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custard  作者: 洋巳 明
4/9

4話 修羅場


 修羅場とは。

 インド神話、仏教関連の神話などで、阿修羅と帝釈天との争いが行われたとされる場所である。

 転じて、激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる戦場または事件・事故現場といった状況を指す。


 辞書的に言えばこんな感じ。映像的に考えると不倫とか浮気とかの話になるのだろうか。

 そういったものに比べると、この状況は随分と大人しいのだろう。しかし、店を包んだ空気はそんなものでは済まなかった。いや、2人の間に生まれた空気は。


 アスカと飲んでから数日後。杷子は辛辛楼に出勤してきていた。実はあの後、一巳が蓮と接触した話を聞いた。場所は教えてくれなかったが、蓮の考えを聞いた杷子は悩んだ末に辛辛楼での潜入捜査は引き上げることにしたのだ。勿論、一巳とともにこの件については主導していくつもりではあるのだが。

 だから、今日は最終日ということで世話になった他の従業員や店主の金さんに挨拶をして。そこにいつもと違う要素が1つ。

「へえ!こんなところで働いてたんだねえ。うわ、やらしいチャイナ〜。」

 それは惣一がいたことだ。彼は辛辛楼に興味がある、と偶然昼食を摂りに訪れて、真っ赤な麻婆豆腐を前に、にこにことしていた。

 辛さに呻く彼に水を渡していると、店内に日の光が差し込む。客が入ってきたのだ。それから比較的埋まっていた席を掻き分けて真っ直ぐに杷子の元に向かってきたのは。


「あこちゃん!辞めるってほんと!?」


 アスカだ。彼女は少々慌てた様子で、服装も仕事着ではなく気の抜けた感じで。

 詰め寄られて驚いた杷子はおずおずと頷く。その反応にアスカは目を見開いて、そっかあ、と項垂れてしまった。

「えー、辞めないでよ。もっと私と遊んで!」

 肩を掴まれて揺さぶられる。あはは、と誤魔化すように笑いながら、杷子は何気なく逸らした視線の先で捉えた惣一の表情が固まっていることに気づいた。見たことのない顔だ。これは。


「……みゆき。」


 低く呟かれた声にアスカがぴたりと固まった。杷子がぎこちなく彼女の表情も窺うと、凍りついている。

「みゆき、だよね。森 みゆき。」

 杷子の肩を掴んだまま、アスカは惣一の方を見た。彼女の手はひどく震えている。

「…………あなた、誰?てか、みゆきって何?私はワタナベ アスカ。みゆきなんて名前知らない。」

 それは無理があるだろう。見開かれたままの目に止まらない震え。惣一と彼女の間に何かがあることを示していた。

「いや、俺は君を知っているし、君も俺を知っているよね。だって俺は」


「知らない。」


「嘘だ。俺は君に」


「知らないってば!!!しつこい!」


 そのあまりの剣幕に惣一も杷子も驚いて固まった。アスカはフーッフーッと肩をいからせ、杷子から手を離す。

「知ってるはずがないわ。“もう、誰も知らない”んだから!!!」

 気になる発言だった。もう誰も知らない?惣一の方を見ると彼も難しい顔をしている。

「……俺は知ってるよ。君が否定しようとも、俺は本気で君のことが好きだったんだから。」

 惣一の口から静かに出てきた言葉。既に状況についていけない杷子の脳裏に“修羅場”という単語がふわふわしていた。あくまでも冷静な惣一に対して完全に取り乱しているアスカ。この流れで次に起こるのは。


 パンッ!


 決して軽くない音。アスカが惣一の頬を張り飛ばしたのだ。しかし、惣一は目を逸らさなかった。じっと、アスカを見つめている。


「……ッ、一体どの口が。よく言えるわね、裏切っておいて。」


「それは違う。誤解だって説明した。信じなかったのは君だよ。その後、一切の痕跡も残さずに去って行ったのも君だ。ねえ、君の身に何が起こったの?俺、ずっと心配して。」


「嘘よ。覚えているはずがないもの!」


 もう一度殴らんばかりの勢いだったので一旦2人を引き剥がそうと杷子はアスカの腕を掴んだ。それで我に返ったらしい。アスカはハッとしたように杷子を見て青ざめた。

「あ、あの、ワタナベさん、落ち着いて……。」

 なるべく笑顔で緊張感を与えないように。このままどうにか、せめて店の外に2人を連れ出さなくては。

 そんなふうに葛藤する杷子を嘲笑うかのようにまた店内に光が差し込んだ。

 また客だ。そう思って少しだけホッとする。新しい客が入ってくればこの凍りついた空気も。

 

 パァンッ


 穏やかでない音がした。銃弾に出会う機会が多いな、と思って杷子は眉間に皺を寄せる。

 入ってきたのはスーツ姿の男たち。発砲音に遅れて気づいた一般の客たちが悲鳴を上げた。


「先生!ワタナベさん!伏せて!」


 パァンッと2発目の発砲音。1発目同様に『風』でいなしながら弾の方向を探る。

 どうやらアスカを狙ったものらしい。つまり彼女は余計なことを言ったのだろう。口封じか。

「一体何の目的ですか!ここは食事を行う場です。暴力沙汰は他所で……。」

 時間を稼ごうと口を開いたが銃声に遮られる。チッと舌打ちをして、客を裏口の方へ逃がしながら男たちの方へ駆け出した。

 妨害として飛んできた椅子の勢いを『異能』で殺してそのまま蹴り払う。男の1人にまともに当たってひっくり返った上を踏みつけて、近くにいたもう1人の側頭部に蹴りを叩き込んだ。

 そこに撃ち込まれる銃弾は風で防いで杷子も太腿のホルスターに手をかけた。ノせたのは2人。残りは3人。店内の客は既に逃げおおせていて、残っているのは怯えて座り込んでしまったアスカと彼女に付き添っている惣一。

 できれば離脱して欲しかったが、その余裕はなさそうだ。状況を把握しようとする間にも銃弾やら蹴りやらが飛んでくる。

 しかしこの程度なら。相手は銃での遠距離と近接に分かれているが、味方を巻き込まないように気遣うせいであまり手数は多くない。

 銃を持つ男の指が引き金にかかる。それを見逃さず、杷子は風を圧縮させてかまいたちを放った。狙い通り銃を持った男の手に当たって手元の狂った男の弾は味方に当たった。

 悲鳴が上がり、気を取られた目の前の男の顎を蹴り上げて手を押さえて蹲った男から銃を奪う。

 そのまま杷子は男たちの拘束に回った。よく体が動いたものだ。最後の1人の拘束を終えて息を吐くと、くるりと振り返ってアスカと惣一の方に向かう。

「……お2人とも、怪我はありませんか?」

 ひとまずしゃがんで怪我の有無を確認する。騒ぎの最中避けようとしてついた打撲痕などはあったが、2人とも目立った傷はない。そのことに安堵する。

「問題ないよ。……それよりみゆき、君、何に巻き込まれてるの。」

 惣一の声に呆れが混じっていた。アスカを守るようにしていた彼は体勢を変えて、彼女の傍に跪いて質問する姿勢をとった。杷子もしゃがんで似たような姿勢になる。

 しかし、そうやって2人の視線を受けてもアスカは俯いたままどこか一点を見つめている。ピクリとも動かない。その様子にどこか恐怖を覚えた杷子はそっと携帯に手を伸ばした。

 騒ぎに関しては一巳が音を聞いていただろう。彼が既に連絡してくれた可能性は高いが、一応自分でも忠直に連絡を入れておこうと。

 その途中で気づいた。いつの間にかアスカが顔を上げてこちらを見ている。そのことにゾクッと背筋が粟立った。あれ、これ、まずい。


「あこちゃん。」


 彼女の手には調理場から転がってきたのか、テーブルから落ちてきたのか、ナイフが。


「邪魔、しないで。」


 なぜかアスカが自分を狙わないであろうことはわかっていた。これは警護課にいたときの経験が生きたのかもしれない。


 ザクッと。切れ味のいいナイフだったのだろう。惣一を庇った杷子の背中に刺さった。

 一刺しだけなら反撃できたかもしれない。しかし、惣一の声にならない悲鳴が上がる前に続けて2回、3回と無慈悲に刃は振り下ろされた。刺されるたびにビクッビクッと杷子の体が跳ねた。


「ッ、やめろ!!」


 5回目の直前で惣一がなんとか彼女の腕を掴む。どこを掴めばいいのかなんて考える間のなかった彼の手からも血が流れ出た。2人してもみくちゃになって、なんとか惣一がアスカからナイフを奪い取ったところで3度目の来客。


 パチパチパチパチ


 拍手の音が響いた。


 



 

 背中がむず痒いような痛みに襲われて。


 杷子は呻いた。目を覚ませばより肉感のある痛みが襲ってきて辟易する。

 誰かの温かい手が背中に添えられていることに気がついた。めりめりと傷が塞がっていく感触と痛みに小さく喘ぐとスッと手が退けられる。

「杷子ちゃん、起きた?」

 惣一の声だ。先日もこんなことがあったような。そう思いながら彼の方を向こうとすると、それを遮るように背中を押し返された。

「あー、まだこっち向かないで。服を持ってくるね。」

 服。その単語に少々まだ曖昧だった杷子の意識がはっきりとしてくる。

 どうやらベッドに寝かされているらしい。ぱさ、と薄い掛け布団のようなものをかけられて惣一が遠ざかった気配。背中を治療中だということは。

(上、服着てなかったのか……。)

 起き上がるな、と言われた意味を理解した後に脱がさなければ処置できないほど広範囲で深い傷だったのか、と冷や汗が出てくる。アスカは素人だ。本当に容赦なく刺したのだろう。

 惣一が戻ってきた気配。何の気無しに服を受け取ってぎょっとする。手に触れたのはするするとした高そうな布地。いつもならば彼の診療所に常備してある病院服なのに。


 そこで気づいた。ここは、どこだ。


「おはよう、池田杷子さん。」


 柔和な男の声。でもどこか聞き覚えがあるようなないような。


 背後にいる服を渡してきた男は惣一ではなかったらしい。杷子はすぐに身構えるとシーツで隠しつつ、起き上がった。

 そこにいたのは壮年の男。立ち姿は綺麗で変な色気がある。この男が誰であるのか、それはなんとなく予想がついた。顔立ちは“”彼にあまり似ていない。

「……榊さんはどこですか。」

 まず、惣一の安全の確認。彼らにとっても有効な『異能』を持っているであろう惣一が危険に晒される確率は低いと思われるが、蓮が警戒していた相手だ。慎重にいきたかった。

「まず、他人の身を優先するようにされているんだね。よく躾けられているようだ。」

 その不敵な笑みはものすごく彼に似ているのに、目の前の男のそれには変な威圧感があった。ごくり、と唾を飲み込む杷子に彼は飄々と言ってのけた。

「治療を終えたようなので拘束させてもらった。……ああ、危害を加えるつもりはないよ。彼が貴重な存在なのは私でもわかっているからね。」

 あまり惣一には興味がない、といった態度だ。だけどむしろそちらの方が好都合。杷子は緊張しつつ、もう考えるのは自分の身だけでいい、と。

「さて、池田杷子さん。私は君に会いたかったんだよ。」

 穏やかで優しい声なのに胸の中に湧き上がるのは恐怖。震えないように必死にシーツを握りしめた。

「本当はアスカを使って穏便に君を招くつもりだったんだが、想定外の事態が起こった。すまないね。」

 そう言いつつ、そこまで謝る気はなさそうな朗らかな笑顔。嫌な感じのする男だ。警戒を怠るわけにはいかない。大人しく話を聞く姿勢を見せつつ外との連絡手段を探る。

 そういえばアスカはどうなったのだろう。目の前の男に不都合な何かをしてしまったらしい彼女は口封じとして襲われ、杷子を刺した。その後は。

「ワタナベさんはどうなったんですか。彼女もこの場所に?」

 無事でいることを願った。滅多刺しにされた背中の痛みは忘れられないが、それでも尋常な様子ではなかった彼女を思うと。

「おや、彼女のことが気になるんだね。彼女はもう役目を果たした。君たちと共に“消去”して処分する。」

 今はまだ生きているのか。しかし時間の問題だ。どうにかして逃げなければいけない、と杷子は考えを巡らせる。

 服を脱がされているということは持ち物を奪われているだろう。一巳との通信機がついていたのは上着の方。あれさえ取り戻せばまだどうにか。

 もしくは惣一がすでに“エマージェンシーコール”をしてくれている可能性がある。いずれにせよこのベッドの上から逃れなければ。

 く、と膝を曲げてみる。足首に何かついている感覚。たぶん、『異能封じ』の類。しかし、拘束はされていないらしい。これならば。


 しかしその考えを嘲笑うように気道が塞がる。こひゅっ、と小さく息と泡が杷子の口から漏れた。


「おや?私と話している途中だろう。人の話を最後まで聞かないのは失礼だと習わなかったか?」

 

 首を絞められていることに気がついたのはその言葉を聞いてから。見た目にそぐわず非常に速い動きだった。

 それにしてもすごい力だ。目の前がチカチカしてきて、杷子はもがいた。だけど喘ぐような息しか漏れない。

「私の名前は鬼崎桂花。君の追っていた男だろう。話を聞きたいのではなかったかな?例えば、うちの愛息子の話など。」

 そのまま穏やかに笑う男。耳鳴りがしてきて、それでも完全には窒息しない程度に絞められている。苦しいのに、楽になれない。

「……っあ、ぅ、ッ。」

 喉元が締め付けられてぐにょりと中の管が折れ曲がるようなイメージが浮かぶ。情けなく喘ぐしかできない杷子を桂花は美しいものでも見つめるように目を細めた。

「返事ははい、かいいえ。わかったね?」

 桂花はたまにヒュッという息を漏らすだけになっていた杷子を返答を求めるように見つめる。彼女の口から喘ぐように、はい、と微かに漏れた瞬間、パッと手が離れた。

 すぐに咽せ返って喉を押さえる杷子。彼女の顔からは戦意が削がれている。それを見て桂花は嬉しそうに笑った。

「君のようなお利口さんは、少し乱されるぐらいが美しいな。さあ、服を着替えたら出ておいで。食事でもしながら話そうじゃないか。」

 言いながら彼は杷子の頭にぽんぽん、と手を乗せる。それは何気ない仕草だった。だけど杷子の中で何か、致命的な何かが抜け落ちていく感覚。惚けたように桂花を見上げると、彼はにこりと笑って杷子の首にかかっていたネックレスを外した。

 するんと胸を掠めていった金属の冷たい感触。それと共に、自分の中から大切な何かも解けてしまった気がした。



「……あれ?雨降ってきましたね。早岐主任、傘持ってきました?」

 事務所の掃除をしていた円が呟くように一巳に向かってそう尋ねた。一巳はそれに対して生返事をしながら『』のまとめた資料を整理しようと。

「わ、これひどくなりそうっすね。早岐さん、ちゃんと聞いてないと後悔しますよ。」

 不満げに一巳に近寄る円。自分の方をぼうっと見上げてくる一巳を怪訝な顔で見る。一巳は眉間に皺を寄せて、何かを絞り出すように声を出した。

「なあ、まめちゃん。あのさ。……ああ、くそ。なんだ、これ?気持ち悪りぃ。」

 急に唸る彼に対して円は変なものでも見るような目を向けた。

「なんすか?言おうとしてたこと忘れたんですか?」

 その通りなのだが。一巳はなんと例えようのない気持ちの悪い感覚に顔を顰める。

「……ごめん、わかんねえ。わかんねえんだけどさ。」

 その答えを探すようにパソコンの画面に目を向ける。『』の名が記載されている資料。確かに先程までは認識していたはずなのに。


「…………これ、誰が調べてた案件だっけ。」

 



「ああ、そうなんだね。じゃあ蓮と君は恋仲ではなかったのか。」

 桂花と共に先ほどのベッドのある部屋から移動して、大きなバルコニーのある一室に移動していた。広い部屋の真ん中にテーブルが用意されている。

 窓の外には他の高いビルの他、空が広がっていて遠くの山が見える。ここは高い位置にあるらしい。

 そんな部屋で桂花と2人、向き合って食事を摂る。並んだ料理はどれも美しく飾られたもので、食べたことのない味がした。

 本当は口に運びたくないのだが、何度か従わずに抵抗しているうちに頬には痣が。命令に従わなければ桂花は容赦なく頰を張ってくるのだ。その代わり、はい、かいいえで答えれば彼は怒らない。

「プランをね、いくつか考えていたんだ。あれの母親が死んだくらいのときから。」

 こうして急に切り出される話を黙って聞いていると、桂花自身には局に対する興味はほとんどないことがわかった。彼にあるのは蓮への歪んだ愛と動物的な欲望くらい。そういうふうに感じた。アスカが蓮のことを空っぽだと評していたが、目の前の男の方が余程それに相応しい。

「産みの母のときはね、いつまでも一緒にいられるように2人で分け合った。育ての母のときは、彼女が蓮の本当の母でないことを証明した。般若の頭目に関しては君や“旭兎美”の活躍で駄目になってしまったな。あれは少し心残りだ。」

 蓮には産みの母と育ての母がいたことは初めて聞いた。2人が既にこの世にいないことはなんとなく桂花の話し方から察する。彼女らに何をしたのかの詳細はわからないが全てロクな話ではないだろう。

 というよりもこの男、正の殺害にも関わっていたのか。蓮の大切な人は須くこの男の手に落ちているらしい。実の息子にどうしてそのようなことをするのだろうか。疑問は尽きないがそれらを訊いたところで暴力で返ってくるだけだ。ここは、黙って。


「さて、君はどうしようか。」

 

 不意に投げかけられたシンプルな一言。桂花は微笑みながらこちらを見ている。『』は目を見開いた。


「おや。驚いているのかい?だって、君は蓮の大切な人なのだろう?」

 

 違うと言えなくて唇は震えた。カシャン、とフォークを取り落とす。床に落ちたフォークを見るフリをして目の前の恐怖から目を逸らした。蓮が自分を遠ざけた意味が今更になって襲いかかってきたようで。

(ああ、そうか。私、殺されるんだ。)

 言外に理解する。それと同時に一巳や忠直が苦い顔をしていたのを思い出した。彼らはこうなることを危惧して、退け、と言ってくれていたのだ。

「おや。怖いのかい?大丈夫。短絡的な一手では蓮はさほど傷つかない。君を殺しはしないさ。」

 桂花が立ち上がってこちらに近づいてくる。彼は『』の落としたフォークを拾って、そのまま彼女の腕を刺した。

「いっ、あっ!?」

 シミ一つない白い腕に突き刺さったフォークを立ったままの形で保つために、子どものように無邪気な顔でぐりぐりと押し込むように調整する桂花。『』は冷や汗が大量に噴き出すのを感じた。フォークの刃先でゆっくり膨らんだ血が丸くなる。激痛に呻く『』を桂花は目を細めて眺めていた。

「人は傷からたくさんのものを学ぶ。痛みから真実を知る。……うん。次のテーマは“真実の愛”にするとしよう。」

 スッと引き抜かれるフォーク。『』の腕に3つの穴。そこからじわりと血が滲み出た。

「おや、痛そうだね。びっくりしたんだろう。すまないね。」

 桂花の胸元から出てきたハンカチで額の汗を拭われながらくい、と顎を持ち上げられる。正面から不敵な笑みを向けられて、『』は怯えきった顔を見せてしまった。

「君はなかなか美しい顔立ちだ。悪くない。君に用いるプランが決まったよ。」

 桂花は『』の背後に回り込んで、彼女の腹を後ろから両手で包み込む。そして遠慮会釈なくそこを撫で回し、彼は『』の耳元で笑った。


「君には私の子を孕んでもらおう。」


 ぞくりと総毛立った。撫でられて温まるはずの腹が底冷えしていく。『』の体が恐怖を覚えて震える。


「世界で一番憎んでいる父親の子を孕んだ女をどこまで愛せるのか。うん。それが見たい。決まりだ。」


 ぐっと腹を押される。気持ちが悪い。これは、人間の考えなのだろうか。同じ、人間の。

 あまりの気持ち悪さに吐き気を催してえずく。すると桂花はおや、と言って『』の腹から手を退けた。吐瀉物がかかるのは避けたかったのだろう。逃げるなら今しかないと思った。

 それからの『』の動きは速かった。テーブルに残っていたナイフで桂花に襲い掛かる。

「おっと。危ないな。」

 しかしするりと避けられて、腹を蹴り上げられた。かはっ、と唾を吐くと桂花が嫌そうに顔を顰める。

「お腹に障ることはしてはいけなかったな。すまないね。」

 この男はまずい。心をぐちゃぐちゃにされてしまうと直感的に察した。逃げなければ。立ち上がろうとしたその頰を蹴られて、鼻血が飛び出した。

 それでももう大人しく席に着く気はなかった。逃げなければいけない。這いつくばってでも距離を取って、遊ばれていることがわかっても立ち上がって駆け出す。

 しかし、ドアは開かなかった。当たり前か。桂花は不敵な笑みをたたえたまま近づいてくる。

「脆い子だと思っていたが、なかなか悪くない。心は折れているのにそれを認めない頑固さがあるようだね。」

 ガチャガチャと壊れるほどにドアノブを動かした。ここは高い位置にある。大きな窓があるので普段ならば飛び降りて逃げるが、今は『異能』が使えない。どうにかしてこのドアを開けるしか逃げる道はなかった。

「開かないよ。いや、開いたところで逃げおおせる体力はもう残っていないはずだ。」

 それでも。近寄ってくるこの男のプランとやらに使われるくらいなら。


「あんた、気持ち悪か。」


 震えながら睨みつけた。怖くてたまらない。桂花との距離はもう幾ばくもない。

「鬼崎さんがあんたに似らんでよかった。あの人はあんたみたいに気持ち悪くなかけんね。人の命を何とも思っとらんあんたなんか、ッぅ!!」

 桂花の手が首に伸びてきて持ち上げられた。そのまま壁に押し付けられる。体重が乗るので首はよく絞まった。苦しくてもがく『』。桂花は彼女を冷たい目で眺めた。

「……喧しいな。先に廃人にしてしまった方がマシだろうか。ああ、だがしかし、それだと面白くないな。」

 耳の中でキーンと何かが鳴る。視界が狭まる。顔がカッと熱くなっていく。死ぬかもしれない。だが『』はそれでもいいと思った。こんな男の相手をするくらいなら、死んでしまった方が。



 パリーンッ!!



 ガラスの割れる音がした。桂花はほんの少し驚いたような顔をしたが、手は緩めない。“誰が”来たのか、彼はわかっているのだろう。


「『』!!!!!」


 その言葉を認識できない。彼が確かに何かを叫んだのに、それが何なのかわからない。だけど、必死に呼んでくれたその声に涙がぼろぼろ勝手に流れた。


「手を離せ。触るな!」


 鋭い蹴りがマトモに当たるか当たらないかのスレスレで桂花はスッと避けて『』の首から手を離した。

「おや、久しぶりじゃないか。蓮。」

 蓮はゴホゴホと咽せる『』の前に立って桂花を睨みつける。彼の表情からは激しい怒りが読み取れた。

「ここ、何階なのかわかっているか?あまり危ないことをするな。お前は昔から」

「黙れ。貴様に懐かしまれるような過去など捨てたわ、外道が。」

 ピシャリと遮ると蓮は『』の方を見た。真っ赤に腫れ上がった頬が痛々しく、彼女は苦しげに咽せ続けている。蓮の眉間の皺が深くなった。

 チャキ、と微かな金属音。桂花の目がにたりと細まる。

「いつの間に物騒なものを携えるようになったんだ?そんなもの、父親に向けるものではない。」

 蓮は腰に差していた刀を抜いた。彼からは明確な殺意が漏れ出ている。

「俺の父親は師父ただ1人だ。貴様の血が半分でも通っておることに誇りなどない。」

 桂花の口角がニィッと上がった。刀を向けられて喜んでいるのだ。

「いつまでも反抗期が治らないな、れ」

 油断していたその背中に石礫が襲いかかる。反応の遅れた桂花はまともに食らって、その鼻先を刃が掠めた。

「はは、我が息子ながら恐ろしい。いいのか?私を殺せばそこのお嬢さんと添う前に刑務所行きだ。」

「構わんさ。貴様の血を継いだ時点で俺の運命は煉獄行きと決まっている。」

 桂花は決して笑みを崩さない。とはいえ蓮の相手は手に余るらしく、余裕のなくなった彼は『』に目を向ける。彼女は依然として蹲っていた。

 攻撃を躱すフリをして桂花の手が『』に伸びる。彼女の腕を捕まえた、そう思った瞬間にその手が切り刻まれた。桂花は驚きに目を見開く。

 いつの間にか『』の足から拘束具が外れていた。桂花を襲うときに握ったナイフを使ったのだろう。彼女の目に幾分かの光が戻ってきていて。

「……分が悪いようだ。」

 呟いた瞬間、『』から桂花の体勢を崩すほどの風が巻き起こる。ぐらついたその腕を蓮の刀がざっくりと切り裂いた。

 桂花はそのままふらふらと蓮が蹴り割った窓まで退がる。何かに気づいた蓮はすぐに手をかざして『異能』を。


「すぐに会うことになる。また、な。」


 しかし発動するよりも早く桂花は躊躇いもなく窓から後ろ向きに落ちていった。蓮が駆け出して下を見るが、すでに彼の姿はない。

「逃げたか。」

 チッと舌打ちをする蓮。彼は苛立たしげに刀の血を払って鞘に収めると、『』に駆け寄った。

「『』、逃げるぞ。そのうち騒ぎに気づいてここに人が押し寄せる。」

 その言葉に『』は恐る恐る顔を上げる。戦闘を終えて、すっかり青白くなってしまったその顔には桂花の返り血が。


「鬼崎、さん。」


 小さな声だ。怯えているような、そんな。


「私、『』ですよね。わかるはずなんです。わからないといけない。だって、おかしいもの。」


 それを蓮は痛々しいものでも見るような目で見た。『』の震える手を取って、ぎゅっと握る。彼の方が苦しそうな顔をしていた。


「どうしよう。私、“自分の名前”がわからなくなっちゃった。」


 『』の目からぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。蓮は彼女を抱き寄せて、大丈夫だ、と安心させるように背中をさする。

「安心しろ。俺がわかっている。今は、立て。今止まってしまえば、お前さんは2度と立ち上がれない。」

 今の彼女には厳しい言葉だ。それでも鼻をすすりながらでも『』ははい、と返事をした。


 

 ビルから逃げおおせた2人はそのまま人目を避けるように小走りである路地裏に辿り着く。そこに、1人の男がいた。彼は蓮を見てホッとした顔をする。

「よかった。本当によかった。ありがとう頭目殿。」

 美しい顔立ちの中性的な男だ。白衣を着ていて、その柔和な瞳は確かに見覚えがある。そんな気がするのに。

「いや、大変なのはこれからだ。……2人とも、互いの名前はわかるか?」

 顔を見合わせる『』と白衣の男。お互いに頭にもやつく何かがあるようなないような。少なくともパッと浮かぶ名前はなかった。

「……わかんないや。」

 白衣の男があはは、と頭を掻く。『』もわからないことに賛同するように頷いた。だけど、1つだけ。

「この方の名前はわかりません。ですが、その。」

 2人の注目を浴びて変な緊張をしつつ、『』は心によぎった奇妙な感覚をそのまま口に出した。

「貴方が無事でよかった、そう思うんです。」

 その言葉に白衣の男はニコッと笑った。きっと彼も似たような心境なのだろう。

 しかし蓮は渋い顔をしていた。それを見た『』は気を引き締める。たぶん、良い状況ではないから。

「……それは重畳。とはいえ、あまり呑気な事態ではない。2人とも桂花の『異能』を浴びている。互いの名前がわからないのがその証拠だ。」

 『』も白衣の男も頷く。さすがに話の流れで自分たちが本来であれば面識があることくらい気づいていた。名前がわからないのはおかしいのだ。

「こうなった以上隠し立てしたとて意味はない。桂花の『異能』について説明する。ただ、その前に。」

 蓮がふと、2人を隠すように立った。その後ろを駆け抜けていく人影。

「……探されているようだな。場所を移そう。」

 そう言うと彼は路地裏の暗がりに溶けるように進んでいく。白衣の男も黙ってそれを追った。

 『』は少しだけ立ち止まって空を見上げる。時刻はいつの間にか夕方になっていて、辺りを闇が包み込み始めていた。それに、ひどく不安を覚えて。


「『』。」


 蓮の声だ。ハッとして顔を上げると、彼が手を握ってくれた。


「帰ろう。」


 彼の手は、ひどく温かった。



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