表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
■ささめごと■  作者: のの
1/6

出会い

日曜日だというのに、朝、それも七時過ぎから電話が絶えない。

全て同じ内容。

四回目には、相手の言葉を遮って、あの話でしょう、とこちらから切り出した。

うんざりしながら、夫を見やると、あくびまじりに髭を剃っている。

ああ、慣れているのだ、そう思った。

山と海しかないこの田舎の風習や、人のペースにのまれているのは私だけか。


新しい生活の始まりは、新鮮な海の幸や、深呼吸したくなる木々の匂いに囲まれ、都会育ちの私でさえどこか懐かしさで溢れていた。

畑で育てた採れたての野菜を、おすそ分けしてくれる近所の人たち。

少し歩けば、夕日の沈む海岸が見える。

お店は少ないけれど、朝と夜との境がはっきりした、人間らしいこんな生活もいいかもしれない。

そう思っていた矢先だった。


顔じゅうべったりと黒い墨で、ぐにぐにとした模様を描いた中年女性を見て、腰を抜かしそうになった。

あとで隣のおばさんから、

「あれはおまじないよ」

と教えられた。

子に降り懸かる災難を、親が肩代わりしてやれる、と言い伝えられているらしい。

受験シーズンが終わると、彼女らの顔はいつもの化粧っ気のないそれに戻った。

夫は懐かしそうに、

「母さんもやってたな」と笑った。

(祭りの時には町の男衆が、全身に描いて練り歩くらしい。その日は理由をつけて実家へ戻ろうと、今から決めている)


そうして受かった大学で、私達は出会った。

卒業後、地元に戻って役場に就職した夫と、三年の遠距離恋愛の末、四ヶ月前に結婚。

慣れない土地での生活は、あんなに知っているはずの夫が、外国人に見える時がある。

いや、多分、私は異世界へと迷い込んだのだ。

仕事場から帰っても、町の人達は年中無休で夫を「役場の人」として扱う。

やれ、畑が猪に荒らされただの。

公園の木がイタズラされただの。

あんたら。役場が開くまで待てよ。

そう言えたらと考えるが、一瞬のすっきり感と引き換えに、以後ずしりとのしかかる重さを思えば、言葉は喉から腹へと引っ込んで行く。


あきらめて、朝食の準備をする為にキッチンへと向かった。

食後のりんごをつまみあげると、夫は私に声をかける。

「一応見回りに行くよ。帰りにあのパン屋でお昼にしないか」

車ですこし走った峠にある、窯焼きパンの店は二人のお気に入りの場所だ。

家にいても、止まない電話にため息をつくだけだ。

身支度を整え、私は助手席に乗り込んだ。





高い空を仰ぎ、夕焼け色に染まった崖から、娘は叫んだ。

はぎ

もう一度両の手を口に当てた頃、一羽の鷹がぐるりと旋回してから、真っ逆さまに降りて来た。

人差し指を伸ばすと、羽を広げて止まる。

娘の肩まである黒髪が、ふわりと揺れた。

ほっとした表情をみせたのち、唇を固く結んで、萩の目を覗き込む。

「あの人を呼んできて」

娘は細い髪を一本抜くと、萩の足に巻き付けた。

そうして、

「お願いね」

と空へ向かって鷹を放つ。

萩は海風に乗って高く舞い上がり、やがて山の木々に消えた。


軒先まで来て、人影が動いた。

たっぷりとした長い髪を結い上げ、薄い唇を紅で染めている。

姉さん、と言うなり、娘の足元を指さした。

息を切らせながら視線を落とすと、草履の紫の鼻緒が目に映る。

「姉さんのは紺の鼻緒でしょ。やめてよね」

妹は、抱えていた草履を地面に放った。

「ごめんね、瑠璃るり。慌てていたものだから」

娘はそっと屈むと、履きかえた。

通りに目をやり、まだその人が来ていないのを確認して、中へ入る。


「萩に伝えてきました」

奥の間に、布団を囲んで父と義母が座っている。

荒い呼吸の弟が、頬を腫らし、薄く口を開けたまま虚ろな目で天井を眺めていた。

父は一人息子の細い腕をぎゅっと握り、額を付けて何かを呟いている。

義母は、団扇で幼い弟を扇ぎながら、ねえ、と言った。

ひわさん、庭の柿がそろそろいい頃よ」

明日には食べられるかしらねぇ、とぼんやりと鶸を見た。


鶸はまたすぐに表へ出て、四方を見渡す。まだ来ていない。

頭のすぐ上で、熟れた柿が幾つもぶら下がっている。

瑠璃は、すい、と背伸びして、一つもいだ。

「夕飯はきっと、遅くなるんでしょう」

鶸は少し黙ってから、

常磐ときわの苦を抜いて頂いてから」

と答えた。瑠璃のため息が聞こえた。

「私、髪が燃える臭いって大嫌い。あんなものを体に入れるなんて、考えられないわね」

白く整った顔立ちが、淡い月明かりに浮かび上がる。

同じ女の鶸でさえも、その美しさに息をのむことがある。

後添いとしてやって来た頃の、義母によく似ている。  

背後に気配を感じた瑠璃が振り向くより早く、

「ほぅ」

と、闇に低く声が響いた。

長く伸びた影が、鶸の足先にまで届く。

大きなその影は、ゆっくりと動いて鼻の辺りを掻いた。

「てっきりその小さな鼻は、ただの飾り物だと思っていたが」

と、広い肩をわずかに揺らして笑った。

瑠璃は眉を寄せると、奥へと引っ込んだ。 鶸が慌てて頭を下げる。

男は、常磐だな、と言った。

頷きながら縁側へ上げると、男は担いでいた袋を下ろした。



                    ■



カチャカチャ、と、使い慣らした道具を並べていく。

小さなハサミを出して、鶸の手の平に乗せた。

鶸は草履を脱いで上がり、奥の襖を開けた。

父は少し安堵した様子でハサミを受け取り、寝ている常磐の髪をさくり、と切った。


鶸から手渡されると、男は髪を小皿に盛り、瓶からどろりとした琥珀色の液を垂らして、火を付けた。

蘇芳すおうさん」

鶸は声を落として、続ける。

「夕べから高熱にうなされて、喉は真っ赤に腫れて息苦しいのか、時折、ひゅうひゅうと鳴っています」

鶸の言葉を聞きながら、蘇芳と呼ばれた男は、皿の上で燃える火を見つめている。

やがて、ぱっと青い炎が立ち上ると、碗ですかさず蓋をした。 一呼吸おいて蓋をとると、黒い墨のような液が湯気を上げていた。

麻の紐を解き、朱色に染めた布から、腕ほどの長さの針を抜き、鶸を見た。

「頼む」

鶸は 、義母の鏡を抱えて蘇芳の後ろに座った。

着物がするりと落ちた途端、男の背骨を軸として、黒光りするツタ模様が広がった。

(わずかな間にまた、増えている)

鶸は目を見張った。

蘇芳は針先を皿に浸けると、縁で余分な液を丁寧に落とす。それから左手に手鏡を握り、合わせ鏡にする。やがて、角度を決めた。

ついっ、ついっと、ためらう事なく針を背中に刺していく。

一針刺しては液に浸け、男の肌に新しいツタが描かれる。

その指が止まる事はない。しかし、痛みがない訳ではないのだろう。

形のよい額には、脂汗が玉のようにびっしりと浮かんでいる。

鶸は、蘇芳の無駄のない一連の動作を前に、いつも呼吸を忘れる。

時折聞こえる、 もう少し下、などという言葉に呼び戻され、鏡を持つ腕を直してようやく我に返る。

辺りはしんと静まり、墨の入った背を今宵の月が照らす。



初めて蘇芳に会ったのは、四年前。

常磐が月足らずで生まれた、夏の初めだった。

父は商人で、裕福な暮らしをしていたが、鶸の母親は三人の子が流れた後、体調を崩しがちになり、最後に宿した子が生まれる前に、流行り病で亡くなった。

新しい母を迎えたのは鶸が十二歳の頃で、その日から二歳違いの妹が出来た。

義母と妹の瑠璃は、誰もが息を呑むような美しさをもっていたが、何処か浮世離れしていて、鶸はずっと、心の底から分かり合えない、透明な壁に阻まれているような気がしていた。


蘇芳が初めて呼ばれたあの日。

並んで座る義母と瑠璃を見るなり、彼は、ほぅ、と小さく呟いた。

「まるで人形のように美しく、此処に在ることすら、まやかしのよう」

蘇芳はにやりと笑って、言った。

その瞬間、鶸は、はたと気づいた。

自分が感じていた違和感の正体はそう、二人から感じる事の出来ない、「生」そのものだったのだ。


苦紋師くもんし」という名を聞いたのはその時が初めてだった。

人々に降り懸かる苦しみを髪から抜き取り、他の体内で消化する、苦紋抜きのまじないは、この辺りに古くから伝わってきた。

西洋の医術の広まりと共に、苦紋抜きは人々の心から薄れたが、今もなお信頼を寄せる者は消えない。

鶸の父は、体が未熟なまま生まれ落ちた息子を、昼夜問わず熱心に看護した。

常磐の小さな体には鶸の産みの母と、流れた四人の子供への想いが注がれていた。

しかし、乳を吸う力は弱く、すぐに吐いてしまう常磐は、泣く事すら満足に出来ない。

義母はもう諦めたように始終宙を眺め、瑠璃は飴玉をころころと口の中で転がし続けている。


重く、苦しい不安がまだ幼い鶸を覆う。しかしその胸の奥を、誰にも話すことはできなかった。ただ、時が過ぎていく中に、身を委ねていた。

「苦紋師が、いる」

急に、天井を見つめていた父が言った。

苦紋師。鶸が繰り返すと、横で瑠璃が小さなあくびを一つ、した。

父は最後の望みを胸に、鶸を連れて海岸へ向かった。

そうして、空を仰ぎ、

「覚えておきなさい」

と強く手を握った。

「あの鷹が、常磐を助けて下さる人を呼んで来る。きっと」

父はそう言うと、初めて鷹の名を呼んだ。


仕事を終えた苦紋師が、父から、ずしりと重い袋を受け取り立ち上がる。

その頃には常磐は母親の乳に吸い付き、時折むせ返りながらも頬を幸せそうに白く濡らしていた。

帰り際、見送りに出た鶸は、男の手の甲に刻まれたばかりの、ツタ模様を見つめた。

常磐の苦は何処へ消えたのか、答えはすぐに分かった。

荷を抱える男は肩で息をして、大きな体を引きずるようにして歩き出す。

男は視線に気付いたようで、まだ幼さを残した目で、鶸に笑った。

「お前は、生臭いまでに人の匂いが漂う奴だ。早く家へ戻れ」

この人は自分とそう変わらない年だろう、と瞳の奥にある光を見て見て思った。

そして、鋭い眼差しに潜む確かな何かを感じた。


鶸は、ぽつりと尋ねた。

墨を入れる場所がなくなったら、どうするのですか。

男の着物から覗く鎖骨や足首にもツタは絡まっていた。

わずかに男の瞳が揺らいだ。

しかしすぐに、ほぅ、と低い声が返って来た。

「聞いて、どうする」

闇に光る男の目が、鶸を真っすぐに捕らえた。

鶸はすぐに、ごめんなさい、と俯いた。

男は踵を返して土を踏み締める。通りの真ん中まできて、立ち止まった。

鶸はまだ、頭を下げてそこにいた。

「その時は、その時だ」

鶸が顔を上げた頃にはもう、男の姿はなかった。

ぶっきらぼうな声だけが、風に乗って足元に落ちていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ