act…6
電車で地元まで戻ってきても、私のテンションは上がったままだった。危険極まりないミッションを完璧にやり遂げた後の満足感と爽快感を味わいながら、駅から続く並木道を走る。
その途中、ふと浮かんだ疑問があった。
そう言えば、ちゃんとボイスカードを付けてくれたのかな。ボイスカードゲットォオ〜なんて心で叫んでおきながら、ゲームソフトの確認のみでカードは見ていないような気がする。
もしボイスカードが入って無かったら、 何のために危険を冒したのか分からない。
途端に不安になって、私は歩きながら肩と首で傘を挟み、ショップの袋が鞄から外に出ないように気を付けて袋の中をチェックした。
あった!
ゲームの下に、キャラ名が書かれた小さなカードが見える。
「よかった……」
安堵の息を吐いたと同時に、誰かと肩がぶつかった。
「キャッ!」
まったく前方に意識がいっておらず、予想外の衝撃に傘と鞄が手から滑り落ちる。傘は逆さまの状態で道に転がり、ファスナーを開けたばかりの靴の中身が路面に飛び出した。
その中で、あのどきつい蛍光グリーンの袋がひときわ悪目立ちしている。
拾わなきゃ!
そう思うのに、一瞬の出来事に身体が上手く反応しない。そんな私に代わって、ぶつかった相手がしゃがみ込んで私の鞄に手を伸ばした。
うちの制服だった。
どうしよう。このまま逃げ出してしまいたい。
でも、鞄の中には生徒手帳に財布にノート、私を特定する物が沢山入っている。
どうしよう。
迷っている間にも、相手は中身を拾い集め、ついにオタクショップの袋にまで手を伸ばした。嫌味なまでにデカデカと書かれたオタク天国の文字。それを掴み、立ち上がって鞄と一緒に私へと差し出す。
その相手と、真正面から目が合った。
「あ……」
思わず声が出る。
目の前の相手はクラスメートの高杉だった。
どうしよう。
雨粒がゆっくりと背中をつたい落ちていく感触に体が震えて、暑いのか寒いのかよく分からない冷や汗が吹き出してくる。
高杉の薄い唇が動き、何かを言おうとした瞬間、私はそれを遮るように高杉の手から鞄と袋をひったくった。
そして、少し離れた位置で風に揺れてクルクルしている傘を掴んで走り出す。
何を言おうとしたのだろう。
気になるくせに聞きたくない。
高杉から逃げるように全力で走り、しばらくして信号につかまり足を止めた。
呼吸が乱れ、肩で大きく息をしながら立ち尽くす。髪についた雨粒が額をつたって目に入り、目の前の信号の赤がぼんやり滲んだ。
「傘させばいいのにね」
後ろから聞こえてきたヒソヒソ声で、自分が傘を掴んだまま、さし忘れている事に気付いた。
なに、やってるんだろ。私。
浮かれまくって、更に地元に戻ってきて、すっかり安心してしまった。家に帰るまで、鞄のファスナーは絶対に開けちゃいけなかったんだ。
今更、後悔しても遅い。
信号が変わっても、私は走る気力を無くしとぼとぼと歩き出した。ようやく家に辿り着いて、ずぶ濡れのまま玄関を開ける。
シューズボックスの横にある鏡に映った自分の姿が、あまりに惨めで泣きたくなった。ずぶ濡れで、朝に時間をかけてセットした自慢の斜め前髪も額にべっとり張り付いている。
「燈子ちゃん? 帰ったの?」
突如、廊下の奥にあるキッチンから聞こえた母の声に心臓が大きく跳ねた。家出から戻った母は、いつもこんな風に何事も無かったかのように話し掛けてくる。
『おかあーさんっ! どこに行ってたの! どうしていなくなったの』
『戻ってきたから大丈夫でしょ?』
まだ幼かった私の、あの朝の絶望まで無かったものにするような、あまりにも普段通りな母の声が悲しかった。
それでも、深く傷付かない為の一番の方法は無関心になる事だと、あの頃よりも少し年齢を重ねた私は知っている。
「うん……ただいま。お母さん」
返事をして私は階段を駆け上がった。その途中で、再び母の声が響く。
「燈子ちゃん。お父さんね、今日も遅いみたい」
私は何も言葉を返さず、自分の部屋の扉を閉めた。
父が、早く帰ってくる事などほとんど無い。だから夕食を三人で囲む事もほとんど無かった。
母も勿論、それをよく分かっている。それでも母は毎日この言葉を繰り返すのだ。
まるで、日々の祈りのように。
『お父さん、今日も遅いみたい』
*
昨日の雨から一転して、今日は抜けるような青空が広がっていた。
爽やかな朝とは対照的に、私の心はどんよりしている。高杉にオタク天国の手提げ袋を見られた昨日のダメージが、まだ回復していなかった。
何か言い訳を見つけようと散々頭を捻ってみたけれど、結局良い答えが思いつかないまま朝を迎えてしまった。
打開策はなく、その上ひどい寝不足だ。
高杉は昨日の事をもう誰かに話しただろうか。それが怖くてたまらない。そうなればきっと、今まで作り上げてきた私の体裁が、音を立て一気に崩れ落ちてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
それでも何もできないまま時間が過ぎて、もう家を出なければ間に合わない時間になった。
遅刻をすると余計に目立つし、それに今日は母がいるので、ちゃんと登校しなければいけない。私は仕方なく鞄を掴み学校へ向かった。
教室の扉の前で足が止まる。
どうしよう。やっぱり怖い。
俯いてモジモジしていると、後ろから未央に声を掛けられ心臓が飛び出しそうになった。
「燈子、おっはよう! 今日、ちょっと遅くない……てか、どうしたのそんなに驚いて」
「う、ううん! 何でもないよ。おはよ!」
努めて明るい声を出して、私は覚悟を決めて教室に入った。窓際の自席へ歩きながら、変な目で自分を見ている人がいないかチェックする。
大丈夫、今のところ、大丈夫。
未央もいつも通りだ。
席につくと、梨絵が寄ってきて「オハヨ」と私の肩を優しく叩いた。
「おはよ」
同じように私も梨絵の肩をちょこんと叩く。この何気ないやりとりも、いつも通りで安心する。しばらくすると私を見つけた横山くんが、いつも通り全力で駆け寄ってきた。こちらも変わりがなくホッとする。
「今日もいい感じっスね。俺の燈子さん!」
「お前の燈子さんじゃねーけどな」
そしてきっちり入る松田くんのツッコミ。全部いつも通りだ。
教室の朝の雰囲気も、予鈴が鳴ってから息を切らせて走ってくる茜の姿も、昨日までと同じ、私の大切な体裁が保たれている。
張り詰めていた緊張から少し解放され、私は唯一見ないようにしていた方向に視線を向けた。背中を丸め、俯いて机の一点を凝視している高杉がいる。
良かった。こいつもいつも通り。
魂の抜け殻のままだ。
安堵で大きく息を吐く。振り向いていた体を元に戻そうとした時、高杉が静かに顔を上げた。私と高杉の視線が重なる。
驚きで目を逸らせないまま固まっていると、授業開始の鐘が鳴りハッとなって体勢を前に戻した。
ビックリした、ビックリした!
あの感情の全く読めない瞳と目が合った。何を考えているのか分からない。昨日の事を、誰にも言わないかわりにお金を寄越せと脅されたりしたらどうしよう。
ネガティブな考えばかり出てきてしまい、授業が始まってからも高杉の事が気になって仕方なかった。
昼休み。
お弁当の後で、またダイエット話で盛り上がる未央達に一言告げて私はトイレに向かった。
後ろのドアから教室を出る時、ふと高杉がいない事に気づく。
あいつ、どこに行ったんだろう。
まさか誰かに昨日の事を話しに行ったんじゃ……。
また不安が押し寄せてきて大きな溜息をついた。
このままでは鬱になりそうだ。トイレを済ませ手を洗いながら、もう何度目になるのか分からない溜息を吐く。
女子トイレを出ると、全く同じタイミングで男子トイレから出てきた誰かとぶつかった。
「あ!」
思わず出た私の声に、ぶつかった相手が驚き肩を震わせる。
このタイミングでまさかの高杉。
ヤダ、どうしよう。
昨日からもうこればっかりだ。頭の中でずっと『どうしよう』と呟いている。それでもいい加減、この『どうしよう』 にも飽きてきた。
それなら……動くしかない!
私は周囲を見渡し、誰もこちらを見ていない事を確認して高杉に耳打ちした。
「お願い。話があるから旧校舎の理科準備室に来て!」
*ようやく、燈子と高杉のやりとりが始まります。