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custard  作者: 洋巳 明
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7話 池田杷子


「わかってはいたけど、鬼崎さんって目立つとね。」

 いつもより大きな荷物を持った『』は辟易とした顔で隣に立つ男を見上げた。いつもの和装は悪目立ちする。それに真っ赤なざんばら頭も目立つどうにかしてくれ、と頼んだ。

 すると彼は今日は洋装で、流しっぱなしの髪を編んだ姿で来てくれた。うん、それはありがたい。いつもよりも一般社会に馴染む姿だろう。しかし。

「私が席外した隙に何回声かけられた?」

 普段よりも威圧感がないせいか、いわば普通に“イケメン”みたいな。認めるのが非常に癪だ。癪なのだが、隣の男は整った顔立ちをしている。

「なんだ?妬いているのか?」

 指摘すれば必ずこう揶揄われることはわかっていた。『』はニヤつく蓮を軽く殴ってため息をつく。

「地元やけん、あんま目立ちたくはなかとに……。はあ。」

 憂鬱な『』と裏腹に、蓮はいつもよりもご機嫌である。旅行などは今まであまりしたことがなかったらしい。それは少し意外な事実であった。

「あとはしばらく電車に乗って、そこからバスに乗り換えやね。あー、ほんと地方って面倒。」

 空港から駅まで歩いて電車を待つ。これから1時間程度電車に揺られることになる。この不便さ、非常に久しぶりの感覚だ。目的地に行く乗り物でなければそこに行き着けないのは。

「『』はこの辺の出身なのか?」

 電車の中で隣り合って座るとすぐに蓮に尋ねられる。もう渋る必要はないだろう。『』は静かに頷いた。

「そう。何もなかやろ?私の住んでたところはもっと何もなか。」

 電車が動き始めた。ガタン、ゴトン。レトロな音と振動。

「どれくらい帰省してなかったんだ?」

 帰省。その言葉を『』は鼻で笑った。

「中3のときに『異能』が発現して以来一度も。……ここに、私の帰る場所なんてなかけんね。」

 蓮がじっとこちらを見ている気配。『』は諦めたように目を細める。

「知りたい?つまらん私の話。暇潰しくらいにはなるかもよ?」

 躊躇いもなく蓮は頷いた。物好きな男だ。『』は流れる景色の緑の多さに呆れながら話し始めた。


 池田杷子。名前の由来は“亜子”をもじっただけ。母親の無関心がありありと現れているようだ。

 地方でそこそこの人気を博したアイドルであった杷子の母親は、あるとき華やかな世界からフッと姿を消した。理由は妊娠したから。元々痩せ型でもあった彼女は妊娠に気づかず、つわりもストレスによるものだと思ってしまったらしい。気づいた頃には堕ろせない月齢。かつ、父親もわからない。

 事務所は面白いほどにあっさりと母親を日陰者にした。都会に進出して、人気が落ち目だったこともそれに拍車をかけた。

 アイドルを志したときに母親は杷子の祖母に勘当されていたらしい。そんな、踏んだり蹴ったりの状況の中、杷子は産まれてきた。

 スキャンダルを恐れた母親は古巣へと帰り、また地道に芸能界へ返り咲くことを目指した。彼女の頭の中に、娘の存在はほとんどなかったのだ。

 母親は本当に最低限しか杷子と関わろうとしなかった。挨拶もなければ事務的な連絡すらほとんどなく、杷子が小学校に入った頃からはお金を置いていくだけで家にも帰って来なくなった。

 褒めて欲しくて得意だった運動を頑張った。母親の分もご飯を作って待ったりしてみた。好かれたくて人に好かれるような振る舞いを覚えた。でも、全部無駄であった。そもそもこちらを見る気のない人間にそんなことは何も意味をなさない。

 だけど、その中で杷子は自分が得意なことを見つける。中学生になって、友達と一緒に入った陸上部。髪をばっさりと切って、ストイックに速さを求めると、みんな褒めてくれた。それが嬉しくて部活に打ち込むようになった。共に走る仲間は、母が与えてくれなかった何かを埋めてくれるようで。

 だから、純粋に願っただけなのだ。みんなの力になりたいと。もっとみんなと上を目指したい、と。

 それは歪んだ形で叶った。『異能』が発現したのだ。

 すぐに異局から連絡が母親の元に入った。職員は杷子と母親に向かって『異能』についての説明をして、丁寧にこれから先の話をしてくれた。彼らに非はない。しかし、話を聞きながら杷子は冷や汗が止まらなかった。隣に座る母親の目に宿った光が。


「では、杷子は引き取ってもらえるんですね?」


 職員はきょとんとしていた。母親の声に混じった安堵。その残酷さに杷子は吐きそうになった。

 可愛いと思ったことがなかった。気の強さしか褒められるところがない。それはきっと、『異能者』だとかいう訳の分からないものだったからだ。

 そんなふうなことを言われたような気がする。もう、覚えていたくなかった。

 中学を卒業すると同時に逃げるように家を出た。あの女と同じ空間でいる時間を1秒でも短くしたかったから。

 それからは更に取り繕うようになった。訛りの出にくい敬語を誰にでも使い、分け隔てなく優しくした。告白を断ることもなかった。誰かに拒絶されることがとにかく怖かったのだ。

 だけど気を許した相手にはつい、素を晒してしまって。最初は気にしない、と言ってくれたのに、それに油断して安心してしまうとすぐに「思っていたのと違った。もっと、可愛いと思ってたのに。」と。

 それらの積み重ねで杷子は頑なになった。気が強く見られやすいらしい方言は更にひた隠しにして、表面上の付き合いで済ませるようにした。そうすると、まだ息がしやすかった。


「……それでこんな面倒な人間が出来上がり。」

 『』は自嘲するように笑った。

「事の発端は全部お母さん。ずっと拗らせてここまで来た。あはは、くだらんやろ。」

 蓮はうんともいやとも言わなかった。ただ黙って『』を見つめて、疑問に思ったらしいことを訊く。

「そこからどうやってお前さんは特務課に入ったんだ?元は榊先生の警護担当だったんだろう。」

 確かにそこは話していない。少し苦い思い出だ。『』は蓮の方を見ないようにしながら口を開いた。

「榊先生の警護についとるときに、催涙ガス使われて先生の位置がわからんくなった。それで、予測で広範囲に『異能』使ったら、先生に怪我させてしまったんよ。」

 『異能』で惣一を狙った犯行グループを一網打尽にできたものの、それによって彼に怪我をさせた。惣一は守ろうとしてやってくれたことなんだから構わない、と言ってくれたのだが、自分の『異能』に対する造詣の浅さをわかっていながらも放置していた『』はもうここにはいられない、と辞表を出したのだ。

 それを止めたのが惣一。辞める前に一度、忠直の下についてみて学び直してはどうか、と。

「怪我させた張本人にそう言われたら断れんくて。それで、課長に会って話を聞いてもらったと。君さえ良ければ、って言ってもらえたけん、どうせ行くところもなかしお世話になることにした。それだけよ。」

 大人しく話を聞いていた蓮が忠直の名前にくすりと笑った。大方、昔から過保護なのは変わらん、とか思っているのだろう。それを横目で見て、『』はため息をついた。

「でも、どこに行っても私、迷惑かけよる。……所詮、人間なんて変わらんとやろうね。」

 窓の外を流れていく景色は呑気なものだ。晴れた空も広がる海も別に今の憂鬱さを吹き飛ばしてくれるわけではない。それでもぼんやりと外を眺め続ける『』を見ながら蓮は口を開いた。

「それでも変わろうとすることを卑下にしなくていい。自分の愚かさすら見つめ直そうとしない人間はより惨めだ。」

 『』が蓮の方を見ると、彼は何もかも見通したような顔でいつもの不敵な笑みを浮かべている。きっと、今からどこへ行くかもわかっているのだ。

「何か変わるかな、今更。」

 ぼやくように言うと笑い飛ばされてしまった。彼の言わんとすることはわかったので『』はフン、と鼻を鳴らす。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。時折止まりながら、それでも電車は進んでいく。蓮と『』はぽつぽつと言葉を交わしながら、ただひたすらにその揺れに身を任せた。


 2人が電車を降りたのはこの都市の中心部。緑ばかりだった道中と打って変わって、この辺りには高いビルもちらほら。それでもその奥に山が臨めるのがご愛嬌といったところか。

「予想より早く着いちゃった。一旦ホテルに手荷物預けて、それからどうしよう。鬼崎さん、何か行きたいところある?」

 『』は時計を見て、蓮を見上げた。突然話を振られた蓮は少し悩む様子。特に何か予定があったわけではないのだ。それに彼には土地勘もない。話を振られても困るか、と思って謝ろうとした『』に蓮はへらりと笑いかける。

「それならお前さんの好きだった場所に行きたい。さっきはお前さんの辛かった話しか聞いていないからな。」

 予想外の返答に目を丸くする『』。好きだった場所。もう10年近く経っているので街はガラリと様変わりしていると思うのだが。

 しかし『』の中でも別に計画があったわけではない。おずおずと頷いて、とりあえず荷物を置きにホテルに向かった。


 蓮と共に歩いた街はやはり自分の知らないものも増えていた。元々あったものを覚えていないことは寂しくもあったが、その中でもきちんと残っているものもあって。

「わ、懐かしい。これ。」

 何気なく立ち寄った雑貨屋で『』は立ち止まった。彼女が目に留めたのは。

「ポッペンや。」

 薄いガラスで作られた玩具。後ろから彼女の手元を覗き込んだ蓮はポッペンという名前ではピンと来なかったらしく、物を見てああ、と頷く。

「ビードロのことか。これが懐かしいのか?」

 『』は手元の小さなそれを眺めながら遠い思い出に浸るように口を開いた。

「うん。唯一、うちの母親でいい思い出かもしれん。」

 へえ。蓮は興味深いというように『』を見る。彼女はいつになく優しく微笑んでいた。

「お祭りのときに出店でこれが売っとって、お母さんにせがんだんよ。どうしても欲しかったんやろね。そしたらちょっと笑って、呆れたように買ってくれた。……私がうるさかったから買っただけやと思うけど。」

 最後は自嘲気味に締めたが、彼女にとってはいい思い出であったらしい。そうか、と静かに言って蓮は目を細めた。


「……なんだかんだ、私の方がはしゃいどった気のする。」

 最後に小休止として入ったカフェで『』は不貞腐れたようにそう言った。軽く頬を膨らませてみると蓮はけらけらと笑う。

「なに。俺も楽しんでいた。お前さんの表情がころころ変わる様は珍しくて可愛らしかったぞ。」

 揶揄われると更にムッとしてしまう。だけど、この感じは久しぶりで少しは嫌な気分も紛れた。

「にしてもそうか。10年ぶりの地元は楽しかったんだな。」

 不意に、しみじみとそう言われて『』はきょとんとする。まあ、確かに楽しかったが。蓮は微笑みながら頼んでいた温かいコーヒーに手を伸ばした。

「お前さんがこちらのことを話すとき、終始堅い表情だったからな。こっちには全く幸せな思い出がないのかと不安になった。しかし、そういうわけではなかったらしい。」

 その言葉は『』の心に刺さる何かがあった。彼女は目を伏せて、ゆらゆらと柔らかく揺れる紅茶の液面に視線を逃した。

「……余計なお世話。」

「おや、余計なお世話をする者を同伴者に選んだのはお前さんだぞ。」

 ちょっとした嫌味にはもう顔色ひとつ変えてくれない。その感覚も今となってはもう悪くなかった。

「そろそろ時間やね。私1人で行く。鬼崎さんは来んで。」

 それは事前に話していたことだ。蓮も何も言わずに大人しく頷いた。

「『』。」

 未だに認識できないそれに『』は振り返る。蓮はいつものように不敵な笑みを浮かべていた。

「行ってらっしゃい。」

 言外にちゃんと戻ってこいと言われている。それが伝わって、『』は肩をすくめて返した。


 母親の居所は知っていた。どうしても様々な手続きに保護者という存在が不可欠だったから。

 名義だけを借りて、成人してからはこちらから縁を切った。彼女の名義がなくとも生きていけることには安堵感と悔しさを感じたことを覚えている。

 バスを降りて、幸せそうな住宅街にたどり着く。自分と2人で暮らしていたときはもっと寂れた場所にいたくせに。悔しいと感じることが情けなくて『』は顔を顰めながら歩き出した。6月の風は生ぬるく肌を撫でていく。

 調べたところによると、バス停からそう遠くない位置にその家はある。ひとつひとつ表札を確かめるたびに変な緊張感が走った。違うとわかると安心して、会いたいのか会いたくないのかわからないな、と自嘲気味に笑う。

 そんなことを続けて数軒目。あるクリーム色の家。表札が筆記体でパッと見は読みにくくて、『』は立ち止まって目を細めた。


(……S、A、I……。)

 

「お姉さん、ここで何しよっと?」


 『』の肩がびくんと跳ねた。不意に少年の声が耳に届いたから。

 恐る恐る声の方向に視線を落とすと。


(……あはは、あの人に、そっくり。)


 『』はにこりと微笑んでしゃがみ込む。彼女の顔を見た少年はほんの少したじろいだようだった。

「こんなところに突っ立っててごめんね。君のお母さんに用事があるんです。できれば呼んできてもらえますか?『』って名前を言えばすぐにわかると思います。」

 これで、わからないと言われればそれまで。むしろそちらの方を望んでいるかもしれない。

 少年は素直に頷くと、ぱたぱたと走ってドアを開けて、「おかあさーん」と大きな声で言いながら家に入っていった。何も気にせずにその呼称を使うことを許されているんだな。

 それから彼女が現れるのにそう時間はかからなかった。息を切らしていて、明らかに慌てた様子。ああ、ほんと、嫌になる。


「杷子!」


 何度もあの人が呼んでくれていたのに、聞き取れるのはこの女の声なのだ。思わず顔が歪んだ。

 

「お久しぶりです。お元気そうで何より。」


 母親は記憶の中よりも幾分も歳を取っていた。当たり前だ。なのに、昔よりもきつみが落ち着いていて柔らかくなったという事実に心の中に湧き上がる何かがあった。

「……大きくなったとね。一瞬わからんかった。」

 母がフッと微笑んだ。その表情に絆されそうになって、グッと拳を握りしめる。

「急にどうしたと?時間があるとなら」

「特に時間を取らせるつもりはありません。ただ、私の名前を呼んでいただければそれで終わりです。」

 ピシャリと遮ると悲しそうな顔をされた。それがどれだけ残酷で、どれだけこちらの心を抉るのか、この人はわかっていない。

「……名前?杷子。池田、杷子、やろ?」

 頭の中が冴えていく感覚。ああ、本当に残酷。『杷子』は歯を食いしばった。

「何。あんた、危なかことに巻き込まれとっちゃなかろうね。」

 眉を顰められてイラッとした。この人はこちらのことを本気で心配しているわけではない。昔の罪悪感から逃れるためにこうしているだけ。

「ありがとうございます。用は済みました。」

 ぺこりと頭を下げて踵を返した。これ以上ここにいるとたぶん、冷静でいられなくなる。『異能者』だとわかったら安心した顔で捨てたくせに。その類の怒りが沸々と胸の中に湧き上がっていた。

「杷子、待ちなさい!」

 だから、素早く歩き去ろうとしたのに腕を掴まれる。力はそこまで強くないのに杷子は立ち止まってしまった。本当に今更、今更だ。

「私、ずっと後悔しとったと。今ね、再婚して、あんたの弟に当たる子がおってね。」

「もう喋らんで!」

 耐え切れずに大きな声を出してしまう。どうにか涙だけは流さないように堪えて、唇が震えた。

「今まで、本当に」

「あんたは私に謝ることで全部清算したことにしたいだけや!わかっとるよ、だって私がそういう小狡い女になったもん。」

 萎縮した母親を見て、悔しい気持ちでいっぱいになる。たぶん謝ろうとした彼女の真意のほとんどは罪悪感。でも、その中にほんの少し、本気で杷子を想う気持ちが見えてしまったから。

「…………もうよか。よかと。会いに来てごめんなさい。あんたは全部忘れた顔して今の家族と幸せに暮らせばいい。」

 何も言うつもりはなかった。本当に淡々と済ませるつもりだったのに。

「謝るなんて都合のいいことさせん。私はもう、金輪際会いになんて来ん。……それで、よかやろ。」

 腕を掴む力がフッと弱まった隙に振り払う。嫌な気分だ。たぶん、母親は被害者の顔で傷ついている。まるで悪者にでもされた気分。

 杷子はそのまま歩き出した。彼女は一切振り返ることはしなかった。ひたすらに歩いて、角を曲がって、もっと歩こうとして立ち止まった。

 ここは比較的高いところにあって、立ち止まったところにあった少し広めのスペースに置かれていた小休止用のベンチ。そこからは下に広がる街が一望できた。

 沈む夕日と海と山と住宅街。それくらいしかないところだ。それだけは昔から変わらない。嫌なことがあっても慰めくれる人がいない中、よく見ていた景色だ。


「……うっ、ッ、あぁぁ……。」


 もう耐え切れなかった。母親の前では耐えた涙が決壊してボロボロと溢れる。誰も通らないことをいいことに子どもみたいに泣いた。恥ずかしいのに、そうしないと何かが壊れてしまいそうだ。

 2度と会わない。母の顔は記憶の中よりも幾分か優しくて、歳を取っていた。和解の道もあっただろう。全部もういいの。私は幸せです。そう言うこともできた。

 でも、嫌だった。母に会う前に出会った少年は愛されている顔をしていた。あの人は自分の子を愛することができるという事実が残酷すぎたのだ。心に刺さって、抜けない。

「うっ、っく。ひっく。」

 蹲って、小さな子どものよう。誰も頭を撫でてくれないことはわかっている。もう立ち上がらなければ。


「……杷子。」


 そう、思ったのに。その声は一段と優しかった。何も考えずに杷子は蓮に飛びついた。


「……ッ、なん、で、あんたが、いるのよ。」


「お前さんが意地っ張りだからだ。」


 蓮が包んでくれたことをいいことにわんわん泣いた。子どもみたいに甘えて、落ち着いた頃にはすっかり辺りはオレンジ色に。

 顔を上げると、ふふ、と笑われてしまった。恥ずかしくて不貞腐れながら離れると、ハンカチで顔を拭われる。

「……思いっきり泣いたの、初めて。」

 杷子の声は少し枯れていた。彼女は気まずそうに目を逸らしている。

「そうか。よく、頑張ったな。」

 よしよしと頭を撫でられて、杷子は不貞腐れながらも拒まない。蓮は彼女の顔がどこかスッキリしていることに気づいていた。

「……あの人、幸せそうやった。再婚したんだって。」

 不満げな口調。だけど、泣いたおかげか、さほど傷ついている様子はない。

「それが、許せんかった。もう“大人”なのにね。あの、男の子の愛されてる顔が憎くてたまらんと。私、きっと子どもの頃あんな顔しとらんかったもん。」

 蓮は何も言わない。微笑むでも苦しむでもない表情を静かに浮かべてくれている。こういうときにその場凌ぎさえしてくれないのは優しくない態度のはずなのに、それが1番楽だった。

「あはは、娘捨てて得た幸せってどんな感じなんやろうね。…………ごめん、わかっとる。私を産んだとき、あの人も子どもやったんやもん。あの人だけ、責めんのはおかしかよね。」

 また涙がぶり返しそうだ。そうなれば、また蓮が甘やかしてくれる。だけど、今はそれに溺れたくなかった。苦しくていい。純粋に、そう思ったのだ。

「あー。あほらし!あんな人の言葉にずっと縛られとったなんて。」

 蓮に背を向けた杷子はぐーっと背伸びをした。柔らかく息を吸って、長く吐く。

 母親のことで言い訳をし続けていた。あの人に苦しめられたのだから、自分は不幸で当然なのだと。でも、もう駄目だ。そんなことをしていては自分を見てくれる人と向き合えない。

「不幸に縋るのも、取り繕うのももうやめる。1番くだらんかったのは私や。ねえ!」

 そう言って杷子はくるんと身を翻した。不意に見上げられた蓮はん?と反応して片眉を上げる。

「鬼崎さん、私の名前、呼んでくれん?」

 ああ、そうか。もう認識できるようになったんだな。そう微笑みながら、蓮は口を開いた。

「杷子。」

 その声が届くことに杷子の表情が綻ぶ。それは今までで1番綺麗な笑顔だった。


 夜、ホテルに着いて食事を摂った後に携帯を確認すると、忠直から端的に『明後日は局で待っている。お疲れ様、池田。』という連絡が届いていた。それだけで彼が自分のことを思い出してくれたことを察して少し嬉しくなる。やはり、忘れられるというのは寂しいことだった。

 風呂を出て、ぼんやりと歩いていると酒の自販機が目に入る。そういえば、この件が始まってから不思議と飲んでいない。それに、今日は蓮がいる。そう思うと自然に缶ビールを2本買っていた。

 コンコン、と蓮の部屋のドアをノックする。彼も風呂だっただろうか、とよぎったがすぐにドアは開いた。彼はいつもの和服姿で、そちらの方が見慣れているはずなのに石鹸の匂いがして、不思議と色気があって。

「どうした?」

 すぐには答えられなかったことに赤面する。見惚れていた、と気づかれる前に杷子はずい、と彼に缶ビールを押し付けた。

「……飲まん?」

 ああ、と蓮がはにかむ。彼は特に何の抵抗もなく杷子を中に引き入れた。

 蓮の部屋は間取りが自分とは逆で、外を臨める窓がついている。1人用の部屋だ。椅子が一脚しかなかったので、杷子はベッドに腰掛けた。

「缶ビールは久しぶりだな。」

 買ったばかりなのでまだ冷えている。乾杯はしなかった。好きなタイミングでカシュッと景気の良い音が2つ。

「鬼崎さん、普段は焼酎か日本酒しか飲まんもんね。」

 蓮が缶を持つ姿は珍しい。いつもはお猪口かグラスだ。そう思いながら揶揄うように言うと、顔を顰められる。

「お前も似たようなもんだろうが。」

 杷子は別に酒の種類にはこだわりがない。強いて言うならば度が強い方がコスパよく酔える。以前、そんな話をすると呑兵衛だな、と呆れられた覚えがある。

 酒の強い2人にとって、缶ビール1本ずつは少々物足りない量。でも、今日はそれでよかった。ぼんやりと窓の外を眺めながら無意識に2人とも重たくない話を選ぶ。


「戻ったら、仕事かあ。そういえば鬼崎さんは頭目の仕事どうしてたん?ほら、半失踪状態やったやん。」


「はは、うちには優秀な右腕がいてな。」


「石原さんに迷惑ばっかかけんとよ?私、結構愚痴られよったけんね。」


「そうなじるな。昨今は便利な物が多い。別に職場におらずとも仕事はできる。」


「ふーん。じゃ、仕事の片手間に女の人誑かしとったってことね。」


「……あの兄ちゃん、どういう伝え方をしたんだ。」


「綺麗なお姉さんと2人っきりでいられる場所にいたよ、って教えてくれました。……ふーん、早岐さんお得意の冗談じゃなかったんだ。」


「まあ、昔馴染みの店ではあった。匿ってもらった形でな。勘違いをしないでほしいが、俺は約束を破っとらんぞ。」


 じ、と蓮に睨むように見られた。ぼーっと心地よくテンポだけで会話していた杷子はその言葉に現実に引き戻される。約束?

「は?覚えとらんのか?お前さんに稽古をつける間、お前さんしか相手にしない、そう言っただろう。」

 呆れたように言われて杷子は目を見開いた。

「は!?それ、私に手出す場合の話やろ!?結局ほとんどそういうことしてなかとやけん、守る必要、ない、やろ。」

 最後の方は尻すぼみに、かつ目は逸らしがちになってしまう。前提条件が違うので約束としては成り立たない。それは、間違っていない。だけど、自分の気持ちとしてそれを律儀に履行してくれていたことが嬉しいような。

 カン、と軽い音。蓮はいつの間にかビールを飲み干していたようだ。立ち上がった彼はギシ、と音を立てて杷子の隣に腰掛ける。

「なるほど。お前さんとしてはその約束は“手を出す場合”に守ればよかっただけ、だったんだな。」

 あれ。これ。杷子は目をぐるぐるとさせながら缶を両手で握りしめる。

「……も、もしかして、鬼崎さんの求婚癖がなりを潜めてたのって。」

 蓮には気に入った人物を口説いて求婚する癖があった。しかし、最近はあまり見かけることのない行為になっていて、人から話を聞くだけになっていたのだが。

「そうだな。お前さんとの約束を守った結果だ。」

 距離が近い。そう感じた。蓮はあえて一定の間隔を空けて座ってくれているはずなのに。

 どうしよう、が1番に頭に浮かんだ。非常時だ。そんなことを考えている場合ではない。馬鹿なんじゃない?と揶揄えばいつもの雰囲気に戻るだろう。そうするべきだ。

 でも、今はれっきとした休暇中で、ちゃんと有給使ってるし。それに、自分は、目の前のこの人と。

 全ての葛藤を洗い流すように、一口分だけ残っていたビールをぐいっと煽って、缶をベッドサイドのテーブルに置く。もう、こうなったら勢いだ。


「……じゃあ、いいんじゃないですかね。」


 くい、と蓮の袖を引く。あまり顔は見ないように。どうせ、いつも通りの不敵な笑みが見えるだけだろうし。


「いい度胸だ。」


 ギッと、ベッドが鳴った。肩を押されて視界がぐるんっと回る。蓮にこうして見下ろされるのは前にもあったような。あのときはもっと剣呑で、お互いに少しの嫌悪を持ち合わせていた。

 今もそれはあまり変わらない。変わらないはずなのに。

 額にキスされた。柔い。抱き着くと温かくて、なんとなく安堵する。体を離して見つめ合った。顔が近づく。相手が男性であれば誰でもそれに嫌悪感を覚えて固まる時間が存在したのに、この人に対してはもうあまりそういう機能が働いてくれない。嫌じゃない事実に心臓が跳ねる。あ、触れる、そう思った。

 

 ピリリリリリ ピリリリリリ


 ……杷子の携帯だ。


「……ッ、間の悪い!!」


 蓮を押し退けて羞恥心を紛らわすように大きな声を出した。現実に引き戻されると非常に恥ずかしい。震える手で携帯を持ちながら、電話に出る。


「はい!池田です!」


『おわ、びっくりした。もしもし。ごめん、なんかタイミング悪かった?』


 聞こえてきたのは親愛の籠もった宵人の声。杷子の胸は安堵感と悔しさと恥ずかしさとちょっとのがっかり感でないまぜになった。


「いいえ!まったく、問題、ないです!」


『……ほ、本当にすみません。』


 しゅん、としょげた声。たぶん心配してかけてきてくれたのだろうが、その気遣いが今は違う意味で刺さる。辛い。


『あ、あー、でも、元気そうでよかった。その確認をしたかっただけなんだ。ほんと、それだけ。……ごめんな。』


「……いえ。こちらこそすみません。心配してくださってありがとうございました。」


 最後の言葉が少し嫌味っぽくなってしまったことはもう許してほしい。とりあえず今度彼の好きな檸檬味の何かを買ってお詫びをするから。

 プッと電話が切れる。恐る恐る蓮の方を見ると、押し退けられた彼は口元を押さえて押し黙っている。気まずいのだろうか、それとも怒って?


「ぷっ、あははは!」


 どちらも違った。この男、吹き出しやがった。


「わ、笑うな!!めちゃくちゃ勇気振り絞ったのに!馬鹿馬鹿馬鹿!!」


 真っ赤になってべしべしと肩を殴る杷子とツボに入ったらしく笑い続ける蓮。

「ははは、悪い、さすがにタイミングが良すぎるな。くっくっ。」

 もう笑いたきゃ笑え。なかなか落ち着かない蓮に対して拗ねたように杷子はベッドの隅で丸まった。

「ふふ、すまん。拗ねるな、杷子。」

 頭をぽんぽんと撫でられて杷子はギリ、と歯を食いしばる。恥ずかしさと悔しさが拮抗した変な感じが体を満たしている。

「……はは、なんだ。そんなに残念だったのか?」

 蓮もごろりとベッドに仰向けになる。背中に擦り寄られて杷子はビクッと肩を跳ねさせた。

「別に俺は今からでもできるが、もうこれはあれだな。ちゃんとした返事をもらわないまま、結論だけ急くな、ということだ。」

 する、と腰に手が回ってきて後ろから抱き締められる。ぬくい。

「なあ、杷子。俺はお前のことが好きなんだが、まだ、返事をくれる気はないか?」

 真っ直ぐに言われると弱い。なんだかんだ『好き』は久しぶりに言われたような。耳が熱くなって、杷子は拗ねたフリを続けた。

「……緩むけん、まだ言わん。」

 今更、とは思うが言葉にするのとしないのでは雲泥の差があるのだ。口に出せば実感してしまう。たぶん、この人に際限なく甘えたくなるから。それに、もう一つ。

 杷子はくるりと体を反転させた。いつの間にか2人とも真面目な顔をしている。

「全部片付いたら教える。やけん、そのときにちゃんと私の傍におれるようにしてね。」

 じっと蓮の目を見つめた。

 彼は、桂花を殺したいと言っていた。でも、それをすればさすがに庇いきれない。傍にいてくれなくなる。自分の存在がどこまで歯止めになれるかはわからないが、彼が踏みとどまるきっかけくらいには。

「……なかなか、悪い女だ。」

 約束する、と言ってくれなかったことに不安を覚える。でも、蓮の中での葛藤が見えただけで十分だ。それ以上は何も言わなかった。

 杷子はむくりと起き上がる。それに合わせて蓮も起き上がった。2人とも髪がボサボサだ。

「今日は添い寝は不要か。」

 揶揄うように笑われて杷子はムッとする。さっきまでの雰囲気が嘘みたいだ。こそばゆさがないのはいいが、少し寂しいとか。

「……それだけじゃ済まんやろ。」

 意趣返しのようにべえ、と舌を出すと蓮が意表を突かれたように目を見開く。その隙に杷子は立ち上がって自分の分の缶を持ち上げた。

「おやすみなさい。いい夜を。」

 くっくっ、と背中に笑い声。杷子は少々名残惜しさを覚えつつ、蓮の部屋を後にした。

 

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