第3話「転送先という希望と恐怖」
佐久間が消えた翌日、会議室には妙な静けさが張りついていた。
金属製の机をコの字に並べた会議室。その一角、ホワイトボードの正面にある席だけがぽっかりと空いている。背もたれにかけられたままの上着と、紙コップと、折りたたまれたメモ用紙だけが、そこに人がいた痕跡を主張していた。
メモには、震えた走り書きでこう書かれている。
「責任は取る。ただ、みんなまで道連れにはしたくない」
雑な字だが、文字の一つ一つに迷いと覚悟が滲んでいた。
遠野晴人は、そのメモから目をそらせなかった。
(これを書いたとき、佐久間さんは何を覚悟してたんだろう)
転送直前のあの光。床を走った青白いライン。ペンだけを残して消えた佐久間の姿。
それを思い出すたび、胃のあたりが重く締め付けられる。
会議室には十二人が集まっている。
佐久間が消え、片桐は死に、台所の主婦も“消去”された。
その喪失分だけ、空席と沈黙が増えた。
誰も口火を切ろうとしない中、南條カナがそっと手を挙げた。
「ねえ……もしかして、なんだけどさ」
全員の視線が集まる。南條は肩をすくめ、笑おうとして失敗した顔で続けた。
「佐久間さんって、外の安全地帯に送られたんじゃないかなって。ほら、映画とかドラマとかでもあるじゃん。偉い人とか、リーダーとかから優先的に避難させるやつ」
叶空がそれに乗るように身を乗り出した。
「ゲームでいう、クリアフラグみたいな。条件満たした人から順に、“次のステージ”に転送される感じ。リーダーに選ばれたら、真っ先に外に出られる……みたいな」
言葉だけ聞けば、悪くない解釈だ。
ここに残された者たちにとって、喉が裂けるほど欲しい“希望”。
だが藤井結衣は、かすかに首を振った。
「……もし、転送先が安全地帯なら」
結衣の声は、いつもより低く、よく通った。
「どうして、ここにいる私たちには何の情報も共有されないの? 片桐さんも、最初に消えた主婦さんも、佐久間さんも……誰一人として、『大丈夫だよ』って知らせすら届かない」
会議室に、再び沈黙が落ちる。
南條は口を閉じ、視線をテーブルの上に落とした。叶空も、さっきまでのゲーム談義めいたノリを引きずることができずにいる。
大河内が、腕を組んだまま低く言った。
「そもそも、このシェルター自体がどこの組織のもんかも不明なんだ」
その指が、会議室の隅にあるロゴマークを指し示す。
意味不明なアルファベットの略号。政府機関のものでも、軍のものでも、よくある企業ロゴでもない。
「政府なのか、軍なのか、民間企業なのか。何もわからない。出所がわからないシステムを信じて、“転送されれば助かる”なんて希望的観測に乗っかるのは危険だ」
「……でも、信じるしかないんじゃないの?」
南條が小さく反論する。
「だって、信じるものなくなったら、ただの箱の中で死ぬの待つだけだよ」
「信じる対象を間違えると、死ぬスピードが速くなる」
大河内の言葉は、冷たいが現実的だった。
そのやりとりを横で聞きながら、天童がコンソール前の席に座る。
細い指がキーを叩き、画面がいくつも切り替わった。
「とりあえず、“転送ログ”をもう少し詳しく見てみる」
彼が操作するたび、パネルには座標のような数列と、見慣れない英数字が並んだ。
「……なんだこれ」
晴人は思わず漏らす。
画面には、細かく刻まれた時刻とともに、無機質な文言がスクロールしていた。
「ENV_SENSOR UPDATE」
「EXTERNAL FILTER REPLACEMENT」
「BIO-SAMPLE SYNCHRONIZE」
天童は眉間に皺を寄せる。
「これ、多分だけどさ」
彼は深呼吸をしてから続けた。
「リーダーって、多分、本当に“外に出されてる”。で、身体を使って外の空気の成分をリアルタイムで測ってる。ログに出てくるセンサーとかフィルターって言葉、多分そういう意味だ」
「ちょっと待って」
真壁志織が青ざめる。
「それって……つまり、どういうこと?」
「簡単に言えば」
天童は視線をモニターから離さないまま答える。
「リーダーは、“外気に晒される実験体”ってこと。外がどれだけ汚染されてるか、どこまでなら人間が耐えられるかを測る、“モルモット”」
その言葉に、会議室の空気が一段冷えた。
「そんな……」
真壁は椅子の背もたれに寄りかかり、顔を手で覆う。
「そんな役目なら、なおさら誰も選べないじゃない。自分からモルモットになりに行くリーダーなんて……」
南條が不安げに天童を見る。
「でもさ、ログの単語だけで決めつけるのも危なくない? “フィルター交換”って、空気清浄機のメンテみたいなもんかもしれないし……」
「もちろん全部推測だよ」
天童は肩をすくめる。
「でも、今は推測でも手がかりにするしかない」
そのとき、パネルがふいに明滅した。
全員の視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。
「現在、リーダー不在状態。
次の夜明けまでにリーダーが選出されない場合、ランダムな一名を消去します。
※転送先には、安全地帯の可能性も存在します」
読み上げるような音声はない。文字だけが淡々と告げる。
「ほ、ほら」
南條が必死に笑みを作った。
「“安全地帯の可能性も存在します”って書いてあるじゃん。やっぱり、外には安全エリアがあって、リーダーはそっちに送られてるのかも……」
だが、その言葉は空中で力なく消えた。
“可能性も存在します”。
その曖昧な一文は、希望を与えるどころか、不安を増幅させるだけだった。
「可能性って、ゼロじゃないってだけでしょう」
藤井が静かに言う。
「百パーセント安全地帯ですとは、絶対に書かない。書けないんだよ、このシステムは。だって、本当のことを知らないから」
大河内も口を開いた。
「それに、“ランダムで一名を消去”ってルールは変わってない。リーダーを“希望の切符”みたいに装ってるけど、根本は“誰かが死ぬ前提”だ」
議論は、そこから堂々巡りを始めた。
「誰か一人を犠牲にすれば、残りは生きられるかもしれない」
「でも、その犠牲が本当に“犠牲”なのかもわからない」
「犠牲を拒んだら、代わりにランダムで誰かが消える」
晴人は、椅子の端に座ったまま、指先でテーブルの裏をなぞる。
(トロッコ問題、囚人のジレンマ……)
大学の講義で聞いた言葉が頭に浮かぶ。
一方の線路に五人、もう一方に一人。レバーを引けば五人は助かるが、一人が死ぬ。引かなければ五人が死ぬ。合理的な選択はどちらか――
教科書の中では、それはあくまで“思考実験”だった。
だが今、目の前の議論は、机の上の空論ではない。
このシェルターの中から、実際に誰かの名前が引き抜かれ、消される。
(あの問題も、結局は“自分がレバーを引いた”って責任が残る。
ここでも、“リーダーに誰かを推薦しました”って責任は、一生消えない)
論文では語れない重さが、現実の空気となってのしかかっていた。
「いったん、今日一日は“誰もリーダーに選ばない”ってことでどう?」
叶空が、おそるおそる提案した。
「まだ情報が少なすぎるし。誰かをモルモットみたいに外に送り出す前に、システム自体の信頼性とか構造をもう一回調べたほうがよくない?」
「そうだな……」
天童が頷く。
「俺も、もう少しログを解析したい。どのタイミングで外部センサーが反応してるのかとか、転送の座標が固定なのかとか。少なくとも今日だけは、誰もリーダーにしない。で、もう一度“リーダー不在の夜明け”を迎えてみる」
藤井が眉をひそめる。
「でも、それって……また誰かが消えるだけじゃないの? 二回目もデモンストレーションでしたって、そんな都合のいい話ある?」
「もしかしたら、昨日の消失は“一回きりの警告”だったのかもしれない」
天童の声には、自分でもそれが苦しい言い訳だとわかっている響きがあった。
「二回目以降はペナルティの形が変わる可能性もあるし、もしかしたら頻度が下がるかもしれない。……そういう可能性も、ないとは言い切れないだろ?」
晴人は、そのロジックの危うさを理解していた。
(“かもしれない”“可能性がある”を積み重ねて、都合よく未来を組み立ててるだけだ)
それでも、反論する言葉を口にできなかった。
反論するということは、「じゃあ誰をリーダーにする?」と問い返されるということだ。その矛先が、自分に向く未来を、想像したくなかった。
結局、その場の空気に押される形で、“本日はリーダーを選出しない”という方針が決まった。
会議がいったん解散になり、それぞれが自分の寝室や担当エリアへ散っていく。
夜の就寝時間が近づいたころ、晴人が共有スペースのソファに腰掛けていると、真壁志織が紙コップを両手で包みながら隣に座ってきた。コップから立ち上るぬるいハーブティーの匂いが、わずかに鼻をくすぐる。
「ねえ」
真壁が、天井を仰いだまま口を開く。
「もし、リーダーに選ばれたらさ。あんた、どうする?」
唐突な問いに、晴人は返答に詰まった。
「……受け入れるしか、ないんじゃないの?」
「私は、たぶん受け入れない」
真壁は即答した。
「娘が、外で生きてるかもしれない限り、死にたくない。あの子が、どこかで避難できてて、“ママ”って泣きながら探してるかもしれないって考えたらさ……」
爪が紙コップのふちをきゅっと押しつぶす。
「“正しい犠牲”とか、“大人の責任”とか、そういう言葉で納得なんかできないよ」
晴人は、その横顔を見て、かろうじて一言だけ絞り出した。
「……うん」
正論も、慰めも、ここでは武器にならない。
何を言っても軽くなるだけだとわかっていた。
消灯時間が近づき、それぞれの個室の扉が閉まっていく。
薄暗い廊下に、非常灯だけが点々と灯る。
天井には人工太陽灯が仕込まれていて、タイマー制御で“朝”を届ける。
だが今は、その灯りの“次の点灯”が、誰かの死を意味している。
眠れないまま時間が過ぎた。
そして――“夜明け”が来る。
低い電子音が鳴り、全館放送が流れた。
「リーダー未選出。ペナルティを実行します」
続けて、どこかで叫び声が上がるかと思った。
だが、今回は悲鳴はなかった。
代わりに、濡れた音だけが静かに響いた。
晴人が飛び出して廊下を走ると、清掃担当の区域で人だかりができていた。
工場作業員の男が、いつも持っているモップ。その柄だけが床に転がっている。床一面に濡れた水の跡が広がっていたが、途中で突然、線がぷつりと途切れていた。
まるでそこから先に“モップを持っている人間”が存在しなかったかのように。
「……嘘だろ」
誰かが呟く。
天童が監視カメラの映像を巻き戻す。
昨日と同じように、ひとコマだけノイズが入り、その瞬間――男の姿は消えていた。
「二回目も……同じだ」
天童は、震え気味の声で言った。
「これはデモでも警告でもない。ルールだよ」
シェルターの人口は、十二から十一に減った。
そして残された者たちは、ようやくはっきりと理解する。
誰か一人を“リーダーにする”か。
あるいは、“ランダムで誰かが消える”か。
その二択から、逃げる道は、どこにも存在しないのだと。




