37 伝説の地
パース領は、ど田舎である。更にとてつもなく寒い。
連邦加盟国としては、辺境の更に最果てに位置し、一年のうち8割の期間が雪と氷に閉ざされた、薄明の世界である。
短い夏の間に栽培される、クヘナベリーと呼ばれる果実から有名なワインが醸造され、高値で取引されるが、作物としては他に見るべきものがない。
広大で不毛な領地に点在する鉱山からの収益と、唯一の不凍港を拠点とする漁業、それと観光が主な収益源である。特に幻想的な薄暮とオーロラ、それに七色に輝くと言われる神秘的な雪原の景観は圧倒的であるが、中央からのアクセスが良くないところから、観光地としての発展性は乏しい。
その上、危険な動物たちが冬の広大な大地を闊歩し支配しているのだ。
雪原には木が生えない。だが、豊富な温泉の近くには豊かな森林が広がっていた。
パース家は決して裕福ではなかった。領地に点在する別荘は、言わば越冬用備蓄基地兼砦であり、建物こそ大きく頑丈だが、装飾らしい装飾は皆無である。地元民の緊急時の避難場所でもあるから、装飾にかける金があるなら、食料や燃料などの備蓄品の購入に充てるのが当然だった。
シドール・パーシャスというもっともらしい名は、養子になった際に改名させられたものだ。通称こそが彼本来の名である。
シド・パースの母は、この厳しい土地に根差した、ある氏族の出だった。彼女の父親、つまりシドの祖父こそが、現在のベルゲンハルト侯爵の兄に当たる人物である。
しかし長男でありながら、彼には後継者の地位は与えられなかった。生まれつきおおらか過ぎるというか、いつもぼんやりとあらぬ方を眺めていて、外界に対する反応が鈍く、知能に問題があると目されていたからである。
詳しい検査の結果、知能には問題がないことがわかりはしたが、だからといってその態度はどうしようもない。
運動は人並み以上にできたらしいが、スポーツに情熱を燃やすことはなかった。
いつのまにか読み書きはできたが、だからといって学習意欲があるわけでもない。
話すことは可能だが、あまりに寡黙に過ぎた。体格は良く、それなりに端正と言えなくもない容姿だったが、社交生活とは無縁だった。
どこを見ているのか、茫洋として捉えどころのないその視線の先を知る者はいなかった。
つまりは反応の鈍い、ウドの大木といった風情の男である。
ベルゲンハルト家にとって幸いなことに、次男は利発な性質の上、長じては風采も良く健康で、後継者として充分な資質の持ち主であった。
長男はそんなわけで、員数外の存在として、半ば放任されて育ったのだ。
誰にも期待されず、多分本人も何も望まず。彼はただひっそりと成長して、そしてやがてひっそりとリマノを去った。
この間の消息は断片的にしかわかっていない。ともかく、ある時彼は極寒のパース領に現れたのだった。
荷物一つ持たず。
そして、そこでシドの祖母と出会い、結婚してシドの母をもうけたのだった。
シド自身は、祖父についてほとんど記憶がない。ひどく物静かか人物だったような漠然とした印象があるのみである。
シドが幼い頃祖父はこの世を去った。
「ベルゲンハルトから養子に来いって言われたって、最初何のことか分からんかったぜよ。爺さまがリマノ生まれってことは知ってたけども、元老院がどうとか言われてもよ。」
「ふむ。ならばなぜ応じたのじゃ?」
「それなんだぁ、博士。俺はリマノに来れば、母ちゃんのことが何かわかるんじゃねえかってよ、そう思ったんだ。だって、パース領の誰も母ちゃんを殺す動機がねえもの。」
雲を掴むような話である。
しかもそのためにリマノへ来たとは。確かにそんな目的があるのなら、ただリマノに来るより、ベルゲンハルトという巨大な後ろ盾を持つ方がはるかに有利だろうが。
しかし。
今のところ全く成果はないようである。
だから、友人の不確かな話にまで頼らざるを得なくなったのだろう。
「して、母御はいつ、どのようにして亡くなったのじゃ?」
「それは…」と言いかけて、シド・パースは驚いたように目を見開いた。
「あんのお、博士、どっから出したんだそのピンクの本?」
例の日記帳である。
どんなに目を凝らしても、絶対にどこから取り出したか見切れない、あの〝はみ出し日記〟だ。
「淑女の嗜みじゃ。」
しれっと答えて、カミラは鉛筆を握りなおした。
シドの母の名はミア。
パース領の人々は一般に男女とも大柄で人懐っこく、髪や目の色は薄い。
ミアもまた例外ではなく、頑健で話し好きの酒豪だった。領地の特産品であるワインは有名だが、それはもっぱら外貨獲得用の大事な商品である。
ミアが好きだった酒は、地元民が愛してやまない蒸留酒だ。アルコール度数は非常に高く、そのままランプの燃料にできるほどで、酒というよりアルコールそのものに近い。原料は何と海藻という珍品である。
ある朝。
ミアの姿が見えないことに気づいた夫のテオが、さんざん探し回って彼女を見つけたのは、この蒸留酒の倉庫の中だった。
半地下だから外気温よりは暖かいというものの暖房は皆無で、人が長く居られるような場所ではない。彼女の遺体は既に凍りついていたという。
リマノ標準時換算で、丁度20年前のことだ。
「凍死か?」
シドは首を横に振った。
「凍死の一種ではあると思うけんど、あれは普通の凍死じゃなかった。まるで、一瞬にして体温を全てなくしちまったみてえな。あんなことは、自然にゃ起こらねえ。」
当時まだ10にもならない子供だったシドは、父と共に遺体を発見した。その際、単純に母が凍死したとのみ聞かされていた。
間違いではなかったものの、真実には遠いことを知ったのは3年前、母の検視報告記録を見た時だ。
「博士、そんなことが人為的に可能なんすか?」
エドの質問に、カミラは少し考えてから答えた。
「いくつか方法はあろうの。しかし、機械的にそれを行うには、ある程度大掛かりな設備とエネルギーを要する。」
アリスが頷く。
「そうですわね。シド・パース、そのような設備の痕跡はあったかしら?」
シドは困惑した様子だ。
「俺が父ちゃんと一緒に見た時は、そんなモンはなかった。それに、あの倉庫には照明程度の配電設備しかない。元が地熱を利用した自家発電で、かなりボロい電源設備なんでよ、電圧も不安定だ。」
「ならば、電源まで別に用意する必要があろうの。ふむ。機械的な方法は非現実的じゃのう。」
「博士、他の方法とは何ですか?」
「魔術、呪術、あるいはそのような力を持つ魔獣の類いを使う方法かの。」
「魔獣ですか?」
カミラは頷く。
「そのような能力を持つ者が存在しておるの。彼の方とお妃さまの故郷には、雪女なる魔性の話が伝わっておるとか。」
「何すかそれ?」
「一息吹きかけるだけで、人間の体温を根こそぎ奪い殺害するという、女の魔性じゃの。」
「エ、タチが悪いっすね。でも、そんなのは御伽話の類いでしょう?」
『必ずしもそうじゃないわよ?』
と、内緒話でアリス。
『いま、バルト少尉に確認したんだけど、彼ならたぶん同じことが出来るって。』
『そりゃ少尉なら何でもありだろうけどよ、ドラゴンなんかその辺にホイホイいるわきゃねーだろ?』
まして神皇家のガーディアン・ドラゴンなど、エドの知る限り2体しかいない。
少尉と、その上司で飛竜遊撃隊の隊長であるデュボア大佐だ。
『瞬間凍結なら妾にも出来そうじゃが?』
黙れ人外、と叫びそうになって、エドはグッと堪えた。
『魔界の大公殿下は、ドラゴンよりもっと数が少ないと思いますがね。』
『そうよの。なんせ妾1人だけゆえ。』
「ん?どした、パース氏?」
シド・パースは何か考えている様子である。
「あ、似たような話があるもんだって思ってよ。」
「似たような?」
「そうだ。その雪女とかいうの。俺ん家の方じゃ、マグーって言うんだけどよ。御伽話の類いじゃあるが。雪原の魔女ともいうかな。雪原が七色に光ることがあるのは、マグーが息を吹きかけるからだって。他には、永久凍土の魔女とか、森林の呪詛精霊とか。まあ、こっちへ来てどこにも似たような話があるもんだとは思ったが。」
「ふうん。人間て似たようなこと考えるんだろなあ。」
「パース領は古い土地でよ。そんな話がいっぱい残ってるんだなや。んで、民俗学者なんかもよく来るんだ。」
カミラが嬉々として鉛筆を握り直す。
「伝説は好きじゃ。詳しく聞かせてたもれ。」
「ああ。」
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