第三章:地下組織の形成
衝撃の朝
2045年12月6日、午前6時30分。佐久間勇司はいつものように目覚まし時計の音で目を覚ました。しかし、この朝は違っていた。
スマートフォンに表示されたニュース速報が、彼の人生を根底から覆そうとしていた。
「快楽税法、衆議院通過 サイバースペース全面規制へ」
佐久間は慌ててニュースサイトを開いた。記事を読み進めるにつれ、顔面が青ざめていく。
「政府認可を受けていないサイバースペース活動は『闇の快楽』として処罰対象...違反者のすべてのインターネット活動履歴を公開...施行は来年3月1日...」
手が震えた。自分のPSSは確実に「闇の快楽」に分類される。恋人体験プログラムが政府の検閲を通過するはずがない。
「これは...終わりなのか?」佐久間は呟いた。
しかし、それ以上に心を痛めたのは、PSSを必要としている数千人のユーザーの顔が頭に浮かんだことだった。昨夜も一通のメッセージが届いていた。
「ユウジ・マスターさん、PSSのおかげで初めて人を愛することの意味が分かりました。現実世界でも恋人ができそうです。本当にありがとうございます」
このような人たちを見捨てることなどできるだろうか。
会社での動揺
午前9時、佐久間は重い足取りで会社に向かった。オフィス内は快楽税法の話題で持ちきりだった。
「まあ、当然の流れでしょうね」同期の山田が言った。「サイバースペースなんて所詮は現実逃避ですから。きちんと税金を取るべきです」
「でも、表現の自由はどうなるんでしょう?」高橋恵美子が心配そうに言った。
「表現の自由って言ったって、野放しにしておいたら何でもありになっちゃいますよ」山田は軽い調子で答えた。「政府がちゃんと管理した方が安全です」
佐久間はこの会話を聞きながら、胸が苦しくなった。同僚たちには、サイバースペースでの創造活動がどれほど重要なものか理解できないのだ。
「佐久間さん、どう思いますか?」恵美子が彼に質問した。
佐久間は困惑した。本当のことを言いたかったが、自分の正体を明かすわけにはいかない。
「わ、分からないです」彼は小声で答えた。「難しい問題ですね」
恵美子は少し残念そうな表情を見せた。実は彼女もサイバースペースでの創造活動に深く関わっていたが、誰にも打ち明けることができずにいた。
地下ネットワークへの誘い
その夜、佐久間がサイバースペースにアクセスすると、緊急メッセージが待っていた。差出人はサクラ・アーティストだった。
「ユウジさん、大変なことになりましたね。今夜、特別な場所でお会いできませんか?」
メッセージには暗号化された座標データが添付されていた。佐久間はその座標をたどって、今まで見たことのない場所にたどり着いた。
そこは薄暗い地下空間のような場所だった。現実世界でいうところの地下カフェのような雰囲気で、多くの創造者たちが集まっていた。しかし、その表情はみな深刻だった。
「ユウジ・マスター」サクラ・アーティストが駆け寄ってきた。しかし、彼女のアバターは以前と変わっていた。美しく華やかな姿ではなく、黒いフードを被った神秘的で警戒心に満ちた姿になっていた。
「サクラさん?」
「ここでは『レジスタンス・ローズ』と呼んで」彼女は苦笑いした。「みんな、政府に見つからないように身元を隠してるの」
フリーダム・クリエイターズとの出会い
レジスタンス・ローズは佐久間を集会の中心部に案内した。そこには年配の男性のアバターが立っていた。威厳のある風貌で、周囲の創造者たちから深い尊敬を集めているのが分かった。
「皆さん、新しい仲間を紹介します」レジスタンス・ローズが声を上げた。「有名なユウジ・マスターです」
ざわめきが起こった。ユウジ・マスターの名前は多くの創造者に知られていた。
年配の男性が前に出た。「私は『マスター・フリーダム』と呼ばれている。この『フリーダム・クリエイターズ』の創設者だ」
マスター・フリーダムは60代と思われる風格のある男性だった。現実世界での正体は誰も知らなかったが、サイバースペース黎明期から活動を続けるレジェンド的存在だった。
「ユウジ・マスター、君の作品の評判は聞いている」マスター・フリーダムは握手を求めた。「君のPSSは多くの人の心を救っている。しかし、政府はそれを『闇の快楽』として葬り去ろうとしている」
「はい...どうしたらいいのか分からなくて」佐久間は正直に答えた。
「それでここに来た。良い判断だ」
組織の現状と課題
マスター・フリーダムは集まった創造者たちに向かって話し始めた。
「諸君、状況は厳しい」彼の声は重々しかった。「快楽税法によって、我々の多くが活動停止に追い込まれるだろう。しかし、我々は屈するわけにはいかない。なぜなら、我々の創造物を必要としている人々がいるからだ」
集まった創造者たちは頷いた。彼らの多くは、現実世界では社会の主流から外れた人々だった。
佐久間の隣に座った女性創造者「シャドウ・ペインター」は、現実世界では車椅子生活を送るアーティストだった。サイバースペースでは自由に動き回れる彼女の作品は、多くの身体障害者に希望を与えていた。
「現実世界では私の作品を理解してくれる人は少ない」彼女は悲しげに語った。「でも、ここでは多くの人が私の表現を受け入れてくれる。この場所を失うわけにはいかない」
音楽創造者の「ソニック・ドリーマー」は、現実世界では聴覚障害を持つ青年だった。しかし、サイバースペースでは脳に直接音楽を送り込む革新的な作品を創造していた。
「僕の音楽は、現実世界では誰にも理解されません」彼は手話を交えながら話した。「でも、ここでは聴覚障害者も健聴者も同じように音楽を楽しめる。これが奪われてしまうなんて...」
深刻な制約
しかし、マスター・フリーダムは現実的な問題も指摘した。
「しかし、我々だけでは限界がある」彼は続けた。「この地下ネットワークを維持するには膨大な技術的リソースが必要だし、アクセスできる人も限られている」
実際、この地下ネットワークにアクセスするには、高度な技術知識と特殊な暗号化ソフトウェアが必要だった。一般のユーザーには敷居が高すぎた。
「さらに深刻な問題がある」マスター・フリーダムの表情が暗くなった。「このネットワーク自体、政府に発見される危険性が常にある。我々全員が一網打尽にされる可能性もある」
会場に緊張が走った。
「それでは、どうすればいいのでしょうか?」若い創造者の一人が質問した。
「まずは生き残ることだ」マスター・フリーダムは答えた。「そして、いつか反撃の機会が来るまで、我々の技術と精神を保持し続けることだ」
佐久間の新しいアイデア
しかし、佐久間にはその消極的な方針では不十分に思えた。PSSを本当に必要としているのは、彼のような内向的で慎重な人々だ。そういう人たちこそ、危険を冒してまで地下ネットワークにアクセスしようとは思わないだろう。
集会後、佐久間はレジスタンス・ローズと二人で話した。
「ユウジさん、何か考えがあるみたいね」
「ええ...でも、危険すぎるかもしれません」佐久間は迷いながら答えた。「政府のシステムを正面から突破するのではなく、内側から変えていくことはできないでしょうか?」
「どういうこと?」
佐久間は深呼吸してから、自分のアイデアを説明し始めた。
「ステガノグラフィーという技術があります。表面的には無害な画像やテキストの中に、別の情報を隠し込む技術です。これを応用すれば...」
「政府認可プラットフォームで表面的には検閲を通過したコンテンツを作成し、その中に真のメッセージや機能を隠し込むということね」レジスタンス・ローズの目が輝いた。
「そうです。一見すると教育プログラムや健康管理ソフトに見えるけれど、特定のキーワードやパターンを入力すると隠された真の機能が起動する」
「それは...すごいアイデアね」レジスタンス・ローズは興奮した。「でも、実現可能なの?」
「技術的には可能です。問題は、発見されるリスクと、どれだけの人に届けられるかです」
詳細な計画の策定
二人は数日間かけて詳細な計画を練った。佐久間の部屋で、深夜まで続く打ち合わせが何度も行われた。
まず、政府認可プラットフォームで検閲を通過しそうなコンテンツカテゴリを特定する必要があった。
「教育プログラムは確実に通るでしょう」佐久間は分析した。「政府は教育を重視していますから。特に、コミュニケーション能力向上、職業訓練、健康管理あたりは推奨されるはずです」
「私の芸術作品はどうかしら?」レジスタンス・ローズが質問した。
「風景写真の加工ソフトや、リラクゼーション用の自然映像なら大丈夫そうです。ただし、あまり幻想的すぎると疑われるかもしれません」
次に、隠された機能をどのように起動させるかを決める必要があった。
「単純なパスワードだと簡単に発見されてしまいます」佐久間は慎重に検討した。「もっと自然で、しかし確実に識別できる方法が必要です」
「例えば?」
「特定の順序での操作、特定の時間での接続、あるいは複数のプログラムを組み合わせることで初めて機能するシステムなど」
「それだと、ユーザーが使い方を理解するのが難しくなるのでは?」
「その通りです。だから、段階的に機能を解放していく仕組みが必要です。最初は簡単な隠された機能から始めて、ユーザーが慣れてきたらより高度な機能にアクセスできるようにする」
仲間集めの困難
しかし、仲間を集めることは想像以上に困難だった。快楽税法施行を前に、多くの創造者が萎縮していた。
「政府に逆らうなんて無理よ」ある女性創造者は断った。「私には家族がいるの。個人情報を公開されたら、子供たちにまで影響が及ぶわ」
「現実的に考えろよ」中年の男性創造者も否定的だった。「政府認可プラットフォームに移行して、制限の中でやっていくしかないんだ」
多くの創造者が政府認可プラットフォームへの移行を選択していた。彼らの作品は大幅に制限され、創造性は失われていたが、それでも活動を続けられるだけマシだと考えていた。
「みんな、恐怖に支配されてしまっている」レジスタンス・ローズは悲しそうに語った。「でも、理解できる。私だって正直、怖い」
「僕も同じです」佐久間は正直に答えた。「でも、僕たちの創造物を本当に必要としている人たちのことを考えると、諦めるわけにはいかないんです」
少数精鋭の同志たち
それでも、少しずつ同志は集まってきた。彼らは皆、サイバースペースでの創造活動が単なる趣味ではなく、人生の重要な一部だという共通点を持っていた。
「サイレント・コーダー」と名乗る若いプログラマーは、現実世界では自閉症スペクトラム障害を持つ青年だった。言葉でのコミュニケーションは苦手だったが、プログラミングにおいては天才的な才能を発揮していた。
「現実世界では、僕の能力を理解してくれる人はほとんどいません」彼はテキストチャットで語った。「でも、ここでは僕の作品が多くの人の役に立っている。この場所を守りたいんです」
「ヒーリング・ハープ」と名乗る女性は、現実世界では難病を患う音楽療法士だった。サイバースペースでは、病気に苦しむ人々のための癒しの音楽を創造していた。
「私の音楽で、どれだけの人が苦痛から解放されたか」彼女は涙声で語った。「これを奪われることは、その人たちを見捨てることになる」
元システムエンジニアの「ハッカー・フェニックス」は、政府の監視システムの内部構造に詳しい貴重な人材だった。
「政府のシステムには穴がある」彼は自信に満ちた声で語った。「完璧に見えても、必ず抜け道はある。それを見つけるのが僕の仕事だ」
新しい戦略の提案
ハッカー・フェニックスの参加により、組織の戦略は大きく変わった。フリーダム・クリエイターズとの合同会議で、彼は重要な提案をした。
「問題は、我々が個別に活動していることです」ハッカー・フェニックスは分析した。「政府の監視システムは、異常なパターンを検出するように設計されています。しかし、そのパターンが十分に広範囲に分散していれば、検出は困難になります」
「どういうことですか?」佐久間は質問した。
「ネットワーク効果を利用するのです。一人一人の隠された機能は小さくても、それらが相互に連携し、より大きなネットワークを形成すれば、政府も簡単には取り締まれません」
マスター・フリーダムが興味深そうに身を乗り出した。「具体的には?」
「分散型システムです」ハッカー・フェニックスは図解しながら説明した。「個々のプログラムは単独では無害に見えるが、複数組み合わせることで強力な機能を発揮する。重要なのは、システムの分散化と、ユーザー同士の相互支援体制です」
分散型システムの設計
この提案により、組織の活動方針は根本的に変わった。個々のメンバーが独立した隠された機能を開発するのではなく、それらを組み合わせることでより強力なシステムを構築することになった。
佐久間は新しいバージョンのPSSを設計し直した。今度は単独では機能せず、他のメンバーが開発した複数のプログラムと連携することで初めて完全な機能を発揮する分散型システムだった。
レジスタンス・ローズは視覚芸術プログラムを担当した。表面上は風景写真の加工ソフトだったが、佐久間のプログラムと連携することで、PSSの中に美しい仮想世界を構築できるようになっていた。
サイレント・コーダーは音響システムを開発した。表面上は音楽学習ソフトだったが、他のプログラムと組み合わせることで、感情に直接働きかける音響体験を提供できた。
ヒーリング・ハープは癒しのプログラムを担当した。表面上は瞑想支援アプリだったが、システム全体と連携することで、深い精神的な安らぎを提供できた。
リベレーション・ネットワークの誕生
この分散型システムは「リベレーション・ネットワーク」と名付けられた。ユーザーは表面的には複数の無関係な教育・娯楽プログラムを使用しているだけに見えるが、実際にはそれらが連携して革命的な体験を提供していた。
「これは画期的だ」マスター・フリーダムは感動した。「政府が一つ一つのプログラムを調査しても、違法性を立証することは困難だろう」
「しかも、ユーザーが増えれば増えるほど、システム全体が強化される」ハッカー・フェニックスが補足した。「政府にとっては悪夢のようなシステムです」
佐久間は満足感と同時に、責任の重さも感じていた。多くの人の希望を背負ったシステムを構築したのだ。失敗は許されない。
「みんなで力を合わせれば、きっと成功する」レジスタンス・ローズが励ました。「私たちには愛と創造の力がある」
組織の名前
この新しい組織は「サイレント・レボリューション」と名付けられた。暴力的な革命ではなく、静かで持続的な変革を目指すという意味が込められていた。
「我々は破壊者ではない」佐久間はメンバーたちに語った。「創造者だ。愛と技術の力で、世界をより良い場所に変えていこう」
メンバーたちは決意を新たにした。政府の圧力に屈することなく、人々の幸福のために戦い続けることを誓った。
しかし、彼らはまだ知らなかった。政府も既に対抗策を準備していることを。そして、その対抗策が彼らの組織に深刻な脅威をもたらすことになることを。
静かなる革命は始まったばかりだった。しかし、真の試練はこれからだった。仲間を集めることは簡単ではなかった。快楽税法施行を前に、多くの創造者が政府認可プラットフォームへの移行を選択していた。自分の全人生を賭けてまで抵抗しようという人は少なかった。
それでも、少しずつ同志は集まってきた。現実世界では様々な職業に就いているが、サイバースペースでは革新的な創造者として活動している人々。教師、医師、エンジニア、主婦...彼らに共通していたのは、サイバースペースでの創造活動が単なる趣味ではなく、人生の重要な一部だということだった。
組織は「サイレント・レボリューション」と名付けられた。暴力的な革命ではなく、静かで持続的な変革を目指すという意味だった。