芙美と大倭 その5
まだ陽も昇りきらない時刻、空はまだ薄暗く静けさに包まれている。芙美は目の前のドアをゆっくりと開ける。
真っ暗だった室内は差し込まれた明かりでぼんやりと辺りを浮かび上がらせた。芙美は自らの気配を殺し、乱雑な部屋に足を踏み入れる
「きゃっ!」
数歩進んだところで芙美の頬に何かが触れ、思わず声が漏れる。驚きのあまり身体を強張らせ、手にしていたスプレーボトルを落としそうになるが直ぐに冷静さを取り戻し、周囲の様子を息を潜めて伺う……。
どうやら問題は無さそうだ。奴はまだ自分の存在には気付いては無いようだ
「……ふぅ」
小さく息吐き芙美は眉根を寄せて顔に触れた物体に視線を移すと、天井にぶら下がっている照明から伸びた長い紐がゆらゆらと揺れていた
どうやら、この部屋の主はドアの横に備え付けられたスイッチでの点灯や消灯が煩わしいのか、照明に長い紐を取り付けて寝ながらでも操作が出来るように手を加えたようだ。芙美は壁際のベッドを見下ろすと、この部屋の主でもある大倭が手足を広げ、文字通り大の字でイビキを上げている
はだけたTシャツからは鍛えられた腹筋が露になり、上下に動くその様子から大倭の眠りの深さを反映していた。
芙美は不意に孝美の言葉を思い出した。
「そういえば1枚500円って言ってたっけ…」
憎たらしい弟の幸せそうな寝顔を見ているうちに、芙美の心に悪魔が囁いた
「…こんなもんかな」
手の中のスマホに映し出された大倭の寝姿に芙美は満足気に頷いた
「さて、そろそろ始めますか」
制服のポケットにスマホをしまうと、代わりに小さな小瓶を取り出した。掌にすっぽりと収まるくらいの小さな瓶の蓋を慎重に開けると、透明な液体の入ったスプレーボトルへ全て投入する。芙美の鼻先には爽やかな香りが漂う
「……。」
大倭の顔を覗き込むと芙美の気配に気付く様子も無く、相変わらずイビキ上げて夢の世界を彷徨っている。
芙美は手にしていたスプレーノズルを大倭へ向けると数回引き金を引くと、ミスト状の液体が大倭に降り掛かる
冷やりとした感触が気持ち良いのか、時おり大倭はニヤケた顔で身を捩る。芙美は露になっていた腹筋を中心に一頻り降り掛けるとスプレーボトルを棚に置き、ベッド横に置かれていた扇風機のスイッチに指を伸ばした
「スイッチオン!」
細く白い指に力を込めた。強い風が勢いよく大倭の身体を包んでいく。次の瞬間、悲鳴にも似た咆哮を上げて大倭は飛び起きた
「うああぁ!!!!」
ベッドから転がり落ちた大倭は、我が身に何が起きたのか分からず大きく開いた目で芙美を見上げている
「おはよう。今日はちゃんと起こしたからね」
自分へ向ける芙美の笑顔に大倭は恐怖を抱く。無意識に身体が震えているのは恐れによるものかと思ったが、そうではない異常さを身体に感じる
「おい!何だよこれ!!!」
異様な寒さに身体の震えが止まらない
「フフフッ」
「ちょ…扇風機止めて…さ、寒い」
予想を越える大倭の姿に芙美は笑みを浮かべて嬉しそうだ。大倭の身体を風が触れる度に感じた事の無い冷たさが襲ってくる。それはもう冷たいというよりもヒリヒリとした痛みが上回っていた
「ああぁ!!もう何なんだよ一体!!」
タオルケットを手に取り、身体に巻き付けてみるが震えは一向に収まらない
「ちゃんと起きたみたいね。それじゃあ早く支度をして朝ご飯を食べちゃいなさいよ」
芙美はそう言い残すと、一足先に台所へと向かった。




