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act…10


 学校から帰宅すると、母が玄関のたたきを水拭きしていた。


「こんな所も拭き掃除してるの?」


 自分の部屋以外の掃除を母に任せている私は、驚いて母に尋ねる。


「玄関はオウチの顔だから、特に綺麗にしておかないとね」


 答えて、また雑巾で熱心に拭き始める。私は母の邪魔にならないよう端っこでローファーを脱ぎ、シューズボックスにしまった。


 母がバケツで雑巾を洗いながら、いつもの言葉を呟く。


「燈子ちゃん。お父さん、今日も遅いみたい」


 父が早く帰ってくる事など滅多に無い。一ヶ月のうち二度あるかないか。

 そして、まれに早く帰宅した父は決まって母に暴力をふるった。


 母を殴り、母の姿が見当たらなければ私を殴る。捕まえて、押さえ付けて、まるでそうする事が当然のように暴力を振るう。


『お父さん、今日も遅いみたい』


 この言葉の本当の意味を理解したのは、いくつの時だっただろう。母は父の帰りを待っているのではない。今日も帰りが遅い事に、安堵しているのだ。


 父に殴られた後、母はその現実から逃げ出すように家出する。どこへ行っているのかは知らないし、どうして離婚しないのとも聞いた事は無い。


 父を愛しているからなのか、それとも経済的な問題なのか。


 この家の中にいる私は本当に弱虫で、それを母に聞く勇気も、父から母を庇う勇気も、両方持っていなかった。


 幼い頃から私は、そんな自分が大嫌いだ。



「ごちそうさまでした」


 夕食の後に部屋へ戻り、私は早速高杉に電話をかけた。八時に電話をすると指令を出しておいたので、高杉はワンコールで電話に出てくれた。


『はい。た、たか、高杉ですっ』


 このカミまくりの一声だけで、心が幸せに包まれていく。まるで魔法だ。ずっとこの魔法が続いてほしくて、自ら話しを振らない高杉に私は質問ばかり繰り返していた。


 好きな食べ物に趣味、そして最寄駅。

 たくさん話しをするうちに、高杉の色んな事が分かってくる。みかんが好きで、趣味は読書とゲーム。読書は私と違い漫画ではなく小説がメインだった。

 驚いたのは、高杉の家が私の家から歩いて数十分程の近い距離だった事。


「近っ! 最寄駅一緒じゃん。自転車だと五分もかからないね」


 高杉と私の家は、駅の近くを流れる川を挟んで右か左かの違いだけで、駅から自宅までの距離はほぼ同じだった。


「こんなに近いのに、小学校も中学校も一緒じゃないね?」

『川を境に校区が別れるんです』

「なるほど。だから別々だったのか」


 受話器越しの高杉の声は、直接顔を見て話していた時よりずっとずっと心に響いた。無機質な機械を通す事により、その声質の良さが際立つのだろうか。私は高杉に喋って欲しくて、必死になって話題を振った。


「ねぇ。小中の頃から、クラスで誰とも喋らなかったの?」

『小学校の頃は、まだ何人か友達がいたんですけど……』

「どうしたの?」

『クラスの中心人物だった相手に苛められるようになって、それを期に友達まで僕から離れていきました』

「何それ、酷っ! それで誰とも喋らなくなったの?」

『はい。 なんか……何もかも嫌になってしまって』

「そりゃ、嫌にもなるよ。よく今まで頑張ってたね」


 私がそう言葉を返すと、電話の向こうの高杉が無言になった。


「あれ? 高杉、聞こえてる?」


 通話が切れたのかとスマホの画面を見ると、しっかり繋がっている。もしかしたら、急に踏み込んだ事を聞き過ぎたせいで、怒らせてしまったのだろうか。


「高杉? ちょっと、どうしたの?」


 焦って話しかけていると、ようやく小さな声が返ってくる。


「すみません。嬉しくて……」

「え?」

「今までよく頑張ったって。僕が過ごした時間を認めてくれたのが、嬉しくて」


 少し声を詰まらせた高杉は、泣いているのかもしれない。


「じゃあ、頑張ったご褒美に理科準備室にオレンジジュース持って行ってあげる」


 私がそう言うと、「あの。オレンジではなく、みかんが……好きなんです」と高杉が遠慮がちに(こだわ)りを主張した。


「そんなに違う?」

「違います! 全然、違います!」


 こんなにムキになる高杉は初めてで、私は可笑しくなって吹き出す。


「分かったよ。ちゃんと『みかん』ジュース持っていくから!」

「あ、有り難うございます。あの、若槻さんは、何が好きですか?」


 初めて高杉の方から私の事を尋ねられ、その愛しい低音に鼓動が跳ねる。食べ物の好みを聞かれている事は分かっているのに、「高杉の声が好き」と即答していた。


「え? あ、あの……ありがっ……有り難うございます」

「ねぇ高杉。ちょっとエロい事、言ってくれない?」

「……は?」


 せっかく高杉と仲良く会話ができていたのに、オタクな性癖を抑えられずに失言してしまった。


 この声に、どうしても毒舌系S王子なワードを言わせてみたいのだ。それでも電話越しの高杉が明らかにテンパっているので、私はまたの機会を伺う事にした。


 そう。

 高杉は奥ゆかしくて上品なお嬢様なのだ。


「そんなに焦んないでよ。今日は引き下がるけど、いつか絶対エロいこと言ってね」

「言い方!」


 珍しく高杉が速攻でツッコミを入れた。

 確かに、下品な言い方だった。だけど言い方を注意されるという事は、言い方さえお上品にすれば、毒舌ちょいエロな台詞を言ってくれるのだろうか。


「今日は引き下がりますので、いつか必ずおエロいことをおっしゃって下さい?」


 言った後で笑う。

 高杉も可笑しかったようで、小さな笑い声が聞こえた。少し呆れているような、それでもその声は包み込むような優しい音色をしている。


 こんな風に笑うんだ。


 私は目を閉じて、その声をじっくりと胸に刻んだ。一瞬で心を温かくしてくれる高杉の声。父の事で辛い時に思い出そう。負けそうな時に思い返そう。それだけできっと、今みたいに心がポカポカになる。


「それじゃ、またね。今日は長い時間ありがとう!」

「こ、こち、こらこそ有り難うございました」


 電話を切った後に高杉の声の余韻に浸っていると、机の上のスマホが鳴った。


「誰だろう」


 まさか高杉?

 そう思った瞬間、秒で入る私の妄想スイッチ!


『おやすみって、言い忘れてただろ?』


 高杉の声で脳内再生。

 あぁ……エモい!


 現実の高杉がそんなことを言えるはずもないのに、それでもドキドキしながらスマホの画面を確認した。


【着信・横山】


 怒りが、込み上げた。



 →11話に続く


読んで頂きありがとうございます。

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