表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
custard  作者: 洋巳 明
5/9

5話 自分の名前


 桂花の元から離脱した3人は蓮の自宅に移動していた。久しぶりの“裏”ではない“表”の雰囲気に『』は安堵する。

 いつも“般若の面”のアジトにしか入ったことがなかったので、蓮に自宅があること自体に驚いたのだが中に入ると広いのに随分と殺風景。たぶん、彼の性格上寝に帰れば良い方、という塩梅なのだろう。あまり生活感はなかった。

「ナオの家くらい広いのに随分物がないね、頭目殿。」

 白衣の男・榊 惣一もそう笑っている。彼の名前はここに移動する道中で蓮から教えてもらった。惣一自身も自分の名前を“認識できなくなっている”ようだ。きっと、それが桂花の『異能』なのだろう。

 忠直といえば。こういう状況に陥った場合、『』はすぐに上司の誰かに相談することが義務付けられているのだが、それは一旦蓮に止められた。『』の荷物は蓮が回収してくれていてまだ預けたままにしている。

「まあ、あまりまともな使い方はしていないからな。茶くらいは出せるはずだ。2人は座っていてくれ。」

 蓮自身も肩をすくめて笑った。キッチンの方へ消えていった彼を見送った惣一は『』に向き直る。

「さて。可愛いお顔が台無しだ。ひどく殴られたんだねえ。」

 する、と彼の手が頬に伸びてくる。応急処置をする間もなくここに来たので、杷子の顔は腫れて熱を持っていた。だいぶ不細工になっているだろう。

「きちんと治してあげたいんだけど、君、直近で俺の施術受けてるみたいだね。軽く、せめて顔の腫れくらいは。」

 触れた手は優しかった。だけどその温もりに浸る前に頬に痺れるような痛みが走る。思わず呻くと惣一には我慢して、と一蹴された。

 続けて彼は所持していたらしい応急処置道具で刺された腕や頬の傷を消毒してくれる。医者というだけあってさすがに手際がいい。

「よし。もうあんまり怪我しないようにね。俺の『異能』なんて役に立たないくらいがちょうどいいんだから。」

 その言葉に心の奥がもやっとした。それは確か、この人の口癖であったような。しかしそのモヤモヤは背後から聞こえてきた蓮の声で掻き消された。

「当方としてもそれは気をつけて欲しいものだな。今回の件に関しては俺は怒っている。」

 茶を運んできた蓮が『』のことをじろりと睨む。『』は何も言えなくて縮こまった。上司や蓮の忠告を無視して意地を突き通してしまったことはさすがに反省しているから。

「さて、説教は後にして、桂花の『異能』について説明しよう。もう大体把握しているとは思うが、奴は“人の存在を抹消する”ことができる。」

 惣一も『』も驚かない。自分の名前がわからなくなっていること。確実に面識のあったであろう惣一のことが記憶から抜け落ちていること。それらのことが蓮の言葉の裏付けになっていた。

「桂花の『異能』を受けると自分の名前がわからなくなることが随分と厄介でな。名前がないと自己の証明も難しくなる。」

 それは『異能』の餌食となった2人は今まさに実感している。自分で自分の名前が認識できない。確かに耳には届いているはずなのに、その文字列が名前だと理解できないのだ。

「お前さんら2人は今、当方以外に認識されていない。局の面々、親しい友人、肉親ですら覚えていないだろうよ。」

 『』は思わずごくり、と生唾を飲み込む。蓮がまだ上司に連絡を取るな、と止めた意味がわかった。たぶん、今電話したところで『誰?』と返されてしまうのだろう。

「ただ、俺と桂花はその限りではない。だからこうしてお前さんら2人のことも俺は認識できている。」

 どういう理由かは知らないが、蓮に桂花の『異能』は通用しないらしい。親子ということが関係していたりするのだろうか。

 そんなことを考える『』の隣で惣一は蓮の話を聞きながら、1つ、あることを思い出していた。

「頭目殿と鬼崎桂花以外に例外ってあるの?その、『異能』が通用しない相手の。」

 惣一のその質問に蓮は首を横に振った。

「いや。俺は見たことがない。大体の人間が大事な人に忘れられたことに耐え切れずに新しい名前で生き直すか、そのまま死に絶えるかだった。」

 そう。返事をしつつ、惣一は何かしらの思考に浸っているようだった。

「とりあえず忠直には事の次第を全て説明することにする。桂花は自分の『異能』について暴かれることを嫌っていてな。詳細を知った人間は必ず消されるんだが……悠長なことは言ってられないだろう。」

 2人、消されている以上説明をしないわけにもいかない。忠直がどこまで信じてくれるかはわからないが。蓮の表情には珍しくそんな葛藤が滲んでいた。

「それで、2人はもう疲れただろう。細かいことは明日話す。今日はもう休め。ここは好きに使っていい。」

 蓮は淡々とそう言って立ち上がる。彼にはまだやることがあるようだ。

 『』はそんな彼を眺めながらどうしよう、という思いに駆られていた。想像していたよりもずっと状況は良くない。自己の確立ができていない状態で明日からの仕事はどうなるのだろう。課の仲間たちが自分のことを覚えていないのであれば、職場に居場所は無くなっているはず。それに、『』には。


「いや、頭目殿。俺は君と一緒にナオのところに行くよ。推測が当たっていればあいつは俺のことを覚えてるはず。」

 

 ほんのりとした絶望感に襲われていた『』は惣一のその言葉に現実に引き戻された。ハッとして彼の方を見ると、惣一の目には怯えも恐れもなく、一点、忠直への信頼だけがあった。

「……止めはせんが親交の深い相手ほど、忘れられているというのは辛いぞ。特に先生と忠直ほど信頼し合っている仲であれば余計に。」

 キツい言葉だ。『』の脳裏には宵人や一巳の顔が浮かんでいた。彼らに忘れられている。そう思うと怖い。話しかけた途端、知らない人に向けるような他人行儀な感情で接されると思うと、嫌われるよりも心にクるものがある。

 しかし、惣一の目はブレなかった。

「ワタナベ アスカ。頭目殿とも接触があったんだよね?『裏』の方で働いていた女性。」

 蓮は頷く。確かに彼女とは関わったことがあったらしい。

 『』にとっても知っている名前だ。というより、こんなことになったのは彼女が“どういうことか”急に怒り出したのが原因だった。その原因については曖昧なのだが。

「彼女、本名は森みゆきっていうんだ。俺が本気で結婚を考えた女性。ちょっとしたすれ違いで喧嘩別れみたいになって、それっきりだった。」

 聞いたことのあるような話だ。確かアスカと飲んだときに一度だけ本気で好きになった人がいた、というようなことを聞いたはず。その相手は惣一だったのか。

「彼女のことを忘れたことはない。ナオに止められて『裏』に出入りすることはもうやめてたんだけどずっと気にかけてた。でも、たぶんそれは有り得ないことだったんだよ。」

 蓮はあまりピンときていないようだったが、『』の頭の中では引っかかる会話があった。ほとんど塗り潰されてしまっている今日のアスカとのやり取りの中、彼女は「知らない」としきりに言っていたような。

「今日、事が起こる前。俺は辛辛楼っていう中華料理屋さんでみゆきに会った。突然の再会で本当にびっくりしたんだけど、彼女はしきりに『覚えてるはずがない』って言ってたんだよね。」

 気持ち悪い感覚だ。確かにあの場には惣一はいなかったと記憶しているのに、彼の言っていることはあまりにも覚えがある。彼と共にあの場にいた、という方がしっくりくるのだ。だけどそれは頭の中では有り得なくて混乱する。きっと惣一もそうであるはずなのに彼は淡々と自分の考えを述べていく。

「たぶん、彼女は“森みゆき”を桂花に消されてる。いや、消したんだろうね。過去の自分の一切を精算して、“ワタナベアスカ”として生き直していたんだ。でも、俺は彼女のことを、“森みゆき”を覚えていた。」

 つまり例外はあった、ということだ。桂花に『消去』されてもなお、覚えている人間はいるということで、それは何かしらの糸口のように思えた。いや、少なくとも惣一はそう思っているようだ。

「『異能』を受けた者を1番案じている人物、もしくは『異能』を受けた者が最も案じている人物が例外に該当するんじゃないかな。それもごく少数に絞られるんだと思う。無意識下でも気にしている相手。」

 アスカの例を考えるとそういう考えに行き着いたらしい。惣一が蓮のような特異体質である、という可能性は今『異能』を受けている以上否定される。

「このことから考えると少なくともナオだけは俺のことを覚えてると思う。いや、あいつは必ず覚えてる。俺の唯一の家族だから。」

 忠直へのその信頼は願望のように見えるのにすごく力強い。『』は惚けたように彼を眺めてしまった。

「……試してみる価値はあるか。先生、忠直の家まで送っていこう。」

 黙って惣一の話を聞いていた蓮はそう言って玄関の方へ消えていく。それに続いて立ち上がった惣一はすぐには彼を追わず、『』の方を見た。


「『』ちゃんは?」

 

 彼の目は美しい。ガラス細工のようだ。薄紫で大きい。それが生み出す奇妙な緊張感に『』は息を呑む。そして、思わず訊いていた。

「……貴方は、怖くないんですか?」

 惣一の忠直への信頼は今の話だけでもよくわかった。そんな相手との関係をリセットされるのは怖いことじゃないのか。少なくとも『』だったら躊躇っている。

「自分がなかったことにされているんですよ。課長……貴方の言うナオさんに会えば、それを嫌でも実感するかもしれない。1番大事な人の言葉によって。それでも行くんですか。」

 挑むような生意気な目をしてしまった自覚はあった。きっと失礼な態度に値するだろう。しかし、『』のそれに対して彼はニッコリと笑って返した。


「怖いよ。ちょー怖い。」


 背筋がぞわ、とした。その芯の強さは自分の追いかけている背中に近いものがあって。

「怖いけど、たとえ忘れていたとしてもナオならきっと俺を見捨てない。そう思えるんだ。あいつ、お人好しだから。」

 『』は何も言えなくなった。そのまま俯いて、彼らの眩しさに泣きたい気持ちになる。こんな思いを忠直にも兎美にも抱いた。

 ぽん、と頭に手が乗った。そのまま撫でられる。『』がゆっくりと顔を上げると、惣一は切なげに微笑んでいた。

「君、なんとなくうちの母に似てる。プライド高くてなかなか素直になれないくせに、すごく脆いんだ。……『』ちゃん、一緒においで。ナオに会いに行こう。あのね、1人で悩んだってどうにもならないんだよ。知ってた?」

 おどけたような言葉尻に頭がズキンと痛んだ気がした。昔、こんなことを誰かに言われたような。

 『』は何も考えないまま頷いていた。それを見た惣一はまたニコッと笑って蓮の後を追った。

 


 縮こまっていた杷子に対しては少し強がった。だけど【】も不安でいっぱいで、車の中では忠直が昔くれたループタイをずっとぎゅっと握りしめて。

 何度も何度も通ったこの家。蓮が話を通してくれているらしく、オートロックもすんなりと開けてくれた。エレベーターのドアが開いて、廊下を歩く。ドアの前に着くまで杷子も蓮も言葉を発さなかった。

 インターホンを押す前に深呼吸。よし、と目を開けるとガチャリ、と1人でにドアが開いた。驚いて目を見開く【】。


「……あ。」


 惚けたようにお互い見つめあった。忠直はいつものような無表情で具に【】のことを観察している。その反応が、自分を知らないと思ってのものなのかどうなのかがわからずに【】は口籠もった。


「…………はあ。」


 忠直の口から息が漏れた。そこに入り混じる安堵。それを聞いた途端に【】の目からぽたぽたと涙が零れ落ちる。


「おかえり、榊。無事で、本当によかった。」


 染みる一言だ。それに。


「ッ、ナオ、もっかい、もっかい俺の名前呼んで。」


「……榊。お前は、榊惣一だよ。」


 ぽん、と頭に手が乗って、その温もりにまたぼろぼろと溢れる涙。忠直の声は、【惣一】の耳にはっきりと届いた。

 そして、忠直が惣一の名を呼んだ瞬間、杷子の頭の中でも認識を阻害していた何かが消えたのがわかった。惣一の顔を見て、どうして彼のことを忘れていたのか不思議になったほど。

「さすがに驚いたな。忠直、お前さん、先生のこと忘れなかったのか。」

 蘇った記憶にぼんやりと浸る杷子をよそに、蓮が目を見開いてしげしげと忠直を見つめる。奇妙なものでも探るように見られて忠直は居心地の悪そうに顔を顰めた。

「蓮、一体何が起こった。あんたは相変わらず言葉が足りない。こんな夜更けに『先生を連れて行く。何が起こっても淡々と対応してくれ。』なんて不安になる。」

 不満を零されて肩をすくめる蓮。彼は自分の後ろに隠れていた杷子をそっと前に出した。

「じゃあ、まず。彼女のことは覚えているか?名前は池田杷子。お前さんの部下である女性だ。」

 緊張した面持ちで見上げてきた杷子に対して、忠直は気遣わしげに眉尻を下げる。その反応だけでわかってしまうのが残酷だ。

「……悪い。覚えがない。」

 杷子はひどく傷ついた顔をして、それでももう涙は見せない。覚悟していたことなのだろう。忠直の方が申し訳なさそうな顔をしながら付け加えた。

「ただ、彼女がうちの課にいたであろうことは信じられる話だ。部下2人が今日、俺に相談してきた。何かが変だと。」

 その話には耐えるように唇を噛み締めていた杷子の顔が上がる。何やら興味深い話のようだ。

「明らかに自分たちが作成したものではない最近の資料がある、と。誰かいたはずなのに都合の良いように改変されて、いないことにされている気がする。そう言われた。」

 それは、宵人や一巳も杷子のことを覚えていないという証明でもあるが、それでもなおそのことに違和感を抱いてくれたということで。蓮は杷子の顔に明らかな安堵が浮かぶのを見て少し目を細める。

「俺もその資料を確認したが、非常に出来が良かった。うちの新入りの技量では作れないものだ。君は、優秀な部下なんだな。」

 忠直の言葉は優しく響いた。ただ、それが覚えていない距離感の声色なのが杷子にとっては切ない。

 目を伏せた彼女にもう一度申し訳ないと謝って、忠直は蓮に目を向ける。

「それで、一体何があった。どうしてこんなことになっている。うちの部下に手を出したのはどこのどいつだ。」

 説明をするまで帰さないという顔。蓮は彼の目を見つめて、続いて杷子に目を向けた。

「その話は長くなるだろう。杷子を家まで一旦送り届けてくる。彼女と先生はさすがに消耗が激しいはずだ。」

 ああ、とそれには納得したように忠直が頷く。そして彼は惣一に言った。

「榊は今日はうちに泊まれ。何があったのかはまだ知らないがお前を1人にするのはどうにも嫌な感じがする。」

 その言葉に流されるままにすんなり頷いた惣一を忠直が先に部屋の中へ入れようとしたのを杷子が遮る。そういえば。

「榊先生!あの、課長が名前を呼んだ瞬間に貴方のことを思い出しました。先生の予想が当たったんですよ。」

 へ。惣一は一瞬惚けたような顔をして、でもすぐに真面目な顔になった。

「ナオが俺の名前を呼んだことで『異能』が解けたってこと?……なるほど。ありがとう、参考にする。」

 彼は何かしらのスイッチが入ってしまったかのようにぶつぶつと呟きながら家の中に消えていった。

 残った忠直は家の中に入る前に杷子に向かって頭を下げる。

「覚えていなくて悪い。しかし、それでも特務課は君への協力を惜しまないと約束する。仲間に手を出されて黙っていられるほど薄情ではない。」

 いつも通りの力強い言葉。杷子はそれに「はい」と返事をして頭を下げた。



 そして、蓮と『』は蓮の自宅に戻ってきた。『』を自宅に送り届けなかったのは、蓮が彼女をあまり1人にすべきではないと判断したからだ。

「風呂に入って、今日はゆっくり休め。慣れない場所ですまんの。」

 『』はその言葉に対してゆっくりと首を横に振った。自分のための配慮であることはわかっていたから。だけど、1つ気になる点が。

「……もう、行くん?」

 その言葉に蓮が惚けたような顔になる。すごく間抜けな顔だ。初めて見た。

「それは、寂しいのか?」

 顔を顰める『』。違うとは言えないが、そのことではない。

「違います。私が鬼崎さんの忠告も聞かずに突っ走ってこんなことになったから、あんたに申し訳が立たん。」

 そのことか。蓮が頷いて『』の言葉を邪魔しないように口を結ぶ。『』はキュッと唇を噛み締めた。

「すみませんでした。」

 深々と頭を下げる。謝られた蓮は真面目な顔になった。そして『』に顔を上げるように示すとぺちんと小さく頬を叩く。

「人の言うことは聞くもんだとわかったか?」

 大人しく頷く『』。それを見届けて、蓮は彼女に手を伸ばす。どんな折檻を受けるだろうとぎゅっと目を瞑った『』にぺたぺたと触れて傷を確かめた後、彼は彼女をぎゅっと抱き締めた。

「…………本当に、本当に生きていてよかった。謝らなければいけないのは俺もだ。巻き込んで、すまん。」

 『』は目を見開いてしばらく固まった。予想外の行動。いつもなら勢いのまま突き飛ばすのに、今日は彼の体が少し震えていて。

 悩んだ末に『』は彼の背中に手を回して抱き締め返す。自分のことを一心に想う温もりに縮こまって何かに耐えていた心がやっと少し解れた。

「…………奴に何をされたのか、訊いても構わないか。」

 たぶん、彼の危惧するようなことまではされていない。だけど『』は口を開こうとしてやめた。蓮の声が震えている。それは彼の中でまだ答えを聞く覚悟ができていないことを示しているようで。それに気づいた『』はそっと首を横に振った。

「……まだ怖かけん聞かんで。」

 それは全くの嘘ではない。だから、たぶん誤魔化せただろう。そうか、と呟くように言った後、蓮の手がゆっくりと離れた。

「引き止めてごめんなさい。もう、行ってよかよ。私も状況を整理せんばいかんけん。」

 離れる直前で取り繕って、そっけなく目を逸らした。目の端に捉えた蓮の顔はどこか萎れていたから。鬼崎桂花。異常な男だった。あの男によってずっと人生を乱され続けている彼は。

 自分が同情できるほど弱い人ではない。それでも彼の心中を思うと心が沈んだ。それも、自分のせいだから。

「……俺は、お前さんの泣き場所にもなれんのだな。」

 しかし、『』の態度を見た蓮の口からぽつりと漏れた一言に彼女は目を見開いた。呼び止めようとした『』の手をすり抜けて、蓮はそのまま玄関の方へ向かう。

「俺以外は誰も入れるな。何かあったらすぐに連絡するように。俺の傍にいる以上、誰もお前に手出しはさせない。」

 ガチャン、とドアが閉まった。蓮の気配が離れていく。そのことに少しの心細さを覚えつつ、『』はシャワーを浴びに風呂場へ向かう。

 蓮の家は本当に生活感がない。シャンプーもコンディショナーもたっぷり入っていて、石鹸も数度使われた程度の大きさ。それに既視感を覚えた『』は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 風呂場を出て、家から持ってきた着替えを身につける。髪を乾かすのもそこそこに、簡素なカーペットの敷かれた床にごろんと横になった。そこでやっと人心地ついた気がした。

(『』、『』、『』……ああ、駄目だ。私の名前、本当にわからん。)

 こうやって寝そべった瞬間に、じわじわと今日起こった出来事が襲いかかってくるようだった。蓮が助けに来てくれなければどうなっていたのだろうか。

(榊先生には課長がいた。でも、私には?私が最も思っている人って、誰?)

 あまり考えたくない方向に思考が飛んでいってしまいそうだったのでごろりと寝返りをうつ。そこに、脱ぎ捨てられた蓮の羽織があることに気づいた。

 手を伸ばして引き寄せる。騒ぎに紛れて忘れていたが蓮には久しぶりに会った。もう、会うつもりはないという覚悟までさせたのに嬉しいと思うのはひどいだろうか。

 羽織は独特の香りがした。線香のような、鼻に残る蓮の匂い。さっき抱き締められたときもそれに包まれた。

(……鬼崎さんは、私の名前、呼んでくれた。)

 キツい状況だ。でも、それでも、蓮がいる。そのことには非常に救われてしまった。



「というわけだ。何か、矛盾はあったか?」

 杷子や惣一から聞いたことも交えて蓮は今日起こった全てのことを忠直に説明した。杷子のことがすっぽりと抜けている忠直だが、彼は黙って頷く。

「いや、彼女のこと以外に矛盾はない。鬼崎桂花。恐ろしい男だな。」

 どうやら忠直は案外すんなり信じてくれたらしい。飲み込みが早いのは『異能』というものの恐ろしさを十二分に理解しているからだろう。

「どう動くか。池田さんには課に戻ってきてもらっても構わないが、居心地は悪いだろうな。知り合いに他人行儀な顔で対応されるのはかなりストレスだろう。」

 忠直の同情するような目。忘れていても彼女のことが気にかかるのは変わらないらしい。実に忠直らしいと言えるだろう。

「杷子はしばらく当方のところに置いておく。目を離したくない。今回は多少様子見のところがあっただろうが、次に機会があれば桂花は躊躇しないだろうからな。」

 珍しく険しい顔でそう言う蓮を眺めて、忠直はふむ、と何か考え込むような顔。そして顔を上げて淡々と尋ねる。

「蓮と彼女は恋人関係か何かか?」

 揶揄う気は一切ない質問。それでも蓮は面食らった。よもやこの鉄面皮からそういう話題を振られるとは。

 忠直は蓮の返答を待つようにじっとしている。誤魔化す必要性はない。ため息混じりに答えた。

「……惚れた女だ。」

 端的にそう言っただけでなんとなく2人の関係性を承知したらしい忠直。無表情のままそうか、と頷いた。

「2人で泥沼に沈むなよ。その感情は厄介だ。特に、蓮は入れ込んだ人間にはとことん付き合うだろう。」

 少し何かを言い淀む蓮。覚えていないにしては見透かされている何かがあるような。鋭い男だ。というより、無意識下では杷子のことをきちんと気にかけているのだろう。

「それは、あやつ次第だな。杷子は今、分岐点にいる。羽化前の蛹なんだ。」

 忠直の片眉が上がった。何の話が始まったのか探るような仕草。蓮は淡々と続けた。

「美しく変わるか、腐り果てるか。そもそもはそれを見届けたくて手を出した。その危うさに目が離せなくなってな。……お前さんには散々なじられたんだぞ。」

 少々恨みを込めて睨みつけると肩をすくめられてしまう。躱された、と苦笑しつつ蓮は出された茶を啜った。

 忠直がふう、とため息を吐く。それは疲労によるもの、というよりは話にひと段落がついたことを示すようだ。

「とりあえず事情は理解した。局員が巻き込まれたこと、未確認の『異能』というだけでこちらにも動く理由はある。それに幸い、最近部下の1人が他の課の業務から戻ってきたところだ。」

 それは心強い。微笑むと忠直にじっと真剣な顔で見つめられた。

「そして彼女がうちの人間であることは把握しているからな。……ひどく扱うなよ。」

 脅しのような一言に蓮は吹き出す。記憶がないのに過保護は健在か。目の前の仏頂面はなかなかに面白い。

「ははは、お前さん、本当は覚えてるんじゃないのか?」

 笑い飛ばすと不快そうに睨まれる。覚えていないのは本当なのだ。だけど。

「なぜか気にかかる。というかあんたに預けることに少し抵抗を覚える。居心地は悪いだろうが、うちにはいつでも戻ってきてもらって構わないと伝えてくれ。」

 過去に忠直が部下に関しては娘や息子のように思っている、と言っていたことを思い出す。過保護、ここに極まれり、だ。

「ああ。承知した。丁重に扱わせてもらう。」

 そう言って蓮は立ち上がる。そろそろ帰らなくては。忠直も特に何も言わずにそれを見て立ち上がった。

「相談にはいつでも応じる。……そうだ、榊を助けてくれてありがとう。」

 玄関先でそう告げられる。蓮はお安い御用だ、と軽く笑った。


 家に帰ると既に電気はついていなかった。もう寝てしまっているのだろう。そう思って音を立てないように寝室に様子を見に行く。……布団の上には誰もいない。まさか。

 慌ててリビングに入る。杷子、と呼ぼうとした瞬間、何かに蹴つまずいた。

 ぎょっとして恐る恐る足元のそれを探ると柔らかい肉の感触。心臓に悪い、と思いながら電気を点けると杷子がそこで蓮の羽織を抱きしめたまま眠ってしまっていた。

 蓮はホッと息を吐く。今日は本当に心臓に悪い日だった。

 一巳から話を聞いた後、蓮はたまに辛辛楼の様子を見に行かせていた。今日も何の気なしにそれをさせて、乱闘騒ぎがあったことを知った。

 すぐに嫌な予感がして杷子の痕跡を追った。すると桂花の気配に辿り着いて非常に狼狽える。まずいと思った後はなりふり構っていられなかった。

 桂花の部下を捕らえて事情を吐かせたところ、余計なことを口走った女を始末する予定と客人を連れてきた話について聞くことができた。先に見つけたのは惣一の方。彼は拘束されているとはいえ傷一つなく、ついていた警備も甘かった。

 その時点で嫌な予感はした。桂花が惣一に全く興味を抱かないということはより杷子の方に関心を注いでいるということで。

 惣一の案内で杷子の荷物を取り返したところ、血塗れのワイシャツが見えて気が狂いそうだった。惣一がいなければその場で冷静さを失っていたかもしれない。

 ワイシャツを検めてみるとそこについていた発信機は使えなくされていた。特務課に情報は入っていなかったのだ。2人とも青ざめた。

 それから惣一を逃がして、杷子の元へ急いだ。もしも間に合っていなかったら、桂花のことは確実に仕留めていただろう。杷子を帰さなければいけないという思いで踏みとどまれた。

「……俺は、誰も幸せにできないな。」

 壊すしか能のない鬼。人喰い鬼。そう呼ばれて荒れていた時代があった。そこから掬い上げてくれた恩人は2人とも死んだ。その事実に打ちのめされないよう、彼らがくれたものを誰かにも与えられるよう。

 道に迷っていたように見えた杷子に惹かれたのはそのせいだろう。荒れすさんでいた自分と彼女は少し似ている。

 だけど、彼らをなぞることすら許されなかった。自分が彼女の人生を乱している。


「……そんなこと、なか。」


 ぼんやりと絶望に浸っていた蓮の耳に届いた言葉。いつの間にか杷子の金の瞳がこちらを見ていた。

「……自分の名前もわからん今、鬼崎さんだけが私の名前を呼んでくれる。あんたは何も悪かことはしとらん。私こそ、傷つけてごめんなさい。」

 ゆっくりと体を起こした彼女に抱き締められる。とんだ傷の舐め合いだ。何の慰めにもならない。なのに、拒みがたい。


「……もう少し寝ろ。お前さんは、ひどく消耗して」

「今回のことで1番傷ついとるのはあんたやろ。」

 

 図星だ。蓮は何も言えなくて黙り込む。


「…………鬼崎さん、私、あんたの話が聞きたい。」


 しかし、沈黙は長くは続かなかった。杷子の凛として澄んだ声がそれを破ったから。真っ直ぐに蓮を見ていた。出る前まで落ち込んでいたとは思えないほど。

「聞いていいかどうか、ずっと悩んどった。私、鬼崎さんにとってどの程度の存在なんか知らんし、あんたが父親のことでどんくらい苦しんだかも知らんけん。」

 まるで空気を読んだかのように静かすぎる夜だった。街の喧騒を遠ざけて、杷子のひたひたとした瞳だけがこちらを向いている。

「でも、知りたい。鬼崎桂花に会ってそう思った。鬼崎さんがどんなふうに生きてきたのか、聞いてみたい。」

 聞いたところで何かが変わるわけではないだろう。ただ、桂花の残酷性と狂気への見聞が深まるだけ。

 しかし杷子は無意味だとは思っていないようだ。

「あんたが私のこと、ただ単にほんの少し面白いと思っとるだけでもよか。話してくれん?」

 真っ直ぐな彼女の目に射抜かれて、蓮はため息をついた。その顔はどこか困っているようだ。

 少し間を置いた後、彼はいつもよりも落ち着いた声で言った。

「……お前さんは本当、どれだけ自分がずるいかをわかっとらんのう。決定的な言葉が足りんだけでそこそこの口説き文句だぞ、それ。」

 軽く睨まれてしまってきょとんとする杷子。そういうところだ、と蓮は悪態をついて彼女から目を逸らした。

「は、はぐらかさんでよ。私は真剣に。」

 全くわかっとらんな。そういうふうに鼻で笑われて、杷子は眉を顰める。それを見て、蓮は幾分か穏やかになった様子で応じた。

「そのあたりの話は後でじっくり教えてやろう。お前さんが知りたいのは、俺と桂花の話か。」

 前半部分はとりあえず聞かなかったことにした杷子が頷く。彼女の目はもう絶望に浸ってなどいなかった。一点の何かしらを抱えている。

 それが自分が与えたものだと思うと気分は悪くない。蓮はゆっくりと立ち上がり、茶くらいは出せると笑った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ