プロローグ:新世界の到来
技術革命の夜明け
西暦2045年、4月15日。東京大学医学部附属病院の地下深くにある秘密研究室で、人類史上最も重要な実験が行われようとしていた。
「準備はいいか、田村?」白衣を着た初老の男性、神経科学の権威である山本教授が緊張した面持ちで尋ねた。
「はい、教授。すべてのシステムが正常に稼働しています」助手の田村博士は汗を拭いながら答えた。モニターには無数の数値が踊り、複雑な波形が描かれている。
実験台には一人の若い男性が横たわっていた。彼は脳腫瘍により視覚を失った患者で、この実験に最後の希望を託していた。彼の頭部には髪の毛ほど細い電極が数百本挿入され、それらが最新のニューラル・ダイレクト・インターフェース(NDI)装置に接続されている。
「それでは、接続を開始する」山本教授の声が実験室に響いた。
スイッチが押された瞬間、患者の脳波が激しく変動した。そして...
「見える...見えるんです!」患者が涙を流しながら叫んだ。「光が、色が、そして...これは何ですか?現実にはないはずの景色が...」
その瞬間、人類は新たな世界への扉を開いた。患者が「見た」のは、彼の脳が直接アクセスしたデジタル空間、後に「サイバースペース」と呼ばれることになる仮想現実だった。
新世界の誕生
NDI技術の実用化は、社会に革命的な変化をもたらした。物理的な制約から解放されたサイバースペースでは、人間の想像力だけが唯一の限界だった。
最初にサイバースペースに本格的な世界を構築したのは、元ゲームデザイナーの佐々木明だった。彼が創造した「エデンガーデン」は、現実では不可能な美しい自然環境で、重力の概念がなく、季節が同時に存在し、思考するだけで花を咲かせることができる楽園だった。
「これは単なるゲームではない」佐々木は記者会見で語った。「新しい現実だ。ここでは誰もが神になれる」
建築家の林田恵子は、物理法則を無視した「浮遊都市アルカディア」を設計した。建物は宙に浮かび、内部空間は外部よりも広く、住民は空を歩くことができた。現実世界の建築の常識をすべて覆す革新的な都市だった。
音楽家の武田ケンジは、人間の可聴域を超えた「第九次元交響曲」を作曲した。この音楽は聴覚だけでなく、触覚、視覚、さらには感情に直接働きかけ、聴く者を別次元の体験へと誘った。
芸術家の小川美和は、四次元空間で動く彫刻作品「時間の踊り子」を創作した。この作品は時間軸上で形を変え続け、過去と未来が同時に存在する不思議な美しさを表現していた。
創造者たちの台頭
このような創造者たちの活動により、サイバースペースは急速に発展していった。彼らは「クリエイター」と呼ばれ、現実世界では不可能な体験や道具、空間を提供することで新しい経済圏を形成していた。
創造者たちの作品は多岐にわたっていた。
教育分野では、歴史学者の森田真一が古代ローマを完全再現した「リアル・ローマ体験」を開発。学習者は実際にコロッセオで剣闘士の戦いを観戦し、元老院で政治議論に参加することができた。
医療分野では、精神科医の高橋麻衣が開発した「心の庭園セラピー」が注目を集めた。患者の心理状態に応じて変化する仮想庭園で、うつ病や不安障害の治療に革新的な効果を示していた。
娯楽分野では、元サーカス団員の山田大輔が「重力ゼロ・サーカス」を創設。観客も演者も重力から解放されたパフォーマンスを楽しむことができた。
新しい経済の誕生
これらの創造活動を支えたのが、独自の暗号通貨「ヴァーチャ」だった。ヴァーチャは従来のブロックチェーン技術を発展させた「ニューラルチェーン」と呼ばれる革新的なシステムで運営されていた。
ニューラルチェーンの特徴は、取引の承認が人間の脳活動パターンによって行われることだった。これにより、完全に分散化された、政府の管理を受けない経済システムが実現していた。
創造者たちはヴァーチャで作品を販売し、ユーザーはヴァーチャで体験を購入した。現実世界の通貨との交換レートは日々変動し、優秀な創造者は現実世界の年収を遥かに上回る収入を得ていた。
日常生活の変化
NDI技術の普及により、一般市民の生活も大きく変わった。
東京都渋谷区に住む会社員の田中良太(28歳)は、毎朝通勤電車の中でサイバースペースにアクセスし、仮想オフィスで同僚と会議を行っていた。物理的なオフィスに行く必要はなく、通勤時間を有効活用できるようになった。
専業主婦の佐藤花子(35歳)は、家事の合間にサイバースペースで料理教室に参加していた。世界中の有名シェフから直接指導を受けることができ、現実では手に入らない食材も自由に使えた。
高校生の鈴木翔太(17歳)は、サイバースペースで同級生たちと一緒に宇宙探検ゲームを楽しんでいた。彼らは実際に宇宙船を操縦し、未知の惑星を探索し、宇宙人との交流を体験していた。
定年退職した元教師の山下明男(68歳)は、サイバースペースで若い頃の姿を取り戻し、かつての教え子たちと再会を果たしていた。年齢という制約から解放された彼は、新たな人生を歩んでいた。
社会の二極化
しかし、この技術革命はすべての人に恩恵をもたらしたわけではなかった。
NDI装置は高価で、すべての人がアクセスできるわけではなかった。サイバースペースに参加できる「ハブ・クラス」と、現実世界に取り残される「ハブレス・クラス」の間に、新たな格差が生まれていた。
また、サイバースペースでの時間が長くなりすぎて現実世界との接点を失う「デジタル中毒」も社会問題となっていた。家族や友人との関係を犠牲にしてまでサイバースペースに没頭する人々が増加していた。
宗教団体や保守的な政治家たちは、この変化を「人間性の破壊」として強く批判していた。「神が与えた現実世界を捨てて、人工的な偽りの世界に逃避することは罪である」という主張が各地で聞かれるようになった。
政府の懸念
最も深刻な懸念を抱いていたのは、各国政府だった。
日本政府の内閣調査室では、連日緊急会議が開かれていた。
「国民の30%以上がサイバースペースでの活動時間を現実世界での活動時間より長く過ごしています」調査官の報告は衝撃的だった。「特に20代から40代の若年・中年層では、その割合は50%を超えています」
「税収への影響は?」財務大臣が血相を変えて質問した。
「ヴァーチャでの経済活動規模は既にGDPの15%に達していますが、我々は一円の税金も徴収できていません。この状況が続けば、国家財政は破綻します」
「それよりも深刻なのは統制の問題です」内閣調査室長が暗い表情で続けた。「国民が現実世界から離れることで、我々の影響力が著しく低下しています。選挙の投票率低下、政策への関心の減少、社会保障制度への参加率低下...このままでは国家として成り立たなくなります」
総理大臣は深いため息をついた。「つまり、我々は統治する対象を失いつつあるということか」
「その通りです。早急な対策が必要です」
嵐の前の静けさ
2045年の秋、サイバースペースは最も自由で創造的な時期を迎えていた。世界中の創造者たちが革新的な作品を生み出し、数億人のユーザーがそれらを楽しんでいた。
しかし、水面下では政府の対策が着々と進められていた。「快楽税法」と呼ばれることになる法案の草案が、極秘裏に作成されていた。
この時、まだ誰も知らなかった。一人のモテない男性プログラマーが、やがてこの自由を守るために立ち上がることになるとは。一人の内気な女性が、愛と技術の力で世界を変える戦いに身を投じることになるとは。
新世界の黄金時代は、間もなく終わりを告げようとしていた。しかし、真の物語は、まさにここから始まるのだった。