1.1 目覚め
目が覚めると、視界より先に鼻を衝く臭気を感じた。鼻が曲がりそうな悪臭のはずなのだが、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、居心地の良さすら感じて俺は首をかしげる。悪臭で喜ぶようなマゾ気質ではなかったはずだが・・・。
人のような匂いを感じて俺は首を左に向けた。靄が立ち込める洞窟の中、うっすらと人影が見える。いや、人、なのか?禍々《まがまが》しい妖気のようなものがその人影の周りに漂っているような気がする。
・・・妖気?俺は何を言っているんだ?まるで自分が中二病を患ったかのようである。高校生らしくもない。
それに、人のような匂いってなんだ?自分の鼻ってそんなものを嗅ぎ分けられるほど敏感だっただろうか。
兎にも角にも、起きようと思う。すぐ下に洞窟の地面があり、自分がうつ伏せに近い姿勢でいることが分かった。
しかし、起き上がろうとして俺は戸惑う。どうやって身体を起こしたらいいか分からない。手足や身体の感覚はあるのだが、それをどう動かしていいのか分からないのだ。それに、なんだか、視界と身体の位置関係が俺の記憶と合わない。俺は混乱する。
そうするうち、不意に俺の身体が起き上がった。視界が地面から離れる。
だが、違う・・・。
起き上がったのは俺の意志ではない。
続いて俺の身体が歩き出すが、それはさらに俺を混乱させた。
まず、視点が低い。胸くらいの高さから洞窟の地面を見ている。まるで身長が縮んだかのようだ。
さらに、視界と身体の動きの方向が合っていない。俺の身体は、視界に対して斜め右に動いている。視界と動きのずれが俺の脳を混乱させ、危うく酔いそうになる。
・・・そろそろ視界に入っている自分の鼻に突っ込むべきだろうか。
目の下には暗灰色の毛に覆われた顔が伸び、その先に黒い色の鼻がついている。無論、鏡で見た自分の顔の面影はつゆほども残っていない。言うなれば、そう、犬の鼻だ。
溜息をつくと、
「わぅ・・・」
と犬の声のようなものが出て来た。
認めざるを得なかった。
夢を見ているのでなければ、俺は犬になっている。比喩ではなく、現実に。
それも、おそらくただの犬ではない。
俺は意を決して右を見た。今まで無意識に右を見るのを避けていたのだ。
首が見えた。暗灰色の犬の首を高々と掲げ、赤く燃えるような目を洞窟の人影にまっすぐ向けている。さらに、ここからははっきりとは見えないものの、その奥にもう一つ別の首があるのが微かに見て取れた。
状況は分かったが、何故そうなったかが分からない。そもそも、目覚める前、俺は何をしていた?
そんなことを考えているうちに、俺の身体は洞窟の人影のすぐ傍まで来ていた。妖気が強くなっているが、それがむしろ心地よい。
人影を見上げる。
闇が人の形をとっているようだった。普通の人間だったら、恐怖のあまり動けなくなることだろう。顔の部分には目や鼻と言った顔のパーツらしきものが見えるが、闇が濃くてはっきりと認識するのは難しかった。
・・・俺は彼を知っている。そうだ、思い出した。
***
その日、俺は幼馴染の彩苗と、俺の部屋でゲームをしていた。
・・・恋人の関係にはなっていない。さすがにお互いが異性であることを意識し始めてはいたものの、昔から一緒にいるのが自然だったのを高校生まで引き摺っていたのだ。
ネットで見つけたアクションロールプレイングゲームが面白くて、週末に集まっては、彩苗と協力してプレイを進め、ついに魔王との決戦までたどり着いていた。
俺は魔法使い、彩苗は戦士だった。
ゲームの名前は何だっけ?滑稽で、あまり強そうに聞こえない名前の魔王がゲーム名だったはず。
そう、「魂転がしの魔王」だ。その名前を見た時、運動会が舞台かと思ったものである。
だが、魔王は強い。しかも、魔王一人でも厳しいのに、魔王戦の前にこなしておくべきイベントを飛ばしてしまったらしく、魔王戦にケルベロスが加わっていた。
ケルベロスの左首は落としたものの、敗色が濃厚になる。特に俺は魔王の攻撃を受けて重傷を負っていた。回復をしている余裕もない。
「無理だね。いったん戻ろうよ!」
彩苗の提案に俺は帰還の魔法を発動させる。
魔法が発動し、彩苗が魔法の光に包まれ、次は俺と言う時・・・。
「させぬ」
魔王の低くて威圧するような声が聞こえて来た。魔王が右手を掲げ、彼が持っていた何かが輝き、そして・・・。
***
俺の記憶はそこまでだった。
間違いない。俺の目の前に、魔王がいる。
そして、俺は三つ首を持つ地獄の番犬、ケルベロス・・・、の左首になっていた。