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act…2


 通勤通学ラッシュの時間帯をとっくに過ぎたガラガラの電車に乗った。


「少し体調が悪くて…….」


 小さく呟いて、 私は遅刻の言い訳を練習する。物騒な事件が全国で相次ぎ、私の高校も登下校以外は校門を必ず閉めるようになった。遅刻の場合は、電話で保護者が到着時刻を伝言しておかなければいけない。


 父は出張。母は……どうしようか。

 そうだ。祖母が入院で実家に帰っている事にしよう。


『なので自分で電話しました。母は明日帰ってくるので、明日母親から今日の事を電話してもらいます』


 これで、完璧。

 もう一度、「少し体調が悪くて」と小声で第一声を練習してから、私はスマホを出して神の公式サイトをチェックした。



 *



 いざ、本番。


「少し体調が悪くて」


 私は教室に入ってすぐ消えそうな声でハックにそう告げた。事前練習の成果か、自分でも驚くほど儚げな声が出た。

 

 大成功だ。


 ハックは短く刈った髪に日焼けした肌、筋肉質な体格で、一年中白の半袖Tシャツ姿の国語教師だ。


 しかし保護者の八割は、ハックを体育教師だと勘違いしている。


 ハックの名前は中村義明という。

 自分についたあだ名がどうしてハックなのか疑問のようで、度々それを聞いてくる。


 私達は毎回誤魔化して理由は教えない。

 けれど、ハックという可愛らしい語感を気に入っているらしく、「ハック」と呼べばいつも笑顔で返事をしてくれた。


 歯が臭いから。

 それが理由だと知らずに......。


「担任の湯川先生から話しは聞いている。 両親不在の時に体調不良なんて、大変だったな。大丈夫か?」


 ハックが私に一歩近づく。


「大丈夫です」


 私はさり気なく一歩後ろへ下がる。 あまり近距離になると危険だ。


「そうか。無理はするなよ」


 女子に優しいハックは、 黄ばんだ歯をむき出しにして微笑んでくれた。


 席に座ると、後ろの未央が「風邪ひいたの?」と私の背中を突いてきた。


「うん……。 昨日の夜から、ちょっとだけ」


 嘘ついてごめん。

 私は心の中で未央に謝る。

 

 未央は、ストレートの髪を毎朝コテで三十分かけて巻いたゆるふわヘアーをつくっていて、今日みたいな風の強い雨の日でさえ、ちゃんとゆるふわをキープしていた。


「コテ職人。今日もいい仕事してるね」


 未央のクルンッと丸まった毛先を指で摘む。


「燈子こそ、風邪ひいても前髪完璧じゃん」

「でしょ?」


 未央と二人で小さく笑ってから、国語の教科書を取り出し開いた。


 ハックが松尾芭蕉の句を読み上げ、 その句の解釈を順番に質問している。ハックはいつも廊下側の一番前から当てていくので、窓際列の私はとても安全だ。


 私は暇つぶしに、 教科書に載っている芭蕉の似顔絵の帽子をマーカーペンでピンク色に塗る事にした。

 モノクロだった芭蕉が、一箇所だけピンク色に染まり、途端におちゃめになる芭蕉。


 うん、なんか可愛い。


 ついでに着物までピンク色にすると、俳句よりラップを披露しそうなポップな芭蕉が出来上がった。

 

 ハックが芭蕉の俳句を詠み始めると、私の脳内に軽快な五・七・五ラップが流れ出す。


 ――夏草や! 兵どもが! 夢の跡!

 チェケラー。


 ――五月雨を! 集めて早し! 最上川!

 イェーイ。


 五・七・五の言葉の区切りが、意外にもラップとマッチしていて私は驚く。もしかすると、五・七・五の調(しらべ)は、あらゆる分野の音楽にすんなり馴染む最強のリズムなのかもしれない。


 そんな事を考えていると、ハックが気になる句を詠んだ。


「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」


 声は、しみる。

 分かるな、と思った。


 音は、じっくりとしみ込んでくるのだ。教科書に載っている句を指でなぞり、私はこの句の意味を考える。


 芭蕉は静まりかえった場所にいて、そこに蝉の声だけが響いていたのだろうか。まるで、母が初めて家出をしたあの朝のように……。静まりかえったキッチンでは、冷蔵庫の(うな)りだけが響いていた。


 たった一つ鳴り響く音。それは、その場にその音しか存在しないという事を強調する。


 芭蕉はその音を、どんな思いで聞いたのだろう。私は、不安で不安で堪らなかった。


 そんな風に想像してみると、途端に芭蕉に興味が湧いて、私は芭蕉の文学と年譜という見出しの年表を真剣に読んでみる事にした。

 勉学に励む自分というものに、少しテンションが上がる。


『一六四四年、伊賀上野に松尾与左衛門の次男として生まれる。幼名金作、長じて甚七郎と改名、宗房と名のる』


 金作からの、甚七郎からの、宗房……。


 ここまで読んで、私は改名し過ぎている芭蕉に苛々した。いつ芭蕉になるのか。昔の人は名前があり過ぎて困る。

 そんな苛々の憂さ晴らしに、私は芭蕉の顔面までピンク色に塗ることにした。


 顔面を含むピンクの全身タイツに覆われた、最恐ピンクマン芭蕉が誕生する。

 彼に相応(ふさわ)しい名を捧げるために、年表の最後に『宗房から顔魔出(かおまで)ピンクに改名』と付け足し私は教科書を閉じた。


 よし。


 いや、待って。

 満足している場合ではない。


 このままでは、誰かに教科書を貸した時に、この落書きが見られてしまう。こんなものが見られてしまったら、芭蕉ではなく私のあだ名が『顔魔出(かおまで)燈子』に改名される危険性さえあるのだ。


 危ない、危ない。


 自分で塗ったピンク色を消しながら、本当に『消せるマーカーペン』って最高だねと、私は文具メーカー様の素晴らしい企業努力に感謝した。


 きっと芭蕉も、ピンクマンから解放されて胸を撫で下ろしているはずだ。


「よし」


 今度こそ大満足して、私は教科書を閉じたのだった。




【2話の本文につきまして】

*松尾芭蕉の俳句を引用

 著作権は没後70年で消滅の為、著作権フリーの俳句を本文中に使用しております。



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