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custard  作者: 洋巳 明
3/9

3話 静かな夜


 可愛い女の子になりたかった。背が低くて、ふわふわしていて、ピンクと白で彩られたような“女の子”。守ってくれる人の後ろに隠れることが許されていて、それを当然だと微笑む傲慢さが欲しかった。


「池田って男の趣味悪いよな。」


 学生時代。一緒に帰るとき宵人は必ず自転車を降りて歩く。異局附属の高校で寮生じゃない生徒は少なくて、その上徒歩で帰る生徒は更に少なかった。

 地方から越してきた杷子はすぐには周りと馴染めず、道に迷っても頼れる相手はいなかった。そこで助けてくれて仲良くなったのが1つ上の先輩であった宵人。随分と懐かしい話だ。

「え、突然ひどくないですか、先輩。」

 人通りの少ない住宅街をぼそぼそと歩く。本当に何気ない帰り道。それでもなんとなく印象深いやり取りだった。

「池田の良さをわかってないやつばっか選ぶじゃん。今回のやつだって『思ってたのと違った。』とか、思ってた通りの人間がいてたまるかって。」

 毒づく宵人。杷子は思わず苦笑いを浮かべる。先日別れたばかりの彼氏は宵人と同学年であったのでその素行は知っていたのだろう。付き合う、と報告したときも渋い顔をされた。

「も少し相手を選べよな。いつか痛い目見るぞ。」

 カラカラと転がる車輪の立てる音が心地いい。この頃の宵人との関係性は周りからすればどうして彼と付き合わないのか、といった感じ。親元を離れた杷子のことを最も気遣ってくれていたのは彼だったから。

 世話好きな人だと思っていた。同時にかなり物好きな人だな、とも。アリかナシかでいえば完全にアリだったが、彼をそういうカテゴリで括ることが勿体なくて言い出すことはしなかった。知ってか知らずか宵人の方からも何も言われることはなくて。

 でもこうしてよく苦言は呈された。お節介なそれのぬるい優しさに甘えかかりつつ杷子は唇を尖らせる。

「そう言われても、私の良さなんてわかりませんもん。先輩はわかるんですか?」

 宵人の目がこちらに向いた。彼の目は不思議だ。普段は温かみのあるヘーゼルなのに、光に透かされると奥の藍が透けて見える。

 それに見惚れていたはずだった。


「わかるぞ。」


 思わずぎょっとする。聞こえてきたそれが宵人の声ではなかったから。


「知りたいならいつでも教えてやろう。俺はいつもそう言っているぞ。」


 あんたには訊いとらん。反射的にキッと睨みつけてしまった。自分を射すくめるようなこの目にはやはり素直になれない。


「杷子、お前さんがどうして俺に対して意地になるのか。自覚は、ないだろうな。」


 口元に浮かぶ微笑。流れるような深紅。夢だと気づいたのに覚めないで、と思う自分が。




「…………。」

 目をゆっくりと開く。頭がガンガンと痛んだ。寝覚めの気分としては最悪だ。

(……嫌な夢。)

 頭を押さえながらごろりと寝返りをうつ。そのとき視界に映ったスラックス。それにハッとして杷子は慌てて起き上がった。

「お、おはようございます!すみません、いらっしゃるなんて。」

 彼女の眠っていたベッドの脇に、座って資料を読み込んでいる惣一がいた。彼は杷子が目を覚ましたことに気づいて彼女をじっと見て微笑んだ。

「無茶をしたねえ。」

 惣一はゆっくりと杷子に向かって手を伸ばし、彼女の服の袖を捲り上げる。いつの間にか病院服に着替えさせられているようだ。容易く晒されたしなやかな腕には包帯が巻かれている。すぐにそこが飴屋に刺された場所だと思い出した。

「……うん。マシになったみたい。調子はどう?」

 自分のいる場所が惣一の診療所であることにホッとしながら杷子は問題ないと伝える。頭は痛むがそれ以外は今のところ問題ない。

「……すみません、ご迷惑をおかけしました。」

 続けて謝って項垂れると笑われてしまった。惣一の世話になるのは久しぶりで、気まずいような変な感覚が体を満たす。杷子の腕を丁寧に触診しながら彼は口を開いた。

「飴屋。不思議な『異能』だねえ。量によって段階的に作用する『力』ってところかな。なかなか興味深い。」

 どうして現場にいなかった惣一が飴屋のことを。一瞬固まるが、すぐに誰の仕業か気づく。

「宵人くん呼べばもっと詳細がわかるのに。どうしても駄目なの?早岐くん。」

 シャッとカーテンの開く軽い音。涼しげな顔をしてベッドを挟んだ惣一の向かい側に腰掛けたのは一巳である。彼には傷一つないようだ。

「んー、駄目ですね。あいつにはあんまり旭さんの件に関わらせたくない。その理由は先生の方がよくわかってるでしょ。」

 その言葉に肩をすくめた惣一は杷子の腕から手を離して立ち上がった。

「まあ、良くないだろうね。感度の良さとお父さんのダブルパンチ。でもねえ、過保護すぎじゃない?」

 面白がるような惣一の視線を受け流して肩をすくめる一巳。それを見た惣一は澄ました顔で再び口を開く。

「そ。まあ気持ちはわかるからこのくらいにしとこ。じゃ、何かあったら呼んで。」

 小さな微笑みを浮かべながらカーテンの方へ向かう彼の背を見送った後、杷子の額に一巳のデコピンが飛んでくる。小さな痛みに杷子は呻いた。

 一巳の方を見ると彼は目にも口元にも笑みを浮かべておらず、珍しく説教の気配が漂う。それに気まずさを覚えつつ、じっと押し黙っている彼の態度から『話を切り出せ』と示されていることに気づいた杷子は口を開いた。

「……私が気を失った後、どうなったんですか?」

 飴屋との戦闘の後、相打ちのような結果になったような覚えはあるが、そこからこの惣一の診療所まで来た経緯がわからない。たぶん一巳が何かしらしてくれたのだろう。

「通信が途絶えた後、俺も襲われたんだよ。到着に手間取って受付に話通してたら上からけたたましい音がして。様子見に行ったらお前だけ転がってた。」

 飴屋には逃げられたのか。そこに関しては苦々しい結果になってしまった。失敗した、という表情を浮かべた杷子に畳み掛けるように一巳は続ける。

「ったく。飛び降りるバカは1人で足りてるんだけど?てか飛び降りるんなら交戦前にしろよ。合流が最優先。」

 小突かれて杷子は俯く。話に気を取られて油断した隙に相手の『異能』を食らったのだ。敵前だというのに緩んでいた。

「ま、でも収穫はあったね。録画録音共に良好。俺の手の内がバレてなかったのはでけえわ。」

 ちゃっかりあんな状況でもデータを残していたのか。末恐ろしい男である。杷子はありがたく感じつつ、少々怖くもなった。

 しかし、一巳はいつの間にカメラを仕掛けていたのだろう。あれについては杷子も知らされていなかった。

「早岐さん、いつあの店に入ったんですか?どうしてそんなめんどくさいことを。教えてくだされば私が仕掛けておいたのに。」

 それはあまりにも間の抜けた言葉のように響く。一巳が呆れたような顔をした。え。何か変なことを言っただろうか。そんな杷子の反応を見た一巳からすぐにもう一度デコピンが飛んでくる。

「ばーか、お前に仕掛けさせたらカメラ気にするでしょ。それにワタナベに気づかれたら困る。」

 それに対して杷子は何も言い返せない。別に演技が上手いわけではないし。

「でも、それにしてもどうやって?相手がどうしてあの部屋に通されると思ったんですか?」

 純粋に疑問に思ったことを訊いてみると、一巳は肩をすくめた。

 一巳の『異能』の発動条件は『相手と目を合わせること』。カメラ越しなら通用するが、さすがに声だけでは使えない。だが、どうやって飴屋が倒されるのがあの部屋だとわかったのだろうか。

「あの店で働いてる子に訊いた。あそこ、やけに広くて綺麗な部屋だったよね。ナンバーワン専用の部屋らしいよ。それならワタナベが飴屋と通じてる場合、そこ使う可能性が高いでしょ。」

 それは、今回のことでアスカへの疑いはより深まったということか。そのことに関しては胸の中を暗い何かが満たすようだった。

 それにしても“訊いた”とは。そう表されたことに顔が引き攣る。杷子の表情を見た一巳が今日初めてニヒルな笑みを口元に浮かべた。

「何?池田は俺が付き添ってる間ずっと遊んでたと思ってたの?心外だね。」

「遊びはしたんでしょう!全く!課長にどういうふうに経費申請するんですか!」

 内情を知るために店で遊んだか、仕事上がりの女の子を引っ掛けたのだろう。相変わらず手癖が悪い。

「はいはい。説教する奴も足りてんだわ。ひとまずこれで一旦裏からは引き上げね。」

 そう言ってまとめた資料を手に立ち上がる一巳。対して杷子は固まった。引き上げなんて聞いていない。

「どうして?まだ、私。」

 口に出してしまってからハッとする。気づけば一巳が静かにこちらを見つめていた。彼の言いたいことがわかった杷子は苦く俯く。

「俺たちの仕事は杉崎勇気の事件の再来を防ぐこと。旭兎美を救うことでも、鬼崎蓮を探すことでもない。……理解してる?」

 ぐ、と言葉に詰まる杷子。一巳の目はねぶるように彼女を見て細まった。

「池田、俺たちは趣味で動いてんじゃねえんだわ。局は7年前、杉崎勇気によって多くの人員を失った。その被害を知ってるから今、特務課に動く許可が降りてる。」

 今回飴屋に接触したことでこの件に対する様々な糸口が見つかった。もう裏で情報収集をせずともやらなければならないことはたくさんある。だけど。

「ですが、飴屋の話からすればやはり鬼崎桂花が絡んでいます。彼からまだ。」

「それはもうお前の役目じゃない。」

 ピシャリと遮られる。反論されるとはわかっていたのに思わず口を開いてしまった自分が恥ずかしい。杷子は眉間に皺を寄せた。

「囮としてはもう十分でしょ。これ以上は悪手。それに別に俺たちにとって鬼崎桂花は重要じゃない。ラパノスが事を起こすときに控えてりゃいいだけ。」

 正論だ。そもそも事の発端自体、自分の我儘に一巳は付き合ってくれた。引き際は今なのも理解できる。だけど諦めきれないと叫ぶ自分もいた。

「……あのさ、池田がこれにこだわる理由って何?」

 確認のように問われて杷子は言葉に詰まる。一巳も忠直もきっと気づいていて見逃してくれていたこと。

「当てられたくないでしょ。なら、大人しく退いてくんない?今度こそ俺が引き継ぐ。お前にも振るところは振るから。」 

 一巳に任せる方が正しいのはわかっている。普段ならば問題ないが、今の状況では杷子は桂花に狙われている立場なのだ。大人しくしているのが身のため。なのに。

「…………そうやって、1人で片付ける気ですか。」

 立ち去ろうとしていた一巳があからさまにぎくりと固まった。彼は呆れたようにため息をついて眉間に皺を寄せる。

「いい度胸だね。余計なお世話だよ。」

 今、一巳と宵人は少々ギクシャクしている。宵人の方が特務課から離れて動いている影響も大きいのだが、それ以外にも彼は何かしらに巻き込まれているらしいから。

 一巳が頼る相手は基本的には宵人だけである。というよりも1人で動きがちな一巳の動きに過敏なのが宵人。それで普段はバランスが取れているのに今の一巳は。

「いえ。余計ではないと思います。……桂花に狙われていようとも、私にできることはまだあります。辛辛楼でのシフトは減らしますから、どうかまだ私にも動かせてくれませんか。」

 ずるい手だとは思う。だけど一巳はわりと今手一杯だろう。その上こんな重たい業務を負うのは。

「…………っんと、お前って生意気。そういうとこ嫌い。」

 ベッドから少し離れていた一巳がつかつかと近づいてきて、ごつんと軽く拳骨が落ちてきた。痛くないがぐりぐりされると髪がぐしゃぐしゃに。

「今回みたいな無茶したら速攻外してやる。あとは旦那にうつつ抜かして仕事そっちのけにしたら1ヶ月パシリの刑ね。」

 思わず顔を上げて口をパクパクさせる杷子。自分の頬が熱いのがわかる。

「そ、それは言わない約束じゃっ!!いや、違う!!うつつなんて抜かしてなか!」

 へえ?一巳はそう言いたげにニヤリと笑った。



 辛辛楼の存在する建物の3階から5階までは従業員のためのアパートになっている。狭いワンルーム。ユニットバスと小さなキッチン。あとはロフトのついているだけのこじんまりとした部屋だが、杷子は案外ここが嫌いではなかった。

 もちろん、普段生活している家も別にある。しかし裏にも拠点がある方が便利なことも多い。例えば。

「わーっ!ここがあこちゃんの部屋なんだ。ふふ、いい雰囲気ね。」

 こういうときである。裏で関わっている人間に本当の住所を教えるわけにはいかないから。

 重傷を負ったわけではなかったので事件の翌日には退院して、その翌日にはもう辛辛楼でのアルバイトに復帰した杷子はアスカにたくさん頭を下げられることになった。彼女はむしろ協力してくれた側なのに、と思いつつ飴屋の態度から彼女はあちら側の可能性が高いことに辟易して。

 落ちた位置と打ちどころが悪くなかったため軽傷で済んだという苦しい言い訳をするとアスカは案外すんなり信じてくれた。よかったね、と笑う彼女を疑うのはすごく胸が痛い。

 そんな杷子にアスカの方から約束していた飲みの話を切り出してくれたのだ。そして杷子が選んだ場所はこの間借りしている狭い部屋だったというわけで。

「お酒とおつまみ足りますかね?」

 買ってきた酒の数々を簡易テーブルに並べるアスカの背中を眺めながら杷子は氷を小さな冷凍庫に突っ込む。グラスを2つ取り出したときにアスカの笑い声と返答が。

「足りるよー!あこちゃん、どんだけ飲む気?」

 けらけらと笑われた杷子は肩をすくめる。過去に上司2人と飲んだときに一巳を酔い潰してしまってうわばみと呼ばれた前科があるのだ。その程度には酒に強かったから、いかんせん笑えない。

「病み上がりなんだし、無理しちゃ駄目だよ?」

 甘い匂いが鼻をくすぐった。そう思った瞬間、洗い終えたグラスが攫われる。アスカが運んでくれたのだ。

「あれ、もう開けるんですか?先にシャワー浴びてきた方が。」

 杷子が言い終わらないうちにカシュッという景気の良い音。アスカはニコッと笑った。

「私、シャワー浴びてきちゃった。あこちゃん行ってきていいよ?」

 そういえばそうだ。彼女は仕事上がりにここにいるのだから。

 なんとなく生々しい感じがして複雑な気分になる。変な感情だ。杷子はそうですか、と返事をして突っ込んだばかりの氷を取り出して自分もテーブルの付近に座った。

「私ももう浴びたんです。2人とも問題なさそうですし始めましょうか。」

 

 3時間ほど経っただろうか。杷子は表情を変えずにグラスを傾けた。その向かい側で赤い顔で楽しそうに適当な話をするアスカ。彼女はすっかり酔っ払っている。

「でねー?そのお客さんのお店通いが奥さんにバレたとき、ほんっとうにすごかったんだから!!」

 話題は下世話なものも多かったが、身振り手振りの大きい彼女は話し上手だった。つまみを口に運びつつ、杷子も普通にこのひとときを楽しんでいた。

「やっぱり一途なのって面倒なのよね。自分が愛しているのだから当たり前に愛されたいって願うの。馬鹿みたい。」

 そのやけに肉感のある言い草に杷子は思わずアスカをじっと見つめた。杷子の視線にくすりと微笑んだアスカはグラスの縁を指で弄びながら揶揄うように言う。

「心当たりでもあるの?惚けちゃって。」

 言外に蓮のことを言われている気がして杷子は眉間に皺を寄せた。それを見てアスカが楽しげに笑う。

「あはは、あこちゃんって素直。蓮くんなんて信じない方がいいよ。あの人、まともに人を愛せる気がしないもの。」

 悪口というよりももっと何か他の事情を知っているようだ。杷子は黙ってアスカが続けるのを待った。

「私も相手したことあるけどね、空っぽなの。気持ちいいだけ。すごーく空虚な人よ。底の割れた瓶みたい。」

 彼の女性遍歴はざっくりと知っていたが、実際に相手をしたことのある話を聞くと。杷子はフン、と鼻を鳴らしてグラスを傾けた。

 アスカはわざと嫌味な言い方をしている。その真意のほどはわからないがまるで蓮に近づくと碌なことがない、と示されているようだ。それが少し癪に触った。

「私もそれくらいわかってますよ。追うだけ無駄な人だって。」

 拗ねたような口調になってしまったのでアスカには笑い飛ばされるだろう。そう思ったのに景気のいい笑い声は耳に届いてこなくて、代わりに切なげな視線を向けられた。

「……ふふ。可哀想ね。あの人のこと本気で好きなんだ。」

 誰もがはっきりと口に出すことはしなかった言葉がアスカの口から飛び出して、杷子は思わず酒を喉に引っ掛けた。ゴホゴホと咽せながら悔しい気持ちになる。動揺する時点で負けなのに。

「聞かせてよ。本気で人を好きになるってどんな気持ち?」

 その赤い頬でアスカがかなり酔っ払っていることはわかるのにその目に奇妙な鋭さ。それに居心地の悪さを覚えつつ杷子は口を開いた。

「……あの人とは本当にそういうわけじゃないです。すごく曖昧な感情を抱いてるだけだから。」

 きょとんとされたのがわかった。でも口を挟む気はないらしく、アスカは大人しくこちらをただ見つめている。それに甘えて、酒の勢いもあって、杷子はなんとなく口が緩くなった。

「実際あの人がどういう想いで私に構ってたのかは知らないし、ま、遊ばれて捨てられたわけですし。」

 それに、別に普段から口説かれていたわけではない。稽古は容赦なかったし、生傷を作ることも少なくなかった。無駄な動きをすると叱り飛ばされることもあった。でろでろに甘やかされたわけではない。むしろ距離感は保たれていた方だ。

「あの人が私の前から消えて、殴りたい気持ちは本当です。だけどその後にどうこうしたいはありません。……あはは、殴りたい割には私も本気じゃないのかも。」

 グラスを傾ける。甘い果実酒の奥に潜むアルコールの匂い。苦くて鼻に残る。

「……それならあこちゃんはさぁ、どうして蓮くんを殴りたいの?」

 自分でも確信を得たくなくて誤魔化すように笑った杷子に、アスカは真面目な声色でそう尋ねた。

 ほんの少し気まずくなった杷子は目を逸らして彼の深紅を思い浮かべる。どうして彼を殴りたいのだろう。

 蓮は一言で言えば美しい獣だ。言葉が通じないような飄々とした雰囲気やゾッとするほど熱い視線。あの男に対する明確な欲望。それは。


「……あの人に疵を残してみたい、とか?」


 思わず口から溢れていた言葉に杷子は驚いた。そんなことを思っていたのか。

 自分でも持て余すような感情。これは蓮に触れられたときによく胸を満たしていたもの。焦りから手汗がじわ、と染み出してグラスが滑った。ほんの少し溢れた中身を拭くために目を逸らして。

 なんとなくまずい発言のような気がした。アスカに怪訝な顔で見られやしないだろうか。

 しかしそんな杷子の杞憂を嘲笑うようにアスカが吹き出した。

「あははっ、何それ?なんで疑問系なの?あこちゃんの恋愛観不思議ね。」

 ウッと言葉に詰まる杷子。こんなに笑い飛ばされると変な羞恥心が体を満たす。それでもこれ以上口を開くと更に笑われそうで嫌だったのでそっと口を噤んだ。

 アスカは特にそんな杷子に気を払う気配もなくお代わりを注いだ。上がっていく水面がゆらゆら揺れた。

「疵、ねえ。……でも、確かにそれだったら一生残るものね。」

 カラカラと小さくなった氷が音を立てる。遠くを見るアスカは何かに思いを馳せているようだ。

「……………。」

 2人の間に長い沈黙が訪れる。でもそれは不快なものではなく必要なもので。くゆる酒の表面を眺めながら杷子は何の気無しに尋ねた。

「ワタナベさんは、本気で誰かを好きになったことがあるんですか?」

 単純に気になった、ということもある。でも口を開いた1番の動機としては、アスカがそれを訊いて欲しいような気がしたから。杷子の予想通り彼女はたじろぎもせず小さく微笑む。

「あるわよぉ。こんな年齢まで生きてれば本気の恋の1つや2つあっておかしくないもの。」

 それは、どんな。視線だけで問うとアスカはグラスを傾けた。

「もう、何年前かも忘れちゃった。その人なら本気で愛してくれる、なんて思って。若かったわね、私も。」

 酔っ払いの顔をしている彼女はグラスを置いて豪快に胡座をかく。長くて細い足が躊躇いもなく開かれた。

「だけどあの人にとっては私だけじゃなかった。『愛してるよ』なんて軽い言葉よね。他の店に入っていく彼を呼び止めることすらできなかったわ。だって、彼と私はお金で繋がっていただけだったんだから。」

 アスカの目を見つめる。じんわりと滲む切なさがまだ彼女の方は思うところがあることを示していた。未練が残っているのだろうか。

「……それは、その人に確認したんですか?」

 杷子の言葉にきょとんとするアスカ。彼女は杷子が何を言いたいのかを掴みかねているらしい。

「その、お金だけの繋がりだったって、確認を取ったんですか?」

 アスカは明らかに難しい顔になった。いつもへらへらと笑う彼女のそういう表情は初めてで、痛いところを突いたのだなと察する。

「それは、取ってないけど。だけど他のお店に入ったのよ?もう決定的な証拠じゃない。」

 突き放すような言い方をされてしまうとこちらとしてはもう食い下がることはできない。アスカにとっては終わった話なのだろうし、変に話を広げることもないか。

「それにもう今更遅いから。私、今は普通に好きな人いるし。」

 そういうふうに人心地つけた杷子に向けられた、一瞬だけ見えた動揺を隠すようなニヤリとした笑顔とともにアスカは軽くそう言った。杷子は目を見開く。

「え、そうなんですか!?な、なんだぁ。ワタナベさんが納得してないみたいだったからずっとその前の人を引き摺ってるのかと。」

 少々失礼な物言いをするとアスカに小突かれてしまった。

「やだ、あこちゃん、それは失礼でしょ?もう!私にはその人がいるし、前の人ももう私のことなんて忘れてるわよ。」

 いつも見せていたヘラヘラした笑顔だ。だけどほんの少しだけそれに切なさが混じっていて。やはり何かしらの未練はあるのだろう。

 それを感じつつも深く立ち入ることはせず、夜は更けていくのだった。

 

 

 裏、と呼称するこの場所にも名前はある。『竜胆横丁』。あえて名前を呼ばないようにするのは愛着を抱かないようにするため。なんて嘯くのは弱さを隠すためか。

 眼下に広がる景色はこんな汚れた世界の隅に似合わない煌めき。この小さな明かりのどこかに“彼女”もいるのだろう。

「蓮さん。」

 しっとりとした女の声。窓の外から意識を戻して座敷の方を見やると艶やかな着物で飾った女がいた。

「またぼんやりしてる。こんないい女捕まえて放っておくなんて。」

 拗ねたような口ぶりだ。蓮はフッと不敵に微笑んで再び夜景に意識を戻す。

「……随分とつれない人になったのね。もしかして、誘われるのを待ってる?」

 する、と着物の袖から入り込んでくる柔らかい女の手。温くてふくふくしていて。

 蓮はちらりとそちらを見て女と目を合わせる。期待の籠った女の目。それを裏切るように蓮の腕が女の手を剥がすように持ち上げられ、彼女の頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「悪いのう。当方、厄介な約束をしとるもんで。」

 怪訝な顔をする女に笑いかけもせずに蓮はひたすら外を見つめ続ける。女はもう一度彼の手を掴もうとするが緩く抜けられた。

 それを不満に思った女が口を開こうとしたとき、部屋に繋がる襖の向こうから声をかけられた。

「鬼崎様にお客人です。通してもよろしいですか?」

 外を見ていた蓮がニヤリと微笑む。待ち人だ。

「ああ。頼む。……すまんが、外してくれるか?」

 拗ねたように自分を睨みつける女の横をするりと抜けて蓮は部屋の真ん中に立った。ガラリと音を立てて襖が開く。

 立っていたのは着流し姿の容姿の整った男。サラサラの茶髪にアーモンド型の大きな瞳。彼は緊張も萎縮もしていない。ただ、やっと見つけた、とでも言いたげにため息をつく。

 彼に見惚れるようにしながら女が部屋を出ていくと同時に襖が閉まった。蓮は予想と少し外れた人物の登場に目を丸くしつつ、笑みは崩さない。

「ちゃんと話すのは初めてだな。鬼崎蓮だ。そういえば兄ちゃんは予見の関係者だったか。」

 顔を見ながらそう言うと、男は肩をすくめてほんの少し嫌そうな顔をする。何か気に障ることを言ってしまったらしい。

「どうも。早岐一巳と申します。初っ端に予見のこと言われたのは久しぶりだわ。」

 蓮は彼の名前を聞いて頷く。その名は杷子からよく聞いてたものだが、麗佳や早岐家の双子からもたまに聞いたことがあった。

「なるほど。あんたが予見家の忌み子か。確かに顔はあの跳ねっ返りにそっくりだな。」

 その言葉により嫌そうな顔をする一巳。彼は懐から黒縁の眼鏡を取り出して掛けた。そうすると多少、顔の印象が変わる。

「否定はしませんが俺はあの家とは縁を切ってるんでね。ここでは局の人間として扱ってください。」

 これは触れてはいけない部分だ。そう理解してはいたが、少し気になる点があったので突いてみる。局の人間として扱え、と言いつつここまで辿り着けたのは彼が家の力を使った気がしたから。

「にしても兄ちゃんはどうやってここに辿り着いた。結構深部のはずだが。」

 大方の予想はついていたが訊くと一巳は肩をすくめた。やはり嫌そうな顔をしている。

「ふうん。わざわざ訊くとは旦那、結構意地が悪いんですね。義姉に協力してもらいました。早岐夕鈴。わかってたでしょ?」

 ここ最近、自分のことを嗅ぎ回っている誰かの存在には気づいていた。それが夕鈴であったので、麗佳の身に何かあったのかと探りを入れてみたが、麗佳自身には特に何も起こっていなかった。しかし、彼女の側近である早岐明鈴の身には厄介なことが起こっていて。

 なので誰かしらがそろそろ訪ねてくる気はしていたのだ。明鈴の件も調べてみれば“ラパノス”が関わっていたから。

「ああ。知っていた。本当は忠直か早岐の弱気な方の姉ちゃんが来るかと思っていたのにどうして兄ちゃんが、と思ってな。」

 そこは本気でわからなかったので尋ねると、一巳は呆れたように微笑んだ。

「前提が違う。俺は明鈴の件でここに来たわけじゃないですよ。まあ話していただけるなら聞きますけど。」

 おや。蓮は目を見開く。少々的外れな考察をしていたのかもしれない。では一巳は何のためにここへ?

「旦那がいなくなると不安になるやつがいまして。例えば不安でいてもたってもいられなくて、仕事を大義名分にあんたを探そうとしてるうちの部下とかね。」

 その言葉に対して自分がどんな顔をしてしまったのかは思い出せないがかなり滑稽だったのだろう。一巳が吹き出して笑い始めた。

「ははっ、それ、どういう感情?ウケる。把握してなかったんですか?あいつ今、辛辛楼でバイトしてますよ。」

 すぐに杷子の顔が浮かんだ蓮は複雑な感情を溶かした顔をする。桂花のことがあるから『来るな』と言い残して姿を消した。蓮はそのまま深部で身を潜めていたのだが。

「……まさか探されるとは思わなんだ。うむ、いや、非常に良くない。良くないんだがな。」

 変な気分だ。自分を求めて彼女が嫌悪していたこの場所に足を踏み入れたなんて信じられない。そのせいで緩みそうになる頬をぐっと引き締めて、蓮はなんとか気難しい顔を保った。余計変な顔になった気もするが。

「うへえ。あーあー、勘弁してくださいよ。一応真面目な話をしに来たんで。」

 しっしっと手で一瞬漂った甘い雰囲気を追い払うような仕草を蓮に向けながら、一巳はニヤニヤ笑う。気恥ずかしさに襲われつつ、彼に視線で座れ、と示して蓮は運ばれてきたお茶を啜った。

 

「なるほどねえ。ま、今はこの程度のことしかしてなさそう。……この件じゃリーダーまでは引っ張り出せなさそうだな。」

 蓮とそれぞれに調べた資料を交わして一巳が顔を顰める。向かいに座る蓮も気難しい顔をしていた。

「組織の構造としては『杉崎勇気』がリーダーとして中核を担い、末端で奴さんらの作った『力を濁らせる薬』の臨床試験を行わせているっちゅうわけか。そっちの方は兄ちゃんの相方が調べておる、と。」

 頷く一巳。現在、捜査課の方を騒がせている“異能力暴発事件”。忠直から得た資料によると、そちらの方は宵人が調べている。

「加えてうちの義姉の片割れの自称婚約者サンがラパノスの末端。ふはっ、でもこいつ無能だな。私情で薬使ってやがる。宵人が巻き込まれてんの、こいつによる妨害行為ってわけね。」

 楽しそうにそう言う一巳の目は笑っていない。不愉快な気分を紛らわせるために笑っているかのようだ。

「うちとしては薬の出どころが気になるところですね。被験者のリストも。お宅としては……鬼崎桂花の動向の方が重要?」

 くりんとしたアーモンド型のその目がこちらに向くと変な緊張感がある。たぶん無意識だろうが、それは目を使う異能者特有のものだ。射すくめられれば何か大切なものを刈り取られるだろう。今の彼にはそういう気はなさそうだが。

「……ああ。そうなる。いい加減奴の好きにさせるのは癪でな。俺としてはあまり“ラパノス”の方に興味はない。勿論、“般若の面の頭目”としてであれば局から要請が降りれば協力は惜しまんが。」

 一巳の目がフッと細まった。彼がここまで来たのは仕事半分、私情半分というところか。蓮に全面協力を頼みに来たわけではないだろう。

「それはうちの課長からそのうち降りるかもしれませんけどね。今はわりと俺に丸投げしてるんですよ、あの人。」

 忠直の顔を思い浮かべる。あの友人は何でもない顔をして人を動かせる人間だった。この部下たちの行動力を見ていればどのように仕込まれてきたのか手に取るようにわかる。

「さて、俺たちが共有できる情報はこんなもんですかね。ご協力感謝しますよ、旦那。」

 互いに調べていたことの統合は済んだらしい。しかし一巳に立ち上がる気配はなく、彼はこちらをじっと見つめている。ここからが本題か。

「で、旦那。あんた、鬼崎桂花をどうするつもりですか?」

 ゆらりと彼の目が揺れた気がした。蓮は目を細め、心地よい緊張感に酔う。

「兄ちゃんが聞いてどうする。欲しい情報は渡したはず。」

 わざとはぐらかすような言い方をしたが、一巳は挑発には乗らなかった。『異能』に頼らないまま淡々と答える。

「まあ、確かに。俺にはあんま関係ねえんだわ。でも関係ある奴がいる。あんたの返答次第で池田杷子の扱い方を変えます。」

 蓮は不敵に微笑んで徐に茶に手を伸ばした。苦味の奥の甘い深さ。良い肴を前にして酒がないのは実に残念だな、と思いながら。


「……殺す。ただひたすらにそれだけだ。」


 空気が凍りつく。蓮の声は静かだったのにそこに滲む感情は一巳の目に焼き付いた。目を見開いた彼の手に滲む汗が着流しにシミを作る。

「…………鬼崎桂花、あんたの実の父親だよな?」

 気圧されながらも絞り出された一巳の声は少し枯れていた。蓮は苦笑しながら頷く。自分が奥に秘めているものは視える者からすればキツかっただろう。

「……世の中、クソみてえな親が多いもんだな。同情するわ、本気で。」

 吐き捨てるような言い草だ。彼自身の背景も見えるようで蓮も目を伏せる。

「あの男に関しては大半諦めている。親だとも人間だとも思ってはおらんさ。」

 分かり合うことは不可能だ。そういう相手もいる。それが親だとしても。

「それでも杷子は巻き込みたくない。奴の毒牙にかかればあの子はぐちゃぐちゃにされる。他でもない俺のせいでな。だからもう会えん。」

 大半のことは諦めることができた。だが、これ以上人が自分のせいで壊されるのは見たくない。何より大事にしたい相手が壊されるのには耐えられない。

「兄ちゃん、杷子には手を引かせてくれるか。そして俺自身がもう会いたくないと言っていると伝えてくれ。」

 一巳はすぐには頷かなかった。少し考え込んで口を開く。

「もう遅いってことはないんですかね。俺たちはこの前桂花の手先と接触してます。既に目をつけられてる。今更逃げるくらいならいっそあんたが傍に置いて。」

「それは駄目だ。あの子の自由は奪いたくない。」

 すぐに遮る。その方法だと杷子は四六時中自分の監視下に置かれることになり、彼女の居場所から引き剥がしてしまう。それに。

「まだ、大丈夫だ。桂花は慎重な男でな、局の方に積極的に手を出したがる奴ではない。俺が興味を失った態度を取ればいずれ諦める。」

 間に合う段階だ。まだ。桂花と接触しない限り杷子が壊されることはない。それは蓮の経験上の結論だった。

「本当は教えておきたいんだが、桂花の『異能』について話せば兄ちゃんに迷惑がかかる。それほどに恐ろしい男だ。もう一度言う。杷子にはすぐに手を引かせろ。取り返しのつかないことになる前に。」

 強い口調に一巳は頷くしかなかった。それを見届けた蓮も頷く。

「当方の協力が必要とあらばまたここに来い。ただし、兄ちゃんか忠直。それ以外は通さん。」

 特に言い返すこともないらしい。一巳はもう一度大人しく頷いて立ち上がる。蓮も見送るために立ち上がった。

 無言で襖の方へ向かう一巳。その背をぼんやりと眺めていると、彼はふと振り返った。いつの間にか眼鏡をまた外している。翡翠の目がはっきりと見えて美しい。

「旦那、もし全部伝えても池田が諦めなかったら受け入れてやってくださいな。」

 それは重たくなった雰囲気を軽くするような柔らかい口調だった。思わずきょとんとする蓮。一巳はどこか何かを想うように微笑んでいた。ちらりと見えた彼の素の表情のような気がして。

「これでも後輩思いなんで、俺。」

 

 

 


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