囮作戦 その5
孝美の振り下ろした竹刀に身体を捻って避けていく。容易に避けられた事が腹立だしいのか、孝美は竹刀を闇雲に振り回して犯人に迫るがそれもまた器用に避けられていく。
大きな身体に似合わず俊敏な動きを見せる犯人の姿に琴は驚きと共に目を見開いた。
それでも執拗な孝美の攻撃は功を奏しているのか、防戦一方の犯人は徐々にだが後退していき、とうとう後が無くなった。
「一方的に攻撃される気持ちはどう?怖いでしょ、でもね…私たちが感じた恐怖はこんなもんじゃないからね!覚悟しなさい!!」
握り締めた竹刀に力を込めると、孝美は真っ直ぐ頭上に振り上げる。次の瞬間、犯人はウインドブレーカーのポケットに突っ込んでいた手を引き抜くと、10cm程の小さな円筒形の缶容器を孝美の前に突き出し先端の赤い突起を押し潰した。
「孝美危ない!!逃げて!!!」
「キャッ!!何よこれ!!」
勢いよく噴射される薬剤に、琴も孝美も身を捩って顔を覆う。僅かに吸い込んだだけで喉の奥がヒリヒリと焼けたような痛みが鋭く刺さる。
「ゲホッ、なんなの…目が…目が開かない」
「く、苦しい、いき…息が、ウグッ」
おそらく催涙スプレー類いだろう。
悶え苦しむ2人を見下ろしながら、犯人は少しずつ距離を取って行く。
琴と芙美の戦意は喪失され、これ以上自分を追う事は無いと判断したのか犯人はスプレー缶を投げ捨てると2人へ背を向け踵を返した。
とその時、もの凄いスピードで何かが横を駆け抜けると一瞬の間に大きな犯人の身体は地面の上へと転がり、傍らには芙美が鬼の形相で睨み付けていた。
「逃がさないわよ!」
どうやら芙美が犯人の身体めがけて体当たりをしたようだ。
「琴、孝美、2人とも大丈夫!?うあっ…なにこれ…ゴホッ」
周囲にはまだ薬剤が漂っており、芙美の目や喉を刺激する。これまで催涙スプレーなど見た事も体感した事もなかった3人にとっては想像を絶する苦しさだ。
「芙美、来ちゃダメ……ウェッ」
「いやも…う、もう手遅れ…かも」
息を吸い込む度に感じる痛みだけでなく
涙と鼻水も止めどなく流れ落ちてくる。呼吸をする事も目を開ける事も苦痛を伴い判断を鈍らせる。
「とにかく、に…逃げないと…犯人…犯人は?」
孝美の言葉に芙美はボヤける視界に目を凝らすが、いつの間にか犯人の姿は消え失せていた。
「いない!逃げられた」
「えっ、嘘でしょ!」
芙美は慌てて周囲も見回すが、暗がりとボヤけた視界では犯人の姿は正確に確認出来ない。
「ヤバい…大倭に連絡しなくちゃ」
急いでポケットに手を当てるが、肝心のスマホが見付からない。
「琴、孝美、急いで大倭へ連絡して!犯人に逃げられたって伝えて」
そう言うとまだ覚束ない足取りのまま、芙美はどこかへ向かって歩きだした。




