エピローグ
鬼崎桂花の事件が終わってから1年。日々はつつがなく過ぎ、これはとある寒い冬の日のこと。
3人がいつも来る居酒屋は個室があって、過ごしやすい。いい具合の騒がしさもお気に入りであった。
「「乾杯!」」
かん、と柔らかくグラスが鳴る。三者三様に飲み物を口に運び、それぞれにテーブルに置いた。
「で、御厨先輩は烏龍茶でしたね。」
笑顔で宵人のグラスにお代わりを注ぐ杷子。彼だけソフトドリンクなので酔わないはずだが、宵人はにこにこと緩んだ顔を見せた。
「ありがとう、池田。」
枝豆を摘むその手の薬指にこなれてきた指輪。結婚記念日に明鈴によって贈られたものだとしばらく嬉しそうに見つめていた。
「義姉さんに合わせて禁酒だなんて、真面目だねえ。よくやるわ。」
悪態をつきつつ一巳もどこか嬉しそうだ。杷子も宵人もへらりと笑ってそれぞれにつまみを口に運んだ。
「にしても、去年はごちゃごちゃしてたのに今年はぬるっとしてんね。これからがこえーわ。」
折角の久しぶりの3人での飲みなのに不穏なことを言う一巳。だが何も言い返せることはなかった。
桂花の事件以来、ラパノスの動きは大人しくなっていた。シュレッダー役がいなくなったせいで派手には活動できなくなったせいらしい。ありがたいが、尻尾も掴みにくくなった。そのおかげでこちらも派手な捜査はしばらく行っていない。
「まあ、事態が動くならさすがに忠直さんから何かあると思うけどな。お前と違って俺たちに投げるところは投げる人だから。」
宵人につつかれた一巳は不愉快そうに肩をすくめる。去年から役職を持った彼は仕事に関しては以前にも増してきっちりするようになった。そもそも一巳は仕事ができる方ではあるが、それに責任がきちんと伴ったのだ。頼もしい限りだが、彼自身は少々警戒心が強くなった。単独行動も増えている。
「まあ結局旭さん次第なんだよね。あの人が今どんな状況なのか、課長ですらちゃんとは把握してないみたいでちょっと怖えけど。」
去年からの一連の事件のキーマンは兎美。彼女の状況は確かに不透明で、今、何をしているのやら。元気なのだろうか。
「旭さん。彼女に何もなければ、今頃忠直さんは幸せになってたんだろうな。順調にいけば結婚してたかも。」
宵人がぼやくようにそう言った。それには杷子もうんうんと頷く。
「お似合いの2人ですもんね。兎美さん、ちゃんとご飯食べてるのかな。」
目の前の揚げ出し豆腐を眺めながらそう言うと、一巳に意味ありげな視線を向けられた。ん?と彼を窺うと悪い顔。
「そういえば、池田って忠直さんのこと好きな時期あったよねえ。」
杷子は固まった。一巳の隣に座る宵人が渋い顔をする。嫌な話題である。
「いつの間に旭さんのこと応援してんだか。今はもう何もねえの?」
池田、乗るなよ。乗ると洗いざらい吐かされるぞ。そんなふうな宵人の心の声が聞こえた気がする。でも、杷子は勢いで言っていた。
「は!?今はもう何もないですよ!だって、彼氏いますもん。」
ふーん。一巳は素っ気ない体でグラスを口に運ぶ。
「即否定できるくらい、カレシのこと好きなんだ?」
じ、と見られてしまって気恥ずかしさに襲われた。蓮のことは2人とも把握している。その内情を宵人にはよく相談しているのだが、一巳にはそこまで話していなかった。それを気にしていたのか?
「……す、好きですよ。」
顔を真っ赤にして俯きながらそう言うと、一巳がニヤッと笑う。へえ、としたり顔。
「今、なんかすげー惚気話聞きたい気分なんだよね。よいっちゃんだけ知ってんの、不公平じゃん?」
1時間後。とりあえず一巳を酔い潰した。
「あーあー、疲れてんのにハイペースで飲むから。池田も容赦ねえなぁ。」
呆れ顔をしながら、膝を貸している宵人。酔い潰した、とは言ったがひどい飲ませ方をしたわけではない。むしろ、いつもよりも量は少なかったかもしれない。それでも眠ってしまったということは、たぶん一巳は結構疲れていたのだろう。
「洗いざらい吐いたからおあいこでしょう!あー、もう、恥ずかしい。」
杷子は赤い顔を手で扇いだ。とりあえず一巳が満足するくらいのネタは提供した。最近の出来事はほとんど話したから許して欲しい。
「はは、一巳は拗ねてたんだよ。池田が俺ばっかに構うから。」
はあ?と首を傾げる杷子。笑いながらそう言った宵人は、飲んでいないはずなのにまるで酔いが回ったときのようにこにこしている。
「そんなの、今に始まったことじゃないですよ?私、先輩との方が付き合い長いし。」
そこらへんの事情から、話しやすいのは必然的に宵人になってしまうのだ。それをわからない一巳ではないだろう。でも、宵人はけらけらと笑った。
「やっと後輩の可愛がり方覚えたんだよ、こいつ。初めてまともに関わった後輩が女の子で、堅い印象だったから一巳も緊張してたんだけど、それがまめと関わることで中和されたみたい。」
思わずきょとんとしてしまう。杷子からすれば一巳はいつも安定した調子で人を食ったような笑みを浮かべていて、それでいて頼りになる上司だ。その人が緊張していた、と。
「積極的に甘えてやれ、とかは言わないけど頼られることは嬉しいらしいよ。一応可愛がられてる自覚は持っててやってくれない?一巳は不器用だから。」
なんとも。確かに不器用だ。こうして宵人が翻訳してくれなければわからないこともある。だけど。
「……別に。自覚なくてもあの、元から良い人だってことはわかってます。頼りにしてます。」
照れて目を伏せる。これは告白とかより恥ずかしいと思う。お世話になっている人に普段言わないありがとうを言う気分だ。
「そう。一巳が褒められると俺も嬉しい。」
雰囲気に酔って緩んでいる宵人は随分と正直だ。にこにことしていて、油断すればたぶん杷子のことも褒めちぎり始めるだろう。
「にしても、鬼崎さんと池田が仲良さそうでよかった。」
烏龍茶を口に運びながら宵人が笑う。先程の惚気を聞いた感想か。恥ずかしい方向に進む前に、杷子は彼の左手を示した。
「それはこちらのセリフでもありますね。先輩も奥さんと仲良しじゃないですか。」
意表を突かれたのか一瞬目を丸くする宵人。だが、すぐにふにゃ、とその表情が緩んだ。
「そうかな。そうだと、嬉しいな。」
1年も通い婚を面倒くさがらずに続けられるだけでも相当だと思う。それに、話を聞いていると明鈴の方がたぶんすごく宵人のことを好きなのだろう。そんなふうな愛が伝わってくるのは、ちょっと羨ましかったり。
「スピード婚だったから、割と周りからマジな心配されたんだよ。忠直さんとか、真顔で明鈴とはどうだ?って。」
それは簡単に想像がつくのが微笑ましい。杷子はにこにこしながらグラスを手にとった。宵人と明鈴については、宵人が幸せそうに笑うことが増えるにつれて、周りの心配も減っていったのが記憶に新しい。
「そういえば先輩、お子さんのことってどうなってるんですか?」
楽しそうに茶を飲んでいた宵人が急にむせ始めた。今日は口が緩んでいる彼だが、さすがにこの話題は少し恥ずかしいらしい。顔が真っ赤だ。
「……ここ数ヶ月で、意識はしてる。明鈴と一緒にお酒もやめたし。」
ごにょ、と口籠る宵人。その目はイジるなよと訴えかけてきている。これは、何か面白い話題かもしれない。
「ふふ、他意はありませんよ?お2人の関係の始まりがそういう話題だったので、ちょっと気になって。」
宵人はそういえば、という顔をする。あんな衝撃的な言葉を忘れるくらい明鈴の存在が彼に馴染んだのか。
「……明鈴の年齢的に、なるべく負担をかけないうちに授かれたらいいなぁとは思ってるけど。ただ、まあ、あの。」
赤い顔のまま、ごもごもと宵人は恥ずかしそうに教えてくれる。
「2人でいる時間も楽しくて。彼女との子どもならめちゃくちゃ可愛がれる自信はあるんだけど、それ以前にその、嫁さんって、可愛いんだよ。」
それは録音して明鈴に聞かせてあげたい言葉だった。ご馳走様です、と笑うと宵人は照れて俯いてしまう。
「てか、俺の惚気はいいだろ。池田は、鬼崎さんとはどうなの?一緒にいる手段は結婚だけじゃないけど、先に相手の意向確認するだけでも……あはは、余計なお世話だった?」
反撃に出た宵人は顔を上げてパッと笑った。杷子が赤い顔で黙り込んだから。
蓮とそういう話題になったことはある。あちらの方がよっぽど、先のことは考えてくれているのだ。
「一緒にいられるなら何でもよかって伝えてます。ただ、正式にいろいろするのは兎美さんの件が片付いてからかな。」
杷子もこのところは落ち着いた顔をよく見せるようになっていた。それが、嬉しいような寂しいような。宵人はそう、と微笑みながらグラスを口に運んだ。
「じゃあ、池田。気をつけて。」
「また月曜日。おやすみ。」
居酒屋の前で上司2人と別れて、杷子は1人で夜の道を歩いた。最近は結構冷えていて、寒い。手をこすりながら歩いていると、その途中で杷子は人影を見つけてぴたりと立ち止まる。呆れたように笑うと、彼もこちらを見つけてニッと笑った。
「迎えはいらんって言ったけど。」
「待ち切れなかっただけだ。」
あの店は蓮の家の方が近い。終電にあくせくしなくていいように、彼の家に泊まる約束をしていたのだ。
「楽しかったか?」
「うん。楽しかったよ。」
スッと手を差し出される。やだ、と冗談を言ってそっぽ向くと少ししょげたような反応。杷子は笑って蓮が引こうとした手を掴んだ。
蓮の家は杷子が通い始めてからだいぶ生活感が出てきた。風呂に入って、シャンプーが少なくなっていることに気づいた杷子は微笑む。
「蓮さん、シャンプー少なくなっとったやろ。」
髪を拭きながら冷蔵庫を物色する。宵人がきちんと水分も摂らせてくれたので大丈夫だとは思うが、きちんと水分補給を。
「ああ、そうだった。俺もお前も髪を切ってから、消費量が減っていたからな。」
いつの間にか背後にいた蓮。彼はコップを取り出しながら、杷子の頸を撫でる。
蓮と付き合い始めてから、杷子はずっと伸ばしていた髪の毛をばっさりと切った。切った方が楽なことはわかっていたのだが、女らしさという要素をなるべく減らしたくなくてこだわっていたのだ。今は、もう必要ない。
「ふふ、この前安かったけん買っといた。褒めてくれてもよかよ。」
軽口を叩くと頭を適当に撫でられた。雑なようなそれくらいが丁度いいような。
そのまま流れるように持っていた水を奪われて、コップに注いでから返された。
「そういえばもういいのか?」
何を。いつも通りのんべんだらりと過ごしていた杷子は不意にそう言われてゆっくりと蓮の方を見る。
「最近は全く可愛いに拘らなくなった、と思ってな。お前さんの私服で白やピンクも見たことがない。」
少々気恥ずかしそうに杷子はああ、と頷く。彼女は軽く頰を掻いて、でもすぐにあっけらかんと笑った。
「残念ながら本当に似合わんくて。無理に着るほどもう執着してるわけでもなかし。」
蓮の片眉が上がる。何か言いたげな彼に視線で促すと飛び出したのは不満げな声。
「好きなようにすればいいだろうに。似合う似合わないより、したいかしたくないかじゃないか?融通の効かんやつめ。」
杷子は小さく笑った。別にもういいのだ。だって。
「人はそんな簡単に変われんとよ。それに、蓮さんは今の私でも可愛いと思っとるやろ?」
下から覗き込むように蓮を見ると、彼は意表を突かれたように目を丸くして、ほんの少し頰を染めた。
「まあ、そうだな。お前さん、言うようになったの。」
一本取られた、と苦く笑う彼を見て微笑みながら杷子は蓮の膝に顎を乗せた。心地よいほろ酔い具合と眠気。今、ものすごく多幸感に包まれている。
「それならよか。ピンクも白も好きやけど、別にそれで可愛くなるわけでもなかし。蓮さんが可愛いって言ってくれるならそれでいいもん。」
そうか。蓮が少し照れているのが嬉しかった。なんとなく顔が見たくなって体を反転させると。
「……杷子。」
こつん、と頭に何かを当てられた。痛くはないが驚いて思わず目を瞑ると、蓮が軽く笑う。
「それならば、俺が1番似合う“白”を着せてやろう。」
頭に当たったそれは。
ハッとして体を起こした杷子。蓮がくすくす笑いながら顔を覗き込んできた。
「どうだ?俺を生涯の伴侶にする気はあるか?」
手に握らされた硬い感触。リングケースだ。中にはピンク色の宝石のはまった可愛らしいデザインの指輪。
「……可愛い。」
嬉しくて蓮を見上げる。彼は微笑みながら返事を待っているようだ。杷子は満面の笑みを浮かべた。
「婚約くらいは済ませておいてもいいだろう、と思ってな。どうだ?つけてくれるか?」
いひひ、と笑って左手を差し出すとうやうやしく掴まれる。それにお互いに笑いながら杷子の薬指に約束の印が通された。
「……あーあ、私がこんな酔っ払っとったら断らんこと知って、悪い人やね。」
「ははは、そうだろう。受け取らせたらこっちのものだ。返品交換は許さん。」
別にそこまで酔っているわけでもないし、酔っていようとも記憶が飛ぶ性質ではない。でも軽口の飛ばし合いくらいが自分たちらしい。
「冗談よ。蓮さんが隣でそうやって笑ってくれれば何でもよか。素面でも二つ返事で答えてあげる。」
甘えるように蓮の腹に顔を埋める。さらさらと頭を撫でられて、嬉しくて微笑んだ。
「……そうか。俺が、結婚、するのか。」
ふと、感慨深げに蓮がそう呟く。何か思うところがあるような言い方だ。杷子は埋めていた顔を離して蓮を見上げた。
「それ、蓮さんの求婚癖と関係ある?」
なんとなくそう思ったので訊くと、蓮は静かに頷く。彼がこういうしっとりした顔をするときは大抵、大切な人のことを考えている。
「ああ、そうだ。人に話したことがなかった、と思ってな。」
それほど重たい話なのか、と杷子は体を起こそうとする。のんべんだらりと聞いていい話ではないと思ったから。
だが、蓮はそのままでいいと示すように杷子の肩を押す。ごろりと膝枕をされる体勢になって、杷子は蓮をぼうっと見上げた。
「なに、大した話ではない。あれは酒に酔った師父の苦言だったんだがな、『蓮、お前はもう少し唯一を知りなさい。友人でも恋人でもいい。何か1つを大切にできる人間は他の何より輝いているもんだ。』その後はどうたらこうたらと説教を食らったんだが。」
蓮の遊んでいた話は知っている。『裏』と関わったときにも聞いたし、たまに蓮の側近の石原から聞いたりもする。今のは、それに対する正の苦言だろう。
「俺はあまり人の心を解くのが得意ではない。だから本能の赴くままに暴れ回っていたのだが、師父のその言葉にはわりと感じ入るところがあった。それで、単純な俺は結婚できる、と思える相手がその“唯一”になるのでは、と考えたわけだ。」
話を聞きながら杷子は思わず吹き出した。それは、単純すぎやしないか。絶対に違う、とは言えないが彼の無節操具合を考えるととんでもない闇鍋だ。
「師父はろくでもないことになりそうだと言いつつ笑っていたな。期待もしていたんだろう。あの人は当方を本当の息子のように扱ってくれた。ふふ、俺もそう思っていた。」
しんみりとしつつ、なぜか蓮はどこか嬉しそうで。ぼうっと見上げていた杷子は急に目が合ってドキッとしてしまう。
「利用されたことは悔しいが、師父は死んだことを悔やんではおらんだろうな。だから当方も惜しむことはしない。……とはいえ、心残りができてしまった。お前さんといるとそう、思ったんだ。」
笑っているのにどこか泣きそうな表情。杷子はむくりと体を起こして、蓮を抱き締めた。
「……俺にも、唯一ができたと。そう、伝えられたらよかったのに。」
諦めたような声。蓮はあまり泣くことができない。心が泣いて忘れることを許容しないのだ。
だから、杷子は支えるように蓮を抱き締める。そうできる立場にあるのが幸せだと感じながら。
この関係はわかりやすい甘さは孕んでいない。だけど、自分たちの舌では確かに甘くて、求め合える距離感でちょっとずつ進んでいくのだ。足りないものを埋め合うように。軽口を叩き合いながら。
以上、Throatの最終話からエピローグまでのお話、『lemonade』と『custard』でした。
ここまで付き合ってくださった皆々様、誠にありがとうございます。
次は本編の最終章が始まります。本編は年末から年明けくらいに完結予定です。始まりはlemonade、custard後の春から。
では、3章『Heart』にて桜舞う季節にまたお会いしましょう。今後ともよろしくお願いします。