出会い
日曜日だというのに、朝、それも七時過ぎから電話が絶えない。
全て同じ内容。
四回目には、相手の言葉を遮って、あの話でしょう、とこちらから切り出した。
うんざりしながら、夫を見やると、あくびまじりに髭を剃っている。
ああ、慣れているのだ、そう思った。
山と海しかないこの田舎の風習や、人のペースにのまれているのは私だけか。
新しい生活の始まりは、新鮮な海の幸や、深呼吸したくなる木々の匂いに囲まれ、都会育ちの私でさえどこか懐かしさで溢れていた。
畑で育てた採れたての野菜を、おすそ分けしてくれる近所の人たち。
少し歩けば、夕日の沈む海岸が見える。
お店は少ないけれど、朝と夜との境がはっきりした、人間らしいこんな生活もいいかもしれない。
そう思っていた矢先だった。
顔じゅうべったりと黒い墨で、ぐにぐにとした模様を描いた中年女性を見て、腰を抜かしそうになった。
あとで隣のおばさんから、
「あれはおまじないよ」
と教えられた。
子に降り懸かる災難を、親が肩代わりしてやれる、と言い伝えられているらしい。
受験シーズンが終わると、彼女らの顔はいつもの化粧っ気のないそれに戻った。
夫は懐かしそうに、
「母さんもやってたな」と笑った。
(祭りの時には町の男衆が、全身に描いて練り歩くらしい。その日は理由をつけて実家へ戻ろうと、今から決めている)
そうして受かった大学で、私達は出会った。
卒業後、地元に戻って役場に就職した夫と、三年の遠距離恋愛の末、四ヶ月前に結婚。
慣れない土地での生活は、あんなに知っているはずの夫が、外国人に見える時がある。
いや、多分、私は異世界へと迷い込んだのだ。
仕事場から帰っても、町の人達は年中無休で夫を「役場の人」として扱う。
やれ、畑が猪に荒らされただの。
公園の木がイタズラされただの。
あんたら。役場が開くまで待てよ。
そう言えたらと考えるが、一瞬のすっきり感と引き換えに、以後ずしりとのしかかる重さを思えば、言葉は喉から腹へと引っ込んで行く。
あきらめて、朝食の準備をする為にキッチンへと向かった。
食後のりんごをつまみあげると、夫は私に声をかける。
「一応見回りに行くよ。帰りにあのパン屋でお昼にしないか」
車ですこし走った峠にある、窯焼きパンの店は二人のお気に入りの場所だ。
家にいても、止まない電話にため息をつくだけだ。
身支度を整え、私は助手席に乗り込んだ。
■
高い空を仰ぎ、夕焼け色に染まった崖から、娘は叫んだ。
「萩」
もう一度両の手を口に当てた頃、一羽の鷹がぐるりと旋回してから、真っ逆さまに降りて来た。
人差し指を伸ばすと、羽を広げて止まる。
娘の肩まである黒髪が、ふわりと揺れた。
ほっとした表情をみせたのち、唇を固く結んで、萩の目を覗き込む。
「あの人を呼んできて」
娘は細い髪を一本抜くと、萩の足に巻き付けた。
そうして、
「お願いね」
と空へ向かって鷹を放つ。
萩は海風に乗って高く舞い上がり、やがて山の木々に消えた。
軒先まで来て、人影が動いた。
たっぷりとした長い髪を結い上げ、薄い唇を紅で染めている。
姉さん、と言うなり、娘の足元を指さした。
息を切らせながら視線を落とすと、草履の紫の鼻緒が目に映る。
「姉さんのは紺の鼻緒でしょ。やめてよね」
妹は、抱えていた草履を地面に放った。
「ごめんね、瑠璃。慌てていたものだから」
娘はそっと屈むと、履きかえた。
通りに目をやり、まだその人が来ていないのを確認して、中へ入る。
「萩に伝えてきました」
奥の間に、布団を囲んで父と義母が座っている。
荒い呼吸の弟が、頬を腫らし、薄く口を開けたまま虚ろな目で天井を眺めていた。
父は一人息子の細い腕をぎゅっと握り、額を付けて何かを呟いている。
義母は、団扇で幼い弟を扇ぎながら、ねえ、と言った。
「鶸さん、庭の柿がそろそろいい頃よ」
明日には食べられるかしらねぇ、とぼんやりと鶸を見た。
鶸はまたすぐに表へ出て、四方を見渡す。まだ来ていない。
頭のすぐ上で、熟れた柿が幾つもぶら下がっている。
瑠璃は、すい、と背伸びして、一つもいだ。
「夕飯はきっと、遅くなるんでしょう」
鶸は少し黙ってから、
「常磐の苦を抜いて頂いてから」
と答えた。瑠璃のため息が聞こえた。
「私、髪が燃える臭いって大嫌い。あんなものを体に入れるなんて、考えられないわね」
白く整った顔立ちが、淡い月明かりに浮かび上がる。
同じ女の鶸でさえも、その美しさに息をのむことがある。
後添いとしてやって来た頃の、義母によく似ている。
背後に気配を感じた瑠璃が振り向くより早く、
「ほぅ」
と、闇に低く声が響いた。
長く伸びた影が、鶸の足先にまで届く。
大きなその影は、ゆっくりと動いて鼻の辺りを掻いた。
「てっきりその小さな鼻は、ただの飾り物だと思っていたが」
と、広い肩をわずかに揺らして笑った。
瑠璃は眉を寄せると、奥へと引っ込んだ。 鶸が慌てて頭を下げる。
男は、常磐だな、と言った。
頷きながら縁側へ上げると、男は担いでいた袋を下ろした。
■
カチャカチャ、と、使い慣らした道具を並べていく。
小さなハサミを出して、鶸の手の平に乗せた。
鶸は草履を脱いで上がり、奥の襖を開けた。
父は少し安堵した様子でハサミを受け取り、寝ている常磐の髪をさくり、と切った。
鶸から手渡されると、男は髪を小皿に盛り、瓶からどろりとした琥珀色の液を垂らして、火を付けた。
「蘇芳さん」
鶸は声を落として、続ける。
「夕べから高熱にうなされて、喉は真っ赤に腫れて息苦しいのか、時折、ひゅうひゅうと鳴っています」
鶸の言葉を聞きながら、蘇芳と呼ばれた男は、皿の上で燃える火を見つめている。
やがて、ぱっと青い炎が立ち上ると、碗ですかさず蓋をした。 一呼吸おいて蓋をとると、黒い墨のような液が湯気を上げていた。
麻の紐を解き、朱色に染めた布から、腕ほどの長さの針を抜き、鶸を見た。
「頼む」
鶸は 、義母の鏡を抱えて蘇芳の後ろに座った。
着物がするりと落ちた途端、男の背骨を軸として、黒光りするツタ模様が広がった。
(わずかな間にまた、増えている)
鶸は目を見張った。
蘇芳は針先を皿に浸けると、縁で余分な液を丁寧に落とす。それから左手に手鏡を握り、合わせ鏡にする。やがて、角度を決めた。
ついっ、ついっと、ためらう事なく針を背中に刺していく。
一針刺しては液に浸け、男の肌に新しいツタが描かれる。
その指が止まる事はない。しかし、痛みがない訳ではないのだろう。
形のよい額には、脂汗が玉のようにびっしりと浮かんでいる。
鶸は、蘇芳の無駄のない一連の動作を前に、いつも呼吸を忘れる。
時折聞こえる、 もう少し下、などという言葉に呼び戻され、鏡を持つ腕を直してようやく我に返る。
辺りはしんと静まり、墨の入った背を今宵の月が照らす。
初めて蘇芳に会ったのは、四年前。
常磐が月足らずで生まれた、夏の初めだった。
父は商人で、裕福な暮らしをしていたが、鶸の母親は三人の子が流れた後、体調を崩しがちになり、最後に宿した子が生まれる前に、流行り病で亡くなった。
新しい母を迎えたのは鶸が十二歳の頃で、その日から二歳違いの妹が出来た。
義母と妹の瑠璃は、誰もが息を呑むような美しさをもっていたが、何処か浮世離れしていて、鶸はずっと、心の底から分かり合えない、透明な壁に阻まれているような気がしていた。
蘇芳が初めて呼ばれたあの日。
並んで座る義母と瑠璃を見るなり、彼は、ほぅ、と小さく呟いた。
「まるで人形のように美しく、此処に在ることすら、まやかしのよう」
蘇芳はにやりと笑って、言った。
その瞬間、鶸は、はたと気づいた。
自分が感じていた違和感の正体はそう、二人から感じる事の出来ない、「生」そのものだったのだ。
「苦紋師」という名を聞いたのはその時が初めてだった。
人々に降り懸かる苦しみを髪から抜き取り、他の体内で消化する、苦紋抜きのまじないは、この辺りに古くから伝わってきた。
西洋の医術の広まりと共に、苦紋抜きは人々の心から薄れたが、今もなお信頼を寄せる者は消えない。
鶸の父は、体が未熟なまま生まれ落ちた息子を、昼夜問わず熱心に看護した。
常磐の小さな体には鶸の産みの母と、流れた四人の子供への想いが注がれていた。
しかし、乳を吸う力は弱く、すぐに吐いてしまう常磐は、泣く事すら満足に出来ない。
義母はもう諦めたように始終宙を眺め、瑠璃は飴玉をころころと口の中で転がし続けている。
重く、苦しい不安がまだ幼い鶸を覆う。しかしその胸の奥を、誰にも話すことはできなかった。ただ、時が過ぎていく中に、身を委ねていた。
「苦紋師が、いる」
急に、天井を見つめていた父が言った。
苦紋師。鶸が繰り返すと、横で瑠璃が小さなあくびを一つ、した。
父は最後の望みを胸に、鶸を連れて海岸へ向かった。
そうして、空を仰ぎ、
「覚えておきなさい」
と強く手を握った。
「あの鷹が、常磐を助けて下さる人を呼んで来る。きっと」
父はそう言うと、初めて鷹の名を呼んだ。
仕事を終えた苦紋師が、父から、ずしりと重い袋を受け取り立ち上がる。
その頃には常磐は母親の乳に吸い付き、時折むせ返りながらも頬を幸せそうに白く濡らしていた。
帰り際、見送りに出た鶸は、男の手の甲に刻まれたばかりの、ツタ模様を見つめた。
常磐の苦は何処へ消えたのか、答えはすぐに分かった。
荷を抱える男は肩で息をして、大きな体を引きずるようにして歩き出す。
男は視線に気付いたようで、まだ幼さを残した目で、鶸に笑った。
「お前は、生臭いまでに人の匂いが漂う奴だ。早く家へ戻れ」
この人は自分とそう変わらない年だろう、と瞳の奥にある光を見て見て思った。
そして、鋭い眼差しに潜む確かな何かを感じた。
鶸は、ぽつりと尋ねた。
墨を入れる場所がなくなったら、どうするのですか。
男の着物から覗く鎖骨や足首にもツタは絡まっていた。
わずかに男の瞳が揺らいだ。
しかしすぐに、ほぅ、と低い声が返って来た。
「聞いて、どうする」
闇に光る男の目が、鶸を真っすぐに捕らえた。
鶸はすぐに、ごめんなさい、と俯いた。
男は踵を返して土を踏み締める。通りの真ん中まできて、立ち止まった。
鶸はまだ、頭を下げてそこにいた。
「その時は、その時だ」
鶸が顔を上げた頃にはもう、男の姿はなかった。
ぶっきらぼうな声だけが、風に乗って足元に落ちていた。