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もう一度君に会いたい

作者: 音無

 正直その日のことはよく覚えていない。確か金曜日の晩で、会社の先輩と終電間近まで居酒屋で騒いでいた。取引先との交渉がうまくいき、自分が担当していた案件が無事採用されたお祝いで飲み会を開いた、というのが建前だった気がする。


「おー上田!俺らはみんなお前に期待してるんだからな!がんばれよ!」


「課長、いつもありがとうございます!課長がいなかったら今の俺はないですよぉ」


「ははっ、調子の良いことばかり言いやがって!」


 こうして上田と課長の和気あいあいとした会話に、他の課員たちも笑顔になる。上田は入社3年目でまだまだ新人の扱いだったが、部署内ではすっかり人気者でムードメーカーだ。そんな上田も、このアットホームな職場を気に入っており、今日の飲み会はいつも以上に張り切ってしまった。


「上田くん、気をつけて帰るんだよ!」


「上田!ナンパとかせずに帰れよ!」


「言われなくてもちゃんと帰りますよ!みなさんお疲れ様でした〜」


 そう言い、上田は駅のホームでそれぞれ帰路に着く他のメンバーに向かって大きく手を振る。しかし予想以上に酔っていたせいか床の点字ブロックに躓いてしまい少しよろける。遠くからみんなが心配そうにするので、上田は大袈裟に手で大きな丸を作り、大丈夫アピールをする。それを見てみんな安心し、改めて手を振りながら解散していった。


「はぁ、今日は流石に飲みすぎたなぁ」


 一人になった上田は駅のホームのベンチに座り込んで空を見上げる。空を見上げる、といってもここはサラリーマンの聖地の新橋駅。駅から見える景色なんて建物ぐらいだ。


 しばらく待っていると自分の最寄り駅に向かう最終電車が到着したが、そのまま見送ってしまう。しかしそれは彼が酔い潰れたからではなく、隣に突如現れた女性のせいだった。


「うっ、うぐっ」


 その女性は上田と同じベンチに座り、時々身体を左右に揺らしながらひたすらに泣きじゃくっていた。何故かわからないがしわくちゃになっているスーツを着ており、いかにも居酒屋で飲みつぶれた雰囲気を出していた。


 上田は酔った頭でその女性のことを見つめる。顔は涙を拭いている手のせいであまり見えないがスタイルは良さそう。それにこの線のホームにいるということは俺と同じく終電をたった今逃しているはずだ。そこで上田の中にいる悪魔はこう囁く。


(この子、上手くやればお持ち帰りできるんじゃね?)


 上田にとって見知らぬ女性と一夜をともにするのは初めてのことではなく、珍しいことでもなかった。大学生時代から現在までクラブや酒場に行っては気に入った女性を見つけて声をかけ続けてきた。断られる回数もかなり多かったがそこそこ顔が良いのと持ち前の明るい性格のおかげで大体は気に入った子をお持ち帰り出来ており、戦績はそこまで悪くなかった。その長年の経験によって培われた勘が、目の前の泣きじゃくっている女性は交渉次第でお持ち帰りできると判断した。


 そうなれば上田の行動は早かった。上田はススッとその女性の近くまで寄り、さりげなくハンカチを手渡す。女性は少し驚いて上田の顔を見たが、黙ったまま渡されたハンカチを受け取り、涙を拭く。その時に見たその子の顔は涙でパンパンに膨れ上がっていたが、素材は悪くない、と上田は密かに思う。


 その後はあまり覚えていない。確か何で泣いているのか、悲しいことでもあったのか、と聞いた気がする。向こうもしっかりとした受け答えは出来ていなかったが、こちらが共感したかのように頷いていると不思議と会話が成り立っていた。そして自然な流れでその子とタクシーに乗って自分の家に向かい、気がついたら朝になっており、二人で裸になって寝ていた。


「はぁ、またやっちまった」


 最初に起きたのは上田だった。布団から上体を起こし、ゆっくりと背伸びをする。一人暮らしをしている上田のベットはシングルサイズなので二人で寝るにはいささか狭く、上田は少し窮屈そうに寝ている名前も知らない女性を改めて見つめる。上田の見立て通り、やはり彼女の顔は好みの顔だった。


「おーい、そろそろ起きなー。もう12時になっちまうよ」


 そう言いながら優しくその女性を揺すると、小さなうめき声と共にその女性は目を開けた。


「や、おはようさん」


 上田は気軽に挨拶をするとその女性は寝ぼけた顔から一気に正気を取り戻したかのように目を見開き、慌てて自分の身体を布団で覆い隠した。


「そんな、今更恥ずかしがることではないでしょ」


 そう笑いかけるが、女性の方はすぐにそっぽを向いてしまった。


(あ、これはもしかして怒っているのかな?)


 上田は心の中で少し反省しつつ、ベットから起き上がり自分の服を着る。そしてタンスからもう1セット部屋着を取り出し、その女性の横に置く。


「服無いでしょ?よかったら俺の部屋着つかいなよ。あ、もちろん洗濯もしてあって綺麗なやつだからね」


 そう言い残し、上田はキッチンの方に向かって行った。女性は目で上田を追いながら、部屋を出ていったことを確認したのちにのその渡された服に着替え始めた。着替え終わった彼女は恐る恐る部屋を出て廊下を歩いていくと、リビングらしきところから香ばしい匂いがするのに気がつく。


「お、来たね。今軽めの食事作っているからよかったら食べてきなよ。といってもトーストと目玉焼きだけどね。飲み物はコーヒーか紅茶どっちがいい?」


 上田はフライパンに視線を向けながらその女性に話しかける。しかしいくら待っても返事がなかったので少し不審に思い女性の方に目を向けると、なんとものすごい形相でこちらを睨んできていたのだ。


「え、あ、えっと、どうしたの?具合でも悪いの??」


 一旦火を止め、身体を女性の方に向けて話を聞く姿勢に入った上田だったが、その女性の形相はますます険しくなっていく。上田はなす術なく、しばらく返事を待っているとその女性の口が開き、苦しそうに言葉を発し始めた。


「….と、……とと、….と」


と、とと?


 上田は必死に彼女が発する言葉の意味を読み取ろうとする。一方彼女の方は何故か口から出てこないその言葉のせいで息ができなくなっており、どんどん顔が赤くなっていく。そんな言葉を発しようとしている彼女と言葉を聞こうとしてる彼とで妙に緊張した空気が出来つつあったが、その緊張を先に破ったのは彼女の方だった。


「と….とい……トイレはどこにありますか!?」


 急に意味のある内容として発せられた言葉に上田は一瞬ひるんだが、すぐにトイレの場所を言うと、彼女は慌ててそこに駆け込んでいった。


(えええええ……。俺、もしかして本当にとんでもない子をお持ち帰りしてしまったのかもしれない)


 上田はそう思いながらキッチンへ戻り、フライパンの火をつけ直した。


・・・・


 なんだかんだで2人は互いに向かい合うようにテーブルの席についた。2人の前には目玉焼き、トーストと、コーヒーが置かれていた。


「まぁなんだ、遠慮せず食べてってよ。結局飲み物はコーヒーにしちゃったけど飲めそう?」


 上田の問いかけに対してその女性はこくんと頭を縦に振る。


「そういえばまだ君の名前を聞いていなかったな。俺の名前は上田うえだ さとる。昨日会った新橋でサラリーマンしてるよ。えーっと、君の名前は?」


「……」


「….無理に名乗らなくてもいいよ。それよりさ、ごはん食べてってよ、ね?」


 その女性はまたこくんと頭を縦に振り、ゆっくりとコーヒーを飲み始める。


(まあ一夜の関係だし、名乗りたくないのは無理ないか。この感じだと昨晩のこと後悔しているんだろうなぁ)


 上田はもんもんと頭の中で手を出してしまったことに対する罪悪感に苛まれながら、その女性を引き留めず、なるべく早めに帰すよう心がける。二人は特に会話をせず、ただ黙々と食事をする。


 その女性がちょうど食べ終わり、最後にコーヒーを飲み干すのを確認した上田は席から立ち上がり、彼女の服をかけていたハンガーに手を伸ばす。


「昨日は、色々と付き合ってくれてありがとうね。じゃあここに服置いとくから着替えちゃいなよ。俺はその間向こうに行ってるからさ。家出れる準備が出来たら言ってね」


 上田は心の中で出来る最上級の紳士を演じた、つもりだった。


ガシッ


 その女性の隣を通り過ぎた瞬間、服の裾が掴まれ、上田の進行が阻まれた。上田はパッと後ろを振り向くと、そこには涙をこぼしながらこちらを見上げている彼女の姿があった。


「あ….あ….あの」


 女性は涙を流しながら、次の言葉を振り絞ろうとする。しかしまたも苦しそうにしている彼女を上田は放っておけず、優しく背中をさすってあげる。


「大丈夫、落ち着いて。ちゃんと聞くから、ゆっくりでいいから」


 そう言われた彼女の瞳からは更に涙が溢れる。もはや嗚咽に変わってしまったがそれでも呼吸を整え、落ち着きを取り戻そうとする。5分ほどたった頃、落ち着きを取り戻した彼女はゆっくりと上田に向かってこう言葉を漏らした。


「私を….もう少しだけ….この家に置いていただけませんか?」


 その後、彼女は少しずつ自分の置かれている状況について説明してくれた。女性の名前は大谷おおたに 結衣ゆい、彼女も新橋で働いているOL、だった。どうやら昨日働いていたところから実質上のリストラを言い渡されたらしく、その悲しみからヤケ酒に走り、駅のホームで酔い潰れてしまっていた。不景気な昨今ではリストラは特段珍しいことでは無いとはいえ、確かにヤケ酒に走るには十分な理由だ。しかし彼女がひどく落ち込んでいたのはどうやらリストラになった理由にあった。


「まともに話せない奴はいらない、か。酷いことを言う上司だったね」


 その女性、大谷は上田の言葉には特に反応を示さず、ただ俯いていた。


「それで、その勢いで会社を辞めて、住んでいる実家からも飛び出したから帰る場所が無い、だから俺の家にしばらく置いてくれ、そういうことかな?」


 上田の問いかけに対して、大谷は気まずそうに顔を俯ける。大谷はしばらく考え込むようにしていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。


「あ..あの、すみません、や..やっぱり、い….いい..です。ず….図々しいことを言って….すみません」


 大谷はそう言うと、そそくさと帰り支度をし始めた。それを察して上田は慌てて部屋を出ていき、彼女が着替え終わるのを待つ。そして着替え終わった彼女は部屋の扉を開けて静かに廊下を歩き、玄関の方に向かう。


「なぁ、大谷さん。本当に大丈夫?」


 上田は何を言えば良いか迷い、必死に考えた上で出てきた言葉を口に出す。上田の言葉を聞いた大谷は靴を履き終わったタイミングで後ろにいた上田の方に振り向く。


「….はい、….大丈夫です。……は、は話を..聞いていただき….ああありがとうございました!」


 振り向いた瞬間、肩まで伸びた彼女のサラサラな髪の毛が綺麗に舞う。ただ上田はその髪の毛には一切目もくれず彼女の不器用な作り笑顔を見ていた。


(そういえば俺、彼女の悲しそうな顔しか見ていないな)


 ふと、そう思った瞬間、上田は大谷の手を握りしめていた。


「….良ければさ、うちにしばらくいなよ」


 上田がボソッと言ったことに対して、結衣は驚きを隠せないでいた。


「だって君、全然大丈夫に見えなかったからさ」


 大谷の目からまたもや大粒の涙がこぼれ落ち、上田はそれをすくうようにそっと拭いてあげた。


・・・・


 こうして始まった大谷と上田の同居生活。上田は勢いで始めてしまい何かと不安だったが、いざやってみると案外うまくいっていることに驚いてしまう。平日は上田は仕事に行っており、その間に大谷は家の家事をしていた。

 

「ただいま」


「お..おかえり….なさい」


 大谷の不器用な挨拶にも最初こそは慣れないものがあったが次第に気にならなくなっていき、そして当たり前になっていった。同居生活を始めて上田にとってなによりも変化があったのは帰宅するスピードだった。同居前の上田はかなり遅くまで残業し、帰りは酒を飲んで帰る、というのが日常だった。それは家に帰っても誰もいない寂しさが原因でもあり、上田にとって家は寝る場所でしかなかった。


「そんな俺だったのに….この3ヶ月間で随分と変わっちまったな」


「….?悟くん、どうしたの?」


 上田は自分が無意識に口ずさんだことに気がつき、慌てて口元を手で覆うように隠す。


「あぁ、いや、独り言だよ」


 上田は定時に上がりすぐに帰宅するのが主流になっていた。職場では密かに彼女が出来たのではないかと噂を立てられていたが、まぁあながち間違いではなかった。それにこの3ヶ月間で二人の関係性にも少し変化があった。その一つがお互いの呼び方だ。大谷は話す時にどうしてもア行が言いづらいらしく、いつも上田を呼ぶときに苦労していた。そこで二人はお互いに下の名前で呼び合うことを決め、以降はずっと下の名前で呼び合っている。それ以外にも同居生活を始めた頃は気を使いあっていたが3ヶ月間でお互いの距離感を掴んでいき、今ではお互いが家にいてもリラックス出来るようになった。


「悟くん、わ私そろそろ寝るね」


 いつの間にかパジャマ姿になっていた大谷は上田の前を横切り、テーブルに置いてあったリモコンを取ってテレビのスイッチを切った。大谷が近づいてきた時に彼女の髪からシャンプーの香りがして、上田は少し彼女から目線を逸らした。


「そういえば最近は随分とスラスラ話せるようになったんじゃない?」


 上田は思い出したかのようにそう言い、突然指摘された大谷は目を丸くする。


「….確かにそ..そうかもね。悟くんと毎日話しているからかな」


 少し恥ずかしそうにそう言うと、大谷は踵を返して寝室へと向かっていった。


「悟くん、それじゃあおやすみなさい」


「うん、結衣もおやすみ」


 上田は彼女に向かって軽く手を振ると、元は上田の寝室だった部屋へ入っていった。上田と大谷は最初の夜以降は別々の部屋で寝ており、大谷は上田の寝室、上田は気を遣ってリビングのソファで寝ていた。上田は大谷が寝室に入っていくのを見届けると、部屋の隅に置いてある毛布を引っ張ってきてソファに寝転がる。


「俺と結衣の関係ってなんだろうな」


 しんと静まり返ったリビングで上田は呟く。会社では変な噂を立てられており、上田は気にしているつもりはなかったがふとした瞬間に大谷との奇妙な関係について考えてしまう。ただそれについて思いを巡らせると、どうしても今後のことまで考えてしまう。果たして彼女はいつまでうちで暮らすつもりなのか。これから自分達はどうしていけばいいのか。


「もし出ていくようだったらちょっとした送別会ぐらいはしたいなぁ」


 上田はそんな呑気なことを言ったが、彼女が家を出ていくことを想像すると胸が少し痛むのを感じてしまい、それをまぎらわすかのように毛布に身を埋めた。


・・・・


 それから更に3ヶ月が経過し、同居生活を始めてから半年が経過した。上田の仕事は順風満帆で社内で階級を一つ上げることに成功した。


「結衣!聞いてくれ、今日人事面談があって俺の階級が一つ上がったんだ!これで少し給料が上がるから今度どこかに遊びに行こうよ!」


 帰って早々に勢いよく話しかけられたので大谷は呆気を取られてしまう。


「すごいじゃない!お..おめでとう、悟くん!」


 大谷は上田から鞄を受け取り、足元にスリッパを用意する。その立ち振る舞いはまさに嫁のようだ。


「それじゃあ今日の夕飯にはお酒も出しちゃおっか」


 大谷は嬉しそうにそう言いながら急ぎ足で台所の方に向かった。上田が帰宅する頃にちょうど夕飯を食べられるようにしてくれており、リビングからはほのかに料理の香りがしていた。


(そういえば最近よく結衣の笑顔を見るようになったな)


 上田はふと片手に持っていたビールをテーブルの上に置いて大谷の顔を見た。大谷は最近流行っているオーディション番組の話をするのに夢中で上田に顔を見られていることに気がついていない。


(うちに来た時はいつも泣いていたのになぁ)


 上田は少し感慨深くなりながら彼女が熱弁する様子を見る。しばらく物思いに耽っていると大谷はすでに話すのをやめており、ジッと上田の方を見ていた。


「悟くん、どうしたの?」


「あ、いや、なんでもない。ちょっと考え事」


 上田は少し気まずそうに微笑みながらグラスに残ったビールを喉に流しこむ。そしておかわりをしようと台所に向かおうとする上田だったが大谷の鋭い目線が飛んでくる。


「悟くん、飲み過ぎよ。もうその辺にしておきなって」


 お母さんかよ。上田は心の中でそう呟きながらしゅんとした顔で席に戻る。大谷の笑顔が増えたことは良いことだが、最近は何かと尻を敷かれるようになった。しかし上田は意外と悪い気がしなかった。


「..ねぇ、悟くん。これ見てくれない」


 大谷は少し改まった表情をして一枚の紙を上田に手渡した。それを見た瞬間、上田は大きく目を見開いた。


「履歴書?」


 上田に渡された紙、それは履歴書だった。コンビニで売っているような市販の履歴書で、写真を貼る部分には少し強張った表情の大谷の写真がはられていた。


「そうなの。じ実は前々から..か..考えていたんだけど、….わわ..わ私また働こうかなと思って」


 その言葉を聞いた時、上田の背筋を何か冷たいものが伝った気がした。もしかして仕事を始めるからここを出ていくと言うのだろうか。ずっと今の暮らしができれば良いと思っていた上田にとって悪い妄想ばかりが先走る。


「で..でも前みたいに正社員で働ける自信はまだなくて….それにまだ話すのも苦手だから..それを克服しようって思って..ここ..コンビニで接客業をしようと思うんだけど..どうかな?」


 上田はまたしても驚いてしまう。果たして彼女に接客が出来るのだろうか、そもそもアルバイトの面接もうまくいくのだろうか….。上田の中で様々な不安がよぎったが、それよりその決断をした彼女の勇気を讃えたかった。


「うん、良いと思う、本当に!また働く気持ちを持てるようになったのは良いことだし、何より自分の苦手なことに向き合えるなんて誰にでも出来ることではないよ!」


 上田の素直な感想に大谷は少し照れて頬を赤くしてしまう。そして一度姿勢を直した彼女は改めて上田の方を向く。


「そ..それでなんだけど..まだすぐに独り立ちできそうに無いからもう少しだけここで暮らしたいんだけど….いいかな?」


 少し不安そうな大谷の言葉に上田は安堵を隠せないでいた。すぐにでも返事を言いたかったが、それでは食い気味になってしまうと思い一旦冷静になる。


「もちろん、大丈夫だよ。そんないきなり君を追い出したりなんてしないよ」


 本当はずっと一緒にいてほしい、とは言えなかった。彼女とは付き合っている訳ではなく、ただ一緒に半年間暮らしているだけだ。大谷を縛り付けるようなことはしたくなかった。


「そっか….よかった。ありがとうね、悟くん」


 大谷が微笑むと、上田は慌てて緩んだ口元を隠した。この2人の同居生活がいつまでも続けば良いと、心の奥底でそう思ったのであった。


・・・・


 大谷のアルバイト生活は決して楽なものではなかった。上田が心配した通り、まずは面接でかなりの苦戦を強いられ、上田と大谷は毎晩自己紹介と面接の練習に勤しんだ。そして努力の甲斐あって10件目の応募にしてようやく上田の会社の近くのコンビニで採用された。


「いやしかし本当に受かってよかったよ!面接の練習をしたかいがあったね、特に自己紹介で自分の名前を言うところが大変だったね」


 上田は感慨深そうに数日間やってきた面接の練習シーンを思い出しながらそれを肴にビールをあおる。


「し..しょうがないじゃない!だだって私の苗字“お”から始まるから..い..言いにくかったのよ」


 自分の苗字に対して文句を言う大谷であったが、内心アルバイトに合格した事が相当嬉しかったようで今日は珍しく上田と一緒にビールを飲んでいた。


「それにしても家の近くのファミレスやコンビニがダメだったからって俺の会社の近くにしなくてもよかったんじゃない?」


「で..でも悟くんの会社の近くだったら..い..一緒に出勤したり、帰るタイミングも合わせられたり出来るかなって思って」


「うーん、まぁ確かにね」


 上田はそれを良しとも悪しともしない表情を取ったが、内心ではかなり喜んでいた。最初に彼女のアルバイト先が自分の会社の近くだと聞いた時は心の中でガッツポーズを取っていたくらいだ。


「ま、それならこれからお昼の時は毎回見に行ってちゃんと接客出来ているかチェックしてあげるよ」


 上田のやや挑発気味な発言に対して大谷が少しムッとしたのか、口先を尖らせながら言い返す。


「い..いいわよ?わ私が….あまりにも上手に接客しているところを….見ても驚かないでね?」


 本人としては煽っているつもりだが、なんとも頼りのない返事をされたせいで上田はつい苦笑してしまう。次は接客の練習に付き合わなければなと思いつつ少し楽しみにしている自分がいた。


 しかし、いややはりと言うべきか、当然こんな調子の大谷なので最初から接客が上手く出来るはずもなく、店頭に入った最初の日なんかは目も当てられないほどひどい接客をしていた。上田は落ち込んで帰ってきた大谷を励ましながら数日間家で接客の練習をし、やがて接客時の会話がみるみる上達していった。


 何もかもが順調にいっていた。大谷もアルバイトでの接客を経てどんどん話すことが上達していき、表情に自信が見えるようになってきた。上田も会社の休憩時間を利用してちょくちょく大谷の顔を覗きにいくのが新たな楽しみになっていた。きっとこの時間がずっと続くのだろうと、上田はそう思っていた。


 ある日のこと、平日の午後3時ごろに上田はいつものようにコーヒーを買いに大谷が働いているコンビニへ立ち寄ろうとした。ただお店に入る直前で、お客の一人と店員の大谷がなにやら口論していることに気が付き、上田は慌ててお店の中に入った。


「結衣!大丈夫か!?」


 上田は状況をよく見ずにそのお客と大谷の間に入った。上田は大谷が迷惑な客に絡まれていると思い、とっさに大谷を庇うようにしてその客と対峙したが、その行動が火に油を注ぐものとなった。


「なんだね君は!私は自分の娘と話しているんだ!邪魔するな!」


 その客、上田とほぼ同じ背丈の中年男性はそう言い放つと右手で力強く握った拳を全力で上田の左頬にぶつける。上田はその衝撃に耐えられず1、2歩ほど後退りしてしまう。


「悟くん!」


 殴られた衝撃で倒れそうになった上田を大谷は支えるように肩を掴んだ。その時に上田は自分の肩を掴んでいる大谷の手が震えていることに気がつく。


「お願い….お父さん、もうやめて….」


 上田はその言葉に驚き、もう一度その客、大谷の父を見る。大谷の父親はまるで般若を彷彿とさせるような顔をしており、怒りのあまり誰の声も聞こえないように感じた。大谷の父親は怒りに任せて再び拳を振り上げ、上田を殴ろうとしたその時、何者かが彼を取り押さえた。


「警察です!一体何があったんですか!?」


 突如現れた警察によって大谷の父親から繰り出されそうだった二発目が防がれ、上田は瞬間的な危機が去ったことに安堵する。そして一度冷静になり、改めて周りを見渡すと店内にいた客は全員こちらを凝視しており、店の外には少しばかり野次馬が集まっていた。それだけ店内が騒然としていたのだ。


 その後の展開は目まぐるしい勢いで進んでいった。警察が来たおかげでこの騒動は収まりを見せ、上田含め騒ぎの渦中にいた人達は一旦署まで同行することになった。そしてそこで大谷の父親から自分の娘が家出し半年もの間連絡がつかなかったこと、偶然立ち寄ったコンビニで娘を見つけて動転してしまった経緯が話された。


 一通りの事情聴取が終わり、上田が警察から解放された時はすでに夜になっていた。聴取に時間がかかったのはコンビニでの騒動より約半年前からしていた大谷との同棲についての詳細を聞かれたからだった。


「….つながらない」


 上田は真っ先に大谷に電話したが繋がらなかった。そのまま家に帰っても大谷は帰ってきておらず、ますます不安になる。ようやく連絡がついたのはその翌日、大谷からの電話で上田の家に行きたいとのことだった。


「結衣!大丈夫だったか!?」


 上田の部屋の扉の前に立っていた大谷は悲壮な表情で立っており、まるでここに来たばかりの頃の大谷を思い出す。


「悟くん..本当に色々ごめんね..」


 そう言って大谷は泣きながら何があったのかを話し始めた。自分が無断で実家を家出したことや親が非常に厳しい家庭であること、そして今すぐ実家に戻らなければいけないこと。


「えっ、ここを出ていくの?」


 上田は目を丸くして大谷に問いかける。大谷は何も言わずコクンと俯きながら上田の部屋にある自分の荷物を整理していく。


「ちょっ、ちょっと待ってよ!急すぎじゃないか!俺はいつまでもここにいてもらってもいいし、今バイトの調子が良くなってきたばかりでしょ?もう少しここで生活すればきっと..」


「お父さんに!….言われたの。帰ってこいって。もしここで帰らなかったら悟くんにも迷惑をかけちゃうよ。だから私はここで実家に帰らないと」


 大谷が大声で上田の話を遮る。ここでの生活そしてアルバイトを始めたおかげか、大谷はかつてないほどスラスラと話せていたが上田はそれに気が付けずにいた。


「で、でも..」


 尚も食い下がろうとした上田だがそこで言葉が詰まってしまう。上田の中には大谷とこれからも今まで通り同居生活を送りたいと思う反面、自分の都合で大谷を縛りたくないという気持ちも存在していた。その双方の気持ちのぶつかり合いが上田に次の言葉を出させようとしなかった。


 そうこうしているうちに大谷は自分の荷物をまとめ終わり、いよいよ上田の家から去ろうとしていた。


「あの、今まで本当に色々お世話になってきたから、これ、少ないかもしれないけど..」


 そう言って彼女は紙の封筒を上田に渡す。その形状と手に取った時の重さでそれがお金であることは容易に想像できたし、重さからして決して少額ではなかった。


「こんなもん..いらないよ!」


 上田は大谷に封筒を突っ返したが、大谷は頑として受け取ろうとはしなかった。


「悟くん、私あなたに出会えて本当に良かったと思ってる。半年前に酔い潰れていた私に、邪な気持ちだったかもしれないけど声をかけてくれてありがとう。こんな変な女を家に置いてくれていてありがとう。話す練習に付き合ってくれてありがとう。一緒にいてくれて….ありがとう」


 彼女はそう言い残して私物をまとめた鞄を持ち、扉を開けて去って行ってしまった。上田は彼女を追うことはしなかった。自分の意思でこの家を去っていく彼女を止めることはできなかった。


 上田は大谷が去った後もしばらく玄関で突っ立っていた。その間にいろんな感情が湧き出てきたが、その全てに言い訳をするかのように心の中で否定を繰り返す。そして自分の感情に整理がつかないまま、ふと大谷が使っていた寝室へ立ち寄る。大谷が去り、がらんどうになった寝室は妙に肌寒く感じ、上田はベッドの中に蹲る。布団の中で深呼吸をするとまだ彼女の匂いがかすかに残っており、それを嗅いだ瞬間、グルグルと心の中で渦巻いていた感情がすっと無くなった。


(バカだなぁ俺は、なんでいつも自分の気持ちに正直になれないのだろうか)


 自分でもこの気持ちが何なのか分かっていた。ただ彼女と一緒にいるのが当たり前になりすぎて自分の気持ちに気が付けず、否、向き合おうとしなかった。


(今更結衣のことが好きだなんて気がつくんじゃなかった)


 そこから上田に待っていたのは地獄のような日々だった。なんとかして大谷のことを忘れようと上田は再び酒を飲み歩く日々に戻り、家に帰らなくなった。また他の女性を探せばいいとナンパを繰り返すようにもなったが、頭の片隅には必ず大谷がいた。


 大谷のことを忘れようと今まで以上に仕事に打ち込み、お酒も飲み、女遊びも躊躇なくするようになった。けどいくらやってもやはり大谷を忘れる事ができず、ただいたずらに時だけが流れていった。


・・・・


 上田が大谷と離れてから2年の月日が流れた。その間、上田にもさまざまな変化があったが、一番は会社で優秀な成績を納めたおかげもあって係長に昇格したことだった。


「おー上田、ちゃんとあの書類には目を通しておいたか?」


 課長に言われ、上田は我に帰ったかのように返事をする。


「あ、今度うちの課に入ってくる人の履歴書ですよね?すみません、私も面接に参加すること忘れていました」


「おいおい、頼むよ係長。君の部下になる子なんだからちゃんと見といてよ」


 課長に少し咎められ、上田は軽く肩をすくませた。役職が一つ上がったことで上からの要求も厳しくなる一方だったが、それは期待されているからだと理解していた。


 上田は昼休みの時間に会社の購買で買ったパンで手早く昼食を済ませ、応募してきた人の履歴書に目を通す。かつては会社近くの、大谷が働いていたコンビニで昼食を買っていたがあの騒動以来その店には行っていない。


 ペラペラと一枚ずつ履歴書に目を通す。今回の応募人数は5人で、履歴書は5枚ある。そこまで大きくないうちの会社にしては珍しくまとまった人数が来たなと思いながら写真と名前を見ていたら、一枚の履歴書に目が止まった。


「え….」


 その履歴書を目にした上田はしばらく微動だにしなかったが、やがて静かに目頭が熱くなっていった。


 そして数日後の面接当日、上田は他の上司と一緒に一人ずつ受験者と面接をしていった。面接の形式は個人面接で、一人当たりにかかる面接の時間は大体30分〜45分ほど、丁寧に話を聞いていく。しかし面接官は5人に対して面接者は1人、受験者にとっては面接の圧迫感はかなりのものである。


「上田、お前が緊張してどうする」


 ちょうど4人目の面接を終えた時に課長が小声で上田に言う。


「いやぁ、面接官も中々緊張するものですね。受験者のことを思うとつい固くなってしまいますよ」


 上田は小笑いするが、課長が少し呆れた表情をする。


「気持ちは分かるけど程々にな..。ほら、最後の面接者がきたぞ」


 失礼します、と部屋の扉の向こう側で凛とした女性の声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、上田の心の奥で封じ込めていた2年前の記憶が蘇り始める。


 上田の知っている彼女の声はいつも弱々しく、立ち振る舞いも少し自信がなさげな感じだった。だが扉の向こう側から入ってきた彼女は、強張った表情をしていながらも、背筋をピンと伸ばして一人前の社会人のようだった。


 上田はぐっと目を細めて涙がこぼれてくるのを防いだ。彼女の姿を見ただけで胸がいっぱいいっぱいになってしまい、それ以上直視する事ができない。


「よろしくお願いします。それでは初めにお名前と自己紹介をお願いします」


 課長が促し、彼女はワンテンポをおいて、はい、と返事する。上田の喉は乾き切っており、少しでも潤いが欲しくて唾を飲む。面接に来た彼女より自分の方が緊張しているのではないかと思えるほど心臓がバクバクする。


 本日最後の面接者である彼女はゆっくりと息を吸い、それから目線をはっきりと上田に向けながら声高らかに言う。


「大谷 結衣です。本日はよろしくお願いします」


 上田のところを出てから大谷に何があったのかは知る由はない。ただ2年の時を経て、長年話すことを苦手としていた彼女がスラスラと喋れているのをみて、何故だか自分が救われたような気持ちになっていたのだった。



               〜完〜


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