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■ささめごと■  作者: のの
2/6

木への誓い

海風がべたつく。

男は、張り付いた髪を指で払って道を進む。集落まで来て、じゃらじゃらと袋を取り出した。

よく太った店の親父が、釣銭を持って愛想笑いをしたまま、頬をびくりと動かした。

差し出した男の手の平に、黒いツタが這うように伸びている。

店主は、肌に触れる間際、空中で銭を離した。

蘇芳は荷を抱え店を後にした。

「苦紋師さん」

呼び止められ、あちこちの店先で足を止める。

銭の入った袋が空になる頃、担いだ荷物は肩に食い込んだ。


苦紋師さん。

何処で、俺は名前を捨てたのだろう。

ちらりと浮かんだ娘の顔を、閉じた瞼に封じ込め、男は来た道を戻る。

苦紋師の家を誰も知らない。知っているのは、同類と、使いの鷹だけだ。

そもそも縁遠い方が喜ばしい仕事だから、互いに距離を保ちながら生きている。

一度だけ、聞かれた事がある。

「何処にお住まいなのですか」と。

「うちの庭の柿は、とても甘くて、大きいんです。熟すと、あっという間に鳥がやって来て、ついばんでしまいますから、幾らかおすそ分けしたくて」

娘はそう微笑んだ。

あの時は面食らって、何かを言おうにも唇が動かなかった。

「柿は好かんから」

ようやくついた嘘の後の寂しそうな娘の顔を、何年も経った今も忘れられない。


獣道を掻き分けるようにして山の小屋まで辿り着くと、空に向かって口笛を吹く。

それから、荷を解いて干し肉を高く放り上げた。

鷹が、ひゅうっと風を切って肉を喰らうと、その後をもう一羽の鷹が追って来た。

「茶々」

男は不思議そうに呟いてから、もう一切れ放り投げた。と、背後で草が音を立てた。

すらりとした、細面の女が現れたのを合図に、茶々が羽音と共に降りて来た。

肩に止まり、女の髪をくちばしでくわえて遊ぶ。

「久しぶりだね」

女は腰まである髪をかき上げ、懐から包みを投げてよこした。

よもぎ饅頭が入っていた。 蘇芳は一つを口に押し込み、小屋の戸を開けた。

すっと襟足が冷たくなり、振り向くと、女が白い指を添えていた。

「紋が、また増えたね」

蘇芳はその手を払いのけると、

「用を言え、藍白あいじろ

と睨んだ。

「山を越えてまで、わざわざ饅頭を届けに来た訳でもないんだろう」

藍白と呼ばれた女は、うっすらと笑みを浮かべた。

「相変わらずだね。昨日が年に一度の集まりだと、忘れていたのかい」

それとも、と、藍白は蘇芳の腕に自分の腕を絡ませる。

「あえて来なかったのか。例えば、まだ苦紋師を続けるつもりで」

きっ、と唇を噛むと蘇芳の背に拳を押し当てた。

「馬鹿な考えはおよし、あんたはもう、十二年も続けた。仕事から足を洗えるんだ。呪縛から解き放たれて、人として生きるのを、なぜためらう」

蘇芳はじっと小屋の中を見つめる。

がらんとした空間がそこに在る。

「人として生きる、か」

「簡単じゃないか。私をさらい、お前さんを騙した先人が辿った道を行けばいい」

蘇芳のこめかみが、きりりと痛んだ。

思い出そうとする頭を、大きな声で制す。

「用が済んだら、帰れ」

ざっ、と背中で鳴った。着物が遅れて、はらりとはだけた。

藍白が小刀を持って震えていた。

「まさか、こんなに」

蘇芳は破れた布を体に巻き付け、もう一度、帰れと繰り返した。

「あと二年、私が自由になったら何処か遠い所で、」

藍白はそこまで言って声を詰まらせると、目尻を光らせた。

しかしすぐに思い直したように、強い口調で続けた。

「向こうの里で山火事があってね。集落はみんな焼けちまったそうだよ。

 今なら、楽に事は進む。私は諦めないからね。

 あんたにも、私にも、奪い返す道があるだろう。

 その為なら、犠牲なんぞ痒くもないさ。

 だって、私達の道は、先人が歩んだ道。

 それがどんな道かも分からない幼子の手を引き、あの木に誓わせればいい。

 恨み、恨まれ続いてきた道さ。

 はるか昔から、この先まで、ずっと。

 続けば、道が出来る。

 歩かなければ私達は、みな」

藍白は静かに、唇を動かした。

「喰われちまうんだよ」

木漏れ日の午後。その時は、ひたひたと迫っていた。





喉を鳴らして水を飲み干すと、蘇芳は柱にもたれて目を閉じた。

疲れた。三日前の仕事が今も堪えている。

若い大工の男が夏の初め、仕事中に左の人差し指を落とした。

しかし、月日が流れても痛むのだという。在るはずのない、人差し指が。

蘇芳が引き受けたのは、存在しない痛みだ。

今までなら、明くる日にはすっかり消化してしまっていた類いの、苦。

しかし体に墨を入れた直後から、どんと腹に鉛を詰めたように、重苦しさが付きまとう。

もうそろそろなのか。

蘇芳は少し、笑った。

藍白に言われるまでもない。十分に分かっている、我が道の行く末だ。決めたのは自分だ。

こめかみを押さえて息を吐く。

もう、十年以上も経つ。長かっただろうか。

恨んでいるだろうか。己に問うてみる。

しかしあの人の最後の瞳が、答えを定まらせない。

後悔しているだろうか。

あの娘の笑顔が、胸の奥で温かい。やはり、答えは定まらない。

蘇芳は、少し眠ろう、と目を閉じた。




腹の虫が鳴くと、祖母はよく笑った。

親代わりの祖母はよく働いたが、家は貧しく、蘇芳はいつも腹をすかしていた。

ぐう。

その音を聞きつけると、祖母は蘇芳を後ろから抱きしめた。

「これは元気な虫だ、大きいに違いないぞ、取って、煮て、食おうか」

柔らかな肌を、しわだらけの指がくすぐる。幼い蘇芳は身をよじって、けらけらと笑う。

気付けばいつも、日だまりみたいな温かさが、蘇芳を取り囲んでいた。


九つになった頃、少しずつ雲が空を覆うように、黒い日々が里にも流れて来た。

雨は降らず、作物は枯れ果てた。

飢饉が何もかもを変えてしまった。

腹を空かせた大人達は、わずかな食料を奪いあい、身寄りのない子供をも容赦なく足蹴にした。

蘇芳は祖母を失い、一人ぼっちになった哀しみを感じる間もない程、毎日、空腹感に襲われていた。

草の根や木の皮を剥ぎ、しがんでは飢えをしのいだ。

食べたい、食べたい、食べたい。何か、何か。

よだれを拭い、薄汚れた二の腕に歯を立てる。泥に混じって、ほのかな塩が舌に広がる。

にちゃ、にちゃ。唇を這わせ、歯に、舌に、肉を感じるだけで、笑みがこぼれた。

そんなぎりぎりの蘇芳に、誰かが声をかけた。

膝に転がされたのは、おむすびだった。

少年は、何度か瞬きをして貪りついた。米の粘りの残る指を、丁寧に舐める。

若い男は、もう一つを蘇芳の手に持たせた。そして、言った。

「もっと美味い物が、この世には溢れかえっているぞ。

 俺について来るなら、お前はこの先二度と、飢える事などない」

蘇芳は、目を丸くした。

しかし、男の言葉はまるで魔法のように、蘇芳の体に力をみなぎらせた。

食べられる、食べられる、毎日、毎日、腹が、一杯になるまで!

蘇芳は男について里を後にした。        

                    

連れて来られたのは、山の中の、一本の大きな木の前だった。

つるがあちこちに絡み合い、どこか不気味に手招きしているようにも見えた。

男は道すがら、これから蘇芳がやるべき事を教えた。

「お前は、ある力を持った木と契約するんだ。簡単だ、皮を剥ぎ、流れ出した樹液を飲めばいい。そうすれば、俺達の仲間、苦紋師になれる。

 人々を癒し、感謝され、使い切れない程の金が手に入る。こんなにうまい話はない。十年、たった十年さ。

 人生の中のその期間を、苦紋師として捧げれば、後は解き放たれ、素晴らしい自由が待っている」

蘇芳には、帰る家も、待つ人も居ない。

己を守る術が見つかった、子供ながらにそう思った。

両手で、木の幹に刃を立てた。

樹液は琥珀色をしていた。とろりと蜜のように甘く、喉を通って、重かった。


その日から、蘇芳は、苦紋師の道を歩み出した。

初めの三ヶ月、男は自分の仕事に蘇芳を連れて行った。

髪の燃やし方。墨の入れ方。体に入った苦を上手く消化する方法。

それらを覚えた頃、一羽の鷹が贈られた。そして、もう一人でやっていけるな、と男は呟いた。


生まれて初めて自分の体に苦を入れた夜、蘇芳は酷い悪寒に襲われた。

何日も高い熱に苦しむ、幾つか年上の男の子から肩代わりした、苦だった。  

「まずは人目に触れない場所から紋を入れるんだ。

 一度入れた紋は、二度と消えない。

 だから、常に十年の期間を考えながらツタを描け」

兄ちゃんはそう教えてくれた。

着物を脱ぎ、畳の上で深呼吸をした。それから息を止める。針をぎゅっと握りしめ、太ももの内側に小さなツタを描いた。

礼を言った母親が頭を下げると、ふわり、甘い香りが漂った。

それはどこか懐かしい匂いだった。


人里を離れ、明かりのない道を帰った。

節々が痛み、体中が冷たい。布団に潜り込んでも、歯の根が合わない。

真っ暗な闇の中で、怖くて、辛くて、涙が止まらなかった。

身を縮めて、ばあちゃん、と何度も呟いた。

「蘇芳」

わずかに顔を上げると、男が覗き込んでいた。

いつも、おい小僧と呼んでいた男が、名を呼んだ。

昨日出て行ったはずの男が、蘇芳を腕の中に抱きしめる。

髭の生えた頬で、ごつごつとした手で、蘇芳の顔を撫で回す。

「ばあちゃん」と蘇芳はうわごとのようにこぼした。

夜道を照らして来た男のろうそくの炎が、その瞳を映し出す。

名前すら教えず、話す時はいつも後ろ姿だった。

その男が今、震える蘇芳の身を抱き、涙を流している。

「蘇芳。」

その瞳に浮かんだ優しさに、哀れみに、祖母が重なった。

「俺を恨んでくれ、どうか、頼む。

 こんなに幼いお前を、引きずり落とした俺を、恨んでくれ。

 蘇芳。蘇芳。蘇芳」

蘇芳は温かな男の腕の中で、ぽたぽたと、頬にあたるぬるいしずくを舌で舐めた。

乾いた喉に、塩が沁みた。

「兄ちゃん」

蘇芳は熱で張り付いた上下の唇を動かした。

「明日から、腹いっぱい、食えるよ。

 ありがとうって、何度も、お礼を、言われたよ。

 手の平から、溢れ落ちる位、お金を、もらったんだ。

 だから、さ、兄ちゃん」

男が、蘇芳を見つめる。

「恨むわけ、ないよ」

絶え絶えに絞り出すように言うと、にぃ、と精一杯歯を見せた。

むせび泣く声が聞こえた。

兄ちゃん、泣かないでいいよ、そう言って、広い肩を抱きたかった。祖母がしてくれたように包んでやりたかった。

しかし、蘇芳はもう目を開けるのも難儀で、静かに瞼を閉じていた。

呼吸が、聞こえる。

人に戻ろうと必死にあがく呼吸と、人でなくなろうとしている呼吸。

闇の中で今も覚えている、あの人の最後の記憶だった。




ばさばさと羽音が窓にあたる。

浅い夢から目覚めた蘇芳は、ゆっくりと体を起こした。指で触ると、頬が湿っていた。

萩がくちばしで窓を突く。

仕事か。のろのろと表に出て、眩しい日差しに思わずよろける。

「常磐が」

萩の足首に巻かれた、常磐の父の髪が語ったのは、信じがたい現実だった。

蘇芳は、ぎゅう、と力を込めて拳を握った。

山を下ろう。道を、行こう。  

歯を食いしばりながら、萩が空を行く後を追う。

蘇芳の道の果てが、すぐそこに見えて来た。

海岸に、あの娘がいる。

こんな時でさえ、変わらず、心を奪われてしまう。蘇芳は砂に沈む足で、一歩ずつ進み、思う。


兄ちゃん。

俺は。

後悔せん。

あの時。

嘘でも。

恨むって。

言えたら。

兄ちゃんは。

楽に。

なれたのに。

ごめん。

ごめん。

やっぱり。

恨めんわ。

嫌いに。

なれん。

まだ人で。

居たい。

誰かを。

好きな。

ままで。

このままで。


娘が駆け寄って来る。

さあ。

蘇芳は唇に笑みを浮かべた。

風を切って、さあ。

「常磐だな」

最後の仕事が、始まる。



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