奥が鋭く光った。
くちばしを人差し指の爪で、こつりと弾くと、鷹は空へ向かって羽を広げた。
潮風が、高く高く舞い上がらせる。
蘇芳は鶸に抱かれたまま、唇を固く結び、その様子を眺めている。
「もうすぐ、終わる」
鶸は常磐の方に目をやった。その時、顎に冷たい手が触れた。
「行ってやってくれ。常磐がお前を待っている。俺を助けたその声を、探している」
そして、ゆっくりと笑った。
「鶸。名を呼んでくれて、有難う」
それは、蘇芳の口から聞いた初めての、自分の名前だった。
空では、からすが鳴いている。
どうしてだろう。
あの人が泣いているような気がして、何度も振り返る。
けれどもう、辺りはじわじわと闇が下りてきて、あの人が居るはずの場所がここからは分からない。
からすが、鳴いている。
父の腕に抱かれた常磐が鶸を呼んだ。
駆け寄ると、胸に顔を埋め、かすれた声で言った。
「お兄ちゃん、もう、さよならなんだって」
ああ、からすが、鳴いている。
「鶸。鶸。鶸」
と。