捜査開始 その8
芙美は何度も両手でブレーキレバーを握るがやはり何の手応えも感じない、突然の出来事に理解が追い付かず恐怖だけが増していく。
力の限り握りしめたハンドルに視線を落とすと、ブレーキレバーから前輪へと延びていくワイヤーが鋭利なもので切られている事に気が付いた。
「う、う、嘘でしょう~!!!!!」
吹き付ける風に煽られながら激しく揺れているワイヤーの姿に芙美の頭に"死"の文字が浮かんだ。
「芙美どうしたの!!!」
尋常ではない芙美の様子に琴が大声で叫ぶ。
「ぶ、ブレーキのワイヤーが切れてて、ブレーキが使えないの!!」
「ええぇ!なんで!!」
「わかんないよ!もうどうしたら自転車が止まるのよ!!誰か何とかして!!!!」
平地であれば足を地面に伸ばせば良いのだろうが、下り坂でスピードが出ている状態で足を伸ばせば大怪我に繋がる。かといって、このままではいつ車やガードレールにぶつかるか分からない。どちらにせよ芙美が大怪我をおう可能性が非常に高い状況だ。
「こ、こうなったらもう自転車から飛び降りるしかないよ…」
琴が恐ろしい提案を口にする。
「そんなの無理に決まってるでしょう!!怪我どころか頭でも打ったら死んじゃうから!!!」
「そうだ!猫みたいにくるっと回って着地すればイケるかもよ!」
「私は人間だから!!そんなこと出来るわけないでしょう!!!」
「でも…ワンチャンいけるかも知れないでしょ!」
「ワンチャン?!犬の話しとか今どうでもいいから!早く何とかしてよ!!!!」
「犬の話し?!違う違う、ワンチャンは"犬の事じゃなくて"もしかしたらチャンスがあるかも"って意味でー…」
「そんなこと今どうでもいいから!!何とかして!!」
18年という短い人生をこんな形で終えるかもしれないという恐怖に芙美の目からは自然と涙が溢れていた。
「お前らこんな時にふざけてる場合じゃねぇだろ!とりあえずそのまま動くな!琴はそこをどけ!!」
大倭は意を決してスピードを上げると、芙美の右横に並んだ。
「な、なにするの…」
「ハンドルしっかり掴んどけよ!……一か八かだ」
「えっ……わ、わかった」
久し振りに見る弟の真剣な表情に芙美は静かに頷いた。
大倭は左手を伸ばすと芙美の右手を強く握り込んだ。
骨ばった力強い感触に芙美は思わず幼かった弟の柔らかい感触を重ねる。あの頃は可愛かったのにな…ぽつりと漏れた言葉は風の音に掻き消され大倭の耳に届くことは無かった。
いつの間にか小さくなった芙美の手を握ると大倭はハンドルを持つ右手に力を込める。キーッキーッと鳴るブレーキ音は自転車の上げる悲鳴にも聞こえる。
身体に受ける強い風に芙美は身体はぐらりと揺れる、その様子に大倭は慌てて左手に力を込めた。
「危ねぇだろ!しっかりハンドルを握っとけよ!!」
「う、うん」
何度も繰り返す悲鳴は段々と小さくなっていき、交差点まであと数メートルという所で2台の自転車はようやく止まると、甲高い悲鳴は聞こえなくなった。
「と、止まった、止まったよ!!!!」
「おう!俺のお陰だからな~たく普段は強気なクセに、こんな時ばっかり女の子ぶっちゃってさ~ヤダね~」
大倭はニヤついた笑顔で芙美の顔を覗き込むと芙美は慌てて顔を背けた。
「あれ?泣いてんの?」
「泣いてない」
「いや泣いてるじゃん」
「泣いてないってば!こっちを見るな!!」
こっそりとポケットから取り出したハンカチで涙を拭うとあまりの恥ずかしさに顔を覆った。これまで大倭に一切の弱みを見せた事がなかった芙美にとって初めての出来事だったからだ。
しかし大倭がいなければ大怪我どころか死んでいたかもしれないと思うと素直に感謝しなければならなかった。
「あ……り…がと…う」
「えっ……なに?」
「まぁ、だから…その、あり……がとう」
日頃ケンカばかりで大倭に対して御礼など言った事なんて無いせいか上手く言葉が出て来ない。
「何ボソボソ言ってんだよ、気持ち悪ぃな」
「だ、だから"ありがとう"って言ってるのよ!!」
顔を真っ赤にして俯く芙美の表情は感謝というよりも苦悶に満ちていた。
「アハハハッ、すげぇ悔しそうなありがとうだな」
「う、うるさい!!」
姉の初めて見る表情に大倭はこの日を生涯忘れないだろうと心に感じたのだった。




