オセロゲーム
俺がその手紙を見つけたのは、朝、教室に入って間もなくのことだった。
いつも通り自分の席に座り、鞄の中の教科書類を机にしまおうとその中を覗きこんだときのことである。そこに、昨日までそこにはなかった、黒い物体が横たわっていた。
「……なんだ、これ?」
誰ともなく呟きつつそれを手に取る。それは、真っ黒な封筒だった。
「何、どうしたの?」
俺以外に、唯一教室にいたマサキが声を掛けてきた。朝、いつも早めに登校してくる俺より早く教室に来ているのはマサキだけだ。
「こんなもんが机の中に入ってた」
黒い封筒をひらひらさせながら見せると、マサキは不意ににやにやと笑みをこぼし始めた。
「もしかしてこれって、ラブレター?」
ラブレターの定番といえば下駄箱の中だが、机の中というのも結構ポピュラーな場所だろう。確かにラブレターの可能性が高いようにも思える。―――封筒の色が黒でなければ、の話だが。
「ラブレターに黒い封筒はないだろ」
「んー、確かに色気はないか。中身は?」
「これから見るところ」
封筒はのりづけされていなかったので、中の手紙はすぐに取り出せた。便箋の方は、普通の白い紙だ。
俺の持っていた手紙に興味を惹かれたのか、黒板に書いてある、担任の黒森先生の几帳面な字(「宿題は教卓の上に提出してください」)を興味なさげに眺めていたマサキが、こちらへとやってきた。そして目で、手紙を広げるように指示する。
「えーっと、なになに?」
へねおふ
へいおげ、いよめをづ。
さをあた
「……何これ?」
隣から紙を覗きこんでいたマサキが拍子抜けしたような声を上げた。確かに、内容が意味不明だ。
その上、パソコンで書いた文章をプリントアウトしたものだったので、筆跡すらも分からず、黒い封筒の色とも相まって、なんだか不気味な印象を受ける。
「もしかしたら、ラブレターどころか脅迫状かも」
「シャレにならないって……」
面白がっているとしか思えないような顔で言うマサキに、俺は苦い顔を向けた。俺には脅迫状なんか受け取る心当たりはない。一応、人付き合いにもそれなりに気を遣っていたつもりだったし。それでも、もしもこれが本当に脅迫状、もしくはそれに類するような、悪意あるものだとしたら、さすがにかなり落ち込まざるを得ない。
「まあまあ、そんな物騒なものだと決まったわけでもないじゃん」
「そうだけどさ……」
他人事だと思って気楽な態度のマサキが恨めしい。
俺の落ち込みようが予想以上だったのか、元気のない俺を見てマサキはフォローするように笑って言った。
「見たところ、これって暗号文じゃん? 解読できれば、なんて書いてあるのか分かるかもよ」
「解読して、俺に対する悪口とか出てきたら立ち直れねぇよ……」
弱気な俺に、マサキは妙に自信たっぷりに「大丈夫」と言ってみせた。
「もしこの手紙が嫌がらせだったら、もっと直接的に悪口とかが書かれてると思う。この謎の文が暗号であるにしろないにしろ、嫌がらせとしては中途半端。手紙の差出人は、この暗号を解いてほしくてこの手紙をケンのところに送ったんだと思うけど」
ケンというのは俺のこと。加賀美賢介というのが俺の名前だ。
マサキの意見の信憑性について、腕を組んで考えてみる。もっとも意見のようにも思えるし、ただのこじつけのように思える。
うじうじと悩み続ける俺の肩に、マサキはぽんと手を置いた。
「それに、ケンはそこまで誰かに恨まれたりする奴じゃない。長い付き合いだから分かるよ。保障する」
俺は思わず席に座ったまま、百七十センチ近いマサキの長身を見上げた。整った顔立ちに自信ありげな笑みを浮かべながら俺を見ている。
こいつがそこまで言うんだったら、きっとそうなんだろうと思ってしまう。こいつとは小学校時代からの友達で、俺のことを俺以上に分かってくれている気がする。何だかんだ言って、俺はこいつに弱いんだ。
「分かった。マサキの意見を採用する」
そうなると次に問題になってくるのは、この暗号文(らしきもの)には、本当は何と書かれているのかということなのだが……。
そのことについてマサキに相談しようと口を開きかけたそのとき、それを遮るように、今まで閉まったままだった教室のドアが静かに開いた。
「おはよう」
そしてそのドアの向こう側から現れたのは、俺の憧れの人―――宮園ほのかさんだった。
俺は半ば反射的に手紙を机の中に隠していた。
「おはよう、宮園さん」
ぎこちない俺の言葉に、宮園さんは笑顔を返す。それだけで彼女の周りだけ、スポットライトが当たったかのように光り輝いているように感じる。宮園さんは、誰もが認めるほどの美人だった。普通、俺たちくらいの年代の女子といったら、「可愛い」と言えるような娘は結構いても、「美しい」という形容詞が似合うような人は滅多にいない。宮園さんは、その中にあって非常に稀有な存在だった。
宮園さんはそのまま俺の隣の窓際の席につく。
この前の席替えで、俺は運よく宮園さんの隣の席をゲットすることが出来た。おまけに宮園さんは窓際の席。陽の光に当たると、宮園さんの整った顔立ちはより引き立つ。宮園さんみたいな華やかな人は、明るい太陽の下が一番似合うのだ。そして俺は、陽に照らされた宮園さんの横顔を、こっそりと隣で盗み見る権利をいつも人知れず行使しているのだった。
「それでさ、その手紙のことなんだけど……ケン、聞いてる?」
「ああうん。聞いてる聞いてる」
いつしかマサキの声は俺の中で雑音と化してしまっていた。愛すべき友人の声が、俺の耳を右から左へと流れて行く。俺は完全にのぼせあがってしまっていた。マサキの発する言葉に、つい心の伴わぬ適当な言葉で応対しまう。
そんな俺の様子に呆れてしまったのか、マサキはやれやれというジェスチャーをした後、少し機嫌悪そうに教室から去って行ってしまった。それにもぼーっとしていた俺はしばらく気付かなかった。だが、ぴしゃりというドアの閉まる音に、俺の意識はようやく現実に帰ってくる。
途端に、俺の中に小さな罪悪感が湧いてきた。
マサキに対して、あまりに無礼な態度を取ってしまったかもしれない。宮園さんがやってくるまでは二人で話をしていたのに、彼女が来た途端、俺はマサキへの注意を一切失ってしまった。あまり褒められた態度じゃない。こんなことばかりやってると、いつか友達をなくすだろう。それに、マサキはへそを曲げるとちょっと厄介だ。
俺は机の中の黒い封筒をひっ掴むと、マサキの後を追いかけて教室を出た。
「―――あっ!」
その背後で、宮園さんが小さく声を上げていたことに、俺は全く気付かなかったのだった。
マサキの行くところといったら、だいたい数パターンしかない。静かな場所を好むあいつのこと、行き先は多分、図書室か裏庭かってところだろう。ここからだと、図書室の方が近い。
「とりあえず、行ってみるか」
俺たちの教室は三階で、図書室は四階。俺たちの教室の真上に位置している。
俺は階段を二段飛ばしで駆け上がると、すぐ右脇にある図書室のドアを乱暴に開けた。この時間なら、一般の生徒が中にいることもないだろう。
マサキは、一番奥の窓際の席に座っていた。
俺が図書室に入って来たのを見ると、ちょっと不貞腐れたような顔になる。
「愛しい愛しい宮園さんと二人っきりでお喋りするチャンスだったのに、こんなところに何の用ですかー?」
うわあ。完全にスネてやがる。
ふと、小学生時代のエピソードが頭の中に蘇る。二人で一緒にカブトムシを捕りに行ったときのこと、虫が苦手なくせについてきたマサキをちょっと脅かしてやろうと思って、捕まえたカブトムシをマサキの顔にくっつけてやったんだ。そしたらもう、泣くわ叫ぶわの大騒ぎで、そこまで取り乱すと思ってなかった俺は平謝りだった。すぐにカブトムシも顔から取ってやったんだけど、そのせいで半月はへそを曲げて口もきいてくれなかった。
……何を言いたいのかというと、こいつは意外に頑固者で、一旦へそを曲げるとなかなか機嫌を直してくれないってこと。普段妙に大人びているくせに、意外なところで子供っぽいんだ。
「悪かったよ。確かにさっきの俺の態度はマサキに対して失礼だった。謝る」
これ以上機嫌を損ねないように、俺はなるべく穏やかな声で謝罪した。
「別に、怒ってなんかないんだけどさ」
じゃあその不機嫌そうな顔は何だよ。
「ちょっと気を利かせたつもりだったんだよ。お邪魔虫がいるより、二人きりで話すチャンスがあった方がいいかと思ってさ」
「いきなり二人きりにされたって何を話せばいいか分かんねぇよ。それにお前、羨ましいことに俺よりずっと宮園さんと仲いいだろ。俺なんかよりも、お前の方が宮園さんと話したいこととかあったんじゃねえの?」
「何? 嫉妬?」
「いやいやいや……」
お前に嫉妬する意味がないだろ。
「それよりもさ、さっきの話の続きしようぜ!」
このまま険悪なムードで無益な話はしたくなかったので、俺は話題を変えることにした。話題を変えれば機嫌も直るのではないかという打算もあったんだけど。
「黒い封筒の手紙の話?」
「そうそう」
俺は手紙を机の上に置いた。
マサキはその手紙を視線で追うと、小さく溜め息をついた。
「話の続きっていったって……なんて書いてあるか分かんないしなあ……」
「分かんないから、解読する方法を考えようって言ってるんだよ」
「うーん……」
マサキは腕を組み手紙をじっと見つめて唸りだした。どうやら、一応機嫌は直ったらしい。俺はほっと胸をなでおろしつつも、マサキにばかり考えさせておくわけにもいかないので、自分でもない頭を捻って考えてみる。
これは暗号、なのだろう。ここに書いてある一文字一文字を、何か別の文字に変換して別の文章にする、というのが一番ありそうに思える。だが肝心の変換方法が全く分からない。
文字をローマ字にしてみたり、パソコンのキーボードと対応させてみたり、と思いつく限りのことはやってみたのだが、意味ある文章にはならない。
「あーもー! 分っかんねぇ!」
イライラが頂点に達した俺は、頭を掻き毟るとそのままガクッとうなだれた。
そんな俺の様子に、マサキは苦笑気味に手紙から視線を外し、こちらを見る。するといきなり、マサキはぷっと吹き出した。
「な、何だよ?」
「ケン、制服のボタン見てみなよ。下に一個ずつずれてる」
「え、マジ!?」
慌てて自分の制服を見ると、確かにだらしなく、ボタンがずれていた。
「あっちゃー……。今朝は寝覚めが悪くてぼーっとしてたからなぁ。寝ぼけてボタンをかけ違えたのかも……」
「普通ボタンがずれてたら気づくっしょ。ったく、変なところで馬鹿だよね」
「…………」
小馬鹿にしたようなマサキの態度に、何か言い返そうとした俺は、そのままの体勢で固まった。
だらしなく口をあんぐりさせたまま硬直した俺に、マサキは不思議そうな視線を送る。
「ケン?」
一個ずつ、ずれている。
マサキの何気ない一言に、俺の頭の中に電流が流れたような衝撃が走る。
「分かったぞ……」
「え?」
「分かったんだよ! 暗号の答えが!」
俺が喜々として叫んだそのとき、不意に図書室のドアが開かれた。
そしてそのドアの向こうから、息を切らせた宮園ほのかさんが現れたのだ。
尋常でない様子の宮園さんに、俺もマサキも言葉を失っていた。
普段の余裕に満ちた優雅な様子はそこにはなく、全力で走って来たのだろう、苦しそうに息を繰り返していた。
「加賀美くん……その……封筒……」
「あ、ああ。朝来たら、俺の机の中に入ってたんだ」
「そう……だったんだ……」
ふう、と自らを落ち着かせるように小さく息をつくと、宮園さんは俺たちの方へと歩み寄って来た。
「それ、私宛のものなんだ。多分、間違って加賀美くんの机の中に入っちゃったんだと思う。返してもらえるかな?」
静かに、だが有無を言わさぬ様子で宮園さんは俺の方へと手を差し出す。
宮園さんに逆らえるはずもない俺は、そのまま素直に机の上に置いてあった手紙を渡した。
すると宮園さんは、滅多に見れないほど満面の笑みを浮かべ、大切そうにその手紙を受け取った。そして壊れものでも扱うかのように、そっとそれを胸に抱く。
「よかった……」
目を瞑り、優しい手つきでその封筒を撫でるように触る。宮園さんはそれからありがとう、と一言だけ俺たちに声を掛けると、今度は来たときとは違う、優雅で軽やかな足取りで去っていった。手紙を取り戻した宮園さんの目には、もはや俺なんかこれっぽっちも映ってなかったんだ。
「はは……」
一気に緊張が抜け、力ない笑みが自然とこぼれた。何だかすごく、情けない気分。
そんな俺の様子をじっと見ていたマサキが、不意に口を開いた。
「あの手紙には、本当はなんて書いてあったの?」
「え?」
「解読できたんでしょ?」
マサキの言葉に俺は小さく頭を縦に振った。
「マサキの言葉がヒントになったよ。一つずつずれている、って。手紙に書いてあった文字を、五十音順で一つずつ下にずらしていけばよかったんだ」
へねおふ
へいおげ、いよめをづ。
さをあた
これを一つずつ下にずらすと、こうなる。
ほのかへ
ほうかご、うらもんで。
しんいち
「あ……」
マサキの口から、小さく言葉が漏れた。
「これ、本人が言ってた通り、宮園さん宛の手紙だったんだよ。待ち合わせの約束を書いてあったんだ」
「そっか……。でも、この『しんいち』っていうのは誰だろ? この学校に『しんいち』なんて名前の人いたっけ?」
「いるよ。うちのクラスに」
「え、いたっけ?」
マサキがすぐに思いつかないのも無理はない。普通、こういう場合、考慮に入れるのは生徒だけだろうから。
「うちのクラスの担任、黒森信一先生だよ」
「あっ!」
ようやく気付いた様子で、マサキは口に手を当てた。
「そもそも考えてみれば、あんな手紙で待ち合わせの連絡をすること自体おかしい。普通、メールでやるだろ、そんなこと。でも手紙の差出人には、メールを使いたくない理由があった」
「メールだと、記録が残ってしまう……」
そういうことだ。
あんな手紙をこっそり宮園さんの机に仕込み、待ち合わせの約束を取り付けるくらいだ。宮園さんと黒森先生の関係は、火を見るより明らかだろう。二人は、禁断の恋に落ちてしまったわけだ。
宮園さんとの関係を続けるにあたって、黒森先生は細心の注意を払った。あの手紙もその一つだろう。メールでやり取りをすると、機械の中にメールのやり取りが保存されてしまう。もしものとき、言い逃れは難しい。しかし、手紙を連絡手段に用いれば証拠隠滅は比較的簡単だ。燃やしてしまえばいい。その上、手紙は手書きでなくパソコンで打ったものをプリントアウトし、内容が他人に漏れないように暗号化までする手の込みようだ。恐らく、宮園さんにだけ事前に暗号の解き方を教えておいたのだろう。手紙を黒い封筒に入れていたのは、もし他の生徒に見られたとき、ラブレターか何かと間違えられないように、カモフラージュの意味合いがあったのかもしれない。実際、俺は封筒の色が黒だったから、マサキのラブレター説を却下したんだし。もしくは黒森先生が、自分の名字にちなんで茶目っ気を出したのか。とにかくそこまでしておけば、あとは手紙を、朝、生徒たちが登校してくる前に机の中に入れておけばいい。しかしその際、黒森先生は手紙を入れる机を間違えてしまったのだろう。俺と宮園さんの席は隣同士だから間違ってしまったのも頷ける。
「実際大したもんだよな……周囲に全く悟らせなかったんだから。俺も、全然気づいてなかったわ……はは……」
「ケン……」
「告白することすらなく失恋、か。まあ、初めから宮園さんと俺じゃ、釣り合うはずもないって分かってたけどな」
「…………」
何と声を掛ければいいのか分からない、といった様子で、マサキが黙り込んだ。
しばらく気まずい沈黙がその場を支配したが、不意にマサキが言葉を発した。
「今回のこと、どうする?」
「どうする、って?」
「宮園さんと黒森先生の関係のこと、みんなにバラしちゃう?」
マサキの不穏な言葉に、俺は思わず目を見張った。
「そうすれば、二人はまず間違いなく破局。恋敵の黒森先生も、処分が下ってどこかに飛ばされるかも」
「んなことすっかよ」
俺は溜息をついた。
「いくらなんでもそこまで落ちぶれてねーし。他人の幸せを妬んで邪魔するような人間にはなりたくない。それに……」
「それに?」
俺はふっと小さく笑みをこぼした。何だか、肩の荷が下りたような気分。
「それに、多分俺は、本気で宮園さんに恋してたんじゃないと思う。何ていうか、テレビの中のアイドルに憧れるのと同じ気分、ってやつかな」
だから。
「だからきっと、立ち直るのにも時間はあまり要らないと思う。きっとすぐに、素直に二人を応援できるようになると思うよ」
俺がそう言うと、マサキは不意に凄く優しい顔になった。
「そっか」
二人きりの図書室の中、俺にはマサキのその笑顔が、とても綺麗に見えた。
「ケンならそう言うと思ってたよ」
夕焼けの中、人目を忍ぶように歩く二つの人影があった。
ちょうどグラウンドからは死角になる、いつもじめじめした印象の場所、裏門。普段はほとんど人も寄り付かないのだけれど、このときばかりは違った。
セーラー服を着た女子とスーツを着た男性が早足で歩いていく。急いでいる中にも、互いを思い合っているのがよく分かる。
俺はその光景を、三階の階段の踊り場から無言で眺めていた。
高低差があるから、二人がどんな顔をしているのかは分からない。けれど二人とも笑っているんじゃないか、と何となく思った。
二人は、駐車場の方へと向かう。これからドライブでもするのだろうか。
幸せそうな二人の姿が、俺の視界から消えて行った。
「ケン」
名を呼ばれ振り返ると、そこにはマサキがいた。どこか心配そうな顔をしている。手紙を受け取り、見事に失恋してしまった日の放課後だ。まだショックを引きずっていると思っているのだろう。
俺は大丈夫だという意思表示に軽く笑ってみせると、階段を下りながら何気ない風を装って口を開いた。
「まあ、憧れの宮園さんに相手がいたって知ったときはショックでさ、余計なことを考える余裕はなかったんだけど」
一段、また一段とゆっくり下っていく。
「少し時間をおいて冷静に考えてみると、ちょっとおかしなことに気づいたんだ」
「おかしなこと?」
戸惑ったような声のマサキに小さく頷きかける。
「黒森先生、いくらなんでも俺と宮園さんの机を間違えるって考えづらくないか?」
「何で? ケンと宮園さんの机は隣なんだから、間違えてもおかしくないんじゃ?」
俺はマサキの隣を通りすぎると、左右に広がった廊下を右に曲がる。それから数歩で、すぐ俺たちの教室だ。
「黒森先生がかなり用心深かったのは分かるよな? 待ち合わせの連絡にわざわざ暗号化した手紙を、筆跡を残さない方法で使ってたんだし。そんな人が、普通手紙を入れるべき机を間違えるかな」
「そりゃそうかもしれないけど。でもさっきも言った通り、ケンと宮園さんの机は隣同士……」
「そう、隣同士」
マサキの言葉を遮るように言うと、俺は教室のドアを開けた。
無人の教室。その奥の方に、俺と宮園さんの席はある。
「だけどな、宮園さんの机は窓際なんだ。隣同士とはいっても、一番端と端から二番目だ。いくらなんでも、黒森先生ほど用心深い人が、一番端の席を間違えるか?」
「…………」
「隣同士の席だから間違いやすい。一見もっともだけど、それは二つの席が列の中央付近にあるときだけだ。目的の机が一番端にあるのなら、まず間違えないだろ」
ふう、と小さく息をつく。
マサキの顔は、凍りついたかのように無表情だ。
「でも、現に手紙はケンの机の中に入ってた」
「そうだな。でも入れたのは黒森先生じゃないと思う。間違えて入れたとは思えないってのはさっき説明したし、故意に入れたってのはもっとありえない。二人の関係がバレれば、宮園さんと付き合えなくなるばかりでなく、教師としての立場も危うくなるからな。黒森先生がそんなことをする理由はない」
「じゃあ、誰がそんなことを?」
「簡単さ」
にやりと笑みを向ける。
「多分、実際に起こった流れはこんな感じだ。まず、黒森先生が宮園さんの机の中に手紙を入れる。これは誰にも見られちゃいけないことだから、朝他の人が登校してくる前、だろうな。んで、次に別の誰かが来て、宮園さんの机の中から手紙を取り出し、俺の机の中に入れる。これだけだ」
「だから、誰がそんなことを?」
やや挑戦的な態度のマサキに、俺はあくまで冷静に答えた。
「時間的制約を考えれば一人しかいないだろ。黒森先生以外の誰かが手紙を俺の机の中に入れるチャンスは、手紙を宮園さんの机の中に入れた黒森先生が教室を去ってから、俺が教室に入ってくるまでの間だ。つまり、今朝俺よりも早く登校していた人物、ってことになる」
そんな人間、一人しかいない。
「マサキ、お前があの手紙を俺の机の中に入れたんだろ?」
マサキの顔は強張っていた。
顔色は最初は真っ赤で、その後みるみるうちに血の気が引いて真っ青になっていく。
「そんなことを……する理由がない……」
しばらくの沈黙の後、絞り出すようにマサキが声を発した。
そう。それが最後の疑問。
どうしてマサキは、黒森先生の手紙を俺の机の中に入れたりしたのか。実は俺には、一つだけ心当たりがあった。けれど、それを俺の口から言うつもりはなかった。
これはもともとマサキが始めたこと。だったら、マサキの口からそれ言うべきじゃないかと思うのだ。
「そうだな。理由がない」
「え?」
「なんでマサキがあの手紙を俺の机の中に入れたのか、それは俺には分からない。だから聞きたいんだ。何であんなことをしたんだ?」
俺の問いに、マサキの顔が強張った。
マサキはしばらく目を瞑り、何かを考え込むようにじっとしていた。ここで、マサキがその理由をごまかしてきたり、俺の予想が外れていたりしたならば、この話はここまで。そうでないならば、俺も覚悟を決めるしかない。
やがて、じっと閉じられていた目が開かれた。
「……分かったよ。白状する。笑わないで、聞いてくれる?」
「ああ」
俺の言葉に小さく頷くと、マサキはぽつぽつと話し始めた。
「ケンに、二人の―――宮園さんと黒森先生の関係を教えたかったんだ。それが理由だよ。あの暗号も、ケンなら解けるだろうと思ってたし」
「さりげなく、ヒントもくれてたよな」
ボタンがずれている、というマサキの言葉で、俺は暗号解読の方法をひらめいたのだ。
「ん、気づいてたんだ。そうだよ。そうやってケンに暗号を解いてもらって、二人の関係を知ってもらって……それで、ケンに宮園さんを諦めてもらおうと思ってた」
「友達として、勝ち目のない片思いをしている俺を哀れに思ったのか?」
わざと見当違いな意見を言ってみせた俺に、マサキは小さく首を振った。
「違うよ。あれは、ケンのためにやったんじゃない。自分のために、やったんだ」
すうっと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。それから、マサキは意を決したようにこちらを見据えた。
「ケンがいつまでも宮園さんのことを好きでいたら、こっちを向いてくれないと思ったから。だから、二人の関係を知らせて、ケンに宮園さんを諦めさせたかった。……あたしは、ケンのことが、好きだから」
「…………」
「恋してるって意味で、好きだから! ずっと前から、好きだったから!」
短いスカートを前後に揺らしながら、マサキは叫ぶようにして想いを伝えてくれた。
小学校時代からの付き合いで、昔からの友達だったマサキ。異性同士である以上、こういう可能性も考えられたはずだった。けれど俺にとってマサキ―――真崎遥菜は女である以前に友達で、そんな関係を心地よく思っていた。
昔は俺も真崎のことを、名字でなく名前で呼んでいた。呼び方が、遥菜から真崎に変わったとき彼女はなんて思っただろう。
ずっと前から好きだったと言っていた。女子と仲良くするのが恥ずかしくて、呼び方を変えたとき、真崎が少しさびしそうな顔をしていたのを覚えている。そのときにはもう、俺のことが、好きだったのだろうか。俺が気にも留めていなかった距離感を、ずっと気にしていたのだろうか。
……何でこれまで、全く気付かなかったのだろう。いや、薄々感づいていたからこそ、俺は今回、この結論に辿り着くことが出来たんじゃないのか。「友達」という関係を壊したくなくて、何も知らないふりをして、真崎を追い詰めたのは俺だ。
「……今は、宮園さんとのことがあったばかりだから、返事はすぐじゃなくてもいい」
俺は唇を噛み締めて俯いていたが、真崎は少し潤んだ目で、それでも俺のことをしっかりと見ていた。
「でも、覚えといてよね。絶対にいつか、こっちを振り向かせてみせるから!」
無理に笑顔を作り、ぴしっと俺に人差し指を向ける。その人差し指は、微妙に震えていた。
そしてそれを捨て台詞に、真崎はそのまま、くるりと身体を半回転させると、逃げるようにしてダッシュで教室を出て行った。
「あ、おい!」
俺の声なんて聞こえてないかのように。長い髪を揺らしながら、真崎の体は廊下の向こうへと消えて行った。
「…………」
俺はしばらくその場を動けなかった。
何となくそうなんじゃないか、と頭では思っていたが、実際に現実として突きつけられると、やっぱり冷静ではいられない。
あいつはいつだってそうだ。散々に俺を振りまわして、いろんなところに引っ張っていく。でも俺は、案外あいつに振り回されるのが嫌いじゃなかった。カブトムシ事件のときも、今回の手紙騒動も、あいつの行動に翻弄されながら、それでも結構楽しんでいたんじゃないのか。
俺は、何だかんだ言ってあいつに弱い。だから、きっと。あいつがそう言うのなら。
俺はいつか、あいつのことしか見えなくなるんだろう。今とは違った関係が、そこにはあって。そしてきっと、あいつに振り回されながら、俺は結構楽しんでたりするのだろう。不思議なことに、何だかそれが、すごく楽しみに思えてきた。
―――もしかしたらもう、俺はあいつに惚れているのかもしれない。もしかすると、あいつと同じように、ずっと昔から。
翌朝。
午前七時五十分。
いつも通りの時間、いつも通りの朝。けれどきっと少しだけ、特別な朝。
雲ひとつない、抜ける様な青空を窓越しに見て、俺はよし、と心の中で気合を入れた。
ゆっくりと教室のドアを開ける。その先にいる、いつも通りの人物。
今はまだ、自分の気持ちが分からない。
宮園さんのことも、完全に心の中で整理がついたわけではない。
昨日の想像は、あくまでも、いつか起こりうるかもしれない可能性の話だ。
だから今は、これが俺の精一杯。
あいつへと、今俺に出来る、たった一つの返事だ。
少し気まずそうに俺を見て、はにかんだ顔で手を上げるあいつ。
俺は努めて陽気に笑って、片手を上げた。
「おはよう、遥菜」
オセロの駒が黒から白に、白から黒に反転していくように、読者の皆様の認識をひっくり返せたらいいなぁ、という願いを込めて今回、この作品に「オセロゲーム」という題をつけました。
楽しんでいただけたでしょうか?