6話 鬼崎蓮
蓮の産みの母親は整った顔立ちの人ではなかった。それでも愛嬌のある笑顔と明るさで悪い客は少なかった。彼女は『裏』で風俗嬢をしていたのだ。
桂花との出会いは偶然。まだ若く、行き場に困っていた彼を助けてあげたことがあったらしい。しばらく一緒に過ごしたのだとか。
そのうち彼女は蓮を身籠ることになる。しかし、桂花はしばらくそのことを知らず、蓮が12歳になるまでは母親と2人暮らしであった。
産みの母親と過ごした日々は穏やかだった。彼女の明るさがうつったかのように蓮も朗らかな子どもとして愛されていた。
母親が亡くなったのはとある肌寒い日。雪のチラつく夜だった。車からすれば視界が悪かったのだろう。
歩道に突っ込んできた車は彼女を押し潰した。朝、蓮が母親の客で最も親身になってくれる人物に連れられて会いに行ったときは顔を見ることができなかった。
彼女の葬式が執り行われる中、蓮はずっと泣きじゃくっていた。それが許される年齢だったのだ。だが、それが桂花との出会いのきっかけになる。
「ずっと泣いていたね、ボク。」
優しく声をかけてきたその男こそ鬼崎桂花。目と目が合った途端、互いに親子だと確信した。それは不思議な感覚だった。
天涯孤独となった子どもにとって父親が引き取ってくれることが必ずしも幸せなことではない。蓮はこのとき思い知った。
母親の遺体を引き取った。桂花はそう笑った。今ですら理解できないのに幼い蓮に彼の思考など理解できるはずがない。
「さあ、食べようか。」
だけど、それが何であるかくらいはわかった。蓮は青ざめる。目の前のこの料理は。
食べられないと拒絶すると淡々と説教をされ、折檻を受けた。必死に口に詰め込んだそれを食事の後、蓮はトイレで吐き出した。
これが親子で囲んだ最初で最後の食卓だった。
数年、血反吐を吐くような日々を送った。この頃の蓮は荒れに荒れて手がつけられない、正に名に違わぬ鬼だと『裏』の連中を震え上がらせるほど。それほどに桂花の“愛”は酷であったのだ。
そんな蓮にも救いの手があった。15歳になる年、ある女性に出会う。彼女は辛辛楼で働いていた女性で、ひどいお人好しであった。真っ直ぐな瞳、健康的で柔らかそうな体つき、朗らかに笑うその表情が母に重なって。
そういう人間は『裏』で食い物にされやすい。蓮は反抗しつつ放って置けなくて、家に転がり込む体で彼女を守った。歳の差は母よりも姉の方が相応しいはずなのに、彼女は蓮の母親の代わりをすることを好んだ。まるで幼少期の穏やかな日々が帰ってきたようだった。
彼女と過ごす中、ここで先代の『般若の面』の頭目である畑中正との出会いも果たす。彼は辛辛楼の常連で、蓮の育ての母状態になっていた彼女と仲が良く。いや、あれは両想いであったのだろう。蓮も2人の関係は穏やかに見守っていた。
正は殺意にも似た蓮の『力』の激しさを抑える術を教え、『般若』を紹介した。やっと、自分の世界が開けた瞬間であった。
そう、思っていたのに。
「20歳のときだ。もう10数年前になるのに鮮明に思い出せる。その頃の俺は既に独り立ちして、般若の世話になっていた。」
蓮の声は淡々としていた。きっと、感情が混ざればまともに話せなくなるから。『』はじっと息を潜めて彼の話に耳を傾ける。
「しばらく桂花には会っていなくてな。俺の居場所など話したこともなかったのに、奴は的確な住所に手紙を寄越してきた。」
嫌な予感が『』の背中を駆け抜けた。中身は聞かずとも何となくわかる気がしてぎゅっと自分の体を抱き締めるように膝を抱いた。
「成人祝いがしたい、と場所と時間が指定されていた。どうせロクなことではない。俺はそれを無視した。……育ての母の消息が途絶えた。そう、師父に聞いたのはその日の夜だ。」
体温を求めるように蓮が擦り寄ってくる。それを拒絶せずに『』は受け入れた。
「…………『私が不甲斐ないせいで、お前は母性を見ず知らずの女に求めたんだね。でも見なさい。処女懐胎など、現実には有り得ない。彼女はお前の母に相応しくない。』……はは、人を殺そうと本気で考えたのは初めてだった。」
蓮の声は乾いている。それがひどく悲しくて、でも『』が泣くわけにはいかなかった。聞きたいと願ったのはこちら側。ちゃんと、彼のことを知らなければ。
「その一件以来、彼女は心を病んでしまった。ゆっくりと衰えていったよ。師父がつきっきりで面倒を見ていたんだが、少し目を離した隙に。……俺は、2人に合わせる顔がなかった。」
ほんの少し、沈黙が訪れた。外を走る車の音。ふと窓の方に目を向けるとまだ空は暗い。
「それからしばらく俺は『裏』を渡り歩いた。桂花を探していたんだ。だが奴は、俺が会いたいときには現れない。そうしているうちに師父に呼び戻された。」
『』は蓮の方に視線を戻す。彼はほんの少し微笑んでいるようだ。
「戻ったらひどく怒られた。信念のないそれは復讐にすら足り得ない、と。自暴自棄にだけはなるな。一言一句違わず俺のための言葉だった。……器の大きさが違う。頭目を継いだが、一生あの人に追いつける気はしない。」
そんな人を失ったのか。思わず目を伏せると『』の頭に手が伸びてきて、わしゃわしゃと撫でられた。
「酷い目に遭っていたのはそれくらいで、後は比較的穏やかに過ごしていた。以上が鬼崎蓮の人生。安心しろ、その後はお前さんだけだ。よしよし。」
あ、気を遣われてしまった。慰められている。そう思って『』が顔を上げると、目が合った蓮の顔はどこかニコニコしている。きょとん、とする『』。その表情は気を遣われているのとは少し、違う。
「………………。」
彼の表情の意味に気づいた『』は赤面した。取り繕う間がなかったので素直な反応。みるみるうちに真っ赤になった彼女を見て、蓮はけらけらと笑い始める。
「かっかっかっ。重たい話だがな、同情はするな。奴との因縁は俺だけのものだ。落ち込むのも立ち直るのも俺次第の話。お前さんはこの話を自分の事情を考える材料にしなさい。」
あえて触れないのが意地が悪い。ずっと、蓮の方が大人なのだ。
『その後はお前さんだけだ。』その言葉が表しているのは、正亡き後、桂花に目をつけられるような相手は自分だけであったということで。間接的に口説かれているのだ。キツい話の茶を濁す目的もあるだろうが、確実にそれ以外の意味も含んでいた。
「で?満足したか?」
目を合わせられなくなった『』の顔を蓮が覗き込んだ。今日は何とも強がりな態度を取れなくて。
「したけん、ちょっと離れて。」
素直に赤い顔を晒してずりずりと蓮から距離をとった。しかし、蓮は面白がるように彼女に手を伸ばして後ろから抱き込んだ。
「ちょっ。」
「お前さんが満足したなら何より。しかし、これでは不公平だな。」
暴れて蓮の腕の中から脱出しようとしていた『』の動きがぴたりと止まる。彼女は嫌な予感を察して縮こまった。
「俺は洗いざらい話した。次はお前さんの番じゃないのか?」
耳元で意地悪く囁かれたそれに『』の表情が曇った。あまり話したくないことらしい。
「……私の話は今回の件に関係ないやろ。」
蓮の話は桂花に関わる話であって、彼の人間性を把握するのに役に立つだろう。でも、別に『』の話は蓮が聞く必要はない。今回の件にはほとんど関わらないから。
「すげないな。好きな女のことを知りたいと思うのはおかしいのか?」
顔を顰める『』。別に勿体ぶるわけではないがなんとなく知られたくない。でもあれだけの話を聞いて話さないのは不公平な気も。
「……なんてな。」
する、と蓮の手が離れていく。『』の表情を見たのだろう。再び頭の上に手が乗った。
「今日はもう疲れただろう。眠りにつくのは難しくないはずだ。ああ、そうだ。明日、忠直がもう一度家に来てくれ、と言っていたぞ。」
わしゃわしゃと撫でられる。また、気を遣わせてしまった。それに申し訳なさと安堵を覚えてしまった『』は俯く。
「というより、お前さん、なんで床で寝るんだ。体を痛める。布団を使え。」
黙っていると、不満げにそう言われてしまった。確かにカーペットがあるとはいえ、床は少々寝心地は悪い。だが、それだと蓮はどうするのだろうか。
「家主を差し置いてそんなことできんもん。私、案外どこでも寝れるし、それに今は寒い季節でもないやろ。」
6月の下旬。気温はだんだんと暑いに近づいていっているくらいだ。風邪を引く心配はない。たぶん。
「……桂花に痛めつけられたこと、俺は忘れとらんぞ。」
だがそれにはギクっと肩を震わせる。立て続けに治療を受けたため、惣一が全部は治しきれなかったのだ。背中の刺し傷は治っているが、頬や腕にはまだ絆創膏が貼ってある。
「寝らんと治らんぞ。お前さんに無茶をさせると忠直に後でこっぴどく叱られるだろうが。」
何も言い返せない。『』は少し唸って、悩んで、首を横に振った。そしてもう一度口を開こうとしたのだがはたと気づく。今回、自分の頑固さを突き通したからこんなことになった。日常生活からもっと、柔軟さを身につけるべきなのでは?と。
そして腹を括ったように蓮を見上げた。
「なら、一緒に寝ましょう。それならいいですよね?」
素晴らしく柔軟な判断だ。どちらかが床で寝る、ということにならなくていいし。
この程度の考えにしか至らない程度に疲れていることに『』は気づかない。蓮はさすがに呆れきって眉間を押さえた。
「…………非常時だぞ、『』。」
は?『』は目を見開く。
「お前さん、普段どれだけ俺が譲歩しとるかわかっとらんな。いつもならばそれでも構わんが。」
うーん、とどう言うべきか唸る蓮。もう一度考え直す『』。
しばらくして、『』が真っ赤になって叫んだ。
「……ッ、や、あの!さすがに軽率でした!!すみません!寝ます!!」
バッと立ち上がって逃げるように和室へ向かおうとする『』。その腕を蓮が掴んだ。
「寝てもいい。そう思ったのか?」
じぃっと蓮はいつの間にか真面目な顔になって『』の目を見ている。嘘は許されない。誤魔化しも効かない。そういう視線だ。
「…………聞かんでよ。」
『』は顔を真っ赤にして、蓮から目を逸らした。できれば今すぐこの場を離れたいし、確かに今のような非常時にそんなことを考えるような頭の中お花畑野郎とは思われたくなかった。
「ああ。その反応だけで十分だ。」
パッと蓮の手が離れる。やっと逃げられる、そう思ったのに。
『』が襖に手をかけたのと同時に蓮が立ち上がった気配。え。と固まるとずいっと彼の気配が迫ってくる。
「……本気?」
「言い出したのはお前さんだぞ?」
後ろから襖を開けられた。敷かれている布団がなんとなく物々しい気配を発している気がする。
「こんな非常時に、とも思うがこんな非常時でなければ素直じゃないお前さんにこんなことしてもらえるとは思えんしな。」
たぶん、逃がしてくれる。無理、と一言言えばそうか、と返してくれる。
でもそんなことをするのは卑怯な気がした。自分の心に嘘をつき続けていることがそろそろ嫌になってきたのかもしれない。
意を決したように『』は畳を踏んだ。細かい凸凹の感触。続けて入った蓮が襖を閉める音がやけに大きく聞こえた気がした。
「先に言っておくが何もせんぞ。」
彼が畳を踏む音は自分のものよりも大きい。それにドキドキしながら『』はそっと布団に横たわる。
こんなこと、呑気にしていい状況なのだろうか。半分空いたそこに蓮が入ってきたとき、なんとなく直視できない。
「……ね、寝巻きも和服なんですね。」
『』は天井を見ながらそう言った。蓮が面白いものでも眺めるようにこちらを見ている気配があったが、何か言い返す余裕はなかった。
「そうだな。こちらの方が落ち着く。」
目を瞑ってみるが瞼にまで心臓の鼓動が届いたようでなかなか寝付けない。目を瞑っては開いて、それを何回か繰り返していると蓮が笑い始めた。
「はは、なんだ。緊張しているのか。」
ぽす、と彼の大きな手が目を覆う。心地のいい温かさと暗さ。落ち着くはずなのにそわそわした。
「こ、こがんことしたことなかもん。」
拗ねたようにそう吐くと蓮が息を呑んだ気配。何か勘違いをされた気がしてすぐに続けて口を開く。
「……寝るだけ、一緒におるだけ。そんなことしてくれた人おらんかったってこと。やけん、私、鬼崎さんのこと苦手なんよ。」
スッと手が退けられた。視界がぼやけて、でもほんの少し生まれた余裕に乗じて蓮の方を向いてみる。
彼は複雑そうな顔をしていた。というか、少し拗ねている。
「なん?その顔。」
きょとんとする『』の頬を蓮が摘む。更にきょとんとする『』。
「俺と一緒にいるのに他の男の話とは。それも気になるが、お前さん、どんな奴と付き合ってきたんだ。趣味が悪くないか?」
そういうの気にする人なんだ。いつもあっけらかんと笑って、豪快に振る舞っている彼の繊細な一面を見た気がした。
「……鬼崎さんとは付き合っとらんもん。他も何も、あんたは私の男じゃありません。」
気を遣う必要はないだろう。そういうふうに悪戯っぽく笑うと、蓮は眉間に皺を寄せた。
「意地が悪いな。趣味も意地も悪い女か。」
意趣返しのような悪口。『』は頰を膨らませる。
「そもそも添い寝だけで満足する男がおるん?あんまりああいう行為は好きじゃないけど、抱き締めては、貰える。」
最後の言葉は彼女の何よりの本質が見えた気がして、蓮はじっと黙って聞く姿勢をとる。『』はだんだんと眠たくなってきているようで、いつもの取り繕い癖が鳴りを潜めていた。
「誰かに、手放しでぎゅーってしてもらいたいときってあるやろ。……私、してもらったことがなかとよ。うちの母、私に全く興味なかったけん。」
ごろん、と寝返りを打った彼女は天井を見上げる。その目はどこか遠いところを見ているようだ。
「……あんたは抱き締めてくれるやろうね。でも、鬼崎さんみたいな人は怖い。“私”を見てるから。素やったら誰にも愛してもらえないって思うことが間違ってることを知っとる人は怖い。」
『』は目を瞑る。そろそろ限界なのだろう。
「……それなら、打算的な方が楽。趣味なんて、悪くて結構。」
気持ちなんて度外視に即物的な温もりをくれる相手ばかり選んできたのか。
そういうのが肌に合わないことは自分が1番わかっているだろうに。蓮は呆れたように笑った。
「それなら尚更、早く俺にすればいいのに。」
『』の瞼にかかる前髪を避けながら、蓮がはっきりとそう告げた。『』が寝ていないことはわかっている。
「俺は『』の師でもある。間違いは正してやろう。怖いのは知らないからだ。抱き締めて、お前さんに教えてやろう。幸い、俺は愛されて育ってきた方だ。」
『』からの返事はない。答えたくないのだろう。別に蓮も今すぐに返事を求めているわけではない。さらさらと『』の髪を撫でて、彼女が本当に眠りにつくまで黙っていた。
「うっわ、お守り付きじゃん。お嬢様だねえ、『』。」
翌朝。遠慮会釈のない言葉。『』は目を丸くする。完全に固まってしまった『』を見た宵人が、一巳の頭を思いきりはたいた。
一晩明けて、『』は忠直の家にいた。局は知り合いが自分を知らないという感覚で不安になるだろうという忠直の配慮で、特務課の面々もここに集まってくれたのだが。
「……早岐さん、あの、私のこと、覚えているわけではないんですよね?」
名前を呼ばれても認識できなかったことで一巳も『』のことを覚えているわけではないことはわかるのだが、それにしてもあまりにも自然な対応。背後に控えていた蓮も目を丸くしていた。
「さっぱり。あんた誰?って感じだけど。」
けろりと言ってのけられて『』は思わず笑ってしまう。あまりにも一巳らしすぎる。彼らしすぎる気遣いだ。
「にしてもお前はのっけから失礼すぎるだろ!ごめんな、あー、ええと、『』。」
宵人は少々ぎこちない。でも、なんとなくその感じに安堵を覚える。2人は多分、昨夜のうちに『』への対応を話し合ってくれたのだろう。なるべく、いつも通りに近い形を装うことを心がけよう、と。
「本当に申し訳ないとは思うんだけど、課に『』のことを覚えてる人はいなかった。違和感というか、事実との些細な齟齬のおかげで、現状あんたの存在は立証されてる。」
それは昨夜の忠直の話で把握している。聡い人員が揃っていたことと、特務課が非常に人数の少ない課であったことが幸いして、この面子は『』が“いたであろう”ということを信じてくれているというかなりイレギュラーな状況。それにしてもよく信じてくれたものだ。
「それで、先にちょっとだけ俺に時間をくれる?鬼崎桂花の『異能』、視てみる。」
宵人にそう言われて『』は素直に頷いた。彼の目への信頼は言わずもがな。何かしら解除の参考にもなるかもしれない。
椅子に座らせられて、両頬に手を添えられる。じっと額あたりを視られて、ふと前髪をめくり上げられた。
「……なるほど。隠されてる、が近いかな。急に触ってごめんな。」
丁寧に頭を下げる仕草には他人行儀さが出ていて少し胸が痛んだ。ただ、メモにペンを走らせるその音と速度がいつも通りなことには安堵する。
「興味深いな。乳白色。鬼崎桂花の『力』、全く澱んでねえ。……クソ外道だな。」
視ただけでそんなことが?思わずきょとんとした『』に宵人がメモをしながら説明する。
「人間の感情だとか、精神的な領域にある『異能力』。犯罪者だと濁りやすいってのは悪いことをするときにそれだけ罪の意識を感じているってこと。罪悪感が『力』の濁りになる。だから凶悪な犯罪者は黒に近い。真っ黒なのは杉崎以来視たことないけどね。」
『力』に関する感度の高くない『』からすればそれはあまりわからない領域なのだが、宵人からすれば違いは歴然なのだろう。さも当たり前のように説明していく彼は、自分の特殊さを知らない。
「鬼崎桂花も話を聞く限り、凶悪犯罪に手を染めている輩だろ。なのに全く濁りが視えない。理解してはいけない性質の人間だ。……怖かったな、『』。」
宵人の言葉尻に本気の同情が滲んだ。『力』を視ただけでも顔を顰めているのだ。それに対峙した『』のことを考えて気の毒になったのだろう。相変わらず、優しい。
「……一巳がな、昨日、忠直さんからの報告を聞いてあんたに対してなるべく疎外感を感じないように接しろ、って言ってきたんだ。」
メモをしまいながら宵人がこっそりリビングのソファの方で暇そうに円と戯れている一巳に『』の視線を誘導する。たぶん、彼は視線に気づいているがしれっと無視している。
「はっきり聞いたことはないけどそういう経験があるんだろうな。世界の誰もが自分を無視する感覚。『』にはそういう思いをして欲しくなかったんだと思う。」
そう言って宵人はニコッと笑った。
「色々気にしてるかもしんないけど、この場にいる全員、『』の味方だから。……ごめん。なんか胡散臭いな。」
言ってみてから宵人が照れる。その照れ笑いに少しホッとして『』も微笑むと、和やかな雰囲気が流れた。
「うわ、こいつ新婚のくせに部下口説いてる。信用しない方がいいよ。」
それを破る声。一巳だ。
「口説いてねえよ!仕事してたんだよ!」
言い返す宵人。今のは、わざと乗った。
「あーあー、ムキになる方が怪しいよねえ。『』、こいつには気をつけな。」
いつもと同じ流れ。2人の気遣いが沁みるようだ。ただ、聞いているうちにだんだん2人だけでエスカレートしていく。あれ?これ普通に言い合ってる?
「御厨、早岐、そろそろいいか?」
そのくらいのタイミングで忠直が割って入った。いつの間にか机の上には全員分の資料を揃っている。ついでにコーヒーも。
「とりあえず座れ。『』、今回の件について説明願えるか。」
忠直も、いつも通りだ。こくん、と頷いた『』は詳しく昨日起こったことを説明し始めた。
自分の知っていることを全部話すと、1番目を見開いたのは一巳だった。本来彼と組んでいたのだから、今回最もこの事態の違和感を感じたのは彼だろう。
「マジか。『』、服につけてた通信機ある?」
そういえば、一巳と繋がっていたはずの通信が昨日は音沙汰がなかった。『』は頷いてワイシャツにつけてそのまま持ってきていた通信機を取り出す。
「げ、な、なんすか、その血塗れのシャツ!?あんた大丈夫なのかよ!」
『』の口頭での説明で怪我の度合いがわからなかったらしい円がワイシャツを見て目を剥いた。確かに酷い有様である。命を落とさなかったのは惣一のおかげだ。
「すぐに榊先生の施術を受けたので大丈夫ですよ。あ、そういえば先生って。」
今日も会うことになるかと思っていたのに惣一の姿はない。それに答えたのは忠直だった。
「悪い。あれであいつは忙しい奴なんだ。ただ、伝言は預かっている。」
昨日の今日で仕事か。人のことは言えないが忙しい人だ。大丈夫だったのだろうか。
「心配をしてくれているんだな。言い方はよろしくないが、あいつはこういう事態に巻き込まれることには慣れている。平気だ。」
安心させるために言ってくれたのだろうが、『』は苦笑いを浮かべる。こういう事態に慣れざるをえなかったとは難儀な人だ。
「そういえば榊さんにはもう桂花の気配を感じませんでしたね。名前を呼ぶ。それがきっかけになったって聞きましたけど。」
宵人の言葉に忠直と『』が頷いた。昨日、惣一のことを覚えていた忠直が彼の名前を呼んだ途端、『』は惣一のことを思い出した。桂花の『異能』の解除の条件はたぶん、“自分のことを覚えてくれている人が名前を呼んでくれること”。
「『』のことを覚えてる人、ねえ。恋人とかいた?」
軽い調子で聞かれて『』は少し赤面する。背後の蓮の気配はピクリとも動かないので別に何も思っていないらしい。別にいいけど。
「恋人はいません。それで、1番親交が深かったのはその、御厨先輩だったんです。」
はあ?と一巳の眉が釣り上がる。やっぱり浮気か?と言わんばかりに睨みつけた相棒の顔は渋い。宵人も覚えていないので申し訳なさと全否定できない葛藤に駆られているのだろう。
「御厨先輩とは決して、そういう仲ではなかったので安心してください。ただ普段は1番お世話になってたんですよ。」
間違ったことは言っていないのに変な空気になってしまった。とりあえず、という感じで納得してくれた一同。しかしその中で1人、首を傾げる人物。円だ。
「え。あの、なんで恋人が最初に出てくるんですか?」
前提に違和感を感じたらしい彼は一巳の方を見ている。円が何を言いたいのかわからない、というように彼は肩をすくめて続けるように示した。
「普通、こういうときって家族の方が近いもんじゃないんですか?だってほら、榊さんにとっての永坂先生って家族なんでしょ?」
普通という言葉に一巳が顔を顰める。忠直もそういえば、という顔で『』の方を見た。
「柴谷の言うことは一理あるな。悪い、あまり考えになかった。君の両親や兄弟はご健在か?」
全員の注目が『』に向く。それは、あまり触れられたくなかった点だが訊かれた以上、答えざるを得ない。
「母は、います。あまり会っていませんが。」
『』の微妙な反応を察したのだろう。宵人と一巳が同時に口を開こうとした。しかし、忠直がそれを遮った。
じっと彼の目が静かに『』を見定める。ひたひたしていて、静かで、綺麗な。
「君は、母親のことが嫌いか?」
『』の目が濁った。弱いところを突かれたように彼女の雰囲気が萎れる。宵人が茶を濁そうと口を開きかけたが、一巳がそっと制した。必要な決断だ。
「榊の伝言は、この課に君を覚えている人間がいない以上、その人間が前向きな感情を抱いている人間が覚えているとは限らない、だそうだ。つまり、嫌いな人間も該当する。」
『』が震え始めるのを見ても誰も何も言わない。見ないフリではなく、ただ見守っているのだ。
「どんな意味合いでもいい。君の心を最も席巻する人物。それに、心当たりはあるか?」
完全に俯いてしまった『』。目を背けるのは、心当たりがあるから。
「……そうか。」
答えない『』を見て頷いた忠直は手帳を取り出す。彼はしばらくそれを見つめ、日付を見ながら口を開いた。
「蓮。鬼崎桂花は次にどう動くと思う?」
会議の間、ずっと黙っていた蓮に矛先がいく。蓮は片眉を上げて、壁にもたれかかっていた姿勢を正した。
「『』、それに早岐の兄ちゃん。ワタナベアスカについて覚えとるか?」
『』も一巳も頷く。アスカに関してはまだ忘れていない。つまり、桂花が彼女を消していないのだ。
「であれば、彼女を脅しに使うだろうな。恐らく『』宛に何かしらあるはず。ただ、桂花に負わせた傷は浅くない。奴が動くとしたら最低でも1週間はかかるだろう。」
まだわりと猶予はあるらしい。それには素直に安堵した。
「なるべく奴が手傷を負っている間に片付けたいですね。ただ、探し出すのは容易じゃない。『裏』には『裏』のルールがある。あんまり局の統制の及ばない場所ですから。」
宵人の言葉に頷く一同。強いて言えば蓮は動けるのだが、彼は局の外の人間で、『』から目を離せない。
「早く片を付けたいのはあっちも一緒だと思うけどね。人は慣れる生き物だ。時間をかけすぎれば『』が新しい名前で生き直そう、と考えなくもない。職場に関しても課長にかかれば1人分の席くらい余裕で確保できるからね。」
しれっと難題を言い放つ一巳に顔を顰めつつ、忠直も頷いた。最終的に結論としては。
「桂花に関しては捜索をしつつ、あちらの出方を窺う形になるな。御厨、お前の目で追えるところまで追ってくれ。」
頷く宵人。まだ痕跡は残っているだろう。どこへ逃げおおせたのかまではわからない可能性が高いが。
「それで『』。君に関しては別行動だ。桂花の捜索はこちらが担う。」
忠直の視線が『』に向いた。別行動。そもそも局に戻る予定ではなかったので、これからはどうしようか、と思っていたところではあったが。
「『』、君に2日の暇を出そう。」
忠直は淡々とそう言ってスッと目を細めた。何か含みのある表情。
「どう使うかは任せる。その方がいい気がするんだ。」
『』はドキン、と心臓が跳ねるのを感じた。決定的なことは言われていないのに、忠直によって2つの選択肢が与えられたことを察する。たぶん、彼はどちらでもいい。
「では時間が惜しいな。解散して動こう。」
こうして、特務課での会議は終わった。『』は小さく息を吐いて、そっと拳を握った。
「2日の暇、か。どうする気だ?『』。」
未だに自分の名前が認識できないことにそろそろ辟易しつつ、『』と蓮は川沿いを歩いていた。虫の鳴き声が聞こえて、もうじき夏が来ることを告げているようだ。
「にしても2日。微妙な期間だな。忠直は何を考えてお前さんにそう言ったんだ?」
ぶつぶつと真剣な顔で言う蓮に生返事をする『』。蓮は少しムッとしたように『』の方を見た。
「『』、お前さん、ボーっとしとるぞ。しっかりしろ。」
ぺちぺちと頭を軽く叩かれて『』がやっと蓮を見る。彼女の目は悩んでいるようで、でももう腹は決まっているようだった。
『』が不意に立ち止まる。2人以外誰もいない並木道。蓮もつられて立ち止まった。
「……鬼崎さんって暇?」
言い方が悪い。そう思って苦笑しつつ蓮は答えた。
「ああ。少なくともお前さんをあの場所に帰すまでは付き合えるぞ。」
風の少ない日だ。暑くも寒くもない。そんな気温に肌を馴染ませながら『』は言った。
「じゃあ、私と一泊二日の旅行行こ。」
蓮を見上げ、ニコッと笑みを浮かべている『』。どこか楽しげで、照れもせず言い放つその傲慢さ。蓮は悪い女のそれだ、と思いつつため息をついた。
「非常時だが?」
「非常時じゃないと私、デレてあげんよ?」
やはり悪い女だ。腰に手を当てて蓮は少々意地の悪い視点から訊いてみる。
「お前さんが逃げればワタナベは死ぬぞ。」
その言葉に少しは狼狽えるかと思ったのに、『』は首を横に振る。逃げるつもりはないらしい。
「逃げんよ。いい加減、変な意地張るのやめる。何に対しても。」
蓮は『』のことを羽化前の蛹と評したことがある。『』は半熟なままの柔らかい中身を取り繕って取り繕って強く見せたガワを剥がしてしまいたくなる女だ。だけど、今の彼女は。
「……その道行に付き合うのは俺でいいのか?」
恐る恐る尋ねられた『』はニヤッと笑った。それは、どこかの上司のような意地の悪い笑み。
「なん言いよっと。先にちょっかい出してきたのはあんたの方やけんね。」
まあ、確かに。言い逃れをできずに肩をすくめた蓮を見て、『』は更に楽しそうに微笑む。
「今、この世界で鬼崎さんだけが私の名前を正しく呼んでくれる。誰よりも、正しく。だから、見届けてくれん?私のこと、ちゃんと見とって。」
『』は自分の名前など愛していない。認識できないことは苛々するが、もしも捨てられるのであれば捨ててしまいたい名前。
だから、これは賭けだ。1ミリでも自分がいつか見切りをつけたあの人に縋ろうとしているのであれば、それはもうやめる。そう決めた。
蓮がしっかり頷くのを見届けた『』はよし、となけなしの勇気を振り絞るために空を見上げた。