2話 ラパノス
「おかあさん、今日ね、足がはやいねってほめられたとよ。」
そう。良かったわね。
「おかあさん、あのね、ははの日やけんね、
お花の絵ばかいたと。」
……こういうの、いらないって言ったのに。困った子ね。
「おかあさん、今日、友だちとケンカした。」
そう。面倒事にだけはしないで。
「お母さん、あの、私、晩御飯くらい作れるようになったとよ。」
ふうん。なら、今度からはお弁当じゃなくてお金だけ置いておくわ。
「お母さん、今度私、陸上の大会に出ると。やけん、あの。」
へえ、よかったわね。頑張りなさい。
「お母さん、私ね……。」
「あーこーちゃんっ!」
背後から声をかけられて杷子はびくんっと肩を跳ねさせた。それを見て飴を転がすような声でころころ笑われてしまう。
「わ、ワタナベさん!びっくりするじゃないですか、もう。」
杷子の背後に立っているのは美しいプロポーションを下着じみたヒラヒラしたワンピースから惜しげもなく晒している女性。
ワタナベ アスカ。彼女はひと月ほど前に出会ったとある風俗嬢である。厄介な客から逃げる手伝いをしたところ、なんとなく懐かれてしまった。
「うふふ、いい反応ね。ボーッとしてるといい男逃がすわよ?」
それには思わず苦い顔になる杷子。アスカがおや?という顔でこちらを覗き込んできた。
「やだ。何?ついにあこちゃんも私に色っぽい話する気になってくれた?」
ニヤニヤッと笑った彼女は髪の毛が混じるほど肉薄してくる。ふんわり香る甘い香水。ショートカットのサラサラの髪からはシャンプーの気配も。
「や、別に。面白い話なんてなーんにもありませんよ。」
杷子は表情を取り繕いながら立ち上がって店内を見渡した。昼でも夜でもない半端な時間。客はまばらで正直なところ暇である。
アスカはそれを狙って杷子に絡みに来たのだろう。“あこ”という杷子の適当な偽名を猫撫で声で呼んでは、このところ頻繁にここに来ている。
「嘘つき。蓮くんと何かあるくせに。」
杷子と入れ替わるように座ったアスカはニコニコと笑いながら痛いところを刺してきた。ため息を漏らすと彼女は実に嬉しそうにメニューを手に取った。
『辛辛楼』。裏と表の境にある中華料理店で、嘘か本当かわからない話も飛び交う少々危険な場所だ。昨年杷子は事件の証拠を手に入れるために一定期間ここでアルバイトをしたことがある。
なぜそんなところにまたいるのか。それは。
「で?どう?その蓮くんは見つかったの?」
その言葉に杷子が浮かべた渋い顔を見て、アスカは気遣うように眉尻を下げた。
そう。2月を境に鬼崎蓮は姿を消したのだ。杷子の前はおろか、自分が頭目を務める組織である『般若の面』にも顔を出していない。
頭目になる以前の蓮にはよくあったことらしく彼の側近である石原に慌てる様子はなかったが、杷子からすれば兎美や彼の父親の話題を提供された後に彼は失踪した。それから考えると何か掴んだから消えることを選んだ。もしくは。
最悪の事態を考えれば居ても立っても居られなくて忠直に相談した。彼は少々渋い顔をしつつ、週に一度は局にも顔を出すという条件で杷子の2度目の潜入捜査を許してくれたのだ。
そして今は5月。蓮が消えてから3ヶ月経ったが事の進捗は。
「……いえ。尻尾すら捕まえられてません。ったく、どこに行ったとやろ。」
最後の方はぶつぶつと口の中だけで言って、アスカの注文を取る。彼女はメニューを開きはするのだが必ずエビチリしか食べないのだ。
今日もいつも通りエビチリ。厨房の金さんに伝えて杷子はアスカの隣に座った。
「蓮くん、最近落ち着いてると思ってたのに。あこちゃんみたいな堅そうな子に手を出すなんてまだまだ若いねえ。」
その話題は杷子にとって罪悪感を覚えるもの。彼女は気まずそうにアスカが暇潰しに開いているメニューに目をやった。
アスカは杷子に助けてもらった恩もあり、蓮のことも知らないわけではないということで協力してくれているのだ。彼女の職業上、客との会話の中から得られる情報もあるからという善意に甘えてこうやって友好関係を結んでいる。
蓮を探している、といろんな人に聞き回っていたところ、彼に恩のある人間にはどういう了見だ?と怪しがられることが少なくなかったのだ。しかしストレートに事情を話せば自分の身分がバレる。そこで杷子が用意した言い訳は、
『蓮に遊ばれた上に捨てられた。一発殴らないと気が済まないので探している。』
という最低なものだった。
だが、裏ではこの言い訳が嘘みたいに馴染んだ。何せ彼に恩義のある人物ほど過去の彼の手癖の悪さを知っていたから。これを盾にしてからは、たまにあのバカが本当にすまないと謝られることも増えたくらいである。
「まあ、あの人気持ちも見た目も若いですから。それだけに殴りたい気持ちも強いですけど。」
殴りたいのは本音だ。姿を消すのはまだしも、全く音信不通になるのはどうかと思う。そう思わされていること自体が癪なのだが。
「あはは、蓮くん可哀想。あれ?蓮くんが悪いんだっけ?ま、どっちでもいいか。」
適当に笑うアスカの元にエビチリが運ばれてくる。オレンジ混じりのその赤に舌鼓を打ちながら、彼女はクリッとした目を杷子に向けた。
「そんなあこちゃんに今日はご朗報でございまーす。」
その目はどこか真剣味を帯びている。杷子はハッとしてすぐに気を引き締めた。これから話されるのは何かしら重要な情報だろう。
「刺青、見かけたって子がうちの店にいたの。あこちゃんが蓮くんに繋がるって考えてるやつだよ。」
ごくり、と思わず息を呑んだ。やっと、やっとだ。やっと何かが始まる、そんな予感がした。
蓮が残した情報と惣一が推察した内容を基にして既にある組織が浮上していたのだ。
『ラパノス』。体のどこかに千切られた蝶の羽のような刺青をシンボルとした犯罪組織の名前である。最近発足したということ以外その実態は不透明。調べていくうちに彼らこそが兎美を捜しているという組織だということがわかった。
しかし、それ以外はなかなか尻尾を掴めないでいた。偶然入手できたラパノスの刺青の写真に関しても慎重に使用していたのだが、どこかで足がついたのかもしれない。細々と手に入れていた情報の筋が掻き消えてしまったのだ。
だけど今、アスカから情報を得ることができた。杷子は次の段階に進むべきだと考えて、忠直にあることを提案した。
「……却下。」
部下には優しいこの上司のこんな顔は初めて見た。苦虫を噛み潰したような不快感を隠そうともしないこんな顔は。
「どうしてですか?たぶんこの方法なら、私が直接目標に接触できます。最も有効な手段ですよ。」
アスカからの情報提供を得た杷子は翌日、局に戻っていた。事務所には忠直と一巳しかおらず、円と宵人は外している。
「駄目だ。万が一、億が一があってはいけない。ウエイトレスとは訳が違う。」
忠直は頑として首を縦に振りそうになかった。それもそのはず。
「ムチャだね、池田。さすがに風俗で働くなんて俺でも止めるわ。」
横槍を入れてきたのは一巳。いつも通りニヤけた口元だがその目は全く笑っていない。
そう。今回アスカからの情報は、彼女の働く風俗店でその刺青を見かけた、というものである。要は刺青の持ち主は店の客。店に張り込んでいれば会えるかもしれない、と杷子は踏んだのだ。まあ忠直から却下を食らった訳だが。
「本当に客を取るわけじゃありません。ワタナベさんの協力で、普段は清掃員として雇ってもらえるって。」
アスカの名前に2人ともの眉がピクリと動く。口を開いたのは一巳の方だ。
「その、ワタナベアスカ。協力者としてはちょっと臭いんだけど、池田は何も思わねえの?」
え。杷子は固まった。予想外の方向から話題を差し込まれたから。
「……ふうん。あのね、あそこで池田に声をかけてくる人間は全員一旦疑った方がいいよ。てか、若旦那の話から考えればお前がこの件を主導すること自体が悪手だろ。」
杷子から視線を逸らした一巳がじろりと忠直を睨みつける。視線の先の忠直は無表情のまま杷子を見つめていた。
「課長、俺代わってもいいですよ。なぁんか嫌な予感がすんだよなぁ。宵人の方といい、旭さんのことだからって小さくまとまんなくていいんじゃない?たぶんこれ、局内でも有数のでけえ事件に発展しますよ。」
代わる。その言葉には杷子が明らかに狼狽える。忠直は2人の反応をじっと窺っているようだった。彼はふと、手元にある資料に目を落とす。小さく目を細めてやっと口を開いた。
「池田、どうして早岐が協力者の女性が臭い、と言ったかは理解できたか?」
彼は試すような目をしている。緊張から汗ばむ手。今、忠直はどうすべきかを吟味しているのだ。
間違うわけにはいかない、と杷子の頭の中はぐるぐるしていた。間違えば、“彼”に会えなくなる気がした。
「……都合の良い情報で私を釣り出そうとしているから、とか?」
蓮が言ったこと。それは、桂花の狙いは杷子だろうということ。そこから考えると、少々アスカの言動には都合の良い部分はある。偶然助けた女性が情報に通じていて簡単に協力してくれる可能性は如何程か。
「ああ。相手は勢力を拡大しつつある組織。その方の仕事柄、奴らの情報が入ってくるというのも嘘ではないだろう。だがこのタイミングは少々都合が良すぎる。それに、俺が引っかかるのは鬼崎桂花だ。」
忠直が顎に手を当てる。その違和感の正体はわからないが彼には思うところがあるらしい。
「奴が池田を狙っている。それは念頭に置いておかなくてはならない。……そんな気がするんだ。」
上司は自分の身の安全を第一に置いてくれている。それは理解できるのだが。
「……でも例えワタナベさんが桂花側だとしても、上手く取り入れば早岐さんの『異能』で情報を引き出せるかもしれません。最悪私を囮にすれば。」
「それは駄目だ。お前を危険に晒すことはできない。」
即座に否定されて真剣に見つめられても何故か引き下がれない。その理由は見ないフリをして杷子は続けた。
「……お願いします。やっと見つけた糸口なんです。」
深く頭を下げる。真剣さは伝わっただろう。
だけど忠直は小さく唸るだけで頷いてはくれない。彼の胸に渦巻く嫌な予感がそろそろ杷子には手を引かせるべきだと告げていたから。
「じゃ、俺が協力するって形でどうですかね。」
その膠着状態を破ったのは一巳の言葉だった。忠直と杷子の視線がスッと彼に向いた。
「俺は目立つんで潜入には向きませんけど、池田の状況のモニタリング程度はできます。宵人ほどじゃないけど目も効く。ヤバそうな気配がしたら手を引かせる、でどう?」
杷子はそれで構わない。そう示すように忠直を見た。彼はやはり小さく唸って、だけどため息をついただけで反論はしなかった。
「……お前は、池田に甘い。」
忠直の負け惜しみのようなそれを一巳が笑う。
「ま、可愛い可愛い後輩ですからねえ。」
「ようこそ、私の城へ〜!」
杷子を店に招き入れたアスカは実に楽しそうであった。小綺麗な待機室でテンション高めにランジェリーをヒラつかせる彼女とは打って変わって、杷子はどこか堅い顔つきだ。
「いえ。協力していただいてありがとうございます。」
ぺこりと頭を下げるとニコッと微笑まれる。アスカは飛び抜けて美しい顔立ちではない。しかし、その口元の柔和さや人懐っこい眼差しはどこか兎美を彷彿とさせるのだ。そのせいでこの人は疑いたくない、という気持ちにさせられている。
「こっちも清掃の人が1人ぎっくり腰やっちゃってね。短期の方が都合いいからすごーく助かるの。ありがとうね。」
正式な年齢は知らないが確実に自分よりは歳上の女性。その優しい笑顔にはなぜか心が波立った。
こうして杷子の三重生活が始まった。昼間は辛辛楼でアルバイト、暗くなったぐらいからアスカのいる店で清掃員として働く生活。それを1週間続けたくらいだろうか。店に刺青の男が現れたのは。
「あこちゃん、来たよ。」
待機室で携帯をいじっていたアスカがふと顔を上げてそう言った。偶然部屋には杷子とアスカしかおらず、杷子は驚いた表情を隠さずに清掃用具を置く。
「受付の子に店の仕様の変更について従業員から説明があるって嘘ついてもらったの。行っておいで、あこちゃん。」
え。思わずアスカの顔を見る。そんなことをすれば店の信頼は。
「大丈夫、大丈夫。これでも私、ナンバーワンの女だから多少の我儘は通せるの。あこちゃんのお話が終わったらたっくさんサービスするし。」
非常にありがたいことだ。でも忠直や一巳が言っていたことがふと頭によぎる。杷子は手早くスーツに着替えながら何気ない体でアスカに訊いてみた。
「……あの、ワタナベさん。どうして私にここまで協力してくれるんですか?」
背後でアスカがふふ、と笑った気配。それに何かしらの含みを感じた杷子は振り返った。
「あこちゃんが私を助けてくれたお礼。も、あるんだけどね。……んー、やっぱり、恋する乙女が可愛いから、が1番かも。」
その言葉に杷子はぎょっとしてしまう。恋だなんて、そんなこと。
「ち、違いますよ!?私、あの人んことは本気で怒っとっ……ッ、本気で怒ってるんで。」
飛び出しかけた方言を飲み込んで言い直すが、顔は真っ赤。アスカはきょとんとしたような顔でこちらを見て、杷子の真っ赤な顔にけらけらと笑い始めた。
「えー?何それ、あこちゃん可愛い!精一杯隠してるんだ、可愛いね。」
笑われた杷子は更に真っ赤になる。たぶんもう1人、この会話を聞いているであろう一巳も笑っているであろうことが予想できて恥ずかしい。
「あ、そうだ。私明日お休みなの。今日のお礼として飲みに付き合ってよ。あこちゃんと恋バナしたいな。」
粗方着替えを終わらせた杷子はそう言われて少し固まる。プライベートはボロが出ないようにするためになるべく晒さないようにしていたから。
「駄目?」
だけどその目には弱くて。
「……わかりました。奢ります。」
やった。無邪気に喜ぶ顔に胸がキュッとなった。お礼になる、という言葉に乗ったのも半分、もう半分は自分がボロを出す心配があるということは相手もボロを出してくれる可能性があるから。
アスカを疑いたくはない。でも、あの2人の勘は当たる。
(……とりあえず今は刺青の男に鬼崎さんの居場所と兎美さんに関して聞かないと。)
ばいばーいと手を振ってくれるアスカにぺこりと会釈を返して杷子は部屋を出た。
『随分仲良くなったんだね。良いか悪いかは置いてといて。』
出た瞬間に首元から杷子にだけ聞こえる程度の声。
「……ええ。まあ。」
相手は一巳。彼は宣言通り、最近は杷子と行動を共にしている。といってもさすがに中までは入ってこれないため、こうして小型の通信機を繋ぎっぱなしにしているわけだが。
『さすがに恋バナには付き合わねえから。ワタナベアスカ。悪い人ではなさそうだね。』
含みのある言葉だ。杷子は返事をせずに目を伏せる。
『ま、罠だろうが何だろうが桂花が池田のこと釣ろうとしてんなら、刺青の男から得られる情報の中に有益なものがある可能性は高い。でもほどほどにね、池田。』
プツッと通信が切れたのを確認して静かに頷く杷子。軽い口調だがどこか重みのある彼の声。それでアスカの影響で緩んでいた緊張感が戻ってきた。杷子は深く息を吸い込んで歩き始めた。
同じようなドアがいくつも並ぶフロア。その中の1つのドアノブに手をかける。
わざとらしいピンク色の空間に間接照明。ではなく、この店はどこか中華風な造りで、オレンジ色の強い赤が目に残る。部屋の中もその雰囲気を活かしてあった。
男は窓際にいた。茶色に染めた髪の一束を桃色でアクセントに。どこか可愛らしい印象を抱く顔立ち。でもこちらに向いたその目は笑っていなかった。
「こぉんにちは。」
はんなりとした口調。友好的な笑み。しかし杷子は思わず顔を引き攣らせた。この男、たぶん大体の事情をわかって杷子をここに引き入れている。
「……お待たせしてすみません。私は。」
「ええよぉ、変な誤魔化しはいらん。君はここの人やあらへん。合ってるやろ?」
しっしっと手で厄介な事情を追い払うような仕草。あまりこちらにペースを掴ませてくれない男だ。
「君は局の子やね。ここでは、“あこちゃん”の方が正しいん?」
心の中で舌打ちをする。とりあえず何が起こってもいいようにドアの近くは離れないようにした。
「そんな警戒せんでもええよ。俺はただ、面白がって桂花サンに手ェ貸しただけやから。こっちにおいで。」
ひらひらと手招きされる。それでも動かない杷子に困ったように男は笑いかけた。
「あーん、怖がりさんやなぁ。チッチッチ、俺、女の子には優しいんやで?……ああ、そや。名乗ってへんかったな。君の正体知っとんのにこっちのことが1ミリもわからへんのはそら怖いわ。」
そういう問題ではないのだがそう解釈したらしい男はニコニコしながら口を開いた。
「自分、飴屋言います。本名は堪忍してな。本命の子にしか教えへんようにしてるんや。ああ、そや。これも見せたげよ。」
飴屋が着ていたトップスを捲り上げた。その脇腹にラパノスの刺青。情報は確かであったらしい。
「どう?俺に興味湧いてくれた?そんならもっと寄ってきてや。悪いようにはせえへんから。」
一瞬悩んだ杷子は首元の通信機の様子を窺った。一巳は沈黙を保っている。嫌な気配がするなら彼は止めているだろう。そう読んでそろりと一歩踏み出した。
杷子の『異能』の射程範囲に入っても飴屋の方は全く緊張しない。甘く見られているのか。そう思いもしたが彼からはほとんど敵意を感じない。それは、今のところは、敵対する気がないと示すような態度に思えた。
「あら、近くで見ても美人さんやな。誰かに似とるような……。親戚に有名な人とかおる?」
飴屋が近づいてきて頰に手を伸ばしてくる。その手はするりと避けて彼を睨みつけた。
「気安く触らないでください。私が局の人間だとわかってそういう態度を取るのは一体どういう了見ですか?」
得体の知れない何かと対峙しているような嫌な感覚に杷子は顔を顰める。飴屋の目的がわからないのが怖い。その笑顔の奥に一体何が隠れているのか。
「あこちゃんこそ、俺に何が聞きたいん?こんなしがない中間管理職捕まえて。」
腹の弄り合いは得意ではない。別にこちらの目的などほとんど知れているだろう。杷子は飴屋の表情を窺いつつ口を開いた。
「……どうして旭兎美のことを探っているんですか。いえ、どこで彼女について何かを知り得たのですか。」
飴屋の口角がにこぉっと上がる。嫌な笑みだ。杷子は舌打ちを漏らす。
「それは、旭兎美に“何か”ある、そう言ってるようなもんなんちゃう?」
なるほど。もちろん予想はしていたことだが相手も兎美についての情報を得るために杷子に接触したらしい。
「彼女は一般人です。貴方たちの興味本位で日常生活を脅かされていい人ではありません。くだらない目的であればやめていただきたい。」
否定も肯定もせずに受け流す。杷子が飴屋を強く睨みつけると彼はキュッと目を細めた。
「くだらん、ねえ。本当にそう思うん?ぎょうさん人を殺せる『異能』。管理するモンが要るとは思わへん?」
さっきのはカマをかけてきただけだ。杷子に確認を取らずとも何かしらの方向から兎美についての事情はざっくりと掴んでいるらしい。
人を殺せる『異能』は嘉七のことだろう。それを管理するとは。思わず眉を顰めた杷子に飴屋がぐいっと顔を近づけた。
「な、知りたいやろ?……取引せえへん?あこちゃん。」
彼から香ってきたのは女性もののような甘い匂い。飴屋という名に違わぬ甘い甘い鼻を犯すような。
「旭兎美の話、聞かせてや。勿論君の知ってるだけでかまへん。その代わり、俺は……。」
正常な思考を奪われないように杷子はぎゅっと拳を作る。それを愉快そうに見つめる瞳が不快で、飴屋のペースに乗せられないようにと気を引き締めたそのとき。
『その必要はないね。聞かせてくれよ、飴屋サン。なあ、どうやって『異能者』の『力』濁らせてんの?』
突然部屋の中に声が響く。一巳の声だ。飴屋がしまった、という顔をした。杷子も突然のことに少し驚いてしまう。
一巳の声は首元の通信機から出たものではなかった。声の方向に思わず目を向けた飴屋の体が硬直する。その方向を見ると、杷子の目にも見覚えのある『力』が届いた。
そこに、小さな黒い点。超小型のカメラがいつの間にか仕掛けられていた。声はそこから出ているようで、一巳はずっとそこから2人の様子を見ていたのだろう。
飴屋はまずい、という顔をしながらも抗えないようで、一巳に誘われるがままに口を開いた。
「薬や。うちにおる子の『異能』応用した薬を打ち込んで人の力濁らせとる。」
『へえ。それはまた大層なことで。で?目的は?旭兎美のこと探って何がしたいの?』
「女はあくまでも餌に使うだけ。いや、器候補としても使えるかもしれへんけど、俺らは濁った『力』を受け入れられる『器』が欲しいんや。」
『……ふうん、なるほどね。“ラパノス”。そう名乗る集団の頭は、誰?そんなことを誰が画策したわけ?』
敵の核にもなる内容の質問に杷子は息を呑んだ。ゆっくりと飴屋の様子を窺うと、彼は苦々しい表情を浮かべている。
「……杉崎勇気。6年前に名前奪われたその人や。」
それを聞いた途端、杷子にも一巳にも緊張が走った。杉崎勇気。確か、嘉七が今世ではその名前で事件を起こした。彼こそが、兎美を狙っている相手だと。
呆気に取られている隙にパキンッという軽い音。杷子は自分の頰を掠めた鋭い気配に目を見開く。
「……余計なこと、喋りすぎてしもたわ。」
ゾワッと総毛立つ杷子。壁の一点に突き刺さる太い黒い釘。飴屋が放ったものだろう。たぶん一巳の仕掛けていたカメラは今の一撃で壊れた。
嫌な予感がして思わず後ずさる杷子を壁に追い詰める飴屋。一巳の介入は予想外であったらしい。飴屋は少し焦っているようだった。
「君の上司、視線固定もできるなんて聞いてへんかった。予定変更や。君にも上司のお兄さんにも桂花サンのとこに来てもらわな。」
首に手が伸びてくる。嫌な感じがして蹴り払うが、肩に鋭い痛み。済んでのところで『異能』で弾き返して3本目は刺さらなかったが殺意にも似た何かに身震いした杷子は、蹴りで牽制して距離をとらせた。
飴屋と目が合う。彼は笑みを崩さないまま杷子を見つめていて。
「やるやん。仕留め切れんかったわ。けど、余計辛いで?」
飴屋の様子を見るところ、釘には何かしら毒を仕込んでいるように思えた。早く切り返さなければまんまと捕まってしまう。
「早岐さん、そちらは大丈夫ですか!?」
飴屋の攻撃を躱しながら一応通信機に向かって声を入れてみる。返事はない。あちらも交戦中か、助けに来ようとしてくれているのだろう。
釘を風で弾いて飛んでくる拳を躱す。そのまま胴を薙ごうとして、杷子はぐら、と自分の体が揺れるような感覚に壁に手をついた。
(……まずい、何、これ。痺れる。)
壁についた手がびぃんと痛みに似た不快感を訴える。意地でも膝はつかなかったが、それでも動きは鈍った。
「結構かかったな。舐めとったわ、あこちゃん。」
飴屋の攻撃を受け止めた瞬間、目眩が体を襲う。円の攻撃を食らったときと似た感覚だ。振動で脳味噌が揺れて、こひゅっと嫌な息が漏れた。がくん、と膝が折れる。
しめたと思ったのだろう。腕を掴もうと飴屋の手が伸びてくるのが見えた。
(……ッ、動け。止まるな、それだけは、駄目。)
最後の力を振り絞ってその腕を蹴り上げて逆に掴む。まだ力が残っていたことに驚いた飴屋が固まったその胸ぐらを掴んで窓の方に放る。
(このくらい。あん人と対峙しとる方が、きつい!)
拘束は不可能だと考えた。そんな余裕はない。立ち上がった飴屋の放った一撃が綺麗に頬に入って、それでも構わずに彼の体に体重をかけてグッと自分ごと窓の外に飛び出した。
ガシャーンッ
けたたましい音とともに窓ガラスが割れ、2人の体は宙に投げ出される。下を見ると、幸い裏口の方だ。人通りは少ない。
「吹けっ!!」
呻くように絞り出して風を巻き起こらせる。下から吹く豪風がクッションになって、ギリギリ受け身を取れた杷子と、強かに背中を打ちつけた飴屋。彼が苦しそうに咳をするのが見えた。
(早岐さんに、連絡。私は、もう、限界……。)
痺れが脳にまで達したような嫌な微睡み。目を開けていられなくて、杷子の視界はそのまま暗転した。