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custard  作者: 洋巳 明
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1話 兎の足跡


 それは兎美が去った翌年の話。宵人が明鈴の事件に巻き込まれる前、2月の話である。

 特務課の紅一点・池田いけだ 杷子わこは世間の浮かれた甘ったるい雰囲気に辟易していた。

「今年もすごいですねえ。」

 受付の上森さんにしみじみ言われてがっくり肩を落とす。

 異能対策局恒例の“チョコボード”。男性社員の配偶者の有無や恋人の有無、甘さの好みからチョコの要・不要まで網羅されたバレンタイン特化のホワイトボードである。

 課によって分けられているこのボード。特務課も今は男性比の高いボードなので忠直の名前が1人寂しく、という時期は過ぎているのだが。

「ほんと。女性社員で書かれてる数人に入ってるなんて。モテモテですねえ。」

 そう感心しているのは上森さんの隣に座る下川さん。

 そう。実はこのチョコボード、カッコいい女性職員も名前が載るのだ。戦闘部署のある職場なので、モテる人は本当にモテる。そして杷子もその数少ない中の1人として名前が載っていた。

「毎年“不要”にしてるんですけどね。なんか女性ってハードル低いらしくて、デスクにはチョコの山ができてます。」

 特務課は基本的にチョコは不要の職員が多い。他部署の先輩達に唆された円は“要”の欄に丸印をつけていたが。

「池田さんカッコいいですもんねえ。身長高いし、姿勢良いし。あとは物腰柔らかいから。」

 あはは、と作り笑いで応対しつつ内心ため息をついた。本当は好きで身長が高くなったわけではないし、カッコいいと言われたいわけでもないのだ。

「でも今年は結構泣いてる女性職員いらっしゃるんですよ。なんたって、ほら。」

 上森さんが指し示したのは特務課の筆頭に書かれている“永坂忠直”の欄。長年空欄だった恋人の有無の部分に整った字で“有”と書かれている。これだとチョコの不要の重みが変わってくるのだ。

「こっそり本気で狙ってた職員多いですよねえ。昇進されてからはますます。それに最近は特に雰囲気柔らかくなられましたし。」

「恋人って旭さんなんですよね。素敵。あの2人本当にお似合いでしたから。私は永坂さんロス派より、お話詳しく聞きたい派です!」

 キャッキャッと楽しげに盛り上がる2人を羨ましげに眺めてしまう杷子。彼女は忠直の欄を見上げて切なくなる。今年、彼がチョコを貰うことはないだろう。来年も、再来年も、その先の保障はない。それでも。


「おはようございまーす。……あれ?池田、何?チョコボードなんて眺めちゃって〜。」


 ぼんやりと感傷に浸っていた杷子を引き戻したのは上司の声。鼻先を赤くした一巳がそこに立っていた。

「おはようございます、早岐さん。」

 受付に出欠の旨を伝えた彼はこちらに近づいてくる。

「目当ての職員でも見てたの?やだなぁ、鬼崎の旦那が泣くよ?」

 は。ぎょっとして一巳の方を見ると、彼は非常に楽しそうな顔をしていた。

「ちょっ、早岐さん!鬼崎さんとはそんなんじゃありません!チョコあげる予定だってありませんから!」

 ムキになって顔を真っ赤にすると、一巳にけらけらと笑われてしまう。ムキになる時点で怪しいだろ、という顔だ。

「あの男前袖にするなんてお前もよくやるねえ。じゃ、お先。」

 ひらひらと手を振りながら一巳は去って行った。杷子は1人、言いたいことを言って逃げられた気分になって顔を顰める。

「特務課は仲良しですよね。早岐さんにあんなふうに接してもらえるの羨ましいなぁ。」

 下川さんがしみじみ言うのを聞きながら、あー、と杷子は苦笑いを浮かべた。内面でモテるのは忠直だが、見てくれでモテるのが一巳である。掴みどころのなさと子どもっぽい無邪気な表情。ついでに黙っていれば静謐な美しさもある。いかんせん彼が関心を向ける人物は限られているが。

「でも今、気になる話題あったなぁ。ねえ、池田さん。いい人、いらっしゃるんですねえ。」

 ぎくっと体を震わせてしまう。一巳は余計なことをしてくれたらしい。

「ち、違います。一方的に言い寄られてるだけで何もないです。」

 口ではそう言いつつ動揺を隠せない杷子。その様子に上森さんと下川さんは目を合わせてニコォーっと笑った。

「それはそれは。」

「健闘を祈ります!」

 面白いものを見つけた、という顔をしている2人から逃げるように杷子は頭を下げると事務所に向かった。


(バレンタイン、かぁ。)

 昼休み、ぼんやりとカレンダーを眺める。特務課の男性諸君は一定数のチョコレートを貰うため、杷子からは塩気の効いたプレッツェルを渡すようにしている。それに対する三者三様のお返しがなかなか楽しいのだ。

 忠直は正統派の無難なもの、宵人は杷子の好みに合わせたもの、一巳はふざけた駄菓子をくれる。可愛がられていることが伝わるのは少々気恥ずかしい。それでも嬉しいものなので、案外最近のバレンタインは悪くないと感じていたのだが。

(鬼崎さん、お世話になっとっけんね……。)

 今年はほんの少し憂鬱な事情。そう。鬼崎きさき れんのことである。

 彼と杷子は去年の事件で関わって以来、師弟関係を続けている。だけどその実態はそれだけではなく、杷子は蓮に片想いされている立場にあるのだ。

 案外引き際を弁えている蓮は、最近では言い寄ってくることも少なく、口に出したとしても冗談めかして。その間合いがやけに手慣れていてムカつく。その目が物語る冗談の奥の本音がものすごく腹立たしい。

 バレンタイン。謝礼の気持ちを込めてチョコを渡すこともあるだろう。だけどその相手が自分に好意がある場合、変な意味になりそうで。

 それらを考慮すると別に日頃のお礼なんてチョコじゃなくてもいい。というかなんならバレンタインはしれっとしていればいいのだけど。

「池田。これ、警護課の方から。」

 そんなふうにぼーっとしていたところに後ろから声をかけられてハッとする。気づけば宵人が背後にいた。

「ありがとうございます。」

 差し出された書類を受け取りながら礼を言うと、彼にじっと顔を見られる。何か変なところがあっただろうか。

「なんか、悩んでる?」

 不意にそう言われて間抜けな声を出してしまった。宵人はくしゃ、と笑って、飴を渡してくる。

「一巳が池田が熱心にチョコボード見てた、とか言ってたから。池田あの文化苦手だったよな。」

 渡された飴は彼好みのレモンキャンディ。酸味の強いものだが、疲れた体にはちょうどいいと口に放り込んだ。

「まあ少し。でも大したことないんで気にしないでください。」

 そう言うと彼は深くは聞いてこない。自分の上司3人は大体そういう距離感を作ってくれる。それはありがたいはずなのにたまにちょっと寂しいのだ。

「……御厨先輩。」

 だから、自分のデスクに戻る宵人を目で追いながらそう切り出してみる。そうするとすぐに応じる姿勢を作ってくれた。

「好きな人からのチョコって嬉しいものですか?」

 その質問はくすくす笑われてしまった。杷子にとって局内で最も話しやすい彼からすれば、今の彼女が蓮とどういう状況なのかよくわかっているだろうから。

「嬉しいよ。それにやっぱり期待する。貰えなかったらそうだよなぁと思いつつ凹んだりもする。」

 う。杷子の眉間に皺が寄るのを見て、宵人は楽しげに笑った。

「悪い女になってもいいんじゃない?チョコ渡して、『日頃のお礼です』ってキープしちゃえば?」

 杷子の顔が更に険しくなる。そういうのが向いていないことはわかっているだろうから、宵人は杷子の曖昧な気持ちに気付いている上でそう言っているのだ。

「鬼崎さんとは何でもありませんってば。」

 口を尖らせると素直に謝られてしまった。でもその目は一巳同様面白がる光が宿っている。

「人の心配より御厨先輩はいい人いないんですか?去年事件で関わった予見家の御令嬢とか。」

 事件の最中にたまに見かけた程度だが、彼女の方は宵人に関心を抱いているフシがあった。だから揶揄ってみたのに。

「へ?なんでお嬢さん?最近俺に浮いた話はねえよ。てか、ずっとねえけど。」

 宵人は鈍感というよりも自分には有り得ない、と思っているタイプ。彼との付き合いはそこそこ長いので勿体無いなぁと思うこともたまにある。

(先輩に関しては、押して押して押しまくれる人か最初にストレートに想いを伝えられる人じゃないとダメだろうな。)

 生温かい目で彼を見つめると怪訝な顔をされてしまった。優しい彼のことだ。別にこちらがお膳立てせずともそのうち恋人くらいできるだろう。過去にはいたんだし。

「ま、でも鬼崎さんには注意しとけよ。あの人、男でも萎縮するような凄みあるから。隙見せたら一瞬で食われそう。」

 急に真剣な調子でそう言われて思わずきょとんとする。様子を窺うと、宵人は少々渋い顔をしていた。

「あの人は紳士なようで、その実温かさに飢えた獣みたいな感じがする。視えるものだけで善悪の判別は難しいんだけど、踏み込むならちゃんと見極めろよ。忠直さんが池田達の関係にちょっと渋い顔すんのそのせいだぞ。」

 先輩も似たような顔してらっしゃいますね。口に出すのは控えた。茶化していい話題ではなかったから。

「それはたぶん私が1番身をもって知っているので。だけど、ありがとうございます。」

 ん。それだけ言うと彼はデスクの整理を始めた。そろそろ昼休みが終わる。バレンタインのことは頭の片隅に追いやって、杷子も午後からの仕事のことを考え始めた。



 『般若の面』。異能対策局創立当初から存在した古い組織である。その昔は予見家ともより強い繋がりがあり、今でも自警組織として、異局の『協力者』として認められている。

 和風な造りのその建物はもう去年の傷跡は残していない。見慣れてしまったこの門。インターホンを押せば顔パスで通してくれる。

 昨年、『般若の面』は頭目である畑中はたなか ただしを予見家の騒動によって喪った。その後任として立っているのが。


「おかえり、杷子。」


 ニコッと馴れたような笑みを浮かべる男が1人。無骨だが華やかな雰囲気を纏う彼が現頭目である鬼崎きさき れん。杷子にとっては体術の師匠のような存在だ。

「……こんにちは、鬼崎さん。」

 ぺこりと頭を下げる。蓮が頭上でくすりと笑った気配。杷子がわざわざ蓮が出迎えたことに怪訝な顔をしたからだろう。

「頭目直々のお出迎えなんて珍しい。なん?面倒事?」

 ほんの少し茶化すような言い方をするとけらけら笑われてしまった。

「間違ってはない。まあ、入れ。今日はもう1人呼んでおってな。」

 もう1人?心当たりがなくて首を傾げる杷子を横目で見ながら蓮は中に入っていった。


「やっほー、杷子ちゃん。ちょっとお久しぶりかな?」

 中で茶を啜っていたのは意外な人物だった。

「あれ!?榊先生!?」

 さかき 惣一そういち。『異能者』の世界では名医として名の通っている人物で、『異能』の研究者でもある。杷子は過去に彼の警護を務めていた経歴があり、当時から特務課の主任であった忠直に杷子のことを紹介してくれたのも彼であった。

「どうしてこがんと……ここに?」

 蓮の前だとつい緩む。んんっと咳払いをして言い直すと惣一には苦笑されてしまった。

「相変わらずだねえ。方言とか君の気の強さとか、俺は可愛いと思うんだけど。」

 杷子に向けられる彼のそれは珍しく口説く風ではなく、どこか慈しむようだ。でもそちらの方が気まずくて杷子はもう一度咳払いをした。

「ごめんごめん。コンプレックスも若さ故にだねえ。俺がここに来たはナオの代わりみたいなもの。頭目殿が大事な話があるっていうから。」

 隣に立つ蓮を見上げると、彼はにこりと笑い返してくる。大抵底知れぬ不敵な笑みを浮かべている男だ。その表情から話題を読み取るのは不可能だろう。

 ため息をついて惣一の隣に正座する。すぐに頭目の補佐役兼お目付役の石原がお茶を運んできてくれた。

 蓮は2人の正面に腰掛けて嬉しそうに目を細めた。

「今日は視界が華やかだな。」

 杷子はつん、とした態度で湯呑みを手に取って、惣一は面白いものを見るようにくりくりとした目を輝かせる。

「頭目殿は本当に相変わらずだねえ。元気そうで何よりだよ。」

 去年ひどい容体であった蓮の面倒を見たのは惣一だった。絶対安静だった彼がけろりとここに座っている姿は素直に医者として安心するらしい。それはそれは嬉しそうに、にかにかとしていた。

「その節は世話になったな、先生。次会うときは美味い酒でも酌み交わす機会にしたかったんだが。」

 蓮も穏やかにそう告げる。しかしその目が笑っていないことに気づいた杷子はすぐに姿勢を正した。

「当方らの世界はままならないのが相場だ。兎美について話がある。」

 ぴくり、と隣の惣一の表情が変わる。蓮は堅い表情になって重々しく口を開いた。

「当方はごく個人的な事情で“裏”を彷徨くことが多くてな。まあ俺にとっては古巣であって普段はあまり大した変化もない。だが、そこで最近“旭兎美”の名を聞いた。」

 それは尋常ではないことだ。兎美はあくまでも一般人。何かしらの組織に属しているわけでもない人物の名前が挙がるような事情といえば。

「……内容はまさか、『さくら』関連のことだったりするの?」

 疑問形ではあったが、惣一のそれはほとんど確信しているようであった。

「ご名答。当方が聞き出したところ、兎美について嗅ぎ回っている連中がいるらしい。内容はあの子の呪いと居場所について。先生、今兎美はどこにいる?」

 蓮の窺うような目に惣一は首を横に振った。

「残念ながら俺もナオも把握してない。あっちから一方的に連絡が入るようになってる。まだ大した情報はないけど、少なくとも助けを求めるような連絡は来てない。」

 惣一の言葉に蓮はどこかホッとしたような息を吐く。もしも何か危ない目に遭っているのであれば、信用している彼らに何かの連絡は入っていると踏んでいたのだろう。

「確認が取れるなら取っておいて欲しい。まだ小耳に挟んだ程度。その内実がどのくらい深いかは当方も把握してはおらん。」

 頷く惣一を眺めながら、杷子が険しい顔で口を開いた。

「だけどあなたがわざわざ先生を呼びつけたということは、嫌な予感でもしてるんでしょう。調べる必要はありそうですね。」

 蓮の片眉がくいっと上がる。それに何かしらの含みを感じつつ、惣一の同意も得る。

「うん。なるべく『彼』以外の不安要素は潰しておきたいかな。頭目、連中って言ったよね。組織的なものなの?」

 彼の問いに蓮は少し唸った。確信は得ていないといった様子。

「仮定ではある。しかし俺にとっても今回は看過し難い事情があってな。“奴”が絡んでおるなら、組織的だと考えていい。」

 奴。その言葉には杷子も惣一も眉を顰めた。2人の無言の問いかけに苦笑しながら蓮は答える。

「裏の方での有力者で組織的犯罪にしか関与しない男。鬼崎きさき 桂花けいか。俺の実の父親だ。」


 

「鬼崎さん、父親とかいたんやね。」

 その夜、惣一を見送った後、杷子と蓮は縁側で酒を酌み交わしていた。これは蓮に稽古をつけてもらう際の条件で、彼の晩酌に付き合うことになっているから。別にそれだけ。

「当方をなんだと思っている。失礼なやっちゃのう。」

 口では詰りつつ、蓮はどこか楽しそうだ。その様子になんとなくモヤッとした杷子は頬杖をつきながらつまみを口に運ぶ。

「鬼崎さんってあまりにも浮世離れしてるんやもん。関われば関わるほど……。」

「魅力的だろう?」

 ニヤッと口角を上げた蓮に辟易したような表情を向ける杷子。けらけらと笑い飛ばされて非常に不愉快だ。

「まあ、残念ながらそんな浮世離れした魅力的な当方も人の子だ。当然、人から生まれておる。」

 軽い口調だが、先程の様子から、いや、もう数ヶ月関わったことで得た『鬼崎 蓮』という男のことを鑑みると、父親とは何かしら浅からぬ因縁はあるのだろう。彼から肉親の話が漏れ出したことは今まではなかった。

「まあ、やっこさんは人間と呼ぶには相応しくないな。化け物だ。理解できんし、したくない。」

 蓮の眉間に刻まれた皺を眺めながら酒を煽る。踏み込むには自分はきっとまだ。ふうんと何気ない雑談を聞いているかのように流して月を見上げた。今日は三日月。

「ただ、このタイミングで兎美に絡むか……。杷子、お前さん……ああ、いや、どうするべきか。」

 蓮が何か言い淀むのは非常に珍しい。きょとんとした杷子が彼の方を見ると、彼は何かを悩むようにこちらを見ていた。

「? なん?」

 問うとぐいっと引き寄せられて腰を抱かれた。ひゅっと息が詰まって、抵抗するのも忘れて杷子はつい、身構えてしまう。

 フフッと首元で蓮が笑った気配。ワイシャツを器用に乱されて素肌に軽く噛みつかれた。

 じきに強く吸われる。杷子はゾワゾワする感覚に耐えながら蓮の手が離れるのを待った。

「ッ、いつ!?私、いつ約束破ったん!?」

 解放されるとすぐに蓮から距離を取って首元を押さえる。軽くさすったくらいでは、違和感のようなゾワゾワ感はなかなか消えてくれない。

「先生との会話につられて、俺に対しても敬語を使った。」

 失念していた。頬が紅潮するのを止められず、杷子は眉間に皺を寄せる。

「う、は、判定厳しすぎやろ!」

 そう。これも2人の関係に跨るある条件。敬語を使えば蓮が手を出すことを許す。今思えばどうしてこの条件を呑んでしまったのか、といった感じなのだが約束は約束。杷子は唸って、せめてもの抵抗のように睨みつけた。

 それを眺めながら蓮は小さく笑って、お猪口を手に取る。その目が切なげに揺れたのを見た杷子が目を丸くしたとき、彼が口を開いた。


「お前さん、しばらくここに来るのを控えろ。」


 へ。急なそれに杷子の頭上にはてなマークが浮かぶ。あまりにも脈絡がなさすぎる。

「ど、どうして急に。」

 尋ねると彼の真剣な目と目が合ってしまった。珍しい表情にほんの少したじろいで。

「俺は杷子のことが好きだ。」

 スゥッと細まった瞳。月光に照らされると彼の深紅の髪は紫がかる。それが異様に美しくて杷子は息を呑んだ。

「そのことが兎美のことに父が関わる動機にもなっとるんだろう。ったく、忌々しい。いや、平和ボケしていた俺が悪い。」

 ため息混じりの言葉。戸惑っていた杷子も少し落ち着きを取り戻す。蓮は揶揄うためにこの話を切り出したわけではない。何か、ある。

「……どういうことですか。貴方が私を好きなことで、どうして……。」

 あ、しまった、とは途中で思った。また敬語を使ってしまった。

 蓮も気づいたのだろう。彼の手がゆっくりと伸びてくる。だけど、その仕草はいつもよりも緩慢としていて、何か、見られて。

 目と目が合った。息を呑むほど美しい瞳に囚われて、杷子は身動きを取ることができない。

 ハッとしたときには唇と唇が触れていた。不思議な感覚だ。これでは、まるで。

「……抵抗、しないんだな。」

 惚けたような蓮の声。杷子はまだ自分の心臓を打った感情に酔いしれていた。そのまま彼を見上げていると、彼の方からふいっと目を逸らされる。

「お前さんが理解できるかどうかは知らんが奴にとって俺はお気に入りの玩具。壊れる様が見たいらしい。産みの母、育ての母、師父までも奴に奪われ続けている。俺が、心から愛せた全てを。」

 彼の雰囲気はまた引き締まった。その目は空っぽで、父親に関しては全てを諦めていることを表しているようだ。

「だから、お前さんのことも勘づかれているんだろう。兎美の情報を餌に、杷子に手を出すつもりだ。俺を壊すためだけにな。」

 尋常ではない何かの気配に杷子の首筋は寒くなる。だけど、それより。

「……それは、貴方の身も危なくなるってことじゃ。」

 これは、ただ世話になっている人の身を案じているだけ。余計なことは考えるな。

 自分にそう言い聞かせる杷子をかなしげに見つめながら蓮は首を横に振った。

「……俺は大丈夫だ。半端なことをしてすまん。とにかく、しばらくここには来るな。」

 彼に深々と頭を下げられた杷子は何も言わなかった。いや、何も言えなかった。

 今、自分よりも幾分も強くて、歳上で、掴みどころのないこの男を。


 抱き締めたくなった、だなんて。

 

 

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