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■ささめごと■  作者: のの
3/6

鶸の想い

からすが家へ帰るまでには、常磐も帰っていらっしゃい。

近くの子供達と出かける幼い弟を、そう言って送り出した。

もうすぐ向こうの山は一斉に桜色に染まる。

常盤は花冷えにいつも体調を崩し、苦を抜いてもらっていた。

しかし近頃は同じ年の子らと遊べる体力もつき、随分やんちゃになった。擦り傷を作って帰る姿に、父は頬を緩ませている。

そう遠くはないいつか、あの人を呼ぶことも、なくなるのかもしれない。

今年の満開の桜を、あの人はどこで見るのだろう。

来年の桜を、私は誰と見ているのだろう。

鶸は、庭から見える西の空をじっと眺めていた。

ふと通りが騒がしくなったかと思えば、足音を鳴らして、縁側に回り込んだ子供達が口々に叫ぶ。

「常磐ちゃんがね、泣いてるの」

「海に落ちた」

「落ちてないよ、でも泣いてるよ」

興奮する子らを落ち着かせ、よくよく話を聞いてみて、鶸は血の気が引いた。

岩場で遊んでいた常磐は足を滑らせ、海に落ちそうになった。

しかし、途中の大きな岩と岩の間に挟まれ、身動きも取れずに泣き叫んでいるらしい。

お花の稽古から戻った妹の瑠璃に、父を呼ぶように頼み、自分は先に海へ急いだ。背中で、義母の素っ頓狂な声が聞こえていた。


子らに案内され岩場に立ち、常磐の名を呼んだ。

黒い岩の隙間で、小さな弟が泣き疲れて、ぐったりとうなだれている。

岩に張り付き、手を伸ばすと、べしょべしょの頬に指先が届いた。

常磐が安心したように、わっと泣き出す。

鶸は頬を撫でながら、助け上げるのは容易でないだろうと悟った。

常磐の胸から下は、打ち付ける波に浸かっている。

しかし、肩はぴたりと岩に挟まり、両方の腕は動かす事も出来ない。


父が近所の男達を引き連れてやって来るのが見えた。

と、同時に空を舞う二羽の鷹が目に映った。

一羽は萩だったが、もう一羽は見たことがなかった。

父は常磐に向かって、

「すぐに助けてやるからな」

と笑顔を作った。

しかし鶸や男達を振り返った時には、ひどく張り詰めた表情をしていた。

男達は持ってきたノミやツルハシで、常磐の肩の周囲の岩を削るのだが、這いつくばり、腕をめいっぱい伸ばしての作業は思うように進まない。

カン、カン、と岩が砕け、小さなかけらが飛ぶと、常磐が激しく泣く。痛い、痛い、と火が付いたように叫ぶ。

時折、ふっ、と意識を失いかけては、悪い夢を見た時のように、カッと目を見開いて大声を上げた。

鶸は何度か中断してもらい、常磐の頭を撫で、大好きな歌を歌ってやった。

離れて見ていた瑠璃は大きなため息を付き、義母は砂の上に坐り込んで、困ったわと呟いては海の果てを眺めていた。

ひゅう、冷たい風が吹く。常盤の唇は震えている。

誰かが言った。

「潮が満ちたら沈むぞ」

鶸は背筋が、ぞくりとした。

水面から、常磐の顔まではわずかしかない。

体温を奪われ泣きつづける常磐の体力は、もう限界に近かった。


父は高く空を仰いだ。雲が流れている。

「萩」

と声が響いた。

鶸は、はっとして父を見た。

自分の髪を抜き、萩の足首に巻き付ける横顔は青かった。

苦紋師を、まさか。周囲の色が驚きに変わった。

「あの人なら、きっと」

父は、萩を空に放った。

羽を広げて飛び出した萩の横を、もう一羽の鷹が追い越し、やがて東の山へと姿を消した。


蘇芳が岩場を行くと、さあっと人の群れが引き、道が開けた。

しゃがみ込んで常磐を見やり、鶸の父親を見上げた。

「これは苦紋師の仕事ではないな」

鶸は目を伏せた。誰もが分かっていた答えだった。

しかし、蘇芳は立ち上がるなり、にぃ、と歯をみせた。

「だが、苦紋抜きが助け出す力にはなるかもしれん。どうする」

父は岩肌に額を擦りつけた。

「お願いします、苦紋師さん。私に出来る事なら、何だってします。ですから、どうか、この常磐を」

最後は、涙で聞き取れなかった。

鶸は隣に立つ蘇芳が背筋を伸ばし、すう、と息を吸うのを感じた。

「では、もし上手く行ったら。

 あんたの、娘をもらおうか」

蘇芳は、はっきりとそう言った。

男達の視線が、瑠璃に向けられた。

鶸は、瑠璃がぱっと顔を背けたのを見て、胸が、ぎゅう、と痛んだ。

よいか、と続けた蘇芳に、父は暫くしてから、はいと頷いた。

瑠璃は肩を震わせて蘇芳を睨み付け、砂を巻き上げて走り去った。

男達がどよめくと、蘇芳が声を上げて笑った。

「何て奴だ、人の弱みに付け込んで」

声のした方をちらと見たが、蘇芳は担いだ荷を下ろし、静かにハサミを取り出した。

着物の袖をまくり、常磐に手を伸ばす。

あらわになった肌は黒いツタにびっしりと覆われていて、男達は、ごくりと喉を

鳴らした。

「俺がわかるな、常磐」

常磐は、ぼんやりと頷いてみせた。

「よし、今からお前は少しの間眠るんだ。じきにふわりと、温かく、柔らかい布団に包まれたような心地になる。心配するな、身を任せ、力を抜いていろ」

常磐は涙の溜まった瞳で、うん、と答えた。

その前髪を、さくりと切った。

立ち上がった蘇芳はぐるりと辺りを見渡し、ここでは気が散ると荷を担ぎ直した。

そして、鶸を見た。


暫く歩いて、比較的平らな岩の上までやって来た蘇芳は、どっかりと腰を下ろした。

鶸は、黙って傍らに座る。向こうに人の姿はまだ見えるが、打ち付ける波音が静かな空間を作り出す。

蘇芳は、素早く苦紋抜きを始めた。

見慣れた手つきは、鶸の心を落ち着かせる。

時々、その指先が触れる皿に、針に、自分が移ってしまったように体が空っぽになる。

この感情の正体を、とうに理解していたが、鶸には手立てがなかった。

私が瑠璃のように美しかったら、時々そう考える。

誰をも一目で魅了する瑠璃が、羨ましかった。


「鏡を」

蘇芳が手鏡を差し出した。背中に回ろうとして、低い声が響いた。

「今日は、顔だ」

鶸の髪が、さあっと潮風に揺れた。

いつか鶸は尋ねた。

もし、墨を入れる場所が無くなったらどうするのか、と。

その時が、来たのだと分かった。

唇を小さく震わせる鶸の腕を、蘇芳の手が包んだ。

いつからか、指先にまでツタは広がっていた。

「ここで、顔を映していてくれ」

蘇芳は長い針を墨に浸け、鏡を覗き込む。

すい、と音もなく針先が肌に沈んだ。

鶸の細い指が小刻みに震える。

黒いツタが、蘇芳の頬から額にかけて描かれて行く。

蘇芳が、蘇芳でなくなってしまうような恐怖が鶸を取り囲む。

「蘇芳さん」

たまらず、声が出た。しかし、言葉は続かなかった。

少しの間蘇芳は鶸の瞳を見ていたが、再び針を動かした。その動きにやはり迷いはなかった。

ほぅ、と息を漏らし、蘇芳は額の汗を拭った。

「常磐は眠っているはずだ。俺の中に、苦は流れた。今のうちに、岩を砕け。常磐は一切傷つかん、早く」

鶸は強く促され父の元へ急いだ。

半信半疑ながらも、男達が岩にツルハシを向けた。激しい音と共に破片が飛び散る。しかし、常磐はぴくりとも動かない。

一度手を止めてもらい鶸が顔を近づけると、穏やかな寝息が聞こえた。

カン、カン、カン。

父はすぐ脇で、固唾をのんで見守っている。

不思議なことに、すぐ側まで破片が来ても、常磐には当たらずに何処かへ消えてしまう。

その光景を目の当たりにして鶸は、足元から言いようのない不安が押し寄せ、蘇芳のいる方を見やった。

岩に倒れ込む姿が映った。

「蘇芳さん」

鶸は息を切らせて駆け寄り、体を揺すった。脂汗を流し、身を縮めてうなされている。

ガタガタと震え、時折、うっと叫ぶと、あちこちから赤い血が滲んだ。

これは常磐の、苦だ。

鶸は愕然とした。

幼い心が今向かい合う恐怖と傷を、そっくり肩代わりしているのだ。

「わああっ」

突然糸が切れたように蘇芳は叫び、悶絶した。

鶸は蘇芳の体を抱きしめた。水の中で冷え切った、氷のような冷たさだった。

「大丈夫」

鶸は蘇芳の耳に唇を押し当て、何度もささやいた。

「大丈夫よ、ここにいるから」

蘇芳の腕が鶸にしがみついた。

「名、を、呼んで、くれ」

真っ青な唇がそう動いた。

「蘇芳さん」

小さく呼ぶ鶸の声に、蘇芳の表情が和らいだ。

鶸は髪を撫で、頬を摩り、額を付けて、何度も名を呼んだ。

蘇芳は目を閉じて、じっと耳を澄ます。


ふいに強い風が二人を包んだ。

大きな鷹が舞い降り、こちらを睨んでいる。

「茶々」

蘇芳の目がうっすらと開いた。

鷹が足首に巻かれた長い髪をくわえ、引っ張ると、ぷつりと切れた。

蘇芳が手を伸ばし、力無くそれを掴む。

「藍白が」

蘇芳の瞳の奥が鋭く光った。

くちばしを人差し指の爪で、こつりと弾くと、鷹は空へ向かって羽を広げた。

潮風が、高く高く舞い上がらせる。

蘇芳は鶸に抱かれたまま、唇を固く結び、その様子を眺めている。

「もうすぐ、終わる」

鶸は常磐の方に目をやった。その時、顎に冷たい手が触れた。

「行ってやってくれ。常磐がお前を待っている。俺を助けたその声を、探している」

そして、ゆっくりと笑った。

「鶸。名を呼んでくれて、有難う」

それは、蘇芳の口から聞いた初めての、自分の名前だった。


空では、からすが鳴いている。

どうしてだろう。

あの人が泣いているような気がして、何度も振り返る。

けれどもう、辺りはじわじわと闇が下りてきて、あの人が居るはずの場所がここからは分からない。


からすが、鳴いている。

父の腕に抱かれた常磐が鶸を呼んだ。

駆け寄ると、胸に顔を埋め、かすれた声で言った。

「お兄ちゃん、もう、さよならなんだって」


ああ、からすが、鳴いている。

「鶸。鶸。鶸」

と。



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