サイドストーリー act…1『始まりのファンファーレ』
*本編(act…7)前後の、高杉視点のお話です。
「いってきます」
これが最後の言葉だからと、 僕はいつもより少し声を張った。けれど父と母は相変わらず、弟を真っ直ぐに見ているだけだった。
これも今日でおしまいだ。僕は今日、自分で自分の電源をオフにする。その後の事は知らない。ただ生まれた日に死ぬ事で、両親に少しの抵抗ができるような気がしていた。
場所は学校。 屋上から飛び降り。
以上で終了。 すべてが終わる。
簡単に終わらせてしまえるのだと、 あさはかな僕はそう信じていた。
少し早めに学校についた。僕は迷わず屋上へと直進する。階段をのぼる僕はまるで義務のように、心の中で一段一段その数をカウントしていた。
屋上に出る。
風が強い。
だけどちっとも、寒くはなかった。意を決して、中途半端な高さの金網をよじ登る。そして、向こう側のほんの少しだけあるスペースに足を着地させた。
後は飛ぶだけ。
飛ぶだけ。
たったそれだけなのに、飛べなかった。
怖くて怖くて堪らず、身体が硬直して金網を掴む手を一度も離すことができなかった。
深呼吸して前を向く。視界の端に、はるか下に広がる校庭が見えた。瞬間、胃酸が逆流して強烈な吐き気に襲われる。
数分ともたず、 僕は終わらせるために越えたばかりの金網を、無様にもまた必死でよじ登り、屋上の広いスペースへと逃げ戻ったのだ。
安全な場所へと着地した瞬間、 膝が震えてその場に崩れ落ちた。こんなにもあっけなく、こんなにも無様に......。僕の自殺は、失敗に終わった。
両親の望む中学受験に失敗した僕と、有名中学に合格した弟。見向きもされなくなった自分と、愛される弟。公立中学で苛められるようになった自分と、その途端に離れていった友人達。
高校ではひっそりと、息を潜めて生きていた。
そして結局、この日々を終わらせることすら出来ずに、僕は屋上の地面に横たわり、小さく丸まってすすり泣いた。
空も僕を嘲笑っているのか、ポツリポツリと降り出した雨が容赦なく僕の体を濡らす。
終了スイッチを押せなかった僕は、また出口のない迷路の中へと戻るしかなかった。
一段一段踏みしめてのぼった階段を、今度はふらつく足取りで降りていく。校舎に響き渡るチャイムが、 今までと同じ長い苦痛の始まりを告げた。
日々は変わらない。
何も始まらない。
僕はまだ知らなかった。そんな僕の前に、女神が現われる事を……。
*
その機会は、突如として訪れた。
休み時間にトイレを済ませ廊下に出ると、同じタイミングで女子トイレから出てきた誰かが大きな声を上げた。
「あ!」
その声に驚き、僕の体がビクリッと震える。
僕はうつむいて、その誰かが通り過ぎるのを待つ。
僕はいつも、下ばかり向いている。道を歩くときも下しか見ていない。誰とも目が合わない事が、僕にとって心の安らぎだった。
だから僕は、教室の壁の汚れや落書きを知らない。
その代わりに、床の汚れや染みの位置はよく知っている。
クラスメートの顔も、あまり記憶していない。けれど汚れの酷い上履きの人や、カラフルな靴下を履いている人など、足下の特徴だけはよく覚えていた。
たった今、出くわした人の上履きには、ピンク色の小さなハートのシールが貼られている。確か……、若槻さん。クラスの中心にいる人だ。
僕と彼女は同じ教室にいても、同じ世界に生きてはいない。違う世界に住む人のような気がしていた。
僕はじっと固まって、ただ彼女が通り過ぎるのを待つ。それなのに、ハートがついた上履きは、遠ざかるどころか僕に近付いてきた。
一歩、また一歩。近づいてくるピンクのハート。
訳が分からず、僕の鼓動が急激に早くなっていく。
正面から、わずかに肩が触れた。
「旧校舎の理科準備室に行って!」
耳元で囁かれた言葉に、軽いパニックに陥る。
彼女はなぜ、僕にそんな事を言うのか。僕が彼女について知っている事は、上履きのハートマークと名前しかない。下しか向かない僕は、彼女の顔もよく覚えていない。僕は存在感のない、誰の記憶にも残らない透明人間なのに……。
「旧校舎の方よ!」
更に僕へと詰め寄った彼女が、強い語調で念を押した。その迫力に思わず僕は顔を上げる。初めて、至近距離で見た彼女の瞳。意思が強そうな、大きな瞳だった。
「分かった?」
長い綺麗な髪が、彼女の動きに合わせてサラサラと揺れる。僕は息を呑み、無言のまま首を数回縦に振った。
結局、彼女が僕に話し掛けてきた理由は分からないままトイレ横の階段を駆け降りる。
ふと、昨日の夕方に雨の中で女子とぶつかった事を思い出した。その人の鞄の中味が散らばってしまった事は、よく覚えている。
あれは、彼女だったのだろうか。
昨日の僕は、今日の朝に自殺するという事だけで、頭の中がいっぱいだったから、顔を見たような気はするけれど、やはり思い出せなかった。
それが彼女だったとして、彼女はなぜ僕を旧校舎に呼び出したりするのだろう。真意は分からないけれど、彼女の言葉には、従がわなければいけないと思わせる迫力があった。
渡り廊下を渡って、旧校舎の廊下を歩きながら、僕はふと、普段との違いに気付く。
「景色が……」
僕は今、前を向いている。
下ではなく、前を向いて歩いていた。
低い足元とは違う。目線と同じ高さの景色を見ている。しっかりと、前を向いて歩いていた。
旧校舎には、誰も人がいないからだろうか。
目が合う心配が無いからだろうか。
それとも、もっと別の理由があるのだろうか。
今日は僕の生まれた日で、終わらせようと思った日で、それでも結局終わらせる事すら出来なかった日だ。
日々は変わらない。
何も変わらない。
この先もずっと、僕は感情と声を押し殺し、下だけを向いて生きていく。
そう、思っていた。
「理科準備室……」
扉に手をかけ、ゆっくりと力を込める。鈍い音をたて、スライドしていく古い扉。その向こうに見える景色は汚れた準備室だったけれど、なぜかその瞬間、僕の頭の中に、始まりのファンファーレが鳴り響いた。
それは、反撃の狼煙だったのか。
祝福の合図だったのか。
僕には分からない。
それでも、何かが動き出そうとしている。
そんな、予感がした。
(了)
*あともう1話、高杉視点の後日談を投稿して、全て完結(完結設定に)します。




