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婚約破棄された令嬢は羊飼いの青年の笛の音に救われました〜王太子に『田舎臭い』と捨てられた私ですが、実は彼こそが失われた古代王家の末裔で溺愛されています〜

作者: uta
掲載日:2026/06/07

「君のような田舎臭い女を、この国の王太子妃にはできない」


その言葉が、満場の視線が集まる大広間に響いた瞬間、私の世界は音を失った。


王宮の夜会。シャンデリアの光が幾千もの宝石を輝かせ、楽団が優雅なワルツを奏でていたはずなのに——今、私の耳には何も届かない。


ルシアン様の冷たい紫水晶の瞳が、私を見下ろしている。


「……ルシアン、様?」


声が震えた。十五年だ。物心ついた時から王太子妃になるために生きてきた。礼儀作法、政治学、社交術、刺繍、音楽——全てを完璧に修めた。この方のために。この方の隣に立つために。


なのに、田舎臭い?


「聞こえなかったのか? 婚約破棄だと言っている」


ルシアン様の隣で、黒髪の令嬢がそっと目を伏せた。マリアベル・クレイトン。半年前に社交界にデビューした新興貴族の娘。儚げな美貌と、蜜のように甘い声を持つ少女。


「殿下、お気持ちはわかりますが、こんな大勢の前では可哀想ですわ……」


彼女の声は震えていた。まるで私を庇うかのように。でも、その唇の端がわずかに——ほんのわずかに、歪んでいるのを私は見た。


(ああ、そういうこと)


全部、わかった。


「理由をお聞きしても?」


不思議と、声は落ち着いていた。周囲からざわめきが起こる。『可哀想に』『あんなに尽くしていたのに』『でも確かに、最近のエリアーナ様は……』


「理由? 君には品がない。社交界の華などと呼ばれていい気になっているようだが、所詮は辺境の田舎貴族の娘だ。マリアベルのような本当の淑女と比べれば、その差は歴然としている」


——本当の淑女。


私が毎晩、燭台の明かりの下で政治書を読み込んでいた時、あの方は何をしていた?

私が他国の言語を必死で学んでいた時、あの方は私に手紙の一通でも書いてくださった?

私が、私が——


「マリアベルは俺に言ったよ。君が裏で彼女の悪口を言いふらしていると。新興貴族だからと見下し、社交界から追い出そうとしていると」


「……私が?」


目が、自然とマリアベルを見た。彼女は涙ぐんでいる。完璧な涙だ。頬を一筋だけ流れ、睫毛を濡らしている。


「わたくし、何も言っていませんのに……エリアーナ様は、なぜそんなことを……」


(嘘だ)


一度もそんなことを言った覚えはない。むしろ、デビューしたばかりで心細いだろうと、社交界の作法を教えようとさえした。


でも、それを今ここで叫んだところで、誰が信じてくれる?


ルシアン様の瞳には、もう私への情など欠片も残っていない。


「……承知いたしました」


深く、深く息を吸った。


背筋を伸ばす。顎を引き、視線を真っ直ぐに。十五年間で叩き込まれた全てを、今この瞬間のために使う。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「……っ」


ルシアン様の眉がわずかに動いた。泣き叫ぶとでも思っていたのだろうか。縋りつくとでも?


「ヴェルディア伯爵家の名において、王太子殿下との婚姻の約束を白紙に戻すことに同意いたします。これまでのご厚情に感謝申し上げます」


一礼。完璧な角度の、完璧な一礼。


顔を上げた時、マリアベルの表情が一瞬だけ歪んだのを見た。悔しそうに。まるで、もっと惨めな姿を晒してほしかったとでも言うように。


(見せてなんか、やるものですか)


「殿下、マリアベル様、どうぞお幸せに」


踵を返す。


大広間を横切る私の足音だけが響いていた。左右に並ぶ貴族たちの視線が痛い。同情、嘲笑、好奇——様々な感情が刺さる。


でも、振り返らない。

絶対に、振り返らない。


扉が閉まる。


冷たい廊下に出た瞬間、膝が震え始めた。


「お嬢様!」


セシリアの声が聞こえた。幼馴染で、誰よりも信頼できる侍女。彼女が駆け寄ってきて、私の腕を支えてくれる。


「馬車を……」


「もう用意してあります。こっちです、早く」


彼女に引かれるまま、裏口から王宮を出た。待っていた馬車に乗り込み、扉が閉まる。


そして——


「あ……」


涙が、止まらなかった。


「お嬢様……」


セシリアが私を抱きしめてくれる。その温かさに、もう我慢できなかった。


「十五年、よ……」


声が嗄れる。


「十五年、あの方のために生きてきたの。全部、全部あの方のために……なのに、田舎臭いって……品がないって……」


「違います! お嬢様は何も悪くありません!」


セシリアの声も震えていた。


「あの王太子なんか、羊の糞を踏めばいいんです! マリアベルとかいう女も、絶対に何か企んでます! あんな嘘くさい涙、誰が信じるもんですか!」


——嘘くさい涙。


そうだ。あの涙は演技だ。あの手紙も、噂も、全部あの女が仕組んだことに違いない。


でも、もう遅い。


全ては終わった。


馬車が揺れる。王都の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。


(馬鹿みたい)


心の中で呟く。


(十五年も、あんな男のために)


窓の外を流れる景色を見つめながら、私は声を殺して泣き続けた。


この時はまだ知らなかった。


この最悪の夜が、本当の幸せへの始まりだったことを。


故郷の丘で、不思議な笛の音が私を待っていることを——。



◆◆◆



実家に戻って、三日が経った。


「エリアーナ、食事を持ってきたよ」


扉の向こうから、お父様の優しい声が聞こえる。私は毛布を頭まで被ったまま、小さく返事をした。


「……ありがとう、ございます。でも、今は……」


「そうか」


お父様は何も言わず、廊下に食事を置いて去っていく。


足音が遠ざかってから、私はそっと毛布から顔を出した。窓の外には、幼い頃から見慣れた緑の丘陵が広がっている。


王都の華やかさとは無縁の、静かな田舎の風景。


(田舎臭い、か)


胸が締め付けられる。


あの夜会から、私はほとんど部屋から出ていない。泣くことも、怒ることも、もう疲れてしまった。ただ、ぼんやりと天井を見つめて過ごす日々。


このまま消えてしまいたい。


そんなことを考えていた、その夜のことだった。


——ピィ……


「……?」


微かな音が聞こえた。


窓を開けると、夜風と共にその音がはっきりと耳に届いた。笛の音だ。どこか遠くの丘から、澄んだ旋律が流れてくる。


不思議な曲だった。聴いたことのない旋律なのに、どこか懐かしい。まるで、ずっと昔に聴いたことがあるような——。


気がつくと、私は部屋着のまま屋敷を出ていた。


月明かりの下、丘を登る。裸足だということにも気づかないまま、ただその音に導かれて歩いた。


そして、丘の頂に辿り着いた時——。


「……っ」


息を呑んだ。


月光に照らされた草原の中、一人の青年が座っていた。傍らには数頭の羊が眠っている。彼は木製の笛を唇に当て、静かに旋律を紡いでいた。


風に遊ぶ亜麻色の髪。月明かりに浮かぶ、空の青を映したような澄んだ瞳。陽に焼けた肌は、明らかに労働に慣れた者のそれだ。


羊飼い——そう気づいた瞬間、彼の視線がこちらを向いた。


「あ……ごめんなさい、私——」


慌てて謝ろうとした。こんな夜更けに、見知らぬ男性の前に突然現れるなんて。しかも、この格好で。


でも、彼は笛を下ろすと、ゆっくりと立ち上がっただけだった。


「……泣いているのか」


「え?」


頬に手を当てて、初めて気づいた。涙が流れていた。いつの間に——?


「あの音……君の笛の音を聴いていたら、勝手に……」


「そうか」


彼は短く頷いた。表情の変化に乏しい顔。でも、その瞳は不思議と優しかった。


「座るといい。羊たちは人懐こいから、怖がらなくていい」


「で、でも……」


「その足、傷だらけだ」


彼が指さした先を見て、私は初めて自分の足の状態に気づいた。裸足で丘を登ったせいで、あちこちに擦り傷ができている。


「あ……」


「ここで待っていろ」


彼はそう言うと、近くの小屋へと歩いていった。しばらくして戻ってきた彼の手には、清潔な布と水差しがあった。


「貸して」


「え、いえ、自分でできます——」


「いいから」


有無を言わさぬ口調で、彼は私の前に膝をついた。そして、丁寧に傷口を洗い、布で包んでくれる。


その手は、見た目よりもずっと優しかった。


「……ありがとう、ございます」


「カイル」


「え?」


「俺の名前だ」


「あ……私は、エリアーナ・フォン——」


「知っている。伯爵家の令嬢だろう」


彼——カイルは、淡々と言った。


「村で噂になっていた。王都から戻ってきたって」


「……そう、ですか」


噂。きっと、婚約破棄のことも伝わっているのだろう。恥ずかしさで顔が熱くなる。


「辛いことが、あったんだな」


「……」


「その目を見ればわかる。泣きすぎて、腫れている」


直接的な言葉に、思わず目を伏せた。


「俺の笛の音が、何かの足しになるなら」


カイルは再び笛を手に取った。


「いつでも聴きに来るといい。毎晩、ここで吹いている」


「……いいの、ですか?」


「羊たちも喜ぶ」


そう言って、彼はほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ、微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが揺れた。


「……ありがとう」


今度は、心からそう言えた。


カイルが再び笛を唇に当てる。月明かりの下、澄んだ旋律が丘に響く。


私はその音に耳を傾けながら、気づいた。


——この音を聴いている時だけ、胸の痛みが和らぐ。


三日間、一滴も出なかった涙が、今は静かに頬を伝っている。泣くことができる。この笛の音を聴いている時だけ、私は泣くことができる。


傍らの羊が、もそもそと私に寄り添ってきた。その温かさが、凍りついた心に染み込んでいく。


ふと、月明かりに照らされた笛が目に入った。使い込まれた木製の笛。その側面に、何か紋章のようなものが刻まれているのが見える。


(……あれは?)


見覚えのある紋章だった。どこかで見たような——幼い頃、古い絵本で見たような——。


でも、今は聞かないでおこう。


彼がこうして笛を吹いてくれている。それだけで、十分だから。


その夜、私は初めて穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。


夢の中でも、あの笛の音が聴こえていた。



◆◆◆



あれから、毎日のように丘を訪れるようになった。


「今日は元気そうだな」


カイルは相変わらず言葉少なだったが、私が丘に現れると必ず声をかけてくれた。


「ええ、少しずつ……食事も取れるようになりました」


「そうか」


彼は短く頷くと、傍らの子羊を撫でた。


「こいつはメイ。一番の甘えん坊だ」


「メイ……可愛い名前ですわね」


「みんなに名前をつけている。この茶色いのがロイ、あっちの太っちょがベン、そこで寝ているのがリリー」


一匹ずつ、丁寧に名前を教えてくれる。その様子を見ていると、自然と笑みがこぼれた。


「お嬢様! やっと見つけた!」


丘の下から、セシリアの声が聞こえた。彼女は息を切らせながら駆け上がってくる。


「もう、最近毎日ここにいるんですね。心配するじゃないですか」


「ごめんなさい、セシリア。でも、ここにいると落ち着くの」


セシリアは私の隣に座り、カイルをちらりと見た。そして、意味ありげに笑う。


「ふーん、羊飼いのお兄さん、なかなかいい男っすね」


「せ、セシリア!」


「何すか、その顔。赤くなってるっすよ、お嬢様」


「なっ……赤くなんか——」


「……俺は向こうで羊の世話をしている」


カイルは静かにそう言うと、羊たちを連れて少し離れた場所へ行ってしまった。


「あーあ、逃げられちゃった」


「もう、セシリアのせいですわ」


「でもお嬢様、本当に顔色良くなりましたね」


セシリアの声が、少しだけ真剣になった。


「三日前まで、死んだみたいな目をしてたのに。今は……ちゃんと、生きてる顔してます」


「……」


「あの笛の音のおかげっすか?」


私は小さく頷いた。


「不思議なの。カイルの笛の音を聴いていると、胸の奥が温かくなるの。今まで詰まっていたものが、少しずつ溶けていくような……」


「へえ……」


セシリアは遠くでカイルを見つめた。


「なんか、ただの羊飼いには見えないっすけどね、あの人」


「……どういうこと?」


「んー、なんていうか……所作が綺麗すぎるっていうか。農民にしては手が綺麗だし、話し方も訛りがないし」


言われてみれば、確かにそうだ。カイルの手は確かに労働に慣れているけれど、爪は清潔に整えられているし、言葉遣いも丁寧だ。


「まあ、深く詮索する気はないっすけどね。お嬢様を元気にしてくれるなら、あたしはそれで満足です」


セシリアはそう言って立ち上がった。


「じゃ、あたしは戻りますね。旦那様がお嬢様の様子を心配してたんで、元気だって伝えときます」


「お父様が……」


「『あの子は大丈夫かな』って、毎日聞いてくるんすよ。でも『自分で確かめに行けばいいじゃないですか』って言ったら、『今は一人にしてやりたい』って。……いい父親っすよね、旦那様」


「……ええ」


セシリアが去った後、私は丘の草原に寝転んだ。青い空に、白い雲が流れていく。


(お父様……)


帰ってきた日、お父様は何も聞かずに私を抱きしめてくれた。


『よく耐えた。もう我慢しなくていい』


あの言葉で、張り詰めていた糸が切れた。人前では絶対に見せなかった涙を、お父様の胸で流し続けた。


『お前は何も悪くない。何があっても、お前は私の自慢の娘だ』


何度も、何度も言ってくれた。


「……エリアーナ」


ふと、上から声がした。目を開けると、カイルが私を見下ろしていた。


「羊の世話は終わったの?」


「ああ。……これを」


彼が差し出したのは、白い野花で編んだ小さな花冠だった。


「え……」


「昨日、髪飾りを見ていただろう。村の女性たちが被っているのを」


「覚えていてくれたの?」


「ああ」


カイルは花冠をそっと私の頭に乗せた。


「……似合う」


短い言葉。でも、彼の澄んだ瞳に映る私は、確かに笑っていた。


「ありがとう、カイル」


「……ああ」


彼は少しだけ目を逸らした。よく見ると、日焼けした頬がわずかに赤い。


(……可愛い)


そう思った瞬間、自分でも驚いた。こんな風に誰かを「可愛い」と思ったのは、いつ以来だろう。


「カイル、その笛のこと、聞いてもいい?」


「笛?」


「ええ。側面に、紋章のようなものが刻まれているでしょう? あれは——」


「……それは」


カイルの表情が、一瞬だけ曇った。


「いえ、ごめんなさい。無理に聞くつもりはないの」


「……すまない」


「謝らないで。誰にでも、話したくないことはあるわ」


私は立ち上がり、スカートについた草を払った。


「私にも、たくさんあるもの。話したくないこと」


「……そうか」


「でもね、カイル」


振り返り、彼の目を真っ直ぐに見つめる。


「いつか話してくれる日が来たら、ちゃんと聞くわ。あなたの全部を」


カイルは数秒、私を見つめ返した。


そして——


「……ああ。いつか、必ず」


小さく、でも確かに頷いてくれた。


夕日が丘を染める中、私たちは並んで領地の街並みを見下ろしていた。


この時はまだ、彼の笛に刻まれた紋章の意味を知らなかった。


それが、遠い昔に滅びたはずの——古代ゼフィール王家の紋章であることを。


そして、目の前にいるこの青年が、正統な王位継承者であることを。



◆◆◆



穏やかな日々が続く中、時折、過去の記憶が蘇ることがあった。


今日もそうだった。刺繍をしていると、ふと手が止まる。


「お嬢様、またぼんやりしてるっすよ」


セシリアの声で我に返った。


「……ごめんなさい。少し、考え事を」


「王太子のこと、思い出してたんすか?」


「……ええ」


窓の外を見つめる。ルシアン様との記憶は、今でも胸を締め付ける。


五歳の時、初めて王宮に連れて行かれた日のことを覚えている。


『この子が、お前の婚約者のエリアーナだ』


国王陛下にそう紹介された時、ルシアン様は興味なさそうに私を一瞥しただけだった。


『ふうん。田舎の子か』


最初から、そうだった。私はいつも「田舎の子」だった。


それでも、私は頑張った。王太子妃に相応しい女性になるために、毎日毎日勉強した。


『エリアーナ、お前は努力家だな』


十二歳の時、ルシアン様に初めて褒められた。その一言が嬉しくて、私はさらに努力を重ねた。


政治学の試験では誰よりも高い成績を取り、社交術も完璧に修めた。他国の言語も三つ習得した。全ては、あの方の隣に立つため。


でも——


『エリアーナは堅苦しいな。もっと柔らかく笑えないのか』


十六歳の時、夜会でそう言われた。


私は笑い方を練習した。鏡の前で何度も何度も、柔らかい笑顔の練習をした。


『最近のエリアーナは可愛くなったな』


十八歳の時、やっとそう言ってもらえた。でも——


『殿下、まあ素敵……!』


半年前。マリアベル・クレイトンが社交界にデビューした時、全てが変わった。


黒髪の彼女は、私にはない全てを持っていた。儚げな美貌、甘い声、守ってあげたくなるような可憐さ。


『マリアベルは俺の理想の女性だ』


ルシアン様は、公然とそう言うようになった。婚約者である私の前でも。


『エリアーナ様、マリアベル様とお話しされたことは?』


ある夜会で、侯爵夫人にそう聞かれた。


『いいえ、まだ。ぜひお話ししてみたいですわ』


社交辞令でそう答えた時、近くにいたマリアベルと目が合った。


彼女は微笑んでいた。でも、その瞳の奥に——暗い炎が揺らめいていた。


『あら、エリアーナ様。わたくし、あなたのことをたくさん聞いていますのよ』


『まあ、光栄ですわ』


『ええ、ええ。とっても……面白いお話を、たくさん』


その意味が分からなかった。分からないまま、時は過ぎた。


そして、あの夜会。


『君のような田舎臭い女を——』


「お嬢様!」


セシリアの声で、現実に引き戻された。


「大丈夫っすか? 顔、真っ青っすよ」


「……ごめんなさい。少し、昔のことを思い出していて」


「もう、過去のことなんか忘れちゃっていいんすよ。あんな男のために泣く必要ないです」


「そうね……」


手元の刺繍を見下ろす。無意識に刺繍していた模様に、はっとした。


(この紋章……)


カイルの笛に刻まれていたのと、同じ模様だった。


どうして? 私は、この紋章をどこで——


「お嬢様、カイルさんが来てるっすよ」


「え?」


窓の外を見ると、庭にカイルが立っていた。傍らには、子羊のメイを連れている。


「あの人、わざわざお嬢様に会いに来たみたいっすよ。いつもはお嬢様が丘に行くのに」


「本当……?」


急いで身支度を整え、庭に出た。


「カイル、どうしたの?」


「……今日は来ないのかと思った」


彼の声は相変わらず淡々としていたが、どこか心配そうな色が滲んでいた。


「ごめんなさい、少し考え事をしていて」


「辛いことを、思い出していたのか」


「……どうして分かるの?」


「目を見れば分かる」


カイルは私の目を真っ直ぐに見つめた。


「君の目は、嘘をつけない」


「……っ」


胸が熱くなった。ルシアン様は、十五年間一緒にいても、私の目を見てくれたことなんてなかった。


「笛を、吹こうか」


「え?」


「君の心が、少しでも軽くなるなら」


カイルは笛を取り出し、唇に当てた。


庭に、澄んだ音色が響く。


聴いているうちに、胸の奥にわだかまっていた黒い感情が、少しずつ溶けていくのが分かった。涙が頬を伝う。でも、これは悲しい涙じゃない。


「カイル……」


「何だ」


「ありがとう。あなたがいてくれて、よかった」


彼は少しだけ目を伏せた。


「……俺の方こそ」


「え?」


「君に出会えて、よかった」


夕暮れの光の中、彼の横顔が輝いて見えた。


(ああ、私——)


気づいてしまった。


この気持ちの名前を、私はもう知っている。



◆◆◆



その頃、王都では不穏な空気が漂い始めていた——。


王宮の回廊を、王太子ルシアンは苛立ちを隠せないまま歩いていた。


「殿下、お待ちください」


「何だ」


「マリアベル様が、お待ちになっております」


侍従の言葉に、ルシアンの眉間に皺が寄った。


「……また何か用か」


最近、マリアベルの様子がおかしい。以前は控えめで可憐だった彼女が、婚約が決まってからは態度が大きくなった。使用人に高圧的に命令し、宝飾品を際限なく要求し、他の令嬢たちを見下すような言動が目立つようになっている。


(エリアーナは、こんなことはなかった)


ふと、そんな考えが頭をよぎった。慌てて振り払う。


「殿下〜!」


マリアベルが廊下の向こうから駆けてきた。相変わらず甘い声だが、最近はどこか耳障りに感じる。


「今日の夜会では、このドレスを着ようと思いますの。素敵でしょう?」


「ああ……そうだな」


「まあ、殿下ったら、ちゃんと見てくださいまし」


「見ている」


「嘘。エリアーナ様のことを考えていたでしょう」


マリアベルの声が、一瞬だけ低くなった。


「……何を言っている」


「最近の殿下、ぼんやりしていることが多いですもの。まさか、あの田舎臭い女のことを——」


「マリアベル」


ルシアンの声が厳しくなった。


「お前が俺の婚約者だ。余計なことを言うな」


「……はい、殿下」


マリアベルは素直に頷いたが、その目の奥には何か暗いものが渦巻いていた。





その夜、王都の社交界は一つの噂で持ちきりだった。


「聞きました? マリアベル様の出自について、妙な話が……」


「ええ。新興貴族のクレイトン家に、娘がいた記録がないとか」


「まさか、身分詐称……?」


貴族たちのひそひそ声が、宴の隅々にまで広がっていた。


「何の騒ぎだ」


ルシアンが近づくと、貴族たちは慌てて口を閉ざした。


「い、いえ、何でもございません、殿下」


「嘘をつくな。マリアベルの名前が聞こえた」


「その……噂でございます。マリアベル様の出自について、少々……」


「出自だと?」


「クレイトン家の戸籍に、マリアベル様の記載がないという……もちろん、ただの噂でございましょうが」


ルシアンの顔色が変わった。


「……それは、本当か」


「分かりません。ただ、調べれば——」


「調べる必要はない」


ルシアンは強い口調でそう言った。言いながら、自分でも分かっていた。


(何を恐れている、俺は)


調べれば分かる。調べれば、真実が明らかになる。


でも——もし本当に、マリアベルの出自が偽りだったら?


それは、自分の判断が全て間違っていたということになる。エリアーナを捨てたのは、無価値な女のためだったということになる。


(そんなはずはない。俺の選択は、常に正しい)


ルシアンは自分に言い聞かせた。





同じ頃、王宮の一角で——


「クレイトン家の記録、見つかりました」


王宮の文官が、ある人物に書類を手渡していた。


「ありがとうございます。これで、真実が明らかになりますわ」


「お礼には及びません、エリアーナ様のためですから」


その人物——エリアーナの家庭教師だった老婦人は、書類を懐にしまい込んだ。


「あの方は、十五年間ずっと努力してきました。それを、あんな詐欺師に奪われるなんて……許せませんわ」


「証拠は揃いましたか?」


「ええ。マリアベル・クレイトンは、クレイトン家の娘ではない。本当は、没落した商家の出身。身分証明書を偽造して社交界に潜り込んだ詐欺師です」


文官の顔が青ざめた。


「そんな人物が、王太子妃候補に……」


「それだけではありません」


老婦人は声を潜めた。


「あの女、他国への情報売却にも手を染めているようです。王宮の機密が、隣国に流れている可能性がある」


「な……!」


「証拠は、もう少しで揃います。その時こそ、全てを明らかにしましょう」


老婦人は窓の外を見つめた。遠く、ヴェルディア領の方角を。


「エリアーナ様……どうか、お幸せに。あなたを傷つけた者たちには、必ず報いを受けさせますから」





その夜、ルシアンは夢を見た。


夢の中で、エリアーナが笑っていた。でも、それは自分に向けられた笑顔ではなかった。


彼女の隣には、見知らぬ青年がいた。亜麻色の髪、澄んだ青い瞳。どこか高貴な気配を纏う、素朴な身なりの青年。


『エリアーナ……!』


叫んでも、彼女はこちらを振り向かない。青年の奏でる笛の音に耳を傾け、幸福そうに微笑んでいる。


『待て、エリアーナ……! 俺を、見ろ……!』


手を伸ばしても、届かない。二人の姿は光の中に消えていく——。


「……っ!」


ルシアンは汗だくで目を覚ました。


「何だ、今の夢は……」


胸の奥が、妙に騒いでいた。


(エリアーナ……)


彼女のことを、考えている自分がいる。婚約破棄した時は、清々したはずなのに。


今になって、彼女の存在の大きさに気づき始めていた。


でも、もう遅い。


全てが、取り返しのつかないところまで来ていることを、ルシアンはまだ知らなかった。



◆◆◆



その日、ヴェルディア領に一人の旅人が訪れた。


「お嬢様、変なお爺さんが屋敷に来てるっすよ」


セシリアの言葉に、私は刺繍の手を止めた。


「変なお爺さん?」


「学者だって言ってるっす。旦那様と古代史について話したいとか何とか」


古代史——その言葉に、なぜか胸がざわめいた。


応接間に行くと、白髪交じりの老人が父と向かい合って座っていた。杖をつき、度の強い眼鏡をかけた、いかにも学者然とした風貌だ。


「おお、これは。お嬢様でいらっしゃいますな」


老人は私を見ると、人懐っこい笑顔を浮かべた。


「私はアルベルト・グレイソン。古代史の研究をしておる者です」


「エリアーナ・フォン・ヴェルディアですわ。父がお世話になっております」


「いやいや、突然押しかけてきたのはこちらの方でして。実は、この地方に伝わる古い伝説について調べておるのです」


「伝説、ですか?」


「ええ。この辺りには、かつて古代ゼフィール王家の末裔が逃れてきたという言い伝えがあるのです」


古代ゼフィール王家。


歴史の本で読んだことがある。数百年前、この大陸を統べていた偉大な王家。しかし、内乱によって滅び、その血筋は途絶えたとされている。


「興味深いですわね。でも、それは単なる伝説ではないのですか?」


「ほとんどの者はそう思っておりましょう。しかし——」


アルベルト翁は声を潜めた。


「ゼフィール王家には、代々伝わる神器があったのです。その神器が現存していれば、王家の血筋もまた、どこかで生き延びているということになる」


「神器……」


「木製の笛です。心に傷を負った『運命の伴侶』にのみ、癒しの音色を届けるという——」


私の顔色が変わったのを、アルベルト翁は見逃さなかった。


「お嬢様、何かご存知なのでは?」


「……いえ、私は」


「エリアーナ、無理に話す必要はないよ」


お父様が優しく言った。でも、私の心は激しく揺れていた。


カイルの笛。あの笛の音を聴いた時だけ、私は泣くことができる。心の傷が癒される。


まさか——


「グレイソン殿、少しお時間をいただけますか」


お父様の言葉に、アルベルト翁は頷いた。


「もちろんです。私は急いでおりませんゆえ」





夕方、私は丘に向かった。いつもの場所にカイルがいた。


「今日は早いな」


「ええ……少し、聞きたいことがあって」


私の声の硬さに、カイルは眉をひそめた。


「何だ」


「その笛のこと。刻まれている紋章のこと」


「……」


カイルの表情が、一瞬で強張った。


「今日、アルベルトという学者が屋敷に来たの。古代ゼフィール王家の神器について調べているって」


「……そうか」


「カイル、あなたの笛は——」


「エリアーナ」


彼の声が、いつもより低くなった。


「俺は……」


言葉を探すように、彼は視線を落とした。風が吹き、亜麻色の髪が揺れる。


「俺の過去を、君に話すべきなのか分からない」


「どうして?」


「知れば、君を危険に巻き込むかもしれない」


「危険……?」


カイルは長い沈黙の後、静かに口を開いた。


「俺は……物心ついた時から、この笛を持っていた。親代わりのトーマスが、『絶対に手放すな』と言っていた」


「トーマスさんが?」


「ああ。トーマスは、俺を連れてきた人から託されたそうだ。『この子を守ってくれ。いつか、時が来るまで』と」


私は息を呑んだ。


「俺は、自分が何者かを知らずに育った。でも、最近……少しずつ、分かり始めている」


カイルは笛を見つめた。夕日を受けて、古い紋章が金色に輝いている。


「この笛は、ただの笛じゃない。特別な人間にしか、本当の音色を聴かせない」


「特別な人間?」


「心に深い傷を負った、運命の——」


彼は言葉を止めた。私の目を見つめる。


「君だ、エリアーナ。君が俺の笛の音で泣けたということは——」


「……どういう、意味?」


「俺にも、まだ分からない。でも、一つだけ確かなことがある」


カイルは私の手を取った。硬い、でも温かい手。


「君と出会って、俺は初めて生きていたいと思った」


「カイル……」


「この笛が何であれ、俺が何者であれ——君を守りたいと思っている。それだけは、本当だ」


彼の瞳が、夕焼けの中で輝いていた。嘘のない、真っ直ぐな瞳。


私は、小さく頷いた。


「私も、同じよ。あなたが誰であっても、私の気持ちは変わらない」


その時——


「おや、これは」


丘の下から、聞き覚えのある声がした。


アルベルト翁が、杖をつきながら登ってくる。


「お嬢様、こんなところにいらしたのですな。そして——」


翁の視線が、カイルの笛に釘付けになった。


「まさか……ゼフィール王家の神器が、現存していたとは……!」


翁は震える声でそう言った。そして、カイルを見上げる。


「あなたは……もしや、正統な王位継承者……?」


カイルは答えなかった。ただ、静かに笛を握りしめていた。


風が吹き、彼の亜麻色の髪が揺れた。その瞬間、私には見えた気がした。


羊飼いの青年の中に眠る、王者の気配を。



◆◆◆



王都に、嵐が訪れようとしていた。


マリアベルは、自室で一人震えていた。


「嘘……嘘よ……」


机の上には、破り捨てられた手紙が散らばっている。


『貴女の出自について、調査が進んでいます。早急に対処されることをお勧めします』


内通者からの警告だった。


「バレるわけがない……私は完璧にやったのに……!」


マリアベルは鏡を見つめた。儚げな美少女の顔が、今は醜く歪んでいる。


「全部あの女のせいよ……エリアーナ・フォン・ヴェルディア……!」


あの女さえいなければ。あの女がいなくなれば、全てうまくいくはずだった。


「あの女を陥れるために、どれだけ苦労したと思ってるの……」


偽の手紙を捏造し、根も葉もない噂を流し、ルシアン殿下に取り入った。全ては、あの「完璧な令嬢」を引きずり下ろすため。


「それなのに……それなのに……!」


計画は成功したはずだった。エリアーナは婚約破棄され、社交界から姿を消した。


でも——どこで間違ったのか、今になって過去の悪行が暴かれようとしている。


「どうして……どうして私だけがこんな目に……」


その時、扉がノックされた。


「マリアベル様、王太子殿下がお呼びです」


「……今行くわ」


マリアベルは表情を整えた。鏡の中の自分に、いつもの「可憐な笑顔」を貼り付ける。


(大丈夫。まだ、何も終わっていない)





同じ頃、王宮の謁見の間——


「陛下、これが証拠の全てでございます」


文官が差し出した書類を、国王は厳しい表情で読んでいた。


「……マリアベル・クレイトンの出自詐称。エリアーナ・フォン・ヴェルディア嬢を陥れるための手紙偽造。そして、他国への機密情報売却……」


「はい、陛下。全て、裏付けが取れております」


国王の拳が、玉座の肘掛けを強く握りしめた。


「……我が息子は、このような女に騙されていたというのか」


「恐れながら……王太子殿下は、マリアベルの言葉を鵜呑みにされておりました」


「愚か者め……」


国王は目を閉じた。


「ヴェルディア家には、どう詫びればよいのだ。レオナルドは、王家への忠誠を誰よりも貫いてきた。その娘を、このような形で傷つけ……」


「陛下、まずはマリアベルを拘束し、王太子殿下に真実をお伝えすべきかと」


「……そうだな。すぐに手配しろ」


「はっ」


文官が退出すると、国王は独りごちた。


「ルシアン……お前は、取り返しのつかない過ちを犯したのだ……」





王太子の私室——


「ルシアン殿下、この書類をご覧ください」


侍従が差し出した束を、ルシアンは不機嫌そうに受け取った。


「何だ、これは」


「マリアベル様に関する……調査報告書でございます」


「調査? 誰がそんなものを——」


読み始めた瞬間、ルシアンの顔から血の気が引いた。


『マリアベル・クレイトンは、クレイトン家の実子ではない』

『本名、マリア。没落商家の娘。身分証明書を偽造し社交界に潜入』

『エリアーナ・フォン・ヴェルディア嬢を陥れるため、複数の偽造手紙を作成』

『手紙の筆跡鑑定により、全てマリアベルの自作自演と判明』

『他国への機密情報売却の証拠多数』


「嘘だ……」


ルシアンの声が震えた。


「嘘だ……こんなもの、嘘に決まっている……!」


「殿下、全て裏付けが取れております。マリアベル様は——」


「黙れ!」


ルシアンは書類を床に叩きつけた。


「マリアベルは俺の選んだ女だ! 俺の判断が間違っているはずがない!」


しかし、心のどこかで分かっていた。


これが、真実だと。


自分は、偽りの女に騙されて——本当に大切な女性を、捨ててしまったのだと。


「エリアーナ……」


名前を呼んだ瞬間、胸が締め付けられた。


彼女の笑顔。彼女の献身。彼女の、あの夜会での毅然とした姿。


『婚約破棄、謹んでお受けいたします』


泣き叫ぶこともなく、縋りつくこともなく——最後まで気高く、美しかった。


(俺は、何をした……)


膝から崩れ落ちそうになる。


「殿下、陛下がお呼びです。マリアベル様の処遇について——」


「……分かった」


ルシアンは立ち上がった。


(エリアーナ……待っていろ。必ず、婚約破棄を撤回して——)


そう心に誓った。


しかし——その願いが叶うことは、永遠にないことを、ルシアンはまだ知らなかった。



◆◆◆



丘の上で、カイルと二人きりだった。


アルベルト翁が去ってから、数日が経っていた。翁は約束してくれた——カイルの秘密は、誰にも話さないと。


「エリアーナ」


「何?」


「話したいことがある」


彼の声は、いつもより真剣だった。


夕日が丘を染める中、カイルは静かに語り始めた。


「俺は……古代ゼフィール王家の末裔らしい」


「……」


予想していたことだった。でも、改めて聞くと、心臓が跳ねる。


「アルベルト翁が調べてくれた。俺を連れてきた人物は、王家最後の忠臣だったそうだ。内乱の夜、幼い俺を連れて逃げ、トーマスに託した」


「そう……だったの」


「俺は……王位にも、権力にも興味はない」


カイルの声が、少しだけ震えた。


「ただ、平穏に生きたかった。羊たちと、この丘で。誰にも見つからず、静かに——」


「……」


「でも」


彼が、私の手を取った。


「君と出会って、変わった」


「カイル……」


「守りたいものができた。君という存在ができた」


彼の青い瞳が、夕日の中で輝いている。


「俺は王族かもしれない。でも、王になりたいわけじゃない。ただ——君の傍にいたい」


「……っ」


涙が溢れた。


ルシアン様は、一度も言ってくれなかった。「傍にいたい」なんて。いつも「王太子妃として相応しく振る舞え」と、それだけだった。


「エリアーナ、泣くな」


「だって……だって、嬉しいんだもの……」


「……そうか」


カイルは困ったように眉を下げた。そして、そっと私の涙を拭ってくれる。


「俺は不器用だ。上手く言葉にできない」


「いいの。あなたの気持ちは、伝わってる」


「……本当か」


「ええ」


私は彼の手を握り返した。


「私も、同じ気持ちよ。あなたがいてくれて、私は救われた。あなたの笛の音が、凍った心を溶かしてくれた」


「エリアーナ……」


「あなたが王族でも、羊飼いでも、関係ない。私は——あなたが好き」


言葉にした瞬間、胸が熱くなった。


こんな風に、誰かを好きだと言ったのは初めてだった。ルシアン様のことは、「好き」というより「尽くすべき相手」だと思っていた。でも、カイルは違う。


純粋に、この人の傍にいたいと思う。


「……ありがとう」


カイルは静かにそう言った。そして——


「君と出会って、初めて生きていたいと思った」


彼の言葉が、夕暮れの丘に溶けていく。


「だから——俺の傍に、いてほしい」


「カイル……それは……」


「今すぐ答えを求めているわけじゃない。でも、いつか——」


「いいえ」


私は首を横に振った。


「答えは、もう決まってる」


彼の瞳を、真っ直ぐに見つめる。


「私も、あなたの傍にいたい。ずっと」


カイルの目が、大きく見開かれた。


「……本当に、いいのか」


「何がいいの?」


「俺は……君に相応しい男じゃない。王族かもしれないが、今は何も持っていない。財産も、地位も——」


「そんなもの、いらない」


私は笑った。心から、笑えた。


「私は十五年間、地位と財産のある人の傍にいたわ。でも、幸せじゃなかった」


「……」


「カイル、あなたは私に何かをくれようとしなかった。ただ、傍にいてくれた。笛を吹いてくれた。それだけで、私は救われたの」


「エリアーナ……」


「だから——あなたの傍にいさせて。何も求めない。ただ、一緒にいたいの」


カイルは、長い沈黙の後——


ふっと、微笑んだ。


今まで見たことのない、柔らかな笑顔だった。


「……ああ」


彼は私の手を、強く握りしめた。


「君のために、笛を吹く。毎日、ずっと」


「ええ」


「そして、君を守る。何があっても」


「……ありがとう」


丘の上で、二人の影が重なった。


夕日が沈み、空に星が瞬き始める。カイルが笛を取り出し、静かに旋律を奏で始めた。


その音色は、今まで聴いたどの曲よりも温かかった。


(ああ、私——)


幸せだ、と思った。


こんなに穏やかで、温かい気持ちになったのは、生まれて初めてだった。


星空の下、笛の音が響く。


二人の未来は、まだ分からない。でも——今は、この瞬間が永遠に続けばいいと、心から願った。



◆◆◆



王都は、騒然としていた。


「マリアベル・クレイトンを、国家反逆罪で逮捕する!」


王宮の広間に、国王の声が響き渡った。


「い、陛下、何かの間違いでは——」


マリアベルは顔面蒼白になりながら、必死で弁明しようとした。


「わたくし、何も——」


「黙れ」


国王の一喝が、彼女の言葉を遮った。


「証拠は全て揃っている。お前の出自詐称。手紙の偽造。他国への機密売却。全て、白日の下に晒された」


「そ、そんな……」


マリアベルの膝が崩れ落ちた。


「違います……わたくしは悪くないんです……全部、全部あの女が——」


「あの女?」


「エリアーナ・フォン・ヴェルディアです! あの女が、わたくしを陥れようとしたんです!」


「……まだそのような戯言を」


国王の声が、氷のように冷たくなった。


「お前が捏造した手紙の筆跡は、全てお前自身のものだと鑑定されている。エリアーナ嬢は、何一つ悪事を働いていない。むしろ、被害者だ」


「嘘です! 嘘です、嘘です、嘘です!」


マリアベルは床に突っ伏して叫んだ。かつての「可憐な令嬢」の面影は、もうどこにもない。


「わたくしは悪くない! あの女がいなければ……あの女さえいなければ……!」


「連れていけ」


衛兵たちがマリアベルを引き立てていく。彼女は最後まで叫び続けていた。


「離して! わたくしは王太子妃になるはずだったのに……! 殿下、殿下、助けてくださいまし……!」


しかし、ルシアンは微動だにしなかった。ただ、虚ろな目でマリアベルを見つめているだけだった。





翌日、さらなる衝撃が王都を駆け巡った。


「王太子ルシアン、婚約破棄の責任を問われ、廃嫡が決定」


国王の決定は、容赦のないものだった。


「父上、お待ちください——」


「待たぬ」


国王は、息子を冷たく見下ろした。


「お前は詐欺師の言葉を鵜呑みにし、忠臣の娘を辱めた。王たる資質がないことを、自ら証明したのだ」


「私は騙されていたのです……! マリアベルの演技を見抜けなかっただけで——」


「見抜けなかった、だと?」


国王の声が、怒りに震えた。


「十五年間、お前のために尽くしてきた女性がいた。その女性より、半年前に現れた見知らぬ女の言葉を信じた。それが、見抜けなかったで済むと思うのか」


「……っ」


「エリアーナ嬢は、お前のために全てを捧げた。なのにお前は、彼女を『田舎臭い』と切り捨てた。そのような男に、この国を任せることはできぬ」


ルシアンは、何も言い返せなかった。


全て、その通りだったからだ。





廃嫡が決まった夜、ルシアンは一人で馬を走らせた。


(エリアーナ……)


会わなければならない。謝らなければならない。そして——婚約破棄を撤回し、もう一度やり直さなければ。


(俺が間違っていた。全て、俺が悪かった。だから——)


夜通し馬を走らせ、明け方にヴェルディア領に到着した。


「王太子……いや、元王太子殿下か」


屋敷の門前で、レオナルド伯爵が待っていた。


「ヴェルディア伯……」


「何の用だ」


伯爵の声は、凍りつくほど冷たかった。


「エリアーナに会わせてくれ。俺は彼女に謝らなければ——」


「謝る?」


伯爵の目が、危険な光を帯びた。


「今更、謝ると?」


「俺は間違っていた。マリアベルに騙されていたんだ。だから——」


「だから、何だ」


伯爵が一歩、前に出た。


「騙されていたから、許されると思うのか。娘を『田舎臭い』と公衆の面前で辱めておいて、今更謝れば全てなかったことになるとでも?」


「……」


「帰れ。娘には会わせぬ」


「伯爵、頼む——」


「帰れと言っている」


伯爵の声が、怒りに震えた。


「お前のような男に、二度と娘を傷つけさせはせぬ」


「……エリアーナ!」


ルシアンは叫んだ。屋敷の窓に向かって、声を張り上げた。


「エリアーナ、俺だ! 出てきてくれ! 話がしたいんだ!」


しかし、返事はなかった。


代わりに——


丘の上から、笛の音が聴こえてきた。


澄んだ、美しい旋律。どこか懐かしく、それでいて神秘的な音色。


「何だ、この音は……」


「あれは——」


伯爵は、丘の方を見上げた。


「娘を救ってくれた方の、笛の音だ」


「救った?」


「お前が娘を傷つけ、打ち捨てた。その娘を、あの方が癒してくださった」


ルシアンの顔から、血の気が引いた。


夢で見た光景が、脳裏に蘇る。エリアーナの隣で笛を吹いていた、亜麻色の髪の青年——。


「まさか……」


「お前の代わりなど、いくらでもいるということだ」


伯爵は冷たく言い放った。


「帰れ。もう二度と、この地を踏むな」


ルシアンは、呆然とその場に立ち尽くした。


丘の上から、笛の音が響き続けている。


その音色は——自分には、決して届かないものだと、ルシアンは悟った。



◆◆◆



ルシアンは、丘を駆け上っていた。


(あの笛の音……エリアーナは、あそこにいる)


息を切らせながら、草原を走る。朝日が昇り始め、丘全体が金色の光に包まれていく。


そして——頂上に辿り着いた瞬間、ルシアンは足を止めた。


「……っ」


エリアーナがいた。


彼女の隣には、亜麻色の髪の青年が立っている。手には木製の笛を持ち、朝日を浴びて穏やかに微笑んでいる。


「エリアーナ……!」


叫んだ声に、彼女が振り向いた。


「……ルシアン様」


その声は、冷たかった。かつてのように「殿下」とも呼ばず、敬意のかけらもない。


「俺だ、エリアーナ。迎えに来た」


「迎え……?」


「マリアベルの正体が明らかになった。俺は騙されていたんだ。だから——婚約破棄を撤回する。もう一度、俺の許に——」


「お断りしますわ」


エリアーナの声が、きっぱりと響いた。


「な……」


「私はもう、あなたの婚約者ではありません。そして、二度となるつもりもない」


「待ってくれ、エリアーナ。俺は全てを失った。王太子の地位も、婚約者も——」


「だから何ですの?」


エリアーナの緑の瞳が、真っ直ぐにルシアンを射抜いた。


「全てを失ったから、私を取り戻しに来た? それは愛ではありませんわ。ただの——所有欲です」


「違う……! 俺は——」


「同じですわ」


彼女は静かに首を横に振った。


「あなたは十五年間、私を見てくださらなかった。私の努力も、献身も、全て『当然のこと』だと思っていた」


「……」


「でも、この方は違う」


エリアーナは、隣の青年を見上げた。


「この方は、私を見てくださいました。私の痛みを、悲しみを、全て——笛の音で癒してくださった」


「……この男は、何者だ」


ルシアンは、青年を睨みつけた。


「ただの羊飼いに見えるが——お前は何者だ」


青年は、静かに前に出た。


「カイル、という」


「カイル……?」


「それ以上の名は、必要ない」


「ふざけるな。エリアーナは俺の——」


「彼女は、誰のものでもない」


カイルの声が、低く響いた。


「そして——俺が守る」


その瞬間——


カイルの手の中で、笛が輝き始めた。


「な、何だ……!」


眩い光が丘を包む。笛に刻まれた紋章が、金色に輝いている。


「まさか……その紋章は……」


「ゼフィール王家の神器……」


ルシアンは呆然と呟いた。


王家に伝わる古い伝承。かつてこの大陸を統べていた古代王家。その正統な後継者だけが持つという、神器の笛——。


「お前は……まさか……」


「俺が何者かは、どうでもいい」


カイルの瞳が、鋭くルシアンを見据えた。


「ただ、一つだけ言っておく」


彼は一歩、前に出た。


「彼女に二度と近づくな」


その言葉は、静かだった。


しかし——そこには、王者の威厳があった。羊飼いの姿をしながら、隠しきれない高貴さが滲み出ている。


ルシアンは、本能で悟った。


(勝てない)


この男には、何をしても敵わない。剣を抜いても、権力を振りかざしても——この男の前では、全てが無意味になる。


「エリアーナ……」


「お帰りください、ルシアン様」


彼女の声は、どこまでも穏やかだった。憎しみも、怒りもない。ただ——静かな決意があるだけだった。


「私はもう、あなたの隣に戻ることはありません」


「……っ」


「どうぞ、お幸せに」


そう言って、エリアーナはカイルの手を取った。


ルシアンは、何も言えなかった。ただ、二人が並んで立つ姿を見つめることしかできなかった。


朝日が昇りきり、丘全体が輝く。


カイルが再び笛を唇に当てた。澄んだ音色が、空に響き渡る。


その音は——ルシアンには、何も届かなかった。


ただ、美しい旋律として聞こえるだけだった。


「あの音は、俺には……」


「ええ」


エリアーナが、静かに言った。


「この笛の音は、私にだけ届くものですから」





ルシアンが去った後、カイルは笛を下ろした。


「……よかったのか」


「何が?」


「追い返して。あの男は、元とはいえ王太子だ。敵に回せば——」


「いいの」


私は微笑んだ。


「もう、あの方に心を乱されることはないわ」


「……そうか」


カイルは、私の手をそっと握った。


「俺の正体、見られてしまった」


「ええ。でも、関係ないわ」


「なぜ」


「だって——あなたは、カイルでしょう?」


彼は、少しだけ目を見開いた。そして——


「……ああ」


穏やかに、微笑んだ。


「俺は、カイルだ。君のために笛を吹く、ただの男だ」


「それで、十分よ」


朝日の中、私たちは手を繋いで丘を下りた。


新しい一日が、始まろうとしていた。



◆◆◆



あれから、一年が経った。


王都では、全てが変わっていた。


マリアベルは国外追放となり、二度とこの国の土を踏むことは許されなかった。


「許して……許してください……」


追放の日、彼女は泣き叫んでいたという。しかし、誰一人として同情する者はいなかった。


ルシアンは廃嫡され、辺境の領地へと追いやられた。


「エリアーナ……俺は……」


彼は今でも、過去の過ちを悔いているらしい。「あの時こうしていれば」「もっと早く気づいていれば」と——。


でも、もう遅い。


全ては、取り返しのつかないところまで来ていた。





春の日、私は丘の上にいた。


一年前と同じように、隣にはカイルがいる。傍らには羊たちが草を食んでいる。


「エリアーナ」


「何?」


「今日、グレイソン翁が来るそうだ」


「また古文書を持ってくるのかしら」


「ああ。俺の出自について、まだ調べているらしい」


「そう……」


カイルの正体——古代ゼフィール王家の正統な後継者——は、まだ公には知られていない。アルベルト翁と、私たちの家族だけの秘密だ。


「カイル」


「何だ」


「あなたは……いつか、王位を継ぐつもりはあるの?」


彼は、少し考えてから首を横に振った。


「ない」


「本当に?」


「ああ。俺が欲しいのは、王座じゃない」


「じゃあ、何が欲しいの?」


カイルは、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「君との、穏やかな日々だ」


「……っ」


胸が熱くなる。何度聞いても、慣れない。


「この丘で、羊たちと暮らす。君のために笛を吹く。それだけで、十分だ」


「……カイル」


「何だ」


「私も——同じよ」


彼の手を取る。硬い、でも温かい手。


「王妃になんかならなくていい。ただ、あなたの傍にいられれば」


「……ああ」


カイルは、小さく微笑んだ。そして——


懐から、何かを取り出した。


「これを」


「……指輪?」


小さな銀の指輪だった。飾り気のない、素朴なデザイン。でも、よく見ると——


「この紋章……」


「笛と同じ紋章だ。ゼフィール王家の」


「カイル……」


「王位は要らない。でも——君を、正式に迎えたい」


彼の声が、わずかに震えていた。


「俺の傍に、いてほしい。これからも、ずっと」


「……っ」


涙が溢れた。嬉しくて、幸せで、止められなかった。


「はい……」


震える声で、答えた。


「はい、カイル。私も——あなたの傍に、いたい」


彼は、そっと私の指に指輪を嵌めた。


銀の輪が、春の日差しを受けて輝く。


「エリアーナ」


「何?」


「笛を、吹く」


「……ええ」


カイルが笛を唇に当てた。


澄んだ音色が、丘に響き渡る。


一年前、この音に導かれて、私はここに来た。凍りついた心を溶かしてくれたのは、この笛の音だった。


今、同じ音色が流れている。


でも——今の私には、涙を流す必要がない。


ただ、幸せで——穏やかで——満たされている。


「カイル」


曲の合間に、声をかけた。


「何だ」


「この音は——私だけのもの?」


彼は、笛を下ろして微笑んだ。


「ああ」


そして、もう一度笛を唇に当てる。


「この音は、君だけのために」


春風が吹き、草原が波打つ。羊たちが穏やかに鳴き、丘の上で笛の音が響く。





かつて、私は王太子妃になるために生きていた。


全てを捧げ、全てを尽くし——そして、捨てられた。


でも、あの日々があったから、今がある。


カイルと出会い、彼の笛の音に救われ——本当の幸せを知った。


(ルシアン様)


心の中で、そっと呼びかける。


(あなたに捨てられて、よかった)


そう思える日が来るなんて、一年前の私には想像もできなかった。


でも、今は——心からそう思える。


「エリアーナ」


カイルの声に、顔を上げた。


「幸せか」


「ええ」


私は、心から微笑んだ。


「とても、幸せよ」


彼は満足そうに頷くと、再び笛を吹き始めた。


羊飼いの笛の音が、丘の上で永遠に響いている。


二つの魂を結ぶ、優しい旋律が——。



【完】

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