act…7
「お願い。話があるから旧校舎の理科準備室に来て」
驚きで口を半開きにしたまま固まっている高杉に、もう一度早口で釘をさす。
「旧校舎の方よ。わかった?」
高杉は表情を強張らせたまま、それでも首を縦に振って頷いた。そして、すぐさまトイレ横の階段を駆けおりて行く。
意外なほど素直に従ってくれた。
一言の反論もないまま私の指示に従う高杉の後ろ姿を見えなくなるまで見つめてから、私は急いで教室に戻り未央たちに声をかけた。
「私、担任に職員室に呼ばれてるみたい。ちょっと行ってくるね」
「えー。 どうしたの?」
「たぶん昨日の遅刻の事だと思う」
「そっか。行ってらっしゃ〜い」
三人に手を振り教室を出た。
各学年の教室が揃う本館の渡り廊下から、古くなり取り壊しが決まった特別教室棟旧館に行く事ができる。
昼間でも電気のついていない旧館は薄暗く、グラウンドから聞こえてくる遠い喧騒が、この場所の静けさをより強調していた。
人がいない校舎って、なんでこんなに不気味なんだろう。
心拍数が上がっていくのを感じながら、私は準備室の扉に手をかける。ゆっくりと扉を開けると、途端に埃っぽい臭いが鼻についた。
空気悪っ!
セーターの袖を伸ばして口を覆い中へと足を進める。教室の中は空っぽなのかと思いきや、まだ沢山の備品が残っていた。
あれ?
先に着いているはずの高杉の姿が見当たらない。
「高杉、どこ行った?」
独り言を呟いた瞬間、棚の後ろで物が揺れる音が響き心臓が跳ねる。
「え? ……た、高杉? いるの?」
恐る恐る奥の小部屋を覗くと、直立人体模型と高杉が並んで立っていた。
「ギャー! ちょっ、ちょっと! なんで人体模型と仲良く並んで突っ立ってんのよ!」
私の叫びに高杉が何か言おうと口を開く。
「待って! やっぱり何も言わなくていい!」
僕の友達です。などと紹介されても困る。高杉から言い出し兼ねない陰気な雰囲気が漂っていた。
ここは用件のみを伝え、素早く立ち去るのが一番。そう思いすぐに本題に突入した。
「話っていうのは昨日の事なんだけど、その……雨の中、ぶつかったの覚えてる?」
なんなら忘れ去っていて欲しい。少しの願望を込めて確認したけれど、高杉は首を縦に振った。
「やっぱり覚えてるか……。じゃあ、私が何を落としたとか……それを誰かに話したりした?」
探るように高杉の顔を覗き込む。距離が近付いたせいか驚いたように体を後ろに引いた高杉が、今度は首を横に振った。嘘をついている様子は無く、私はようやく安堵の息を吐く。
「絶対に誰にも言わないでね! 言わない為の条件とかあるなら可能な限りは聞くし。例えば……欲しいものとかある? 高過ぎるのは無理だけど、しっかり口止め料払うんだから絶対の絶対に言わないでね」
私が両手を合わせてお願いポーズをすると、そこで初めて高杉が言葉を発した。
「口止め料なんかなくても、言わないから」
その声が、萌え中枢に突き刺さる。
それは、少し癖のある低音で仄かに甘い響きをまとっていた。
「え? やだ、何。今の声。嘘、待って! え、混乱する。今のは高杉の声? 嘘……ちょっと! お願い。もっかい喋って!」
良い声だった。
けれどそれだけの事で、こんなに取り乱したりなどしない。この声に、神の声でさえ感じる事のなかった何かを感じて胸が震えたのだ。
その何かの正体は、このたった一言だけではまだ分からない。
確かめたい。
その何かを。
確かめる。
今すぐに。
「お願い! 何でもいいから喋って!」
猛烈な勢いで私が詰め寄ると、高杉は怯えたように後退りした。
「き、急にそんな事を言われても……な、なにを喋ればいいか……」
「あぁ、良い声……って、浸ってる場合じゃなくて。私が今から色々と質問するからそれに答えて、それなら話せるでしょ?」
そう問い掛けると、高杉は困惑の表情のまま頷いた。
「今のクラスになってから、教室で一言も喋ってないよね? 先生にあてられた時、どうしてたの?」
本読みなどで高杉がこの声を発していれば、私がそれを聞き逃すはずがない。
「黙って俯いていたら、そのうち次の誰かに代わるから」
「どうして話さないの?」
「全部、どうでもいいから」
切なく掠れる語尾に、自暴自棄なこの台詞。
あぁ、好き!
条件反射で声に悶えながらも、この会話で高杉の声が持つ魅力の分析が出来た。
まず、神の声は低音で甘い。 その甘さに色気も感じている。けれど高杉の声には、それを上回る艶があった。高杉が発する音に、しっとりと濡れたような色気を感じるのだ。
最高、好き!
更にこの声は、癒やしの要素まで兼ね備えている。前方へ突き刺さるような力強さはないけれど、後方から全体をじんわりと包み込むように、柔らかく柔らかく響いてくる。
高杉の声には、色っぽさと癒し、かけ離れた二つの要素が同時に存在していた。
あぁ、好き!
声の考察をする合間に、ちょいちょい萌えが漏れ出てしまうのを抑えきれない。
「お願い! さっきのエモい台詞、もう一回言ってくれない」
「……え? せ、台詞?」
興奮のあまり台詞などと言ってしまい、私は慌てて誤魔化す。
「や、えっと……。あの、全部どうでもいいって、何かあったの? 嫌な事とか? 友達とケンカしたとか?」
「友達はいません」
この問いで、高杉の目からさらに生気が抜けた気がして私は焦る。
「で、でも! 家族は大事にしてくれるでしょ?」
「いえ」
即行で否定され、とうとう私は口籠った。
「両親は弟がいればそれで満足で、家の中にも僕の居場所は無くて……」
何かフォローしなければと思いつつ、不謹慎な笑みを浮かべてしまい私は急いで口元に手をあてた。
だって!
震えるほどいい声なのだ。
その言葉や表情から、高杉が絶望している事は伝わってくる。私だって普通なら、励ましの言葉を掛けて元気づける。だが今はこの極上の声のせいで、私は萌えの奴隷と化していた。
「僕には何も無い」
イイィーー!!
凄く良いいいいーー!!!
ありふれた台詞でありながら、唯一無二のエロさとエモさを兼ね備えた艶のある声。それが私の鼓膜を震わせて、胸まで響いてじんわり疼く。
やはりこの声は、神を超えている。
思わず、犬のように遠吠えしたくなるほどの興奮が胸に湧き上がる中、更なるイケボのお恵みが私に降り注いだ。
「だから今日、終わりにしようと思ってた」
アオーーーン!
遠吠えだ、遠吠えだ。
叫び散らかさずしてこの興奮を抑える事などできない。
終わりにしようと思ってた。これもイイ! めちゃくちゃ良い台詞だぞ!
終わりにしようと……ん?
終わり?
終わりにするって……何を?
「誕生日に死ぬ事で、ほんの少しでも両親への復讐になればいいって思ってた。僕はもう全部どうだっていいんです。だから若槻さんの事も誰にも言わないので安心して下さい」
私の事は誰にも言わないって……そんな事、今そんな事……どうだっていい。
「ちょっと待てぇー!」
私の怒声に高杉が逃げるように後退りして壁際の棚にぶつかった。
「ヒッ……だ、だだだから言わないです、言わない……言いません」
私の怒りの理由を勘違いしたのか、高杉が必死に言わないと連呼している。
そうじゃない。
そうじゃないのよ、このバカ!
「あんた。その声、無駄にする気?」
「声……?」
困惑の色に染まった高杉の目が私を凝視する。
「許さないから、そんなの絶対、許さないから! あんたの声は、私の神を超えたのよ!」
高杉は死のうと思うほど絶望している。辛くて死にたいと思ってしまう心境は、私にだって理解できた。
母が初めて家出した日。
母はもう戻って来ないのだと思った。
それは幼い私が知った初めての絶望で、あの日の私は高杉と同じ気持ちに追い込まれていたと思う。
泣いて、泣いて、知らないうちに眠ってしまい、それでも目が覚めれば、そんな時でさえお腹はすいた。
食パンをかじって、水を飲んで、空腹が満たされるとまた涙が溢れて止まらなくなる。
『諦めるな! 勝負はこれからだ』
いつテレビの電源を入れたのか。
響いたその声を、私はただ信じた。
今日からこの声が私の全てだ。だから大丈夫。もう大丈夫。これだけで私はきっと生きていける。
そう思いたくて、そうだと思い込んだ。
そして今日、この神を超える声に出会った。
それなのに……。
「その声は死なせない!」
高杉のネクタイを掴み上げてそう叫んだ直後、午後の授業を知らせる予鈴が遠くで鳴り響く。
その瞬間、我に返った。
やだ、どうしよう。誰にも言わないで下さいとお願い事をしているのは自分の方なのに、あろう事かその相手のネクタイを掴み上げている。
私は急いで手を離し、さり気なくネクタイの皺を伸ばして整えた。
「……と、とにかく、そう言う事なので宜しくお願いします」
深々と一礼して、逃げるように理科準備室を飛び出す。
何が、とにかくなのか。
何が、そう言う事なのか。
何が、宜しくお願いしますなのか。
自分でも混乱し過ぎてよく分からないし、何も考えられない。
そうだ、こんな時は考えるのを辞めよう。やめだ、やめだ。もうどうでもいいよ。そう。高杉とかどうだっていいし、どうだって……。
嘘。
どうでもいい訳が無い。
だってまだこんなに、あいつの声が心の一番深い所で響いている。
あの声を忘れる事などできなかった。
*ようやく燈子が高杉の声を聞いて、2人の関係性が少しずつ変わっていきます。
こんな感じの2人が、どんな風にラブコメに進展していくのか……。
よろしければ今後も読んでやってください!
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