30 雨の中の少女
警察署の裏手は、接地走行タイプの車一台が通れるか通れないかの、狭い堤防である。敷地からは一段高い場所になっているのだが、エドのいる場所からでも、川の水が堤防を越えて流れ込んでくるのがハッキリ見てとれた。今はまだ水量は少ないが、それはヒタヒタと確実により低い場所へと流れ下る。
署の裏門に向かって下り坂になった道が通じており、そこは既に浅い川と化していた。
少女は、流れ込む水の中に立っている。考える前にエドの体が動いた。
ひとっ飛びに距離を詰めて、少女の体を抱え込む。そのまま水を避けて後方に跳躍した。
これでひとまず少女の身柄は確保できたが、事態はかなり逼迫している。
「ったく、何だってこんな場所に建てやがったんだ!」悪態を吐きつつ、ラグナロクにアクセスした。
『アリス!緊急事態だ。川がヤバい!至急少尉に繋いでくれ!』
アリス=ラグナロクの返事より先に、少尉の声が聞こえた。
『捜査官。視界を共有させて貰います。』
『頼む!』
腕の中の子供をしっかりと抱き直して、エドは堤防の方を向いた。少女は大人しくされるがままになっていて、騒いだり泣き出したりする気配はない。有難い。
『これは確かにまずいわね、エド。』
遅ればせにアリスの声がする。通常の無線通信ならこの状況でまともな会話など成立するはずはないが、今回ばかりはアリスの実験材料にされたことに感謝した。
堤防は今にも決壊する。もう既にどこかで決壊していても不思議はない。
書内にいる連中については、問題ない。洪水が押し寄せてからでもカイが千絵を守り、ついでに書内にいる全員も守るに決まっているからだ。
あくまでついでに、だが。
だからエドはそもそも心配してはいなかったのだが、川の流域には一般の居住者がいる。今この天災に対抗出来るのはカイしかいない。魔界の大公であるカミラは強大な力の持ち主ではあろうが、こちらの世界の事情には疎いはずだ。重機のハンマーで蟻を叩き潰すと、地面に穴があくのと同じで、カミラが動けば大陸そのものがダメージを負いかねないのだ。
惑星規模で繊細な調整をしながら局地災害に対処するなら、カミラよりカイの方が適任である。
『やれやれ。妾は信用がないのう…。』
そんな呟きがどこからともなく聞こえた気がしたが、エドはこの際無視することに決めた。
安置所の中では。
「姫、緊急事態です。」
少尉が盟主妃に声を掛けた。
「ええ。この子達に聞いたわ。少尉、私の名に於いて命じます。犠牲者を出してはなりません。」
凛とした声に応えて一礼し、少尉の姿はそのままかき消えた。ざわめきが広がる。
タイミング良くドアがノックされ、慌ただしく飛び込んできた1人の所員が宣言した。
「緊急事態ですっ!」
室内に緊張が走った。
エドが視認できたのは、高速で飛翔する光のみ。それも、肉眼では捉えきれたかどうかも怪しい一瞬の輝きだったが、それで十分だ。
エドは、カイに何が出来るか全てを把握しているわけではない。しかし、ミクロからマクロまで、とてつもない範囲で波動を操る彼の権能ならば、実質的に元素から惑星規模に至るまでの物質さえ自在に操ることが可能であるはずだと認識していた。
実際には素粒子レベルから恒星規模のスケールまでもが彼の守備範囲なのだが、当たらずと言えども遠からず。惑星規模の気候調整と同時に、この川の治水と一時的な堤防補強を行う程度は彼にとっては児戯の部類だろう。
少尉は繊細極まりない作業も得意とする。ドラゴンの中でもずば抜けた演算能力と巨大なストレージを誇る特異な個体なのだ。飼い主であるリュウの無茶振りに応えて、人間の姿で2年間の士官学校を耐え抜いたことが、この才能の開花に寄与したらしい。
「ま、少尉が出たんならここは大丈夫だよな。さあ、中へ入ろうぜ、お嬢ちゃん。」
エドは少女の耳元にそう伝えたところで、彼女が何か言ったのに気づいた。
「あん?何だって?」少女の口に更に耳を寄せて聞き返す。
「ありがとう。」決して大きな声ではないが、その言葉は息遣いとともにはっきりと聞き取れた。
「あー、どういたしまして。」彼女を抱き抱えたまま非常口に向かいながら、そういえば、と思い出した。
「嬢ちゃん、名前は?」まだ聞いていなかったはずだ。
少女が何か答える。が、聞き取れない。「え?」更に耳を寄せた。
「リスベット。」
「あー、リスベットちゃんか。いい名前だ。」
〝どっかで聞いた名前だよな。どこだったか…〟
非常口に辿り着いて、ドアノブに手を掛けたその時。
「!?」
エドは愕然とした。腕の中から、出し抜けに重みが消えたのだ。反射的に足元を、周囲を確認するが、どこにも少女の姿はなかった。そして、唐突に思い出す。
リスベット。
それは、ナサニエル・クストーの姉の名前だったはずだ。
開け放った非常口に立ち尽くし、エドは放心していた。信じがたい事態である。かき消えた少女の重みの記憶は、まだ腕にしっかりと残っていた。
「オレはどうしちまったんだ…。」
声に出し呟いたその時、視界がぐらりと揺れた。
何が起きたかもわからないまま、エド・カリスはその場に倒れ伏した。
「そうか…。」
エドから、ことの顛末を聞いたカミラは頷いた。コンドミニアムの寝室である。
「奇跡、じゃの。」
「そんな、奇跡の大安売りですか博士?」
「大安売りしたつもりはないが。」
「だけどですよ、あの子の姿はみんなに見えてた。ここの警官たちや受け付け係、たまたま署を訪れた一般人まで。そんなの、ありっすか?」
エドの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。生まれて初めて幽霊を見て、腕に抱き、言葉を交わしたのだから無理もない。しかも。
「エドよ、そなたこの2日間眠り続けておった。死者との接触の反動であろう。」
「死者って仰いますがね、そう、重さ!あの子の体重や、柔らかい感触までこんなにハッキリ残ってるんです。あんなの、反則だ。あんなにもリアルで、生きてる人間と変わらないなんて!」
エドは自分の両手を眺めた。
濡れた衣類と髪の毛の感触。少女の肌の暖かさ。その息遣いまでが鮮明に蘇る。
「いいや、エドよ。リスベットの姿は、なぜか彼女の家族には見えていなかったのじゃ。」
エドは顔を上げた。
「え…?」
「家族のはみ出し者。それがあの子の立ち位置だったのじゃろう。」
意味がわからない。
「博士、そりゃどういう…?」
「少尉が調べたのじゃが、クストー家の誰1人としてリスベットを目にしてはいなかったようじゃ。エド、そなたには初めから見えていたのであろ?」
初めから?
そう言われてみればそれに違いない。
「あの、砂浜から…。」
エドの呟きにカミラが頷く。
「そなたが昏倒したのは、一時的に生命体としてのエネルギーが枯渇したためであろう。死者はマイナスのエネルギーの焦点のようなもの。それがそなたには生きた少女と感じられた。つまり、リスベットはそなたの生命エネルギーによって具象化していたのじゃ。これを奇跡と言わずして何と言う?」
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