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エドと博士のはみ出し日記  作者: WR-140


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45/64

45 雪女

「爺さま、あんた何言ってんだ?」

 シドが大きく目を見開いた。

「そんな話、ある訳ゃねえ。大体この辺りじゃ一歩間違うだけで、人間は簡単に遭難しちまう。何年も経ってから行方不明者が見つかるなんてよくあることじゃないかい?」

 トマは頷いたが、表情は揺るがない。

「呪いというのは比喩だ。だがシドよ、これまで遭難して見つかった死者は、様々な年齢、性別だ。子供や壮年の男女が多い。若く体力のあるものは、極寒を生き延び易いからな。凍傷で手足を失ったとしても、命まではなかなか持っていかれまい。」

「そりゃそうかもしれんがよ、魔女がどうとかはいくら何だって…。」

「まあ聞け。あれは40年以上前のことだった。」


 その年、吹雪は一向にやまなかった。

 30日以上も続いた悪天候のため、観光客の姿はぱったり途絶えて、地元の人々も生活必需品の入手に苦労する事態となっていた。領主館などにはこのための備蓄物資があったものの、予想外に長引く悪天候の前には心細い限りであった。

 強風と猛吹雪。

 その中では、航空機も浮遊走行車も使えない。最新の車両より、旧式の接地走行型スノーモービルや橇のほうが、まだしもあてになる。

 だから生活物資の輸送は、もっぱら人力と旧式の車両に頼っていたのだ。

 その頃、首都の大学院生だったトマは帰省中この輸送の手伝いに駆り出されていた。

 常に遭難の危機と隣り合わせだから、輸送隊は必ず複数の人間によって、チームを組んで行われた。複数の車両と連結された橇からなるこの輸送チームは、スノーキャラバンと呼ばれている。

 前を行く橇すら肉眼では見えない猛吹雪の中、発熱型フルフェイスゴーグルに仕込んだスクリーンで隊列と地形を確認しながらの、非常に危険な道行である。

 過酷な環境からストレスは募り、疲労が蓄積していく。

 だから小さな事故は頻発し、時に命を失う者もいた。それでも生存のための物資を待ち侘びる人々のため、スノーキャラバンは繰り返し運行されたのである。

 それは、動物に引かせる橇の時代から連綿と続く、この地方の伝統であった。


〝何だ、あれは?〟

 すぐ先をゆくはずの橇すら幻のようにかすむ猛吹雪の中、若きトマ・カーソンは目を凝らした。

 今、確かに何かが横切った?

 しかしそんなことはあり得ないと、理性は否定する。時速40キロ近くで雪原を疾走するスノーキャラバンを、一体何が横切れるというのだろう?

 辺りはただ白い闇である。

 その中に…また?

 彼は真剣に目を凝らす。見間違いなどではない。あれは…!

 一瞬閃いたのは、金色の光。そして、トマの肩先を何かが掠めた。

 雪でも氷でもない、軽く柔らかな質感を持つもの。

 背筋がざわりと泡立つ。このスピードで、なぜこんな感触が?

 吹雪と強風。

 軽い雪の粒さえ、分厚い防寒着を通してまるで石礫のように容赦なく吹き付けるというのに。

 そう、トマは数学者だ。緊張感の連続である危険なスノーキャラバンの最中でも、気がつくと計算を始めていた。

 風速。スピード。風向きのベクトル。

 あり得なかった。

 この感触は、彼とほぼ同じか少しだけ早い速度で共に疾走する物体…いや、より正確を期すならば、誰かの長い髪の毛か着衣の布の端か。

 一瞬の感触ではあったものの、そのあり得ない事実に彼は息を呑んだ。さらにその仮定の物体は、彼が運転するスノーモービルの前、少なくとも地上1・5メートルの高さの空中を横切ったのだ。

 吹き荒ぶ風の音しか聞こえない、白い闇の中で。その時、耳元で何かが聞こえた。

 笑い声?女の?

 そんなはずはない。正に幻聴である。

 だが…。


「こちらキャラバン隊長。聞こえるか?」

 インカムを通じて、今度はリアルな音声が響いた。なぜかほっとした。半ば失いかけていた現実感が戻り、奇妙な浮遊感が消えたからかもしれない。

 通信は、天候の更なる悪化のため、近くの備蓄施設での休憩を告げるものだった。


 天候の回復を待ち再出発するまでには、

まだしばらくかかりそうだった。スノーキャラバンの一行5名は、食事と仮眠の準備をしていた。

 土地柄、簡易宿泊施設はこのような備蓄基地に必ず設置されている。

 隊長は最年長の30歳だが、他の4名はいずれも25にならない若者だった。最年少のレオはまだ17歳で、これが初めてのスノーキャラバンだ。背丈こそトマと同じくらいだが体つきはスリムで、この地方では貧相すぎるとみなされていた。

 しかし顔立ちはよく、若い娘たちには人気があった。トマも、彼が少女達に囲まれているのを目にしたことがある。


 食事の後、めいめいは寝場所へと移動した。と言ってもベッドのある部屋は2室だけだ。一室には2台のベッドと、ベッドとして使える長椅子。もう片方のひどく狭い部屋には、これまた狭い2段ベッドがひとつあるきりだった。何となく年長者から広いベッドに割り振られた結果、トマはレオと2段ベッドを分け合うことになった。

 トマが下段、レオが上段さである。

 ベッドはとにかく狭くて、脚を伸ばすのは無理だったし、寝返りを打てば転落しそうなシロモノだ。ベッドというより、棚である。そんなわけでトマはとても眠る気にならなかったのだが、レオはというと横になるや否や眠りに落ちたようだった。

 初めてのスノーキャラバンで、よほど疲れていたらしい。


 眠れないまま2時間も経っただろうか。

 トマは不意に何かの気配に気付いた。

 このクローゼットみたいな部屋は、廊下の突き当たりに位置している。廊下の両側は備蓄倉庫で、他の3名が泊まる部屋とは離れていた。元々倉庫だったのかもしれない。

 今、その廊下を誰かが歩いていた。

 眠れぬ者が自分の他にいたらしい、とトマは思ったのだが。

〝妙に静かな歩き方だな。〟

 最初の違和感はそれだった。

 廊下は板張りで、僅かに軋む。トマの体重ではどれほど気をつけたとしても、もっと音が立つはずだ。トマよりずっと軽いレオの体重でも、それは同じだろう。

 ましてや他の3人は、トマと同じくらいかさらに大柄だ。

 なら、誰だ?

 少し困惑しながらも、敢えて確認するにはトマは疲れ切っていた。だから、入り口に背を向けたまま、身動きもしなかったわけだ。

 ベッドの上段からは、レオの規則正しい寝息が聞こえていた。

 廊下の軋みが止まった。

 ふと。

 レオの寝息が止まった。同時に、彼が起き上がる気配に、ベッドが軋んだ。

 小便にでも行くのか?

 トイレは少し離れた場所にある。レオがスルスルとハシゴを降りていくのを背中で聞いて、トマは微妙な違和感を感じた。


〝レオはもう少し不器用な動きをしていたはずだが…〟


 確かスノーモービルの制御にもなかなか慣れず、出発ギリギリまで練習させられていた。

 ベッドの上段に上がろうとして、足の小指をハシゴにぶつけ、上がったら上がったで、天井に頭をぶつけた。

 それがレオだ。

 まだ成長しきっていない身体だから、バランスが悪いのかもしれないと、年長者の皆が感じていたくらい、彼は〝不器用な〟男だったのだが。

 

 ほとんど音もなく、彼は床に降り立った。そのまま、部屋を出るようだ。

 靴も履かず。

 屋内とはいえ室温は0度近い。

 床板は冷たく、トイレの床はさらに冷たいはずだ。

 靴を履け、と言いかけて、トマはハッとした。

 

 声。女の笑い声…。

 続いて。

「ああ、来てくれたんだね。」

 と、レオの声。奇妙に掠れて聞き取りにくい囁きだった。

 だが、その声にはあからさまな歓喜の響きがあった。まるで高熱に浮かされた人の譫言のように異様な…。

 トマは跳ね起きた。

 その時出し抜けに感じた、危機感の正体も定かではないままに。

 一息にベッドから降り、開いたままのドアから飛び出す。そして。

 彼は見た。


 レオの後ろ姿と、その背中にしっかり回された2本の腕。

 剥き出しの、女の腕。白く、なまめかしいその輝きに目を奪われた瞬間。

 不意にレオの体がぐらりと揺れた。

 トマがなす術もないまま、少年の体はそのまま横ざまに倒れた。

 がつん、と鈍い音がした。

 人が倒れた物音ではない。重量のある硬い物体が木の床に落ちるような…?


「レオ!!」

 トマは叫んだ。絶叫した。何が起きているのか全く理解できないまま。

 足元に飛んできた物体を目にしだ瞬間、現実感などどこかに飛び去ってしまったのだ。


 トマの足元に転がったのは、片方の手首だった。

 それは硬く凍りついていた。

 

今回は怪談仕立てでお送りしております。

次回もどうぞお付き合い下さいませ。

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